1.序論
みなさま、おはようございます。私が当教会に遣わされて6年になりますが、同じ聖書箇所から説教するということは今までのところ、ほとんどありません。聖書は膨大な内容が含まれており、まだまだ説教で取り上げていない箇所が山ほどあるからです。しかし、このマタイ福音書の誕生物語だけは例外で、今回でなんと三回目です。最初が2022年のクリスマス、二回目が半年前の2024年のクリスマスになります。そこで今回の説教ではなるべく過去の話と重複しない内容にしたいと思っております。
さて、前回はイエスの系図でしたので、マタイ福音書の物語は実質的には今回が最初になります。そこで、これからマタイ福音書を読み進めていくうえで重要だと思う点を一点だけ、説明させていただきます。今回の箇所に限らず、マタイ福音書全体に関わることなのですが、マタイ福音書の様々なエピソードが本当の「歴史上の」出来事なのかどうか、という問題です。マタイ福音書には様々な出来事が記されています。その多くがイエスのなさったこと、特に奇跡物語なのですが、それらの中には「これは本当に起こったことなのだろうか」と思えてしまうようなものがいくつかあります。奇跡などあり得ない、起きないと確信している人はイエスの奇跡物語をすべて否定するでしょうが、私はそういう立場は取りません。奇跡と呼ばれる、私たちの日常生活では決して起こらないようなことが特別な場合に起きることはあり得る、と私は信じているからです。だからといって、マタイ福音書の奇跡物語はすべて文字通りに起ったのだ、と考える必要もありません。奇跡物語の中には、実際に起った出来事というよりも、象徴的な表現、つまりイエスのなさったことの深い意味を説明するために奇跡をある種のたとえとしてマタイが用いる場合もあるからです。
また、マタイ福音書の中には別の意味で「これは本当の歴史的な出来事なのか」と考え込んでしまうようなことも含まれています。マタイ福音書にしか書かれていない出来事で、他の福音書の記述とは矛盾しているではないか、と思えるものがあります。例えば次回の説教で取り上げるイエスとその両親のエジプト下りとそこからの帰還の話です。当時の歴史的状況から考えても、またルカ福音書との比較で考えても、これは歴史的事実なのか確信が持てないのです。ここで考えたいのは、マタイは現代の歴史家のように、実際に歴史の舞台で起きた出来事を正確に、間違いなく伝えることを第一に心がけたのだろうか、ということです。適切なたとえかどうか分かりませんが、マタイの福音書の内容は写真のようなものなのか、あるいは絵画のようなものなのか、ということです。写真というものは、撮るアングルによって大きく印象が変わっていきますが、しかしそこにないものを付け加えたり、あるいはあるものを削除したりということはできません。赤い花を青い花として写真に収めることは、現像の際に細工でもしない限り不可能なのです。しかし、絵画の場合は、画家は目の前ある風景を絵にする場合に色彩を変えてみたり、そこにはないオブジェを絵の中に加えたり、あるいは描く対象そのものの姿かたちを変えてしまうことすらあります。芸術としての絵そのものが一つの独立した世界ですので、画家の描く絵と、画家の目の前に広がっている世界とが必ずしも一致する必要はないのです。その典型が、いわゆる「印象派」や「ポスト印象派」と呼ばれるグループ画家たちの作品でしょう。セザンヌやヴァン・ゴッホの作品です。ゴッホの絵を見ると、その絵の元になった風景をなんとなく想像できます。南仏のプロヴァンスの強烈な色彩をイメージできるのですが、しかし彼の描く独特の絵画は南仏の風景というよりその風景を目の前にしたゴッホの心象風景、彼の内面そのものと言えます。つまり私たちはゴッホの絵を通じて南仏だけでなく、ゴッホの心の中を覗いているような気持になるのです。
正確なたとえではないものの、マタイ福音書にも似たようなところがあります。私たちはマタイ福音書を読むことで、マタイの描く対象であるナザレのイエスという歴史的な人物に出会うだけでなく、そのイエスをマタイがどう理解したのか、マタイ自身の解釈とも出会うのです。ゴッホの描く絵が、彼の描いた対象だけでなく、彼の心の中をも表しているのと同じです。ではマタイはイエスをどのように捉え、理解したのでしょうか?前回もお話ししたように、彼はイエスの生涯をイスラエルの歴史の縮図として捉えました。マタイはイエスの生涯を、イスラエルの歴史と二重写しになるように描いたということです。なぜならマタイにとってイエスこそイスラエルの長い歴史を真の完成へと導く人物だったからです。このような観点から、私はマタイ福音書に書かれていることが必ずしも歴史上で起こったものだとは考えません。先ほどのエジプト下りとそこからの帰還の話は、イエスの幼年時代をモーセの時代の出エジプトの出来事に重ね合わせたものといえます。それが本当に起こったかどうかよりも、マタイにとってはイエスもまた、出エジプトを経験したことを示すことの方が重要だったのでしょう。イスラエルの歴史において、出エジプトは決定的と言ってよいほど重大な出来事でした。イエスの生涯がイスラエルの歴史の縮図なら、イエスもまた出エジプトを経験しなければならないのです。他の例では、マタイ福音書ではイエスが十字架上で絶命した時に、旧約時代の聖徒たち、つまりダビデやイザヤのような人たちが墓から出てきてよみがえった、と書かれていますが、私はそのような出来事が歴史上にあったとは信じられません。新約聖書全体も、死者の中からよみがえったのは今のところイエスただお一人だと強調しているからです。むしろマタイは、預言者エゼキエルによって預言されたイスラエルの12部族の再統合、回復がイエスによって成し遂げられたということを、死者たちの復活というたとえによって言い表そうとしたのだと考えます。ですから私はマタイ福音書に書かれていることが歴史的事実かどうかということにはあまりこだわらずに、むしろそこに込められた「意味」に注目して参りたいと思います。それでは、さっそくテクストを読んで参りましょう。
2.本論
さて、今日の箇所ですが、今回の中心的なテーマは「ユダヤ人の王」です。イエスという方はどんな方といえば、「救い主」というのが私たちの真っ先に浮かぶ答えかもしれませんが、マタイは前回の家系図でもお分かりのようにイエスをイスラエルの正統な王、ユダヤ人の王として提示しようとします。ただ、イエスがユダヤ人の王だというと、「王」というのはともかく、「ユダヤ人の」という方が少し気になってしまうかもしれません。イエス様はユダヤ人だけでなく、全世界のあらゆる民族の王なのではないか、と。この点については特に注意が必要です。ユダヤ人の王であるということと、全世界の人々の王、というのでは言うまでもなく同じことではありません。日本の王だからといって、世界の王ではないのと同じです。そしてマタイ福音書は、いやマタイ福音書だけではなく新約聖書全体は、イエスはユダヤ人の王として生まれ、そして復活の後に全世界の王にまで高められたという物語を描いているのです。これは非常に大切なポイントです。つまり、イエスが全世界の王になるのはその苦難の生涯をやり抜いた後の話なのです。ですからマタイはこの誕生物語でイエスがユダヤ人の王としてお生まれになるということを示そうとしています。ユダヤ人の王として誕生したことにどんな意味があったのか、それを示しているのが今日の箇所だということです。
マタイがイエスをユダヤ人の王として描いている、ということは今日のみことばを読むうえで忘れてはならないことです。1章21節では、天の御使いはイエスの父となるヨセフに対して、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と夢の中で語ります。ここで言われている「ご自分の民」とはほかでもないユダヤ人のことです。私たち日本人を含む全世界の民ではなく、ユダヤ人なのです。では、ユダヤ人をその罪から救う、というのはどういう意味なのでしょうか。それが、ユダヤ人たちを地獄への裁きから救うというような意味ではなかったことに注意してください。この言葉の意味を理解するためには、当時のユダヤの人々は自分たちが神の裁きの下にいると信じていたことを知っておく必要があります。当時のユダヤ人は外国人、つまり当時の超大国であるローマ帝国の植民地になっていました。真の神の民であるユダヤ人が、偶像を拝む異教徒たちに服従しなければならないという屈辱的な状況について、ユダヤ人はそれを自分たちの罪に対する神の罰だと信じていました。したがって、その罪から救い出されるというのは罪の罰から救い出されるということでした。そして罪の罰からの救いとは異邦人への隷属状態、つまりローマ帝国の支配から解放されるということでした。当時のユダヤ人はローマから課される重い税金と、彼らからの暴力に苦しめられていました。それで、神が救世主、すなわちユダヤ人の王を遣わして自分たちをこの惨めな状態から解放してくれることを待ち望んでいたのです。かつてダビデが周辺諸国を服従させたように、ダビデの子孫がローマを倒してくれることを期待したのです。しかし、イエスはローマを暴力によって打ち倒そうとはしませんでした。そのことが、イエスと当時のユダヤ人との間に壁を作ることになるのですが、それについては今後詳しくお話しして参りたいと思います。
さて、イエスはこのようにユダヤ人から待ち望まれていた王として誕生することになるのですが、しかしそのことを歓迎しない人たちもいました。なぜなら、当時はすでにユダヤ人の王が存在していたからです。今いる王からすれば、別の新しい王の登場など許すことは到底できません。そして当時の王は、有名な「ヘロデ大王」でした。このヘロデ王というのは悲劇的な人物なのですが、彼がどんな人物であったのかを少しみていきましょう。実は彼はユダヤ人ではなく、イドメヤ人でした。イドメヤ人とはエドム人のことです。エドム人というのは、イスラエル民族の族長ヤコブのお兄さんエサウの子孫のことです。ヤコブの12人の子どもたちがイスラエルの12部族になるのに対し、兄エサウの子どもたちがエドム人になったのです。エドム人とユダヤ人は兄弟民族でありながら、長い歴史を通じて犬猿の仲でした。イエスが誕生する100年ほど前の時代、ユダヤ民族の国であるイスラエルはまだローマに支配されず独立国でした。しかも、ハスモン王朝という王家の下で周辺諸国を従えるほどの強国になっていました。その時にユダヤ人たちはエドム人を征服しましたが、エドム人を征服しただけではなく、彼らをユダヤ教徒に改宗させました。つまりエドム人をユダヤ人にしてしまったのです。これは戦前の日本のやり方と似ていますね。戦前の日本は朝鮮や台湾を植民地にしただけでなく、彼らに日本語を習わせて「日本人にしてしまった」のです。彼らの意志に関係なく、強制的に日本人にしてしまったのです。エドム人も、彼らの意志にかかわらずユダヤ人にさせられてしまいました。しかし、そのいわば改宗ユダヤ人であるヘロデが、当時のユダヤの宗主国のローマの力を借りてユダヤ人の王になると、ユダヤ人たちは今度は彼を激しく嫌うようになりました。「エドム人のくせに、俺たちユダヤ人の王になるとは何事か!」ということです。自分たちの都合で無理やりユダヤ人にさせたのに、いざその人が自分たちの上に立つと「あいつは本物のユダヤ人ではない」と言い出す始末です。勝手なものですね。日本の例で言えば、戦後の日本でアメリカの後ろ盾で日本の総理大臣まで上り詰めた元朝鮮人のことを、「あいつは本物の日本人じゃないんだ」と陰口をたたくようなものです。実際、こういうメンタリティーを今日でも多くの日本人が持っているのは否定できないのではないでしょうか。
ヘロデも、ユダヤ人の王になった後も多くのユダヤ人が自分のことを白い目で見ていることに気付いていました。それで、なんとかユダヤ人たちに認めてもらおうと涙ぐましい努力を重ねました。ユダヤ人の歓心を買おうと、神殿の大規模拡張に乗り出して、その結果エルサレムの神殿は空前の壮麗さを持つ神殿に生まれ変わりました。そして、自らの正統性を得るためにかつての王家、つまりハスモン王朝のお姫様であるマリアムネを妻に迎えました。しかし、いくら努力してもユダヤ人たちは自分をどこか馬鹿にしている、本物のユダヤの王として認めてくれないと疑心暗鬼になり、狂気に囚われてしまいました。そしてかつてはぞっこんだった王女であり妻であるマリアムネをはじめとして、自分の家族を次々と殺すようになります。その結果、ますます周囲の人々から嫌われ恐れられ、それでもっと周囲の人々に厳しく当たるという悪循環に陥ってしまいました。大出世を遂げたはずのヘロデの晩年はまったく暗いものとなっていったのです。
このような寒々としたヘロデ王の元に届けられたのが、東方からやって来た外国の使者からの「ユダヤ人の王が生まれた」という知らせでした。ヘロデからするととんでもない話です。これまでさんざん苦労して、やっとのことでユダヤ人の王にまで上り詰めたのに、何の苦労もせずに生まれながらの王として外国人からすらも祝福される人物がいるという事実が許せませんでした。しかし、ここですぐに怒りをあらわにしてその生まれたばかりの人物を殺そうとしてもきっと妨害する人々、つまり救世主を待望する人たちが現れるに違いないとも考えました。そこで一計を案じました。この東方の博士たちを抱き込もうとしたのです。彼らに協力するふりをして、彼らの探し求めるユダヤ人の王を探させて、その上で殺してしまおうとしたのです。彼らに、その王は預言によればダビデの町ベツレヘムにいるはずだと教えてやりました。
さて、ではこの東方の三博士とはいったい何者なのでしょうか?そもそも、この三博士の訪問は実話なのでしょうか?遥か東方に住む外国人たちが、ローマ帝国の植民地に過ぎないユダヤの地に来て、その民族に生まれた赤子に贈り物を携えて来るというような話はほとんど現実離れしています。当時は当然ながら電車も飛行機もない時代で、その旅は命がけの旅だったはずです。ですから、なんとも夢のない話だと思われるかもしれませんが、この東方の三博士の話は必ずしも実話であると考える必要はないように思います。では、このエピソードの「意味」は何なのでしょうか。マタイはこの出来事を通じて何を読者に伝えようとしたのでしょうか。ここでのポイントは、東方の三博士が贈り物を携えてやってきたことです。黄金、乳香、没薬という、当時としては大変高価な品々でした。それらを外国の人々がユダヤ人の王に献上する、ということはユダヤ人の預言者たちが預言してきたことでした。例えば、バビロン捕囚後の預言者ハガイは、外国人がダビデの子孫である王に財宝を献げるという預言をしました。ハガイ書2章7節をお読みします。
わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
マタイは、ユダヤ人の王であるイエスの誕生によって、旧約の預言者たちによって語られたことが実現しつつあるということを示すために、この外国の三博士による贈り物の話を語ったのだと思われます。この三博士は目的を達した後に、しかしヘロデの依頼を無視して彼に会わずに帰国してしまいました。そのことが大いなる悲劇を生み出すことになりますが、それは次回にお話しします。
3.結論
まとめになります。今朝はイエスがユダヤ人の王として誕生した際のエピソードを読んで参りました。イエスは苦難を乗り越えて世界の王へと昇りつめますが、まずはユダヤ人の王として人生の第一歩を踏み出します。そのイエスに対し、外国人の代表ともいえる三博士は宝物を携えてその誕生を祝いました。これはイエスがこれから外国人、異邦人を祝福する存在となることを暗示します。同時に、当時ユダヤで王の座に就いていたヘロデ王は新しい王の誕生を歓迎しません。ヘロデ自体、ユダヤのかつての帝国主義の犠牲者のような存在でもあるのですが、彼は新しい王の誕生の知らせに警戒感を強めます。それがどんな結果を生むのかは次回お話しします。
今日の話のポイントとして忘れてはならないのは、イエスはユダヤ人の王として誕生したということです。しかし、キリスト教はその長い歴史の中でユダヤ人を徹底的に虐め抜き、迫害してきました。今のイスラエルがガザの地で行っていることを正当化することはできませんが、しかしユダヤ人たちをそこまで追い込んでしまったのはキリスト教徒だということも私たちは肝に銘じなければなりません。同時に、ユダヤ人の王として生まれながらもなぜ多くのユダヤ人がイエスを拒絶してしまったのか、その意味も深く考えなければなりません。多くのユダヤ人は、イエスの愛敵の教えが理解できませんでした。しかし、ユダヤ人だけではなく多くのクリスチャンもまた、イエスの愛敵の教えを実践できていないことも確かです。それは、多くのクリスチャンがイエスを実質的に拒絶しているということでもあることを私たちは知らなければなりません。これからマタイ福音書を通じてイエスの平和のヴィジョンを深く学んで参りましょう。お祈りします。
平和の君であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はイエスがユダヤ人の王として誕生した時にことを学びました。このイエスの歩みを通じて、私たちも平和への道を学ぶことができますように。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名を通じて祈ります。アーメン