悪をもって悪に報いない
第一ペテロ3章8~17節

1.序論

みなさま、おはようございます。ここのところ、ペンテコステ礼拝でローマ書を読み、それから第二サムエル記の後半部分を読み、さらにはマタイ福音書の講解説教を始めてと、聖書の様々な箇所から説教をしていますので、第一ペテロからの説教は久しぶりに感じられるかもしれませんが、実際はこれまでと変わらず、毎月月末の説教として今日も第一ペテロからメッセージをさせていただきます。今日の箇所は非常に深遠なというか、キリスト教の本質について触れた箇所です。キリスト教という宗教の独自性に光を当てているのが今日の箇所だということです。キリスト教の独自性は、人生における苦難の捉え方、そして私たちを苦しめる人たちへの接し方にあります。

世界には古今東西、実に多くの宗教があります。宗教がこれほど普遍的なのはそれが人間性に深く根差したものだからなのですが、様々な宗教には共通する点がいくつかあるように思います。その一つは、人間を超えた偉大な存在に守って欲しい、という気持ちではないでしょうか。それはキリスト教の場合も同じで、私は以前に大変尊敬する立派なクリスチャンの方に、受洗をするきっかけは何でしたか、とお尋ねしたことがあったのですが、そのお答えが「守ってほしかった」というものでした。ちょっと意外な感じがしたのですが、それからも他の方から同じような動機を伺ったこともあって、キリスト教に入信する理由の一つが守られたいという願いにあるのだな、と思いました。

日本人の宗教行動を見ていくと、交通安全祈願とか、家内安全・無病息災祈願とか、安産祈願など、不慮の事故などから守られたいという願いが色濃く表れています。人生に苦しみや悲しみはつきものであり、何の問題もない人生を送る人などいないのですが、それでも私たちはなるべく人生に嫌なこと、辛いことがないことを願うのです。人々がお金に執着するのも、お金そのものが好きということではなく、むしろお金が私たちに安全・安心を与えてくれると信じられているからこそ、お金を求める人が多いのです。しかし、いくらお金があっても病気や老いの問題と無縁でいられる人はいません。それは宗教も同じことで、熱心に信仰していれば病気にも事故にも無縁だ、というわけにはいかないのです。それはキリスト教においても全く変わりません。進化論を提唱したことで有名なチャールズ・ダーウィンは熱心なクリスチャンでしたが、愛する娘を病気で失ったことで信仰に動揺をきたし、それが進化論という見方に傾いていった理由の一つだというようなことが言われています。つまり、神が私たちの人生に深くかかわって私たちを守ってくれるということが信じられなくなり、すべては偶然によって決まっていくというような世界観に傾いていったということです。

では、聖書はどうなのでしょうか。聖書は信仰者と災いの関係についてどのように言っているのでしょうか。神は信仰者を災いから守ってくれると約束しているのでしょうか。一つの見方は、正しい者は災いに遭わない、というものです。箴言12章21節にはこうあります。

正しい者は何の災害にも遭わない。悪者はわざわいで満たされる。

これは聖書の一つの典型的な見方です。正しい者は神によって守られるので災いに遭わない、ということがもっと明確に語られている箇所もあります。詩篇91編10-12節にはこうあります。

わざわいは、あなたにふりかからず、えやみも、あなたの天幕に近づかない。まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に当たることがないようにする。

この一節は、サタンが荒野で主イエスを誘惑する時に用いた一節ですので、ご存じの方も多いと思いますが、よく知られた一節です。神は、神を信じて従う人々を守ってくださるという教えは確かに聖書にあります。

しかし、実際の私たちの人生においてはこのことは必ずしも本当ではないのではないか、と思えてしまうことがあります。熱心に神を信じてきたのに、どうしてわたしばかりこんな目に遭うのか、なぜ神はわたしを守って下さらないのか、と思ってしまうような経験は、信仰歴の長い方には一度ならずあるのではないでしょうか。この問題に正面から取り組んでいる書が聖書にあります。それが「ヨブ記」です。聖書はヨブを評して、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」と記しています。しかし、そのヨブにありとあらゆる災いが降りかかります。正しい人は神から守られるはずなのに、どうしてヨブはこのような目に遭わなければならないのか、という疑問が生じます。そこでヨブの友人たちが次々やって来て、彼に説教します。君は品行方正に見えるが、実は隠れたところで大きな罪を犯しているんだ、だから神は君に罰を下しているんだ、というように傷口に塩を塗るようなことばかり言います。しかしヨブは、私にはそんな隠れた罪などないと言い張り、彼らの論争は噛み合いません。そして、ヨブの言うことは正しかったのです。ヨブは正しいと、神ご自身も認めておられます。ではなぜヨブが苦しんだのかと言えば、サタンが神に、ヨブは幸せだから神を敬っているだけで、不幸になれば信仰を捨てるだろう、というようなことを言ったので、では本当にそうなのか試してみるがよい、とサタンにヨブを苦しめることを認めた、ということだったのです。つまりこうした試練は一種のテストだったのです。ヨブは最後までそのことを知らされず、それでも忍耐し続けました。このヨブ記は実話ではないと言われていますが、このヨブ記を書いた著者の動機は、なぜ義人が実際には苦しむのか、という難題に取り組むためだったとされています。神は善人を守って悪人に災いを下すと言われていますが、実際は「悪い奴ほどよく眠る」という黒澤明監督の映画ではありませんが、悪人が枕を高くして眠るのに対し、善人が理不尽な目に遭っているということは普通にあることなのです。そんな時に「神も仏もあるものか」という信仰の危機に陥ってしまうことが多いわけです。ヨブ記の著者もその問題に取り組みました。彼は、神は信仰者を災いから守るどころか、かえって何らかの理由により信仰者が災いに遭うことを許容されることがある、と指摘したのです。このように旧約聖書を通じても、この問題についての考え方の違いというか、変遷があります。しかし、新約聖書の時代になると、まったく新しい要素が登場します。主イエスの福音の新しさはここにある、と言ってもよいほどです。今日のペテロの言葉も、そのような大きな問題を扱ったものです。では、さっそくその内容を詳しく見て参りましょう。

2.本論

まず8節です。ここでペテロは、クリスチャン同士の間での在り方、お互いへの接し方について語ります。ここでペテロが語っていることは、使徒パウロが言うことととても似ています。ピリピへの手紙の2章1節と2節とは、特に似通っています。そこをお読みしましょう。

こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

このように、主イエスを信じる者の共同体においては、互いを思いやり、何よりも一致を保つことが大切です。ペテロもそのように語っています。

ここまでは良いのですが、問題は9節以降です。ここからペテロは苦しみの問題を扱います。ペテロは、主イエスを信じて彼に従えばあなたは苦しみには遭わない、イエス様が守ってくれるからあなたは災いから守られる、とは教えません。むしろその反対です。信仰者は必ず苦しみに遭うのだということを前提にして話しています。このことは、ペテロの書簡以上に第二テモテに明確に言い表されています。第二テモテ3章12節にはこうあります。

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。

このように、敬虔に生きようとする者は祝福される、ではなく迫害を受けると言い切っています。しかし、それはなぜでしょうか?これは大きな問題です。私はサラリーマンを15年した後にイギリスに留学し、英国の国立大学の学部に入って三十代半ばでイギリスの二十歳前後の学生たちと一緒に聖書学を学び始めたのですが、その時に印象深いことがありました。その時、講師の方がキリスト者の人生には苦難や苦しみがつきものだ、ということを語ったのに対し、ある女子学生が「イエス様が私たちの代わりに苦しんでくれたのに、なぜ私たちが苦しまなければならないのですか」という、単刀直入で、日本人なら遠慮して聞かないような質問をずばりと聞いたのです。その時の講師の答えはよく覚えていないのですが、質問の方は今でもよく覚えています。

この問題については、中間時代、すなわち旧約と新約の間の時代に書かれた書で、七十人訳というギリシア語の聖書に収録されている『知恵の書』がその理由を明らかにしています。そこには、義人を故なく憎む世の人々の気持ちが描かれています。

正しい人は、自分は神を知っていると公言し、自らを主の僕と称している。彼は我々の思いをとがめる存在となり、我々には目に映るだけで重苦しい。その生き方は他の者とは異なり、その振る舞いも変わっているからだ。正しい人は我々を偽り者と見なし、汚れを避けるように我々の道から遠ざかる。正しい人たちの最期は幸せだと言い、神を自分の父だと豪語する。(2:13-16)

このように、正しい人の生き方はこの世の生き方とは異なるので、この世の人はそうした人を見るだけで嫌になります。自分たちの生き方が悪いということを、その人は無言のうちに示しているからです。そのイライラから、正しい人を虐めたくなる、苦しめたくなるというのです。つまり自己正当化のために、正しい人の生き方を破壊したいのです。したがって、正しく生きようとすると、その生き方が苦難を招くのです。つまり、ありていに言えば、キリストを信じることで人は災いから守られるのではなく、むしろ災いを招いてしまうのです。使徒パウロは自らの伝道について、こう述べています。第一コリント4章11節以降をお読みします。

今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。

このように、パウロの人生はまさに災い続きだったのですが、驚くべきことに、パウロは自分に災いをもたらす人たちを祝福し、慰めているのです。これがキリスト教の新しさ、独自性なのです。ペテロも今日の箇所で全く同じことを語っています。それが9節なのですが、この一節は解釈が分かれるところです。私たちの聖書では、

悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

と訳されています。しかし、多くの研究者がしてきするように、より字義通りに訳せば、「あなたがたは、あたなたがたに悪をなす者たちを祝福するようにと召されているのです、そうしてあなたがたが祝福を受け継ぐようになるためです」となります。つまり、クリスチャンの召命とは敵を愛する、敵を祝福することであり、そのように行動するからこそ、私たちは神の祝福を受け継ぐことができるのだ、ということです。私はこの解釈の方が正しいと思いますし、それは主イエスの教えとも一致しています。イエスはこう教えられました。

『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、あなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43-45)

この、敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい、という言葉ほど、イエスの教えの中で衝撃的なものはないでしょう。キリスト教を拒否する人は、このようなイエスの教えは実行不可能だと考えるからだ、ということは皆さんも聞いたことがあると思います。しかし、イエスは私たちがこのように行動するからこそ、神の子となれるのだ、と教えています。そしてペテロも、私たちは敵を愛し、迫害する者たちに祝福を与えるために召されたのだと教えています。そして、これこそがキリスト教の本質なのです。もちろん、敵を愛するというのが人間の本性に反するものだということも事実でしょう。やられたらやりかえす、というのが残念ながら人の自然な行動なのかもしれません。聖書も「目には目を」と教えているではないか、という指摘もあるでしょう。しかし、ここにこそイエスの教えの新しさ、福音の新しさがあるのであり、これを取り去ったらキリスト教はキリスト教ではなくなってしまうのです。そして、敵を愛するというのは感情というよりも行動の問題だ、ということも大切なポイントです。自分に害をなす人を、感情的に好きになれ、というのは確かに不可能でしょう。そんな人はいなくなって欲しい、顔も見たくない、と思うのが普通です。しかし、主イエスが言われているのは、そのような無理な感情を無理やり持ちなさいということではなく、むしろ感情がどうであっても平和作りのために行動しなさい、ということなのです。目には目を、殺されたら殺し返す、という報復の連鎖では、いつまでたっても平和はやってこないからです。

近代以降の戦争で残念なのは、戦争が終わるのは徹底的に相手を痛めつける、報復しようという気持ちすら起こせないほどまでに相手を痛めつけることでしか実現しなかったということです。その典型はまさに日本の敗戦です。戦前は「鬼畜米英」と叫んでいたのに、戦後はアメリカ万歳になりました。それは、アメリカが人格的に素晴らしかった、敵である我々にも憐み深く寛容だった、と多くの日本人が感激したからではなく、その反対でアメリカ人があまりにも恐ろしかったからです。東京大空襲で一夜にして10万人もの民間人の命が奪われ、原爆では一瞬にして20万人もの民間人の命が奪われました。こんな恐ろしい相手には抵抗しても無駄だ、というあきらめが転じて、アメリカは素晴らしいという卑屈な精神構造になってしまいました。ですから戦後の日本人は、アメリカが正当な理由もなくイラク人の民間人を何万人殺そうが批判しない、いやアメリカは正義のために正しいことをしたのだ、とまで言い出すようになってしまったのです。相手への恐怖心のゆえに、相手を批判できないのです。

このように、この世の方法というのは、「目には目を」という報復の気持ちを抱くことができなくなるほどまでに相手を痛めつけることで、それはまさにローマ帝国が十字架でやったことでした。十字架のような惨めな死に方をしたくなければ、ローマに反抗しようなどと愚かなことは考えるな、ということです。しかし、イエスはそれとはまったく異なる道を示されました。平和づくりのために、報復といういわば当然の権利を捨てて、むしろ相手との和解の道を探るために相手を祝福しなさい、というのです。そんなことをすれば悪者を増長させるだけではないか、そんな愚かな行為では平和は実現しない、悪を倒さなければこの世の秩序は保てない、という反論が当然出てきます。私はそれもある意味では正しいと思います。私たちには警察が必要です。警官が武力を行使して一般市民を守ってくれるのはありがたいことです。その延長線上で、国家としての軍事力や武力も必要でしょう。ある一つの国だけが圧倒的な軍事力を持っていて、周りの国はまったく武器を持っていなければ、攻めてくださいと言っているようなものです。平和のためには、いわゆるバランス・オブ・パワー、力の均衡というものも必要でしょう。しかし、そこに安住していたら、いつまでたっても「目には目を」の世界から前進できません。本当に平和を目指すのなら、誰かが「目には目を」ではなく、「砲弾に花束を」という行動を採らなければなりません。すべての人がそうすることはできないかもしれないけれど、ではまずクリスチャンがそれを始めるべきだ、というのがペテロの、そして主イエスの教えていることなのです。ペテロは、善を行ったのに苦しみを受けるなんて理不尽だ、とは言いません。かえってそれは幸いなことだと言っています。今日の箇所の最後の一節をお読みします。

もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。

3.結論

まとめになります。今日は人生における苦しみの問題、とりわけ真面目に正しく生きている人に降りかかる災いや苦しみの問題をペテロの言葉を通じて考えて参りました。新約聖書と旧約聖書の大きな違いの一つは、新約聖書では正しい人は苦しみには遭わない、神から守られる、とは言わないことです。むしろ正しい生き方は周囲からの反発を招き、あなたは必ず災いに遭うだろうと教えます。なにかとんでもないことのようですが、実はそれが新約聖書の教えです。さらに驚くべきことは、このように私たちに災いをもたらす人に報復せずに、むしろ祝福しろ、と教えていることです。これもとんでもない教えですね。ここ数年間、世界では大きな紛争がいくつも起きて私たちを震撼させましたが、どの戦争でも「憎むべき敵に罰を与えろ」、「報復しろ」、「そのためにはもっと強い武器が必要だ」というようなことばかりが叫ばれてきました。そして、これがこの世の在り方です。しかし、イエスが示した十字架の道は、自分が苦難を引き受けることで敵との和解を目指す生き方です。そんな生き方は愚かしいと思われるかもしれません。しかし、これこそが、いやこれだけが、神の認めた道なのです。そして、そのイエスに対し神は大きな報いを与え、彼を万物の支配者となさいました。今やキリストの支配は始まっていますが、その支配は暴力や強制によるものではなく、自己犠牲的な愛によるものです。そのような生き方、神の支配に私たちは招かれています。その報いは大きいのです。ですから勇気をもって、信仰をもって歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。本日は人生における苦難と、その苦難にどう向き合うべきか、ということを学びました。私たちには不可能にも思える生き方ですが、神には不可能なことはありません。私たちに力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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