1.序論
みなさま、おはようございます。私は2022年の5月から2023年の7月まで、一年余りにわたってマルコ福音書の講解説教を行いました。それから約二年ぶりに、今度はマタイ福音書の講解説教を行います。マタイ福音書はマルコよりもずっと長いので、当然ながらマタイからの説教はマルコよりもずっと長くなるでしょう。私たちにとって最も大切なことは、イエス・キリストを深く理解することです。マタイ福音書を通じて、私たちはこのことを目指して参ります。
新約聖書には四つの福音書があります。私は今後、主の御心であれば当教会でマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネという順番ですべての福音書の講解説教をしていきたいと願っています。この順番にする理由は簡単で、書かれた順番、古い順ということです。マルコが最古の福音書ですのでこの福音書からの説教を初めに行いましたが、これからはマタイ福音書の説教をしていくということです。かつては、マタイ福音書こそ、12使徒のひとりであるマタイによって書かれた最初の福音書だと信じられてきました。しかし、近代以降の研究が進んでマルコが最古の福音書であることはもはや誰も疑わないようになりました。マタイ福音書には、マルコの記事の9割以上が含まれています。これは、マタイ福音書の記者が執筆に際してマルコ福音書を資料として用いたことを強く示唆します。また、このことはマタイ福音書の作者がイエスの直接の弟子ではない、イエスの公生涯の直接の目撃者ではない、ということをも示しています。マルコ福音書は、マルコがペテロの通訳者であったことからペテロの証言に基づくものだと言われています。では、もしマタイ福音書も同じく12使徒だったマタイ自身によって書かれたものだとするならば、彼が他の使徒の証言にここまで全面的に依存するとは考えられないからです。したがって、私はマタイ福音書が12使徒マタイによって書かれたとは思いませんが、慣例に従って便宜上この著者のことをマタイと呼ぶことにします。
マタイは、マルコ福音書がすでに存在しているのに、なぜ新しい福音書を書こうとしたのでしょうか?それはマルコ福音書とマタイ福音書を比べれば明らかです。マルコ福音書には山上の垂訓はありません。このことが端的に示すように、マルコ福音書の特徴はイエスの教えが比較的少ないことです。もちろんまったくないわけではありませんが、主の祈りも含まれていないし、良きサマリア人のようなたとえ話もありません。マルコ福音書はイエスの行動にフォーカスした福音書なのです。それに対し、マタイ福音書には山上の垂訓に代表される、イエスの教えを収録した大きなかたまり、ブロックが五つもあります。これがまさにマタイ福音書の特徴であり、またこの福音書が書かれた目的だといえます。それは、マルコ福音書を読んだマタイがその福音書に強い感銘を受けつつも、イエスの教えが少ないことに不満を覚え、この福音書にイエスの教えを包括的に含めることでより充実した福音書を書き上げようとしたということです。マタイはさらにマルコ福音書に欠けていたもの、すなわちイエスの誕生物語と、復活後のイエスと弟子たちとの出会いというエピソードを含めました。つまり、マタイはマルコ福音書をアップグレードしようとしたのです。このことは、マタイ福音書がマルコ福音書より優れているということではありません。しかし、後に書かれたものの方が先に書かれたものよりも、いくらかのアドバンテージがあることも確かです。より多くの情報を持っているのですから。しかし、後に書かれるということは、イエスの時代からそれだけ時間的に隔たっているということでもあります。時間の経過に従って、イエスの記憶が薄れ、また変化していく可能性があるということです。特に、マタイ福音書が書かれたのは紀元70年のエルサレム陥落後だと考えられています。イエスの時代にはエルサレムには神殿が建っていましたが、マタイの時代にはそれはもう存在しなかったということです。これは非常に大きな時代の変化です。マタイ福音書はこうした時代の変化を反映しているので、イエスの時代にはなかった要素も含まれています。例えば、昨今の説教ではスマホについて触れられることがたびたびあるでしょうが、30年前の20世紀の説教にはスマホのスの字もありませんでした。そんなものが存在しなかった以上、当然ですよね。マタイ福音書にはイエスの時代にはなかった内容や特徴が含まれるというのは、そういうことです。このことは、講解説教のなかでおいおい触れていくつもりです。
これまでマルコ福音書との関係でマタイ福音書の特徴を考えていきました。しかし、もっと重要な特徴があります。それは、マタイ福音書が非常に「ユダヤ的な」福音書だということです。ユダヤ的とは、すなわち旧約聖書とのつながりが非常に強いということです。マタイ福音書には、イエスの生涯の出来事の意味を説明することばとして「これは預言者たちを通して語られたことが成就するためであった」というフレーズが繰り返し登場します。預言者たち、とはイザヤやエレミヤのような旧約聖書の預言者です。ただ、これからの説教でも説明していくように、マタイが引用した旧約聖書の記事を読むと、それが本当にイエスについての預言なのかと考え込んでしまうようなものも少なくありません。例えばマタイ2章で、ヘロデ王が多くの幼児を殺害した事件の預言としてマタイはエレミヤの預言を引用しますが、エレミヤはここではバビロン捕囚に連れて行かれていく人たちを嘆いたのであって、彼の時代から500年も先の出来事について語ったのではありません。イザヤやエレミヤは、彼らが生きていた同じ時代の人々に対して語りかけたのであり、彼らの時代から数百年後の子孫たちに向けて語ったわけではないのです。この問題は簡単には説明できない問題です。マタイの旧約聖書預言の用い方というのは、今後の説教で少しづつ解説していきたいと思います。ここでこれだけは申し上げたいのは、マタイは、イエスのあらゆる行動はすべて旧約聖書に予告されているのだと言いたいわけではない、ということです。むしろマタイは、イエスの生涯とイスラエルの歴史との間には深い関係があるということを読者に伝えたいのです。これは私の恩師であるN.T.ライトという新約聖書学者が語っていることですが、マタイはイエスの生涯をイスラエルの歴史の縮図として描いています。それがどういう意味なのかということは、これからの説教で明らかにしていきます。
2.本論
では、今日のテクストを読んで参りましょう。今日の箇所はイエスの系図です。イエスについての物語が始まる、と期待する読者は、いきなり長々とした系図を見せられて面食らうかもしれません。私の大学の後輩に柳生君という人がいたのですが、彼はあの有名な柳生一族の末裔だそうで、その家系図を持っているそうですが、そういう特殊な場合を除いて私たちの中で何十代前の祖先が誰かなどということを気にする人はいないでしょう。しかし、イエスの時代のユダヤ人にとって家系というというのは極めて重要なことでした。なぜなら神はアブラハムの子孫に大いなる約束を与えましたので、ある人がその約束を受けられるかどうか、相続人になれるかどうかは、その人が実際にアブラハムの子孫かどうかにかかってくるからです。下世話なたとえですが、皆さんも、自分が1億円という遺産の相続人かもしれない、その遺産を受け継ぐには自分がその遺産の正当な受取人であることを証明しなければならない、ということになれば必死に自分の家系図を探そうとするでしょう。マタイ福音書が家系図から始まるというのは、当時のユダヤ人の家系への強いこだわりを反映しています。これなども、マタイが「ユダヤ的な」福音書であることの一つの表れだと言えます。
最初の一行目は、メシアであるイエスがアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であることが特筆されています。イスラエルの歴史の中でも、特にアブラハムとダビデが重要視されているのです。その理由はこれから説明します。この一文のギリシア語原文を読むと、ビブロス・ゲネセオス・イエズゥ・クリストウとなっています。ビブロスとは本という意味で、ゲネセオスとは英語のジェネシス、つまり創世記という意味です。ですからこの出だしを直着すると、「イエス・メシアの創世の書」、「イエス・メシアの創世記」ということになります。なかなか壮大な書き出しではないでしょうか。ここにはイエス・キリストご自身の起源、家系のルーツについてという意味合いと、イエス・キリストにおいて新しい創世、新しい創造が始まるという二重の意味合いが込められているように思えます。
ルカ福音書のイエスの系図では、人類全体の祖先であるアダムからの系図になっていますが、マタイ福音書では族長アブラハムから系図が始まっています。マタイはイエスの生涯をイスラエルの歴史の縮図として描いた、ということを先に申しましたが、イエスの系図がイスラエル民族の祖であるアブラハムから始まるということもそれを強く示唆するものです。イエスがアブラハムの子孫であることがなぜそれほど重要かと言えば、それは神がアブラハムに与えた約束が問題になるからです。神は、アブラハムが神の命令に従ってその独り子イサクをまさに献げようとしたときに、それを押しとどめてアブラハムの信仰を賞賛します。そしてこう約束しました。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(創世記22:18)と。この世界の国々に祝福をもたらすのが、アブラハムの子孫、すなわちイエス・キリストだというのがマタイの主張です。ですからイエスの系図はアブラハムで始まるのです。
さて、この系図の特徴の一つは「十四」という数字の強調です。アブラハムからダビデまでが十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からイエスまでが十四代ということです。この十四という数字がなぜ重要かといえば、この数字はダビデを表わす数字だからです。どういうことかといえば、現在私たちはアラビア数字という大変便利なものを使っています。しかし、アラビア数字がなかったとしたらどうでしょうか?古代の人々は、アラビア数字がないかわりにアルファベットを数字としても使っていました。英語で言えば、aがaという言語であるだけでなく、数字の1を意味したということです。ヘブライ語も同じでした。ヘブライ語のアルファベットであるアレフは1、ベートが2、という数字をも意味したのです。ダビデを表わす三文字(ダレット、ヴァヴ、ダレット)はそれぞれ4、6、4ですので合計すると14なのです。ですから、このマタイ福音書の系図がなぜ十四代という数字にこだわるのかといえば、それはダビデを示す数字だからです。そして、アブラハムに続いて焦点が当たるのは、アブラハムから数えて十四代目のダビデです。しかし、ダビデという人物はこれまでサムエル記で学んできたように、光と影のある人物です。特に彼の後半生は、この人物の信仰について重大な疑問符を突き付けます。彼はアブラハムのように信仰の生涯を全うしたとは言い難いということです。では、なぜダビデがこんなに注目されているのでしょうか。ここでも、ダビデ本人というよりも、神がダビデに与えた約束の方が重要なのです。神は、バテ・シェバ事件を起こす前のダビデに、次のような約束を与えました。それは、「あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(第二サムエル7:16)というものです。神はダビデに対し、あなたの王国はサウルの王国のように短命では終わらずに、永遠に続くと約束したのです。しかし、この約束は、すくなくともそれから四百年後には潰えたように見えました。それがバビロン捕囚です。ダビデ王朝は、当時の超大国であるバビロンによって攻め滅ぼされ、ダビデの王座は消滅してしまったからです。この系図ではダビデから十四代目にバビロン捕囚が来ます。こうなると、ダビデに対する神の約束はどうなってしまうのか、という問題が生じます。ここで、イエス・キリストが求められるのです。神のダビデへの約束、永遠の王国の約束は、イエス・キリストにおいてついに実現するというのがマタイの主張なのです。ちなみに、系図で用いられているこの「十四」という数字は象徴的なものであり、厳密には実際の数字ではありません。なぜなら、このマタイの系図ではダビデ以降のキリストまでは二十七代となっているのに対し、ルカ福音書の系図では同じ期間は四十二代もあるからです。
このように、マタイはこの系図において、イエスこそ神のアブラハムへの約束、そして神のダビデへの約束を成就する方なのだ、ということを示しています。マタイはこの系図において、この福音書の最も大切なテーゼを示そうとしているのです。
そしてこの系図にはもう一つ、非常に興味深い特徴があります。それは、女性の名前がこの系図に四人も含まれていることです。イエスの母マリアを含めれば五人ですが、ここではマリア以外の四人のことを言っています。現代の価値観でいえば家系図に女性の名前があるのは当たり前のことですが、古代社会は徹底した男尊女卑の時代、女性の証言は法廷では認められないような時代だったことを忘れてはなりません。しかも、その四人というのが貞淑で模範的な女性たちではなく、むしろ問題含みの女性ばかりなのです。その四人とはタマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻、つまりバテ・シェバです。タマルという女性は売春婦を装ってユダと性的関係を持った女性で、ラハブはエリコの売春婦です。しかも彼女はイスラエル人ではなく異邦人です。ルツはダビデの祖先として有名ですが、彼女もイスラエル人ではなくモアブ人です。律法によれば、モアブ人はイスラエルの集会に加わることが禁じられています。そして、あのバテ・シェバです。彼女との不法な結婚によってダビデの家は崩壊してしまったのです。このように、イエスの時代には「罪人」と呼ばれた売春婦、あるいは姦淫の女性、そして同じくイエスの時代には「罪人」と呼ばれた異邦人、こうしたカテゴリーに入る女性ばかりがイエスの系図に記されているのです。これは何を意味するのでしょうか?マタイは、イエスがイスラエル民族のためのメシアであるだけでなく、イスラエル以外の外国人、あるいはイスラエルからは「罪人」として排除されていたような人たちのための救世主であるということを示そうとしたのです。イエスはあらゆる人々、男性も女性も、ユダヤ人も異邦人も、義人も罪人も、これらすべての人を救う救い主なのです。
3.結論
まとめになります。これからマタイ福音書をじっくりと読んで参りますが、最初はイエスの系図を学びました。系図というと無味乾燥なイメージを持つかもしれませんが、このマタイ福音書のイエスの系図は非常に興味深い、神学的に示唆に富んだものです。ここで強調されているのは二つでした。一つはイエスが旧約聖書のあらゆる約束を成就する人物だということです。使徒パウロは第二コリント書簡で、「神の約束はことごとく、この方において『しかり』となりました」(1:20)と記していますが、マタイもまったく同じことをこの家系図で示そうとしたのです。そしてもう一つは、イエスはイスラエルのためでなく、あらゆる人々、すべての人類のための救世主だということです。この二つのメッセージがこの家系図に刻まれています。
このように、イエスという人物の重要性がこの系図に暗示されているのですが、では彼が一体どんな方だったのか、ということはこれから段々と明らかになっていきます。マタイ福音書にはイエスについての非常に大切な情報がたくさん含まれていますが、それはマタイ福音書を慎重に読み解いていくことで明らかになるでしょう。それは簡単なことではなく、大変根気の必要なものです。この者が、そのような大切な役割を果たすことができるように、ぜひ皆様に祈っていただきたいと願っております。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝からマタイ福音書の説教に入りましたが、どうか主の助けと憐みにより、この講解説教が実り多いものとなりますように。聞くみなさまの上にも聖霊の導きがありますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン