トロイの木馬
第二サムエル17章1~29節

1.序論

みなさま、おはようございます。しばらくイースター関連で新約聖書からメッセージをして参りましたが、今日は久しぶりにサムエル記からのメッセージに戻ります。今日の説教タイトルは「トロイの木馬」ですが、これは古代ギリシアの故事から取られたことばで、敵にスパイを送り込んで内部から崩壊させるという話です。そして本日の聖書箇所は、まさにそのような内容になっています。

今日の世界では、戦争という現実が否が応でも私たちを取り囲んでいます。ウクライナ戦争は2022年の開始からもう三年が経過していますが、停戦はまだまだ難しいように思えます。また、ガザ紛争が始まって、早くも一年半になります。ガザの場合は、一応は停戦になっていますが、それはガラスのような脆さです。私たちは戦争そのものに反対する平和憲法の国の国民なのですが、しかしこうした世界の戦争の現実から逃れられている訳ではありません。それは、第二次世界大戦後の世界のほとんどの紛争に関与してきたアメリカ合衆国の同盟国という立場にあるからであり、アメリカはますます日本の軍事的貢献を期待しています。日本はこれまでのアメリカに守ってもらうという立場から、共に戦う同志になるようと期待されているのです。そして私たちがそれを拒否するのは大変難しいのです。なぜなら私たち日本は、食糧・エネルギー・防衛のあらゆる分野でアメリカに依存しており、アメリカに逆らっては毎日の生活すらおぼつかないからです。そのアメリカは明確に中国を仮想敵国としており、日本はその戦いの最前線に位置する国だとされています。そんなのとんでもないことだ、と多くの人は考えるでしょうが、それが現実なのです。戦後80年戦争とは無縁でやってきたこの日本が、これから80年間も平和な国でいられるかどうか、今がまさに運命の分かれ道、正念場だといえます。

聖書にも、至る所に戦争の記述があります。今日の箇所もまさにそういう記述です。不幸にも戦争が始まってしまった場合、人々はどのように行動するのか、特に信仰者はどう行動するべきなのか、ということを考えさせられる箇所です。聖書には、大きく分けて二種類の戦争があります。一つは「聖戦」、聖なる戦争というもので、神が命じる戦争、さらにいえば神ご自身が戦うという戦争です。神は平和の神ではないか、その神が自ら戦うなどということがあるのか、と思われるかもしれませんが、聖書には確かにそのような記述があります。その特徴は、戦いの主体は神であり、人間側の関与は少なければ少ないほどよい、ということです。普通戦争の場合、如何に相手よりも大きな戦力、兵隊を集めるのかということがポイントになり、兵士は多ければ多いほど良いのですが、聖戦の場合はそれは逆になり、兵士は少なければ少ないほど良いということになります。その典型が士師ギデオンの戦争です。ギデオンはミデヤン人との戦争に臨むときに、味方の兵士は三万人も集まったのですが、それでは多すぎるということで一万人にまで減らし、それでも多すぎるということで何と三百人にまで減らして戦ったのです。三万人が三百人ですから百分の一にしたわけで、普通に考えれば自殺行為ですが、しかしこれは信仰の表明、「神が私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる」という信仰の表明なのです。

聖戦のこのような性格を考えた場合、サムエル記の中にもこれまで聖戦と呼べるような戦いがいくつかあったということが言えます。一つはサウル王の息子ヨナタンの戦いで、ヨナタンは圧倒的優位にあったペリシテ人に対してたった二人で奇襲をかけて成功し、ペリシテ軍を敗走させました。これは戦術の勝利というよりも、神は我らに勝利を下さるというヨナタンの強い信仰の勝利と言えるでしょう。そしてもう一つは、あの少年ダビデと巨人ゴリヤテとの戦いです。ボクシングで言えばヘビー級とフライ級のような圧倒的に不利な戦いに、少年ダビデは石礫だけを武器に戦いを挑みました。この時のダビデを支えたのも、神はイスラエルに勝利を下さるという強い信仰でした。そして神は、このように圧倒的に不利な状況にあるイスラエルに力を与え、勝利を賜ります。これが聖書のいう「聖戦」の姿です。

そのような観点から見れば、今回のアブシャロムとダビデとの内戦はとても聖戦とは呼べません。両軍とも、如何に大きな兵力を集めて相手を圧倒しようかという、普通の人間的な考え方で戦術を組み立てているからです。神がどちらかの側に立って戦われたというわけでもありません。たしかに、今日の14節には神がアヒトフェルの戦略を打ち壊そうとしたとありますので、神がダビデ側に加勢している印象を受けますが、しかしそもそもこのアブシャロムの乱そのものが、ダビデの罪に対する神の裁きだと考えられるので、神がダビデの側に立っているのかどうかは自明ではありません。サムエル記はダビデ王朝を擁護する立場から書かれているので、神がダビデ側に立っているという記述は多少割り引いて読む必要もあります。つまりは、アブシャロムとダビデの戦いは聖戦ではなく、人間同士の権謀術数を繰り広げた戦いだということです。その戦いのことを神はどのように見ておられたのか、神の御心はどこにあったのか、というのは判断が難しいところです。

今回の件に限らず、現代の戦争についても、「神はこちら側についておられる、正義は我々の側にある」というような主張は常に疑ってみる必要があります。本当にそう思うなら、ギデオンのように思いっきり軍備を削減して、ほとんど丸裸の状態で敵に挑めばよいのです。そのような覚悟、そのような信仰があるならばそれは「聖戦」と呼んでよいのでしょうが、そんなことをする国はどこにもありません。どの国も「もっと武器をよこせ。もっと強力な武器が必要だ」と叫んでいます。しかし、そんなことを言っているのはそれが聖戦ではない証拠なのです。したがって、神の戦いではない人間同士の戦いとして、今日のテクストを読み解いて参りましょう。

2.本論

さて、それでは1節です。ここではアブシャロムの軍師、神のごとき知恵があると謳われたアヒトフェルが登場します。前にもお話ししましたが、アヒトフェルはあのバテ・シェバのおじいさんです。つまり、ダビデとバテ・シェバの子のソロモンはアヒトフェルのひ孫になります。そしてアブシャロムはソロモンの腹違いの兄であり、王位を争うライバルです。普通に考えればソロモンが王位に就くのを助けるためにアブシャロムに敵対すべき立場です。では、なぜアブシャロムの参謀役などを買って出たのか?ここからは私の想像ですが、アヒトフェルは非常に正義感の強い人で、ダビデがバテ・シェバの夫、アヒトフェルからすれば義理の孫ですが、そのウリヤを謀殺しておきながら、何の罪にも咎められなかったことが許せなかったのでしょう。ですから彼は本気でダビデとその王朝を倒しに来ているのです。実際、彼は非常に優れた作戦を具申します。それは、ダビデ軍がまだ準備が整っていないうちに急襲し、ダビデ一人の首を取ろうというものでした。今回のアブシャロムの乱は入念に準備したものですので、最初の段階では成功しましたが、しかし人々の間のダビデへの人気や信頼は根強く、時間が経てばたつほどダビデに有利な状況に傾いていくだろうというのがアヒトフェルの読みでした。そしてその状況判断は正確だったのです。

このアヒトフェルの作戦計画は、一旦はアブシャロムやほかの長老たちに受け入れられました。しかし、ここでアブシャロムの未熟さが露呈してしまいました。リーダーたるもの、ひとたび戦略を決めたならそれをひたすら敢行すべきなのですが、若いアブシャロムには不安や迷いもあったのでしょう。アヒトフェルを信頼しきれず、本当にダビデに勝てるのかという不安に負けてしまい、セカンドオピニオンを求めてしまいます。アヒトフェルと並ぶ知者とされるフシャイの意見を聞こうとしたのです。そしてこのフシャイこそ、ダビデが送り込んだ「トロイの木馬」だったのです。戦争というものは、戦場だけで決着がつくものではありません。むしろ、戦場の外でこそ熾烈な戦いが繰り広げられているのです。この戦場の外での戦いではダビデは常にアブシャロムよりも上手で、今回もまさにそうでした。フシャイはダビデのために、アブシャロム陣営に毒を吹き込みます。それはダビデへの恐怖心です。フシャイは巧みに、かつてのダビデの勇士を人々に思い起こさせました。ダビデには、それこそ伝説ともいえるような武勇伝がいくつもあります。特に、サウル王の追及をかわしてついにはサウル王を出し抜いたゲリラ戦の名人としてのダビデの記憶はまだ人々の間には新しいものでした。そのダビデを、果たして我々は捕らえることができるだろうか、とフシャイは語るのです。実際には、このころにはダビデはすっかりふぬてけしまっていて、サウル王と渡り合った頃のような面影はないのですが、それでも人々のダビデに対するイメージは昔のままだったのです。フシャイはそれを巧みに利用して、より安全で確実だと思われる作戦を申し出ます。それは、蟻一匹逃さないような包囲陣を引いて、大軍団でダビデたちを押しつぶしてしまおうというものでした。確かに大軍で小さな相手を圧倒するというのは兵法における常道、正攻法です。しかし問題は、そんな大軍をアブシャロムが果たして集めることができるだろうか、ということなのです。アブシャロムは反乱軍であり、その正統性が今まさに問われているという、そのような状況です。そんなアブシャロムにイスラエルの人たちが無条件に従うでしょうか?いやむしろ、ダビデの方に味方するか、あるいは多くの人たちは決着がつくまで様子見をして、どちらにも肩入れしないようにするでしょう。そんな弱い立場にある以上、リスクを取ってでも敵の大将の首を狙いに行くというのがアブシャロムにとっては最善手でした。いや、そこにしか勝機はなかったのです。しかし、アブシャロムは自らの弱い立場も考えずに横綱相撲を取ろうとしました。ここで、アブシャロムの器が知れてしまいました。彼の敗北は実質的にここで決まったのです。さらにいえば、ここでアブシャロムという人物の信仰心も明らかになりました。もしこの戦いが本当に神の御心であるという確信に基づいて彼が行動していたのなら、圧倒的な武力で安全策によって敵に打ち勝とうなどとはしなかったでしょう。先ほどの「聖戦」の説明でもお話ししたように、神の戦いにおいてはむしろ圧倒的に不利な状況でこそ神の力が発揮されるのです。アブシャロムに主の御心を行うのだという強い信仰があるのなら、少ない手勢で戦う方を選んだことでしょう。しかし彼は目に見えない神よりも、現実的な力に頼ろうとしました。したがって、神も彼を助けようとはなさらなかったのです。

ここから後も、ダビデが巧妙に仕掛けておいた罠がことごとく成功していきます。ダビデはフシャイをトロイの木馬としてアブシャロムに送り込みましたが、ダビデが送ったトロイの木馬はこれだけではありませんでした。そのもう一つのトロイの木馬とは契約の箱であり、その箱を管理することのできる、大祭司になる資格のある二人の祭司ツァドクとエブヤタルでした。契約の箱は、日本で言えば三種の神器のようなものです。源平合戦もある意味では三種の神器をめぐる争いでした。なぜならそれを持つものは正統な日本の統治者であると見なされたからです。イスラエルの場合も、神とイスラエルの契約を象徴する契約の箱を持つ者こそが、イスラエルを代表する者とみなされます。アブシャロムからすれば、喉から手が出るほど欲しいものでした。これさえあれば、反逆者から卒業し、正統なイスラエルの王として認められることができるからです。その契約の箱を、祭司たちが持って来てくれました。まさに鴨が葱を背負って来るような状況です。これで、アブシャロムはコロッと騙されてしまいました。ダビデのスパイであるツァドクとエブヤタルをすっかり信用してしまったのです。そして彼らはフシャイと同じく獅子身中の虫としてアブシャロム陣営で動きます。アブシャロムがアヒトフェルの正しい献策を退け、フシャイの悪手を採用したことを、彼らの息子であるアヒマアツとヨナタンを伝令としてダビデに伝えようとしたのです。ダビデは、彼らからの情報を荒野で待つと言っていましたが、そのダビデに向けてこの二人は急いで最新情報を伝えようとしました。彼らはアブシャロムの手の者に見つかりかけましたが、ある女性が彼らを匿ってくれました。このことからも、アブシャロムへの支持は民衆の間では十分には広まっておらず、ダビデを応援している人たちが多かったことが分かります。この情報はダビデに伝わり、アブシャロム陣営の動きを知ったダビデたちは安全な地域に一旦退却します。そこで用意を整えてアブシャロムたちを迎え撃とうということです。こうして、アブシャロムは唯一の勝機を逃しました。また、自分の作戦が受け入れられなかったことを知ったアヒトフェルは静かに自害しました。彼には次に何が起きるか、もう見えていたのです。中国の歴史に項羽と劉邦という有名な二人の武将の話があり、特に「鴻門(こうもん)の会」という出来事があります。その際、項羽に劉邦を討つべきだと献策した范増(はんぞう)という軍師がいましたが、項羽はそれを退け項伯(こうはく)という人の案を受け入れて劉邦を生かしました。この劉邦が後に「漢」帝国を築いて項羽を滅ぼすことになります。范増はこの時大いに悔しがり、自分たちは必ず劉邦に滅ぼされるだろうと預言しましたが、アヒトフェルも同じ気持ちだったのでしょう。

3.結論

まとめになります。今日は、ダビデの「トロイの木馬」作戦が当たり、アブシャロムがダビデの送り込んだスパイによって翻弄され、誤った道を選択していく場面を見て参りました。アブシャロムも入念に準備をして反乱を起こしたのですが、政治家としての経験も実力も父ダビデがはるかに勝っていたことが露呈した事件でした。

今回の話では、アブシャロムという人物の本当の姿が明らかになったように思います。これまでの彼の行動は、勇敢で思慮深い人物という印象が強かったのですが、今回の件では政治的な未熟さのみならず、信仰的な弱さも浮き彫りになったと思われます。アブシャロムが反乱を起こしたのはなぜか?それは自分が王になりたいからという野心から出たものではなく、王として、また父としての責任を果たさないダビデに対して憤りを感じ、この人物にイスラエルは任せてはおけないという彼なりの正義感から出た思いも間違いなくあったでしょう。妹タマルのためになにもしてくれなかった父、自分の行動についてもいいとも悪いとも言わず、宙ぶらりんにして責任を果たさない父王、そのダビデに対する異議申し立てという思いがあったでしょう。そしてそれは主の御心に違いないという、彼なりの信仰の確信もあったものと思われます。しかし、彼はこの戦いを主の戦いとはしようとしなかったし、できませんでした。それを端的に表していたのが、アヒトフェルの作戦に対する彼の態度です。彼はその作戦のリスクが大きすぎると感じ、フシャイにも意見を求め、そのより安易な作戦に飛びつきました。神に信頼するよりも、人間的な安全策を選んでしまったのです。それが彼の墓穴となりました。もし彼が、本当に自分が主の御心を行っているという確信があるのならば、リスクはあっても、より戦死者が敵も味方も少なかったであろうアヒトフェルの作戦を採用すべきだったのです。

私たちも人生において様々な決断が求められるときがあります。その時、人間的にはリスクが大きいと思われても、より主の御心に適っていると思える道があるのならば、その道を選ぶ勇気を持ちたい、信仰を持ちたい、そのように思わされる今日のアブシャロムのエピソードでした。そのような信仰を持つことが出来るように、祈りましょう。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日はダビデのトロイの木馬作戦が大成功した話を学びました。ここではアブシャロムの信仰の弱さが浮かび上がりました。しかし、相対するダビデの側にも老獪な知恵はあっても、若々しい信仰は失われてしまったのだろうか、という疑問も消えません。私たちもまた、人生において様々な難しい選択を迫られるものですが、そのような時に信仰に立って決断できるように、お助け下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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