1.序論
みなさま、おはようございます。私たちは毎週サムエル記を読み進めて参りましたが、月末だけは新約聖書からメッセージさせていただいております。今は第一ペテロを読み進めておりますので、今朝も第一ペテロから学んで参りましょう。
さて、今日のテーマはなかなか重たいものです。それは「理不尽な苦しみ」についてです。私たちの人生においては、自業自得、いわば身から出た錆というような苦しみがあります。人から憎まれたり、ひどいことをされてしまったとしても、自分が過去にその人にひどいことをしてしまった、悪い事をしてしまったという自覚があるならば、私たちはそういう苦しみを割と受け入れることができるのではないでしょうか。では、まったく身に覚えがない場合はどうなのでしょうか?仏教では「因果応報」という教えがあり、物事にはすべて原因がある。あなたの身に起きることはあなたの過去の行いの結果だ、たとえ身に覚えがないとしても、それはあなたが前世で行った悪行に対する報いなのだ、と教えられます。しかし、まったく記憶にない前世の報いだと言われてもなかなか納得できないのではないでしょうか。実際、身に覚えのないことで突然ひどい目に遭ってしまうという場合、私たちはそれを受け止めきれません。今日の悲惨な凶悪犯罪でしばしば耳にするのは「誰でも良かった」という言葉です。人生に深く絶望した人、社会に強い憤りを持った人がその怒りを外に向ける場合、特定の誰かではなく、社会そのものに復讐しようとします。そして、誰でもいいからそこにいる人を無差別に襲うのです。その時にたまたまそこに居合わせてしまったために、その人の怒りの対象になってしまった人、その人とは何の面識もないのにいきなり危害を加えられてしまう、そんな状況は考えただけでも恐ろしいですよね。しかし私たちの誰もが、そのような出来事とは無縁ではいられないのです。そんなことにならないように社会をよくすればいいではないか、と思う方もいるでしょうが、それができるものならもう実現しているでしょう。社会の悪というのは、個人の力では如何ともしがたいのです。
さて、このような突然襲って来る理不尽な苦しみにどう向き合うかという問題は、そうした苦しみとは無縁だと考えている人も平素から考えておくべき重要なテーマでしょう。というのも、そういった苦しみとは一生無関係だと言い切れる人などいないからです。自分に向けての理不尽な攻撃、これは文字通りの暴力のみならず言葉の暴力も含みますが、そうした攻撃に対してどうするべきなのでしょうか。クリスチャンの間ではしばしば「キリストを模範にしてどんな苦しみでも黙って受け止めなさい」というようなことが言われます。これは正論なので反論できないような重みがありますが、しかし場合によってはとても危険な勧めでもあります。たしかに、クエーカーやメノナイトのような非暴力主義のキリスト教のグループは、彼らの共同体に対して無差別殺人を犯した人たちでさえ即座に赦しを与えたというような話を聞きます。彼らは敵を愛しなさいというイエスの教えを文字通り実行しているのだと言います。それはクリスチャンを含めた多くの人々に衝撃を与えます。
しかし、なんでも赦せばいいのか、いや赦していいのか、というのはそれほど自明なことではもちろんないわけです。口にするのも憚られるようなおぞましい話ですが、カトリック教会で神父が小さな子供に性的な危害を与えてきたという事実がここ数十年に次々と明らかになっています。ドイツで8歳から16歳までの少なくとも23名の少年に性的な被害を加えた司祭がいました。しかし彼はその罪を問われることなく、他の教区で司祭になっていたことが明らかになりました。しかもそのような異動を認めたのが、先日亡くなられた教皇の前の教皇だったことが明らかになり、深刻な問題になりました。その後、世界中でこれに類する事件が報告されていますが、これらに対するカトリック教会の対応は驚くほど鈍く、むしろうやむやにしてしまおうというケースの方が多かったようです。いうまでもなく、ほとんどのカトリックの聖職者の方々は大変まじめで素晴らしい人格者です。犯罪者は目立ってしまいますが、他のまじめな人たちまで色眼鏡で見るべきではありません。しかし、こうした恐るべき罪を犯した司祭のことを、性被害にあった人たちに「赦す」ように勧めるというのは、なにかとんでもない誤りであるようにも思えます。そのために一生深い傷を負った人に、神の命令だからといって赦しを強要することは、ますますその人を傷つけることにもなりかねません。ですから、今日のテクストでは確かに理不尽な苦しみに耐え忍ぶべきことが教えられていますが、それはあらゆるケースに当てはまることではない、ということには十分注意する必要があります。キリスト教とはひたすら我慢しろ、泣き寝入りをしろ、という宗教ではないのです。むしろ、悪に対してはそれが自分に向けられるものであろうと他人に向けられるものであろうと、しっかりと向き合う、対決する必要があります。
今日のみことばで教えられているのは、「あらゆる不当な苦しみ」をひたすら耐え忍べということではなく、むしろ「神の前における良心のゆえに」、つまり福音のためにいわれのない苦しみを受ける場合に耐え忍べ、ということなのです。主イエスもこう言われました。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。(マタイ5:11-12)
私たちは理不尽な行動に対しては立ち向かう権利があるし、さらには責任があります。しかし、私たちクリスチャンが主イエスへの信仰、忠誠のゆえに受ける苦しみがあるとするなら、確かにそれは理不尽なものではありますが、耐え忍ばなければならない時があるのです。そのことを踏まえて今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本論
では18節からです。「しもべたちよ」と呼びかけられていますが、このギリシア語原語は「オイケテイス」で、その意味は家隷(かれい)、家に隷属する奴隷ということです。ですからペテロは「奴隷たちよ」と呼びかけていることになります。問題は、奴隷というのは文字通りの奴隷という身分の人たちなのか、あるいは16節でペテロがクリスチャンのことを「神の奴隷」と呼んでいることから、ここでの家の奴隷とは神の家の奴隷であるクリスチャン全般のことなのか、ということです。つまりペテロは奴隷という特定の身分の人たちに向けて語っているのか、あるいはクリスチャン全体に向けて書いているのか、ということです。ここで注意したいのは、ペテロはしもべたちにキリストを模範にしなさいと述べていることです。そしてキリストを模範とすべきなのは奴隷だけでなく、あらゆるクリスチャンです。そこから考えると、ここでの「しもべ」とはクリスチャン全体を指すと考えるべきでしょう。実際、主イエスは足を洗うという奴隷の仕事を自ら行うことを通じて、弟子たちにも互いに奴隷として仕え合いなさいと命じています。先日学んだみことばですが、改めて読んでみましょう。ヨハネ福音書13章14節と15節です。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
と、ここでははっきりと「模範」ということが語られています。私たちにとって主イエスとは信じ仰ぐ存在であるのみならず、その生き方に倣う、真似をする存在でもあるのです。そして私たちが見倣うべき主イエスの生き方とは、奴隷のように人に仕える生き方です。ですから今日の18節の「しもべ」と「主人」とは、単に身分制度社会の中での奴隷とその主人ということではなく、神の奴隷として召されている私たちが仕える社会の様々な立場の人々との関係と考えてもよいでしょう。サラリーマンなら部下と上司の関係もこれに当てはまります。
会社の上司というのは様々なタイプの人がいます。私もサラリーマンを15年間やり、しかも四つの日米の会社で働きましたから、ほんとうにいろいろな上司がいました。私は基本的には上司に恵まれてきたと思いますし、今でも心から感謝と尊敬の念を抱いている上司の方々も数多くおられますが、しかし中にはあまりにも昭和的といいますか、今の基準なら完全にパワハラだよな、というような思い出もあります。そういう経験も私の成長のためには必要だったと今なら思えますが、当時はそのように思えないような経験もしてきました。私自身も上司だったこともあり、若い人たちヘの態度が適切だったのか、もっと親身になって助けてあげるべきではなかったかと、恥ずかしくなるようなこともあります。ともかくも、人間というものは尊敬できる上司には喜んでお仕えできますが、そうでない場合はなかなかそうできない、ということもあります。ペテロも「善良で優しい主人」もいれば、「横暴な主人」もいると率直に語っています。しかし、そのような主人に対しても従いなさいとペテロは諭します。
そして19節と20節です。ここでも「主人」について語られていると思われますが、その主人はしもべが「善を行った」からといって打ち叩くというのです。しかし、そんなことがあるのでしょうか?ペテロは13節や14節では逆のことを言っているように見えます。主人と呼ばれるような人たちは「悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされる」のだと述べています。では、そのような秩序の維持者であるリーダーたちが、善を行ったからといって人を打ち叩くなどということがあり得るのでしょうか。もしそんなことをする指導者や主人がいるならば、身分が高い人だからといって遠慮するようなことはせずに、むしろ断固抗議していくべきなのではないでしょうか?
注意すべきなのは、ここで言われている「善を行う」というのは一般的な意味での善行のことではなく、福音を宣べ伝えたり、キリストのために働くことだということです。今日の先進国では、キリスト教を宣教したからといって非難されたり、暴力を振るわれることなどありませんよね。確かに時と場所をわきまえずに福音宣教をしたら嫌な顔をされるでしょうが、それでも信教の自由が保障されている日本においてはよほどのことがない限り妨げられることはありません。しかしペテロの手紙が書かれた時代のキリスト教はローマ帝国から公式に認められていた宗教ではなかったし、むしろ危険なカルト宗教として、時として非常に厳しい迫害を受けていました。「キリスト教徒は人肉を食べるカルトだ」というような、聖餐式を曲解されたとんでもないうわさが流れていたためです。そのような時代にイエスを宣べ伝えると、自分の上役や主人から厳しく罰せられることがあったのです。その主人が横暴な性格の持ち主であった場合、その処罰は極めて残忍なものにもなり得たでしょう。そのような理不尽な仕打ちを受けた場合の実質的な選択肢は、忍従しかなかったのです。下手に手向かえば、「キリスト教は危険だ、邪教だ」というようなさらに厳しい反応が返ってきたでしょう。
しかし、理不尽な仕打ちに黙って耐えるというのは大変なことです。酷いことをされても、ただ我慢しろ、などということは現代ではあり得ないことですよね。そんなことは、権利意識の強い今日の世間の常識ではあり得ないことです。けれども、キリスト教の黎明期のクリスチャンたちは時としてそのような過酷な状況に置かれていました。そして、ここで非常に強く強調したいのは、そのような理不尽な苦しみに遭ってきた人物の典型が、この手紙の書き手であるペテロ本人だということです。彼は苦しみの中にある読者を励ましていますが、彼自身がそのような苦しみを経験してきたのです。では、ペテロはどのようにしてその苦しい状況を乗り越えたのでしょうか?それは、彼の師であり主である生き方に倣うことでした。ペテロはここで、手紙の読者にイエスに倣うようにと語りかけていますが、それは自分自身が実践してきたことでもあったということを忘れてはなりません。キリストが苦しまれたのは私たちのため、とりわけ新しい契約を打ち立てて私たちをその契約に招き、私たちを神の子どもとして下さるためでした。そのような意味では、主イエスの受難とは唯一無二のものであり、私たちがまねをできるようなものではありません。私たちがどんなに苦しんでも、それで他の人を救うことはできません。このように主イエスの味わった苦しみは比類のないものですが、同時に主が苦しまれたのは私たちに模範を示すためだったともペテロは語ります。主イエスが苦難に遭った際に取られた態度、それはすべてのクリスチャンが模範とすべきものだということです。念のため繰り返しますが、私たちはどんなに理不尽な非難を浴びせられ、ひどい扱いを受けたとしても、それをただ我慢して受け入れなければならない、ということではありません。私たちは自分に対してであれ、他人に対してであれ、不当な扱いには抗議していく大切な義務があります。それぞれの人は神によって人間の尊厳を与えられているのであり、それを損なうような行為は許されないからです。しかし、それでも人間には、特にクリスチャンには、理不尽な扱いを黙って耐え忍ばなければならない時があるのです。そんなとき私たちが思い起こすべきなのは、主イエスもまったく不当な扱いを耐え忍ばれたということです。実際、私たちが主イエスに倣い、主イエスのように生きるならば、私たちもまた理不尽な扱いを受けるであろうことを主イエスも予告しています。その箇所、ヨハネ福音書15章20節をお読みします。
しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。
なんで私がこんな目に、なんて理不尽な、と感じる時には、主イエスもまさにそのような苦しみに遭われたことを思い起こすべきです。しかし、ペテロのようにイエスの苦難をつぶさに目撃した人物ならともかく、イエスを直接に知らない人はどうしたら良いのでしょうか?現代に生きる私たちには四つの福音書が与えられていますが、ペテロの手紙が書かれたころにはまだ福音書は書かれていませんでした。では、イエスを知らない当時の異邦人の信徒たちはどのように主イエスの苦難をイメージすればよかったのでしょうか?そのためにペテロが読者に提示したのがイザヤ書53章でした。イザヤ53章は主イエスの受難を予告した旧約聖書の箇所として大変有名で、「第五福音書」とまで呼ばれています。そのイザヤ書を引用することで、ペテロは手紙の受け手の信徒たちにキリストの受難の意味を深く考えるようにと促しているのです。ペテロの書いている、「その口には何の偽りもなく」や、「その打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされた」、「あなたがたは、羊のようにさまよいっていた」という下りはすべてイザヤ書53章からの引用です。みなさんも、この礼拝の後にぜひじっくりイザヤ書53章を読み返してみてください。そして、もし不当な苦しみに遭った時にはイザヤ書53章を通じてキリストの苦難を思い起こし、それを模範とも慰めともしてください。
3.結論
まとめになります。本日は、理不尽な苦しみに遭った際の心構えというものを、ペテロの言葉から学んで参りました。私たちは時として、意味の分からない不運や苦しみに巻き込まれることがあります。そうした際にどうすればよいのか、ということは人生におけるとても大きなテーマです。この説教で何度も申し上げたように、クリスチャンだからといって、何をされても我慢しなさいということではもちろんありません。今日の箇所でペテロが特に念頭に置いていたのは、福音を宣べ伝える、主イエスを信仰するがゆえに招いてしまった苦難です。これはクリスチャンにとっては全く不当な苦しみですが、しかし迫害する側の気持ちになって考えると、社会にとって有害な教えだから厳しく扱ってもよいのだ、ということになるのでしょう。ここには、キリスト教をどう考えるのかという点についての根本的な見解の相違があります。そんな時に、そうした迫害に対して強く反撃しようとすれば、「ああ、やっぱりキリスト教って危険な宗教なんだ」ということになりかねません。実際、かつての日本ではキリシタンが弾圧に耐えかねて島原の乱を起こしました。反乱を起こした信徒たちの気持ちは分かります。本当に必死だったのだと思います。それでも、この反乱の結果キリスト教はますます危険視されることになり、弾圧はもっと厳しくなってしまったのです。ですから、宗教的な理由での迫害については、表立って反撃をせずに黙って耐え忍ぶということが求められる場合がある、実際主イエスも使徒ペテロもそのような苦しみを通られたのだということを忘れないようにしたいものです。
幸いにも、今の日本ではそのような状況は考えられませんが、広く世界に目を向ければそうした苦難の中を歩んでいる兄弟姉妹たちがいます。私たちは彼らのために、祈り行動したいと願うものです。お祈りします。
苦難の中を歩まれ、私たちに模範を残されたイエス・キリストの父なる神、そのお名前を賛美します。私たちも主の御名のゆえに、不当な扱いを受けることがあるかもしれませんが、そのような時は主イエスの苦難を思い起こして、それをかえって良い証しの機会とすることができるように、私たちを助けてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン