みなさま、おはようございます。今日は、「棕櫚の主日」と呼ばれる日曜日です。それは、今から二千年前、主イエスが最後の一週間を過ごすためにエルサレムに入城されたことを覚え、記念する日です。人々は棕櫚の枝を振って「ホサナ、ホサナ」と叫びながらイエスを歓呼の声で迎え入れました。しかし、その数日後にイエスは逮捕され、十字架に架けられます。エルサレムでイエスが過ごした一週間の中で、それぞれの日に実際に何が起こったのかを正確に再現するのは容易ではありません。しかし、確かなことは、イエスが十字架に架かられる前夜、つまり木曜日の夜にイエスと弟子たちとの間で最後の晩餐が持たれたことです。今日はその時の出来事についてのお話です。
最後の晩餐については、マタイ・マルコ・ルカという、いわゆる共観福音書と呼ばれる三つの福音書と、ヨハネ福音書との記述の間には共通する点と、違いがあります。共通点は、主イエスが迫りくる自らの死をはっきりと自覚し、弟子たちとの告別の意味を込めてこの食事を取られたことです。もう一つの共通点は、この出来事の中でも非常に暗い側面ですが、イスカリオテのユダの裏切りがあったことです。このように、十字架前夜の切迫した状況が、四福音書に共通していることです。しかし同時に違いもあります。それは、この最後の晩餐に込めた主イエスの意味です。あるいは、福音書記者が最後の晩餐に与えた解釈の違いと言ってもよいかもしれません。
まず、マタイ・マルコ・ルカの三福音書のお話をしましょう。ここでの重要な出来事はなんといっても「聖餐式」の制定です。この聖餐式の制定は三つの福音書だけでなく、パウロのコリント人への手紙にも引用されている、初代教会の人々にとっては極めて重要な記憶でした。主イエスは、自らの死が近いことを知り、その死の意味をこの最後の晩餐の席で、聖餐式を制定することを通じて明らかにされたのです。では、イエスご自身が語られた、その死の意味とは何なのでしょうか?言い方を変えれば聖餐式とは何なのでしょうか?聖餐式の式文の言葉では、イエスはご自身の肉を私たちが食べるために与えるという、文字通りに考えれば衝撃的なことを語られていますよね。あるいは、ご自身の血を飲みなさいと命じています。これも、文字通りに受け止めれば理解を超えた話です。人の血を飲むというのは、聖書では絶対にしてはいけない冒涜的な行為だからです。しかし、このイエスの話は過越の食事に慣れ親しんでいたユダヤ人にとってはよく理解できるものでした。というのも、ユダヤ人たちは毎年出エジプトの出来事を祝う過越の食事において小羊の肉を食べ、またぶどう酒を飲んでいたからです。主イエスは象徴的な意味で、ご自身の血と肉とが、過越の食事において飲まれ、食べられるぶどう酒と肉に代わるものになると言われたのです。つまりイエスは、新しい過越の食事を制定されたのです。
では、そもそもの過越の食事とは何だったのでしょうか?それは約三千五百年前、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトから脱出を話したことを記念するものです。いわゆる「出エジプト」です。エジプトで奴隷だったイスラエルの民は晴れて自由の民となり、それだけでなく唯一の真の神にとっての宝となる契約の民となったのです。神とイスラエルとの間の契約は、モーセを仲保者としてシナイ山で結ばれました。ユダヤ人たちが毎年祝う過越の食事は、出エジプトという脱出劇のみならず、このシナイ山での契約が結ばれたことを祝う食事でもあったのです。
それに対し、イエスはご自身の死そのものが新しい契約を制定するためのものとなるのだと宣言されました。そして、そのことを覚え、記念する新しい過越の食事を「聖餐式」として定められたのです。モーセを通じてシナイ山で結ばれた契約において、神との契約が結ばれたのは一民族だけ、すなわちイスラエルとのみ結ばれた契約でした。そのモーセ契約に対し、イエスは新しい契約を結ばれました。この新しい契約はあらゆる民族に開かれた契約です。ユダヤ人はもちろん、ギリシア人にも、アフリカの人々にも、そして日本人にも開かれた契約です。新しい契約に私たちが加わるということは、私たちが神の子となるということです。私たちのそれまでの罪は赦され、私たちには神の子という新しい身分が与えられます。新しい契約とは、まさに私たちの救いそのものなのです。そして新しい契約がイエスその人の命、彼が十字架上で流された血を通じて結ばれることを宣言したのが最後の晩餐であり、その時に制定された聖餐式だったのです。血を通じて結ばれると聞くと、おどろおどろしく感じられるかもしれません。しかし、最初のモーセの契約の際も、犠牲となった動物の血によって契約が締結されました。そして新しい契約では、イエス御自身の血が契約を締結させるために注ぎ出されたということです。ですから私たちが聖餐式を執り行うごとに、主イエスの死という出来事を通じて結ばれた新しい契約を祝っているのです。主イエスは私たちを新しい契約の民としてくださるために、まさにその命を献げられたのでした。
それに対して、ヨハネ福音書では最後の晩餐において聖餐式制定の記述はありません。ヨハネ福音書の最後の晩餐では、イエスの死が新しい契約をもたらすことになる、ということに強調点が置かれてはいないのです。では、ヨハネ福音書における最後の晩餐の意味とは何でしょうか?それは、イエスが弟子たちのもとを離れるのに際して、一番大切なことを教える教育の機会としたということでした。共観福音書とは違い、ヨハネの最後の晩餐の記述は、イエスの非常に長い教え、それは説教とも呼んでよいものですが、その教えから成っています。イエスはこの最後の機会に、弟子たちに改めて一番大切なことを教えられたのです。その一番大切な教えが、13章34節に書かれています。そこをお読みします。
あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
このあまりにも有名な教え、それが最後の晩餐における主イエスの説教の中核にあります。しかし、同時にこの教えは誤解を招きやすいものでもあります。といいますのも、私たち現代人の用いる「愛」や「愛する」という言葉と、イエスの言われる「愛する」という意味にはかなり異なる意味合いがあるからです。私たちの時代において「愛」というと、まず思い浮かべるのは男女の愛、または親子の愛、というものではないでしょうか。そこには甘い響きといいますが、ロマンティックな感じがあるのではないでしょうか。こうした愛の一つの特徴は排他性です。男女の愛というものは、一対一の愛であり、一人の男性が複数の女性を愛する、あるいは一人の女性が複数の男性を愛するということでは、そんなものは「愛」と呼べるような代物ではないわけです。あるいは親子の愛が特別なのも、その排他性です。自分の子どもも、他人の子どもも同じように愛する、というわけにはいかないのです。自分の子どもに集中するのが親の愛なわけです。英語で言えば、クローズドな愛ということです。
しかし、イエスの語る愛、もっといえば聖書の語る愛は、そのようなものとは異なります。その愛はクローズドなものではなく、すべての人に開かれたもの、オープンな愛です。神の愛は私だけに排他的に注がれるものではなく、すべての人に対して注がれるものだからです。しかし、現代人の抱く愛の理解と、聖書の語る愛との間にはもっと本質的な違いがあります。そしてその違い、イエスの言われる互いに愛し合うことの意味を、端的に、身をもって示したのが、この弟子たちの足を洗うという行為なのです。
このイエスが弟子たちの足を洗ったという行為は教会の歴史においても極めて重大な意味を持ちました。この棕櫚の主日から始まる一週間はホーリー・ウイーク、聖なる一週間とも呼ばれ、大事な日が続きますが、特に最後の晩餐が行われた日は「洗足の木曜日」と呼ばれます。「最後の晩餐の木曜日」とか、「聖餐の木曜日」ではなく「洗足の木曜日」なのです。それだけ、イエスが弟子たちの足を洗ったという行為のインパクトが如何に大きかったのかがわかります。ちなみに、音楽で有名な「洗足学園」の学校名も、このイエスが弟子たちの足を洗ったという故事に由来しています。イエスは最後の晩餐での長い説教の前に弟子たちの足を洗いました。それはつまり、イエスの最後の晩餐での長い説教のエッセンスがこの行為に集約されているということなのです。当時、足を洗うというのは奴隷の仕事でした。その行為を一言で表現するならば、それは「仕える」ということです。ここでお分かりのように、主イエスの言われた「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味は、「互いに仕え合いなさい」ということだったのです。これが主イエスの「愛」の教えの本質にある事柄です。愛という言葉のロマンティックな響きとは大きく異なる、「仕える」ということがイエスの教えの中心にあるということです。
主イエスの伝えた「福音」、それを一言で言い表すならば、それは神の王国の到来です。神ご自身が王として治められる平和な王国が、私たちの生きる地上世界に実現する、これが神の王国、あるいは「神の支配」と言った方が分かりやすいでしょうが、その到来です。では、その神の支配はどのようにしてこの地上世界に実現するのでしょうか。イエスが示されたその実現への道筋は、まさに革命的なものでした。私たちは「支配」と聞くと、まず力を連想します。場合によっては暴力と言ってもよいでしょう。力による支配、それは軍事力のみならず、お金の力、つまり経済的な力の場合もありますが、そういった力なしには支配というものは実現しないと考えます。ですから私たちはより多くのお金を持とう、より強力な武器を持とうとするのです。今日の世界秩序の頂点にあるアメリカと中国も、まさにこの二つをめぐって争っています。しかしイエスはそれとはまったく別の道を示されました。ここにイエスの教えの革命的な本質があります。そのことを明確に伝えている、有名な言葉をお読みしましょう。マルコ福音書10章42節以降です。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
これが、神の王国における支配の姿です。その支配の頂点に立つイエスその人が、率先して人々のために仕える、いのちさえ与える、そういうことなのです。イエスはそのことを弟子たちに対して繰り返し教えて来られたのですが、この最後の晩餐という特別な機会に際し、あらためてその意味を身を持ってお示しになられたのです。自らが率先垂範して、弟子たちのための模範となられたのです。その時イエスは言われました。
イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」
足を洗い合うということは、互いに仕え合う、互いに愛し合うことを象徴的に実践することです。そしてこれが神の支配の本質です。
イエスが最後の晩餐という、弟子たちに教えることのできる最後の機会に、このことを身を持って教えられたことの意義は重大です。これは、21世紀に生きる私たちに向けた最後のメッセージでもあるのです。私たちもまた、この「仕える」という生き方を実践するようにと主イエスから教えられ、命じられているのです。では、今日において「仕える」という生き方とはどんなものなのでしょうか。
ここで一つの具体例を考えてみたいと思います。しかし、その例というのはもしかすると皆さんが思いもよらない話かもしれません。とんでもない話だと感じるかもしれません。今は礼拝の説教ですので、あまり政治や政策の話をするのは適当ではないかもしれませんが、ここでは政策の良し悪しについての話ではなく、その背後にある考え方について話させていただきます。ここまで言えば、勘のいい方は何お話かお分かりかもしれません。それは、今世界を騒がせているトランプ関税の件です。この関税は今や小学生や中学生の話題に上るほど日本でも大きな話題になっていて、しかも非常に否定的な文脈で語られています。しかし、ここでは少し違う視点からお話ししてみたいと思います。皆さんの中にはトランプが大嫌いという人も多いと思いますが、ここではプラスの面に光を当ててみます。
トランプ政権の財務長官はベッセントさんという方ですが、彼がこのトランプ減税の責任者です。では、このベッセントというのはどんな人なのでしょうか?実は、彼はウォール街と呼ばれるアメリカ金融業界を代表する大投資家でした。みなさんはジョージ・ソロスという名前をご存じでしょうか?私も15年ほど金融業界にいましたが、金融の世界では知らぬ者がいない超有名人です。そのソロス氏はヘッジファンドと呼ばれる運用スタイルを有名にした人で、あのイングランド銀行を打ち負かした男として伝説になっています。この運用集団のメンバーたちは年収何千億円という、野球の大谷さんも驚くような大金を稼ぎだす資本主義の申し子のような集団なのですが、ベッセントさんもその一員だったのです。彼らは、悪く言えば金儲けのためなら何でもやる、ハゲタカ集団とも呼ばれるような人たちでした。しかし驚くべきことに、ベッセント氏はトランプ関税について説明するときに、それまでの自分の生き方を否定するような発言をしています。つまりこの関税の目的は、金持ちをますます富ませるような政策ではなく、むしろこういう金融資本主義の犠牲となってきた貧しい人たちを救うためのものだと言っているのです。以下はフィデリティ投信のホームページからの引用です。
「米国人の上位10%は、株式市場の88%を所有しています。次の40%は、株式市場の12%を所有しています。下位50%は借金があります。クレジットカードの請求書があります。彼らは家を借ります。彼らは自動車ローンを持っています。われわれは彼らにいくらかの安心感を与えなければなりません。」
ベッセント財務長官は、アメリカでは所得上位10%の人々が株式の約9割を所有しているといいます。ですから株が上がっても多くのアメリカ人にはほとんど恩恵がなく、ごく一部の富裕層がますます豊かになるだけだと指摘したのです。それに対して、所得の下位50%の人々は貯金がなく、次の給料日までにお金が無くなってしまうという有様です。彼らは仕方なく日々の生活のために借金をしているというのです。アメリカ人の昨年末のクレジットカードローン残高は何と1兆2千億ドル、日本円で180兆円です。しかも、クレジットカードの金利は22%という、かつてのサラ金のような金利です。単純計算すれば、金利だけで36兆円も払わなければならないのです。アメリカの労働者は文字通りに借金地獄に囚われてしまっています。彼らは株式など持っていないので、株価が上がっても何の恩恵む受けることができません。なぜこうなってしまったのか?それはアメリカのこれまでの政策が富裕層をよりお金持ちにするためだったからだ、といいます。つまり株式を持っている上位10%の利益を、株式を持っていない下位50%の人々の利益に優先してきたからだ、というのです。株式を持っているような経営者の人たちは、なるべく安く商品を作りたいわけです。あなたが社長なら、時給千五百円を払わないといけない日本でモノを作るよりも自給150円の発展途上国でモノを作った方がよいわけです。こういう人件費の安い国で作った商品が100円ショップで提供され、私たち消費者も安いモノを買えるということで恩恵を受けます。会社も儲かって利益が増えて株価が上がり、株主も喜びます。しかしその結果、損をする人たちもいます。それは時給千五百円で働いていたのに、発展途上国の人たちに仕事を奪われた労働者です。彼らは仕事を失い、株も持っていないので株が上がっても恩恵がありません。こういう人たちがアメリカの下位50%の人たちです。ベッセントさんは、関税政策でそういう人たちを救いたいのだと語っていました。どういうことかといえば、関税で外国から入ってくる商品の値段が二倍になれば、輸入品を買わなくなります。むしろ国内で作ったほうがよいという話になります。そうすると、国内で仕事が増えて、まともな賃金で働ける仕事も増えるということです。もちろんこれは一朝一夕でできる話ではないし、アメリカ人も国内でモノを作れるようになるまでは高い輸入品で苦しむことになります。一番安い国で作って世界中で売りまくるということが出来なくなるので企業の利益が下がって株価も下がります。しかし、それでも長期的な国民全体の繁栄のためにこの政策を行っていくというのがベッセントさんの考えでした。
なぜこのような話をしたかといえば、これがイエス様の教える「仕える人になる」ということの一例だと思ったからです。ベッセントさんやイーロン・マスクはみな億万長者なので、労働者の苦労など考えなくても生活できる人たちなのです。しかし彼らは、たとえ自分たちの持っている財産が大きく目減りしても苦しんでいる労働者の人々を助けようとしています。マスクさんは政府の無駄を省く大リストラをしたために、大変恨まれて彼の経営する会社は不買運動に遭って、彼の資産は15兆円も減ってしまったと言われています。彼がどんなに億万長者だとしても、さすがに15兆円も減ればへこむでしょう。それでも彼は頑張っています。もちろん彼らの行動は100%純粋な動機から来ているのではないでしょうし、それは当たり前のことです。しかし、彼らは貧しい人々に仕えようとしています。ベッセントさんもフードバンクを回って貧しい人たちの声を聞いたと語っています。自分の身を切ってでも人々に与えようとしています。それは主イエスの姿勢にも通じるものではないでしょうか。彼らが嫌いな人からすればほめ過ぎだと思うかもしれませんが、しかし肯定的な部分も見るべきだと思います。
私たちも彼らのようなスケールの大きなことはできないものの、この世界の不公正な仕組みを正して多くの人々がまともな生活ができる社会にしていきたいと思わされます。それで今回は時事的な事柄にも触れさせて頂きました。今週一週間、主イエスの人に仕える生き方、人に与える生き方を思いながら歩んで参りましょう。
私たちに新しい生き方を身をもってしめしてくださったイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。これからの最後の受難週を、主イエスの生き方を仰ぎつつ歩むことができますように。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン