1.序論
みなさま、おはようございます。本日は2025年度の最初の礼拝になります。私が当教会に遣わされて五年が経ちました。この五年間、様々な困難もありましたが、皆で力を合わせて歩んでこられたことは、主の大いなる恵みでした。そして今日もサムエル記を読んで参りましょう。
今日の説教タイトルは「ダビデの信仰」です。一般にダビデと言うと、信仰の人、信仰の勇者というイメージがあるように思います。しかし、これまでの私の説教を聞き続けてくださった方は、ダビデが単純に理想的な「信仰の人」とは言えないし、むしろもっと複雑で問題のある人ではないか、という印象を持たれたかもしれません。ダビデの場合は、王になるまでの青年時代と、王になってから後の時代を区別して考えた方がよいでしょう。何の武器も持たず、石礫だけで巨人ゴリヤテに向かっていった若きダビデと、バテ・シェバを奪いその夫ウリヤを謀殺した老獪な王であるダビデは、同一人物とは思えないほど異なった印象を与えるのです。そのようなダビデの生涯を見ていくとき、「信仰」とはいったい何なのか、ということを改めて考えさせられます。信仰とは純粋で恐れを知らない若者だけが持てるもので、世の中の辛いも甘いも味わった後では段々と失われていってしまうものなのでしょうか?そうとも言えません。例えばアブラハムや彼の孫のヤコブの場合を考えて見ると、彼らは年齢を重ねるごとにその信仰が深まっていったように思えます。ヤコブの場合は、明らかに若いころよりも老齢になったときの方が信仰者としての輝きが増しています。それはヤコブが幾多の試練の中で神と出会い、神についてより深く知るようになったからでした。
一方ダビデも、若い時から多くの試練を乗り越える中で神の恵みの大いなることを体験し、ますます信仰を深めていったということがありました。しかしそのダビデが、特にバテ・シェバ事件以降は王としても信仰者としても迷走を重ね、とても信仰の円熟を迎えたとはいえない状態に陥っています。いったいそれはどうしてなのか?そこで今日は、ダビデの信仰の本質について考えてみたいと思います。
私は、ダビデはグダグダになったこの時期においてさえ、神に対して深い信仰を持ち続けていたと考えています。それは神への深い畏れであると同時に、神は恵み深いのだという強い信頼に根差したものでした。私は、神への信仰という意味ではダビデは変わらぬものを持ち続けていたと考えています。では、ダビデの問題はどこにあったのでしょうか。それは、彼が神に対するようには、人に対して誠実ではなかったという点です。私がそのことを強く感じたのはバテ・シェバ事件においてでした。ダビデはバテ・シェバとその夫ウリヤに対して取り返しのつかない罪を犯したのですが、彼は神に対しては心からの服従と謝罪を行いましたが、人に対してはそうではありませんでした。彼は殺してしまったウリヤに何の負い目を感じていなかったかのようにさえ見えます。それは、彼の最愛の妻であったバテ・シェバを直ちに妻として迎え入れたことからも明らかであるように思えます。もしウリヤの立場に立って考えたのなら、そんなことができただろうか、と。
ダビデは、ある種の信仰的な人間の典型であるように思えます。すなわち、彼にとって大事なことは神との関係を維持することであり、それに比べて人に対する関心はずっと薄い、弱いように思えるのです。これはかなりうがった見方かもしれません。しかし、ダビデのような立場に立てば、これはあり得ることではないでしょうか。ダビデは王という、人間としては最高の地位にあります。しかも今やイスラエルは強大な国となり、周辺諸国を恐れる必要はありません。彼にとって厄介なのは、大将軍のヨアブぐらいのものでしょうが、そのヨアブもダビデに対しては絶対的な忠誠を誓っています。ダビデにとって真に恐ろしいのは王の絶大な権力でさえ何の意味も持たない神の力だけです。ダビデは神を深く信じていましたので、王となった彼にとってさえ、神は未だに恐るべき存在でした。したがって、神からの叱責には非常に敏感でした。臆病だったとさえ言えるほどです。しかし、自分の権力の下にある人々の気持ちについては驚くほど鈍感だったようにも思えるのです。神にのみ集中するというのは、宗教的な人間が陥りやすい罠かもしれません。しかし、そのような人間はどこかバランスを欠きます。主は、精神を尽くし、力を尽くして神を愛しなさいと命じましたが、それと同じくらい、隣人を愛するようにと命じられたのです。しかし、ダビデにおいてこのバランスは崩れ、第一の命令にばかり重きを置いていたように思われるのです。そのことを、今日の出来事からも感じとることが出来ます。では、今日のテクストを詳しく見て参りましょう。
2.本論
この16章は大きく二つに分けられます。一つは都を落ちのびるダビデが旧サウル王朝の人々と出会う場面であり、もう一つはエルサレムを制圧したアブシャロムが取った行動についてです。ダビデとアブシャロムという二人の主人公に焦点が当たっているということです。ではまずダビデの方を見ていきましょう。
さて、ダビデは反乱を起こしたわが子であるアブシャロムによって都を追われたのですが、そのようなダビデにとって気がかりな勢力がありました。それは、ダビデ王朝の前の王朝であるサウル家の家臣の生き残りの動向です。ダビデはサウル王朝を滅ぼした側ですから、敵の敵は味方ということで、ダビデに敵対するアブシャロムのことをサウル家の残党が応援・支援するのではないか、という恐れがあったのです。ダビデはこれまで、盟友であったヨナタンの忘れ形見で足の悪いメフィボシェテに温情を施し、彼をねんごろに扱っていましたが、それでも彼はサウル家の正統な王位継承者です。もし彼がダビデに反旗を翻したなら、サウル家の残党たちは彼に従うでしょう。ダビデにとってメフィボシェテは政治的に危険な人物でした。そのような時に、ダビデの元にメフィボシェテの家臣であるツィバがやってきました。ツィバはダビデにメフィボシェテを引き合わせた人物です。その彼が、落ちのびるダビデのためにと、大変な量の食糧を持って来たのです。おそらくは、主人であるメフィボシェテの財産を勝手に処分して得た金で調達した食糧でしょう。パン二百個というのは、ダビデにとっては願ってもない差し入れです。なしにろ、着の身着のまま逃げのびたのですから、十分な食料はなかったわけです。ダビデは彼を大歓迎しました。ところでと、ダビデはツィバに、お前の主人であるメフィボシェテはどうしたのかと尋ねます。するとツィバは、主人はダビデ様を裏切り、サウル家の再興を謀っていますと報告します。自分はそのようなメフィボシェテの裏切りを良しとはせず、あなた様にお仕えするために参上したのです、とツィバはダビデに語ります。しかし、後にメフィボシェテは、自分は裏切ってはいない、足の悪い自分を置き去りにしてツィバが去っていってしまったのだ、ということをダビデに訴えています。私にはメフィボシェテが嘘をついているとは思えませんし、むしろここではツィバの方が主人のメフィボシェテを見限って彼の財産を勝手に処分し、自分の主人については嘘の証言をしているのだと考えています。しかしダビデはツィバの言い分をそのまま受け入れます。ダビデがツィバの言うことを本当にそのまま信じたのか、あるいは薄々嘘だと気が付きながらも、このような緊急時に大事な食糧を届けてくれたということで、その嘘を大目に見たのか、どちらなのかはっきりとは分かりません。ただ、ダビデのこれまでの抜け目のない行動や鋭い洞察眼からは、おそらくダビデはツィバの嘘を見抜いていたものと思われます。にもかかわらず、彼はツィバに恩賞としてメフィボシェテの財産をすべて与えるという破格の約束をしています。これは高度な政治的駆け引きと言えるかもしれません。ダビデとしては、とにかく一人でも多くの味方を得たいのです。ツィバのように、主君を裏切るような多少問題のある人物でも良い条件で受け入れるといううわさが広まれば、ダビデに加勢する人たちも増えるかもしれません。それを見越してダビデはツィバを受け入れたのだと思われます。
しかし、ダビデは亡き盟友であるヨナタンとの契約に誠実であったかといえば、そうではなかったのです。かつてヨナタンは、サウル王から命を狙われていたダビデを身を挺して守り、その時に自分の家族のことを頼むとダビデに懇願しています。そのヨナタンの思いを考えれば、体の不自由なメフィボシェテを切り捨てるようなことはできないはずです。しかし、ダビデは自らの生き残りを最優先にしました。これは政治家としては当然のことかもしれませんが、人間としては疑問を感じさせる行動です。先にダビデは神に対する忠誠においては素晴らしいけれども、人に対する誠実さには問題があると申しましたが、この一件にもそのことが表れているように思えます。
そのダビデのところに、もう一人のサウル家の家臣がやってきました。彼の名はシムイで、彼はダビデのことを口汚く呪いました。サウル家が滅んだのはダビデのせいだ、その悪行に主が報いたのだ、とダビデを呪います。ダビデはサウル家の最後の王であるイシュ・ボシェテを直接殺したわけではありませんでした。しかしダビデはサウル家の裏切り者の家臣のアブネルと密約を結び、イシュ・ボシェテの王権を奪おうとしました。シメイはそのことを言っているものと思われます。ダビデの忠実なしもべの一人であるアビシャイはそのような主君を侮辱する言葉に怒り、その首をはねるべきだとダビデに進言します。しかしダビデは、あのシムイの言葉は主が言わせたものなのだから、彼を殺してはいけないと諫めます。私はこのダビデの言葉は、彼の本心から出たものであろうと思います。ダビデも長年主と共に歩んできた信仰者です。自らのこれまでの歩みを振り返って、そこに誤りを認めることができないほど頑なな人物ではないのです。サウル家滅亡の次第のみならず、バテ・シェバ事件から始まった一連の悲惨な出来事に自分の責任を感じないほど愚かでも鈍感でもなかったでしょう。ですからこのシムイの暴言とも思える言葉の中にも、預言者の言葉であるかのように神の裁きの言葉を感じ取り、彼に報復しようとはしなかったのです。ダビデは極度に主を恐れる人物でしたが、このシムイの言葉に対する反応にもそれが表れているように思えます。
このように、サウル家の対照的な二人の家臣、一人はダビデにおもねるツィバで、もう一人はダビデに毒づくシムイですが、その二人への対応には、ダビデの人への非情さと神への敬虔という二つの面を見ることができます。ダビデは自らの生き残りのために盟友との約束を無視するような非情さを持つ反面、自らの過ちを神の前に顧みてへりくだることもできました。人間というのは複雑な生き物で、不誠実さと敬虔さを併せ持っているのですが、まさにここでダビデのそのような複雑な性格を垣間見ることができます。
さて、話は変わって今度はアブシャロムの方です。反乱を起こしている側のアブシャロムは、自陣を強化するために一人でも多くの優秀な部下を集める必要があります。特に必要なのはブレーンとなる人、政策や作戦を立案する軍師です。すでにアブシャロムはその知恵は神のごとしと謳われたアヒトフェルを獲得しました。そして、さらにもう一人の知恵者がやってきました。フシャイです。実は彼は、ダビデからスパイとして送り込まれていた人物で、ダビデからはアヒトフェルを邪魔してアブシャロムに正しい戦略を取らせないようにしてくれと依頼されていました。とはいえ、フシャイがダビデの親しい友人であることはよく知られていましたので、アブシャロムもフシャイを信用して良いものかどうか、判断がつきかねていたようです。しかし、フシャイの見事な応答にコロッと騙されてしまい、彼を自軍に引き入れることにします。このことがアブシャロムの大きな蹉跌となり、ダビデの側から見れば大きな勝因となります。ダビデはまさにトロイの木馬を敵陣に送り込むことができたのです。
その後、軍師アヒトフェルは非常にスキャンダラスな提案をアブシャロムにします。それはなんと、白昼堂々と、皆が見ている前でダビデ王の側室の女性たちと性交をしろというものでした。サムエル記の特にバテ・シェバ事件以降は、ポルノ小説も真っ青というようなスキャンダラスな記述が続きますが、これなどもまさに教会で読むのが憚られるような内容です。しかし、この行動が預言者ナタンの預言の成就であることも思い出す必要があります。まさにこの預言があったからこそ、アヒトフェルはこのようなスキャンダラスな提案をしたものと思われます。つまり、このアブシャロムの反乱は神のご計画に沿ったもの、神の御心なのだということを内外に喧伝しようとしたのです。そのナタンの預言を見てみましょう。12章11節です。
主はこう仰せられる。「聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。」
このようにナタンは預言しましたが、この預言はなんとダビデ自身の息子であるアブシャロムによって成就してしまったのです。預言者イザヤは「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰ってはこない」と語りましたが(イザヤ55:11)、まさにその通りになりました。神の裁きの厳しさを思い知らされる出来事でした。
3.結論
まとめになります。今日はアブシャロムの謀反によって追い詰められたダビデの信仰者としての在り方ということを特に注意して考えてみました。私は冒頭で、ダビデの信仰の在り方は極端なほど神に集中しているということを申し上げました。それは善い事ではないか、と思われるかもしれません。確かに私たちが信じるのは唯一の神のみであり、神をすべてに優先し、神にのみその思いを集中させるのは素晴らしいことのように思われます。しかし、それが本当に神の望まれていることなのでしょうか。詩篇51編はダビデの作だとされていますが、他の多くの詩篇がそうであるように、もしかするとダビデの名を借りた後世の作品であるかもしれません。そうだとしても、この詩篇はダビデの信仰の本質を表しているように思えます。有名な一節に次の言葉があります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御前に悪であることを行いました。
私はこの一文を読む度に違和感を覚えます。確かに私たちの犯す全ての罪は神の掟を破るという意味で神に対して犯すものですが、しかし私たちの罪の直接の被害者なのです。あなたが誰かを殴りつけて、そのことを神に必死に謝ったからといって、あなたに殴られた人はあなたを赦すでしょうか。あなたは神に謝罪したから、それで十分なのでしょうか?いいえ、そうではありません。しかし、ある種の宗教的な人はそのように考えてしまいがちなのです。そして、まさにダビデはその典型でした。彼の関心事は神にばかり向いていて、周りの人々を見ていませんでした。その結果、次々と彼の周囲には不幸な出来事が続いていきます。しかし彼は、神に向き合うようには、ついに自分の家族と向き合うことはしませんでした。今日でも宗教のせいで家族が崩壊するという人が少なくありませんが、そこにも同じような問題があるように思えます。聖書の教え、イエス様の教えとは、神を愛するとは隣人を愛することなのだ、ということです。私たちの隣人は神様のように完ぺきではありません。むしろ欠点だらけです。しかし、そのような隣人を愛することこそ、神を愛することなのだということを忘れずに歩んでいきたいと願うものです。お祈りします。
天におられる父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝はダビデの信仰について考えて参りました。その信仰の素晴らしさと欠けの両方について考えました。私たちもそこから学んで、日々の歩みに生かすことができるように導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン