1.序論
みなさま、おはようございます。第一ペテロを読み始めて、今日は三度目の説教になります。前回は「聖なる者となりなさい」というみことばの意味を考えて参りました。聖なる者になるというのは神の子とされた特別な存在になることだ、ということを前回学んだのですが、ではその特別な者としてどう歩むべきなのかということを論じているのが今日の箇所です。
私たちがイエス・キリストを信じてクリスチャンとなるとき、私たちの生き方が変わることが期待されます。ペテロはクリスチャンになる前の生き方のことを「先祖伝来のむなしい生き方」と呼んでいますが、そのような生き方とは異なる、神の子としての生き方が期待されているということです。しかし、いきなり神の子として歩めと言われても、何をどうしてよいのかよく分からない、と思うのではないでしょうか?イエス様を救い主として告白し、洗礼を受けてみても、何かが劇的に変わって、別人のように清く正しい生き方ができるわけではないでしょう。そういう経験をした方もおられるかもしれませんが、しかし時間の経過とともに段々と元の生活に戻ってしまうという場合も多いのではないでしょうか。
実際、イエスを信じた後も相変わらず罪深い思いを捨てられないし、つまらないことで怒ったり嫉妬心を抱いたりして、自分はクリスチャン失格なのなのではないか、と悩んでいる方も少なくないと聞きます。クリスチャンとしての理想と現実とのギャップに悩むということは、誰にでも身に覚えがあることではないでしょうか。私たちが変わるためには、「変わりたい」という私たちの思いや願いも大切ですが、それ以上に大事なのは私たちを変えてくださる神の力です。実際、聖書を読むと、私たちが変わるために必要なものを神が供えてくださるという約束があります。そして、それには二つあります。その二つはなにかということを、まず確認していきたいと思います。
その一つは、言うまでもなく聖霊です。このことは特にパウロ書簡で強調されています。パウロは「肉の働き」と「御霊の働き」を対比させ、私たちが肉の思いではなく御霊に動かされるときに、主に喜ばれる歩みができるようになると語ります。その箇所を読んでみましょう。ガラテヤ書簡の5章19節以降です。
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
このように、クリスチャンとしての望ましい性質を生み出すものは聖霊なのだというのがパウロの教えです。ですから、クリスチャンらしい性格を養い育てるために私たちがすべきことは聖霊を与えてくださるように祈り願うことだということになります。ただ、では自分が聖霊を受けているかどうかを客観的に知る方法があるかといえば、なかなか難しいわけです。聖霊によって突然人格が変わってしまった、性格が別人のようになってしまったというようなことがあればよいのですが、あまりそういうことはないわけです。神学においても、「聖霊論」というのは最も難しいと言われますが、聖霊なる神はどこか捉えどころがないところがあります。
聖霊についてはまた別の機会に考えたいと思いますが、聖書は私たちが変わるために神が与えてくださるものとして、もう一つのことを語っています。そのことが、今日のペテロ書や以前に学んだヤコブ書に書かれています。そのもう一つとは、「神のことば」です。先のヤコブの手紙の1章21節にも次のようなみことばがありました。
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
ヤコブ書には聖霊という言葉が出て来ません。パウロのように、聖霊があなたがたを変える、というようには論じません。むしろ、ここにあるように「みことば」が私たちを変えると述べているのです。
これに関連してですが、さきほどパウロの「肉」と「御霊」とを対比していると言いましたが、ヤコブ書ではそれが「肉の知恵」と「上からの知恵」という対比に置き換わっているように見えます。3章15節以降をお読みします。
そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実に満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。義の実を結ばれる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
さきほどのパウロの教えと非常に似ていることがお分かりだと思います。「上からの知恵」を「御霊」と置き換えても、何の問題もなく意味が通じるでしょう。では、「上からの知恵」とは具体的には何を指すのでしょうか。一つの見方としてそれが神のことば、つまり聖書の言葉を指していると考えることができます。聖書のことばは神から与えられた知恵だからです。聖霊が私たちを変えてくださると言われても、どこか雲をつかむようなところがありますが、聖書のみことばが私たちを変えるというのは具体的にイメージしやすいのではないでしょうか。そのような視点から、今日の聖書箇所を読んで参りたいと思います。
2.本論
では、1章22節から見て参りましょう。ペテロは彼が手紙を送っている会衆に対し、彼らが「真理に従う」ことでたましいが清められたと述べています。ここで従順と訳されている言葉は「服従」とも訳される言葉です。真理に従うということは、つまり真理である神の言葉に従う、より具体的には神の言葉を聞いてそれを行うということです。ヤコブもそのことを明確に述べています。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。
このように、真理に従うとは聖書の教えを実行する、実践するということです。そうした行動、生き方の変化によってたましいが清められるのです。では、みことばを実践するとはどういうことかといえば、それは兄弟愛を実践するということです。主イエスも使徒パウロも、神の教えを要約すると「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということに帰結すると述べています。聖書にはたくさんの教えがあって、覚えきれない、実行できないという人がおられると思いますが、そんなに難しく考える必要はありません。神のことばが教えているのは、要は隣人を愛しなさいということなのです。
22節では、「種」という農業のたとえが突然出てきます。しかし、イエス様の種蒔きのたとえにあるように、「種」というのは神のことばを指す聖書的なメタファーです。ペテロは、クリスチャンが新しく生まれる、新生するのは朽ちない種、つまり神のことばによるのだ、と述べています。そして、その神のことばの素晴らしさを伝えるために、イザヤ書から大変有名なみことばを引用しています。これは私自身にとっての愛唱聖句でもあるのですが、イザヤ書40章7節、8節のことばです。お読みします。
人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。
ここではみことばの不変性が語られています。みことばの素晴らしさはいろいろ挙げることができますが、その一つは「変わらない」ということです。みことばの真理というものは、時代によって変わってしまう、つまりある時代においては真理だったが、別の時代になると真理ではなくなってしまう、というようなものではないのです。いつの時代にも変わらない不変の光を放つもの、それがみことばなのです。もちろん、聖書のことばの一字一句がいつの時代にも適用できるという意味ではありません。旧約聖書の律法を現代のユダヤ人あるいはクリスチャンが一字一句守っているかといえば、そうではないし、今の時代には実践できないような教えもあります。しかし、一番大事なことは変わりません。では一番大事なこととはなにか?それは、神が人類を見捨てずに、救済を約束しているということです。
25節の後半には、このイザヤ書の引用に続いてこう書かれています。「あなたがたに宣べ伝えた福音のことばがこれです」とあります。これは大事なことばです。というもの、このペテロの手紙が書かれた時代には、新約聖書はまだ完成しておらず、書かれた神のことばは旧約聖書だけでした。では、ペテロたちによって宣べ伝えられた福音のことばとは旧約聖書のことなのかと思われるかもしれませんが、そういうわけではありません。むしろ、福音とは旧約聖書のことば、約束がイエス・キリストにおいて成就されたという事実、そのことこそが福音、良き知らせなのです。では、旧約聖書の約束とは何かといえば、それもイザヤ書が明確に述べています。それが52章10節にあります。
主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る。
イスラエルの神の救いは、イスラエル人だけでなく、全人類に与えられる、これが旧約聖書の約束です。その約束がイエス・キリストにおいて実現した、これが福音なのです。
そのような約束が実現した今、ではクリスチャンはどう生きるべきか、ということを述べているのが2章1節と2節です。
ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
ここでも、みことばこそが私たちを救うということが言われています。ただ、繰り返しますがみことばはただ聞くだけでは効果はありません。みことばを実行する、実践することを通じてこそ、たましいの救いが実現するのです。
そして、4節以降は、クリスチャンとはそもそもどういう存在なのか、ということが論じられています。クリスチャンは「生ける石だ」と言われているのです。これが今日の説教タイトルなのですが、そう言われて納得できるでしょうか。なんで石なの?と思われるかもしれません。それには訳があります。それはメシア、救世主のことが旧約聖書では「石」と呼ばれているのです。まず詩篇118編22節から24節までを読みましょう。
家を建てる者たちの捨てた石、それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。
この一節は、ペテロが2章7節で引用している一文ですが、この「捨てられた石」というのがイエス・キリストなのです。この石が、家の礎石となった、となっています。では、ここで言われている「家」とは何のことでしょうか?それは神の家、神殿のことです。家を建てる者たちとは、イスラエルの指導者たちのことです。彼らは神殿を建てようとしますが、イエスのことは拒絶します。しかし、彼らに拒絶された石こそが、本物の神殿、つまり文字通りの石造りの神殿ではなく、霊的な神の民の共同体、つまり教会の礎になるということです。この礎となる石については、預言者イザヤも次のように語っています。イザヤ書28章16節をお読みします。
だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」
ここで言われている「かしら石」というのも、神殿で使われる石です。神殿の四隅に使われる、最も重みがかかる石のことです。その石がイエス・キリストだということです。そう考えると、メシアであるイエス様だけでなく、クリスチャン一人一人が「生ける石」と呼ばれているのか、その理由が分かるでしょう。それは、私たちも霊的な神殿、霊的な神の家、つまり教会の一部になるということです。ペテロはこう言います。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
このように、クリスチャンは神の神殿を構成する「石」であるだけでなく、神殿で仕える祭司であり、さらには神殿でささげられる生きたいけにえ、献げものでもあるのです。これと全く同じことを、使徒パウロも述べています。有名な一節ですが、お読みしましょう。ローマ書12章1節です。
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
このように、ペテロもパウロもクリスチャンは神の神殿であり、祭司であり、神への献げものだと述べています。こんなにいろんなことを言われると、ではクリスチャンとは何なのか?と、かえって分からなくなりますよね。ただ、ここでは難しく考えないようにしましょう。「神殿」、「祭司」、「献げもの」はみなユダヤ人の礼拝において必要不可欠なものです。クリスチャンがそれらすべてだ、ということはクリスチャンの存在自体が礼拝そのものなのだ、ということなのです。私たちの生活、神の教えに従う毎日の歩みそのものが神に喜ばれる礼拝だということなのです。
3.結論
まとめになります。ペテロの手紙の今日の箇所は、私たちを神に喜ばれるような存在に変えてくれるものは何か、ということについて書かれています。パウロならばそれは「聖霊」だというでしょうが、ペテロは「神のことば」だと言います。私たちが神のことばに従う時、実践する時に、私たちは変わります。神のことば、神の教えの要約は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」ということです。私たちが神のことばに素直に従っていくときに、私たちのたましいは清められ、救われるのです。 また、ペテロはクリスチャンとは何であるのかについても語っています。ペテロは、クリスチャンは「生ける石」だと言います。生ける石とは何なのか、と思うかもしれませんが、それは生ける神の神殿、生ける神の礼拝共同体の一員だということです。
ペテロはこうしたことを、二千年前の小アジアのクリスチャンに伝えたのですが、それらはそのまま私たちにも当てはまります。私たちを救うのは「神のことば」であり、私たちもまた「生ける石」なのです。大事なことは、神のことばを聞くだけでなく、実践することです。日々祈りつつ、隣人を愛するということを実践することです。それが私たちを救います。聞くだけにならずに、実践することです。私はこのことを繰り返し言ってきましたが、今日もそれを強調させていただきます。そうすることで私たちも生ける石、生ける神の神殿の一部となるのです。お祈りします。
神のことばを私たちにお与え下さり、私たちを変えてくださる神様、そのお名前を賛美します。私たちがそのみことばを実践し、神の生ける神殿となることができるように、私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン