聖なるもの
第一ペテロ1章13~21節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回から第一ペテロの説教を始めましたが、今回が二回目になります。前回はこの書簡の導入部分でした。挨拶のような内容です。しかし挨拶とはいえ、そこでは非常に大事なことが言われていました。それはどんなことかと言えば、ペテロは彼が手紙を書き送った人々が直面している困難は、彼らを浄化するための試練であり、その先には大きな報いが待っているのだ、ということでした。

そして今回です。今回の箇所の大きな特徴は、「命令形」で語られているということです。これまでは、「あなたがたは何々なのです」という、いわゆる直接法で語られました。それに対して、今回の箇所では「あなたがたはこうしなさい、何々をしなさい」という命令形で語られています。あなたがたは神に選ばれた者であり、現在直面している試練を乗り越えた先には大きな栄光が待ち受けているということが前回語られていたのですが、では現在進行中の試練の中を歩む彼らは具体的にはどうすべきなのか、どう生きるべきなのかということが今回のテーマだということなのです。

そして、今回の箇所を理解する上で非常に重要なのは「聖」ということです。聖とは、英語でいうholyです。有名な讃美歌で、「聖なる、聖なる、聖なるかな」というのがありますが、英語では、「ホーリー、ホーリー、ホーリー」となっていますね。その聖なるものになりなさい、というのがペテロの命じていることだからです。特に、あらゆる行いにおいて聖なるものであれ、と言われています。なんだかすごく崇高な話ですよね。でも、聖なるものになれって、どういうことなんでしょうか?聖人とか、聖者というのは自分とは関係のない存在、マザー・テレサとかほんの一部の人たちだけなんだと考えるクリスチャンの方も多いのではないでしょうか。その私たちが「聖なるものになれ」と言われても、具体的にどうすればよいのか困ってしまうのではないでしょうか。

そこで、この「聖」、ホーリーということについてよく考えてみたいと思います。ペテロの手紙はギリシア語で書かれていますが、そのギリシア語原語では、「聖なる」とはハギオスという言葉で、それはさらに旧約聖書の言語であるヘブライ語を訳したものです。そしてハギオスに対応するヘブライ語はカドーシュです。このカドーシュという言葉の意味を理解することで、「聖なるもの」になるというのはどういうことなのかがイメージしやすくなるでしょう。みなさんは、「聖なる」の反対の言葉は何だと思いますか?たぶん、「汚れている」とか「俗っぽい」とか、かなり否定的な言葉を連想されると思います。聖俗二元論なんて言い方をしますが、「俗物」というのは非常に否定的な言葉です。汚れというのも悪い言葉です。ダーティーということばは否な響きがありますよね。俗という言葉は、このダーティーという意味合いで使われます。しかし、実は「聖」という言葉の反対語には、否定的な意味はないのです。こういうと、驚かれるかもしれません。

みなさんは、英語で「コモン」という言葉をご存じですよね。「コモン・センス」という言葉がありますが、それは「常識」という意味です。アメリカのトランプ大統領は先の就任演説で「私は常識の革命を行う」ということをおっしゃっていました。どういうことかと言えば、近年のアメリカでは人間には男と女という二つの性別以外に、「X」、つまりその二つに区分できない性別があるのだと言われてきました。実際、先のバイデン政権時代の話ですが、アメリカのパスポートには男女二つの性別区分以外に、第三の性別として「X」という欄が設けられていました。これはアメリカだけでなく、ドイツも同じです。2018年からドイツでは、パスポートに男女以外の第三の性別を認めるようになりました。では、男女以外の性別っていったい何なのかと、私たち日本人は驚いてしまうかもしれませんが、欧米の先進諸国ではこれが新しいグローバルスタンダードになりつつあったのです。トランプ大統領は大統領演説で、「性別は男と女しかない」と述べましたが、彼はこっちのほうが常識的な考え方ではないか、ということを言いたかったのです。男女以外の新しい性別を認めるのが多様性を認める「進歩的」な考え方なのだ、という意見に対して、より伝統的な見方を述べたのだということです。

少し脱線しましたが、常識という意味のコモン・センスの「コモン」には、わりと良い響きがあります。少なくとも否定的な意味合いはないですよね。「コモン」を日本語に訳せば「普通」または「一般」となります。「あの人は普通の人だ」、というのは日本では誉め言葉として使われますよね。むしろ「変わった人だ」、「特殊な人だ」と言われないように気を付けるというのが日本人の感覚であろうと思います。そして、先ほど述べた「聖」、ホーリーの反対語はこの「コモン」なのです。これには驚かれるかもしれません。しかし、本当なのです。それを示す聖書箇所を見てみたいと思います。覚えやすい箇所なので、みなさんも暗唱聖句にしてもよいでしょう。それはレビ記10章10節です。10の10ですから、覚えやすいでしょう。こうあります。

それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものを区別するため

とあり、このように聖と俗とを対比しています。それに対して英語訳はどうかと言えば、

You are to distinguish between the holy and the common, and between the unclean and clean.

と、このように「俗」と訳されている部分はコモンということになります。

なぜ長々とこんな話をしたのかといえば、それは聖書的な意味で「聖」という言葉がどういう意味かということを理解する上でこのことが非常に重要だからです。コモン、すなわち普通の反対とは何でしょうか?それは「特別」ということです。ですから聖なるものとは、「特別なもの」という意味になるのです。「聖なるものであれ」とは「特別であれ」ということです。「特別である」ということの一つの意味は、「みんなとは違う」ということです。私たち日本人は人と違うということを恐れるとよく言われます。みんなと同じがいい、その方が安心する、ということです。ですから「聖なるものであれ」ということの一つの意味は、「人と違うように振舞うことを恐れるな」ということでもあります。私たちはよく、聖なるものになれというのは「誰もが尊敬するような立派な生き方をせよ」という意味だと考えて、自分には無理そうだな、と思ってしまうことがないでしょうか。そういう意味もないわけではないのですが、しかし「聖なるものになれ」ということの意味を、他の人たち、みんなと違う生き方をすることを恐れるな、という意味で理解するならば、そこから励ましを受けないでしょうか。そのようなことを考えながら、今日のみことばを読んで参りたいと思います。

2.本論

今日の箇所の中でも、とりわけ重要なのは17節でペテロが神のことを「人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方」と呼んでいることです。これはどういうことかと言えば、単刀直入に言えば神様はクリスチャンであろうとなかろうと、人をえこひいきすることなく、人をそれぞれその行いに応じて公平に裁くということです。ですから、だらしのない生活をしているクリスチャンよりも、違う宗教やあるいは無宗教の人であっても、世のため人のために一生懸命に生きている人の方を神様は好意的に見られるということになります。しかし、こう言うと「そんなはずはない」と思われる方もおられるでしょう。他の宗教はいざ知らず、キリスト教の神は人を行いに応じて裁くのではない、神は人を信仰によって評価するのだ、と考える方がおられるからです。人間の行いは、たとえどんな立派な人でも神の要求する高みに達することは決してできない。つまり行いでは誰も救われない。だから神は私たちでもできる方法、つまり「信じるだけ」で救われるという恵みを、キリストを通して与えてくださったのだ、とそのように考える方が多いということです。これがパウロの唱えた「信仰義認」であると。したがって、たとえあるクリスチャンの行いがクリスチャンではない人の行いと比べて明らかに悪い場合でも、救われるのはクリスチャンの方なのだ、という見方につながっていくわけです。では、実際にはそのパウロはどのように言っているでしょうか?驚かれるかもしれませんが、そうではないのです。その証拠として、ローマ書2章6節から11節までをお読みします。

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、悪を行うすべての者の上に下り、栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、善を行うすべての者の上にあります。神にはえこひいきなどはないからです。

ここでパウロがペテロとまったく同じことを言っているのに注目してください。すなわち、神はひとりひとり、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、あるいは他のどの民族であろうと、それぞれを行いに応じて裁くということです。パウロがそんなことを言っているなんて信じられない、パウロは信仰によって義とされると言っているではないか、と思うかもしれませんが、パウロの言う「信仰」とは「ただ信じること」ではなく、忠実であること、キリストが神に従順であったように、私たちも神に従順である、忠実であるということです。いわゆる「ただ信じる」ということではないのです。今日はパウロの手紙の説教ではないのでここらへんでやめておきますが、大事なポイントはパウロもペテロも神は公平に、その人がユダヤ人であろうとクリスチャンであろうと、他の人たちと同じ基準で公平に裁くということです。

神がそのような方であるからこそ、ペテロは「心を引き締めなさい」、「身を慎みなさい」、「従順な子どもとなりなさい」、「恐れかしこんで過ごしなさい」と何度も念を押して勧告しているのです。

ただ、誤解してほしくないのは、神がクリスチャンであろうとなかろうと、同じ基準で裁くとしても、では神とクリスチャンとの関係には何も特別なことはないのか、というと、決してそうではありません。むしろその反対です。それはどういうことかと言えば、たとえばあなたが通っている学校の先生があなたの父親、または母親だったとします。その先生が、あなたのことをえこひいきして、あなたが悪いことをしても見過ごすのに、他の学生が悪いことをするとその場合には厳罰を科す、ということになれば、その学校は崩壊してしまうでしょう。そんなえこひいきをする先生には従っていられない、と苦情が殺到することでしょう。したがって、あなたの親である先生は、自分の子どもであろうとなかろうと、公平に評価するように努めるでしょう。しかし、そうはいってもあなたは先生の子ともであり、特別な立場にあるのも間違いありません。家に帰れば、親から親子として特別な指導を受けられるというものすごい特権を持っているのも間違いないのです。

神とクリスチャンとの関係も、そのように考えなければならないということです。「聖なるものであれ」というのは、「あなたの特別な立場をよく考えなさい」ということなのです。クリスチャンにとって神は父であり、私たちクリスチャンは神の子なのです。そのことの重さや責任をかみしめて、クリスチャンではない人々の前で恥ずかしくない歩みをしなさいというのがペテロのメッセージです。ただ、ここでも誤解しないようにしていただきたいのですが、恥ずかしくないというのは、先の学校のたとえで言えば、先生の子どもなのだから他の学生と比べて成績優秀でなければいけないとか、そういう話ではないということです。むしろ、「赤信号みんなで渡れば怖くない」というように、周りの人たちが安易に周囲に流されて正しくない方向に向かおうとするときでも、「私はそうしません」と言って、他の学生たちとは違う行動をすることを恐れないということです。神はこのような特別さを私たちに期待しておられるということです。

そして19節からは、私たちが神の子どもとされるために、どんなに大きな犠牲が払われたのか、ということが語られています。ここで「贖い」という言葉が使われていますが、この言葉の基本的な意味は「買い戻す」ということです。たとえば、今の日本ではあり得ない想定ですが、あなたが戦争捕虜になってしまったとします。そのような際に、あなたを自由にするために国や誰かがお金を払ってくれたとします。それが「贖う」ということの意味です。ペテロが手紙を書き送った異邦人クリスチャンたちは、「先祖伝来のむなしい生き方」という状態に、いわばとりこになっていた、捕虜になっていたのです。その状態から異邦人たちを救い出すために、何が支払われたのかといえば金銀などの金銭ではなく、なんとキリストの尊い血、尊い命が身代金として払われたということなのです。キリストは自らの命を代価として支払って、私たちを罪の世から贖い出してくださったのです。そのような高価な、あまりにも高価な代価が支払われたということを覚えて、私たちはより一層身を慎んで歩むべきなのです。しかし、自ら私たちのために命を捨てられたキリストを、神は死者の中から復活させてくださいました。このキリストの復活によって示された神の力こそ、私たちの希望の根拠であるのです。ですから、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったとしたら、私たちの信仰は全く無意味になります。復活とはそれほどまでに重要なものなのです。

3.結論

まとめになります。今日は特に、「聖なるものになる」、「聖なるものとして生きる」というのはいったいどういうことなのかを考えて参りました。特に強調したのは、「聖」の反対は「俗」ではなく、コモン、つまり普通だということでした。そして普通の反対は「特別」です。聖なるものとは、特別なものだということです。ではどのように特別なのかといえば、クリスチャンは神の子である、という意味で特別なのです。神との特別な関係にあるということです。イエスはご自身の命を代価として、私たちを罪の世から贖い、神の子にしてくださったのです。ただ、神の子であるということは、神からえこひいきしてもらえるということではないのです。神は公平な方ですから、神の子であっても、そうでなくても同じ基準、つまり行いに応じて公平に裁かれます。私たちが神の子だからと言って油断しきっていると、最後の審判の際に思わぬ裁きを言い渡される恐れがあります。ですからここは勘違いしないようにしましょう。クリスチャンはむしろ、神との特別な関係にある者として、そうでない人たちに対して神に従う生き方を示す責任を負っているのです。

このペテロの手紙の内容は、二千年前の小アジアの人たちだけでなく、現代に生きる私たちに対して向けられたものでもあります。私たちも聖なるもの、特別なもの、神の子とされた者です。そして13節で言われている「イエス・キリストの現れのとき」は、この手紙が書かれた時よりも確実に近づいています。それがどういうことなのかは私たちにははっきりとは分かりませんが、キリストが現れるときは私たちが栄光を受ける時であると同時に、裁き、あるいは評価の時だということもこの手紙では強調されています。つまり私たちが神の子として、キリスト者としてどう生きたのかということについてキリストから評価を受ける時でもあるということです。そう考えると、本当に身が引き締まります。私たちが神の期待に応えられるように、上よりの助けを求めて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは聖なるもの、神の子とされました。この特権に相応しく歩むことができるように私たちを導き、また強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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