信仰と救い
第一ペテロ1章1~12節

1.序論

みなさま、おはようございます。これまで毎月の月末はヤコブの手紙を学んで参りましたが、その講解説教も終わりましたので、これからはペテロの手紙第一を読み進めて参ります。今日は月末ではなく、第三週ですが、本書簡に親しむためにも、今月だけは二回連続して本書簡から説教させていただくことにしました。

この手紙の著者は、冒頭にあるように「使徒ペテロ」だと明記されています。つまり、イエスの十二使徒筆頭のシモン・ペテロだということです。しかし、ヤコブの手紙と同じく、このことについて研究者たちは疑問視しています。なぜかといえば、主の兄弟ヤコブの場合と同様に、無学の漁師だったシモン・ペテロがギリシア語の読み書きが出来たとはとても考えられないからです。また、この手紙の冒頭で「使徒ペテロ」よりと書いていますが、ペテロというのは本名ではなくあだ名です。マタイ福音書によれば、主イエスはペテロに対し、あなたは岩だ、あなたの上に教会を建てると言われたのですが、この岩はアラム語で「ケファ」といいます。イエスはシモンのことを名前ではなく「ケファ」というニックネームで呼んでいたのです。そして「ケファ」をギリシア語に翻訳すると「ペテロ」になります。つまりペテロとは日本語で言えば「岩」というあだ名なのです。例えば吉田さんという方が「石頭」というあだ名で呼ばれているとします。その方が真面目な手紙を書くときに、「イエスの僕である石頭から」などと書くかというと、ちょっと考えられないですよね。ですから本書簡の書き手が自分のことを使徒シモンではなくペテロと名乗っているのは、かなり不自然なことなのです。

ただ、ペテロにはマルコのような通訳がついていましたし、当時の手紙というのは本人ではなく書記が書くということが広く行われていましたので、本書簡のギリシア語を直接ペテロが書いたとは考えられないものの、彼と非常に親しいギリシア語に堪能な弟子が、ペテロの指示で彼の語るアラム語を翻訳して書簡にしたということはあり得ることです。私の個人的な考えでは、おそらくペテロが天に召された後に、彼の弟子の一人がペテロの教えに基づいて書いたのがこの書簡ではないかと思います。「ペテロ」というあだ名を使ったのは、それが彼の呼び名として一番有名だったからでしょう。ただ、どういう経緯で書かれたにせよ、本書簡は正典に相応しい内容を備えた優れた書簡です。じっくりと読み進めていきたいと考えています。

ヤコブの手紙の最初の説教タイトルは「信仰と忍耐」で、本書簡の最初の説教は「信仰と救い」です。どちらも信仰ということを非常に大切な事柄として取り上げています。そして、この二つの書簡のテーマもお互いとてもよく似ています。それは、ヤコブもペテロも「試練を乗り越える忍耐強い信仰が救いをもたらす」ということを語っているからです。ですから、この説教メッセージもヤコブの手紙と同じく「信仰と忍耐」にしてもよかったくらいです。このことは、ヤコブの手紙もこの第一ペテロも同じような問題に直面していた共同体に書かれたということを示しています。彼らの直面していた問題を端的に言えば、困難や迫害に直面していたということです。ペテロもヤコブも、この困難な状況を「試練」だと捉えて忍耐強くあるようにと読者に促しています。彼らがイエスを信じるようになった動機は様々でしょう。しかし、彼らはイエスについて語られていることが真実だと信じ、そしてイエスを信じるようになったのです。しかし、そのために彼らと周囲の人々との間に軋轢が生じました。周囲の人々の無理解や敵意に直面して、本当にこの信仰を持ってよかったのだろうかという動揺や不安が生じるのはごく自然なことです。そうした人たちを励まし、力づけるためにヤコブやペテロは手紙を書いたということです。

他方で、ヤコブの手紙と第一ペテロとの間には明確な違いがあります。それは、ヤコブの手紙がユダヤ人キリスト者に向かって書かれたのに対し、この第一ペロ書簡は明らかに異邦人に対して書かれているということです。ヤコブの手紙と第一ペテロの手紙の宛名は一見すると似ていますが、実際には大きく異なるということです。ヤコブは「国外に散っている十二部族」に対して手紙を送っています。十二部族とはイスラエルの十二部族のことで、ユダヤの地以外で暮らすイスラエル人はディアスポラと呼ばれていました。ディアスポラとは離散の民、あるいは移民という意味です。ヤコブは世界各地に散らばっていた同胞のユダヤ人に対して手紙を書いたということです。

それに対してペテロはというと、小アジア、現在のトルコに当たる地域ですが、そこに「散って寄留している」人々に手紙を書いています。ギリシア語の原文ではまさに「ディアスポラ」という言葉が使われていますが、そのような離散の民が宛名になっています。しかし、ペテロが手紙を書いている相手は離散したユダヤ人ではあり得ないのです。なぜそう言えるかといえば、2章10節にこう書かれているからです。

あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

ここでペテロは手紙の宛先人について「以前は神の民でなかった」と書いています。つまり、彼らは以前からずっと神の民であったユダヤ人とは違う人々、異邦人だということです。

これに関連してもう一つ大事なことは、ペテロが手紙を送ったのは文字通りの意味でのディアスポラ、移民ではなかったという点です。ペテロはここではディアスポラという言葉を比喩的な意味で用いています。つまり、実際に祖国を離れて外国に行って移民となった人々ではなく、同じ土地に留まりながらも、周囲の人たちからはまるで外国人であるかのように扱われるようになってしまった人たちだということです。どういうことかと言えば、彼らは今まで周囲の多くのギリシア・ローマ世界の人たちと同じように、ローマ皇帝や様々な神々を拝んでいたのに、イエスを信じるようになってからはこれらの礼拝行為を偶像礼拝として止めてしまったからです。日本でも、先祖代々伝わってきた宗教やお祭りを拒否すれば、家族や一族と大変な軋轢が生じ、酷い場合は村八分になってしまいますが、彼らもそうした状況に置かれてしまったということです。彼らは周囲の共同体の人々から、移民である外国人のように扱われるようになってしまったということです。そのような辛い立場に置かれた小アジアにいる異邦人信徒に書かれた手紙がこの第一ペテロなのです。では、さっそくこの手紙を読んで参りましょう。

2.本論

まず1節ですが、ペテロはこの手紙をポント、ガラテヤ、カッパドキア、アジア、ビテニアの人々に送っています。これらはすべて小アジアの地名です。あの異邦人の使徒パウロがガラテヤの教会を建て上げた地域ですね。使徒パウロはガラテヤの人々に対して有名な「ガラテヤ人への手紙」を書き送っていますが、ペテロの手紙の受け手の一部もそれとは重なり合う人たちだと思われます。ペテロは彼らのことを寄留者と呼んでいますが、これは文字通りの寄留者という意味ではありません。その意味は、ヘブル人への手紙の著者が言うように、彼らは「地上では旅人であり寄留者である」(ヘブル11:13)ということなのです。クリスチャンとなった人々は、天国を目指して歩む旅人、地上世界に一時的にとどまる寄留者だということです。クリスチャンとなった彼らは寄留者という不安定な立場にありますが、しかし同時に彼らは神から「選ばれた」人たちでもあります。彼らは神の予知によって選ばれたとペテロは記しています。この「予知」という言葉はギリシア語のプログノーシス、文字通りには「前から知る」という意味ですが、彼らは神からあらかじめ知られていた人たちだということです。つまり彼らが神を見つけて選んだのではなく、神の方が彼らをあらかじめ知っていて選んだということです。

神はあらかじめ知っていた人たちをご自身の者とされるために、聖霊と御子イエス・キリストを彼らに遣わします。「聖霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように」という言葉は何を言っているのは非常に分かりづらい表現ですが、ギリシア語の原文を読めばよく分かります。原文を直訳すると「聖霊の聖別によって従順へと」となっています。聖別と従順がキーワードです。聖別とは、区別される、取り分けられるという意味ですから、神に選ばれた人たちは、他の人たちから取り分けられた人たち、聖別された人たちだということです。そして彼らが他の人たちと区別されるのは、聖霊を受けることによってです。ですからここの「聖霊の聖め」とは、「聖霊を受けることで他の人たちとは区別される」というような意味です。

では、なぜ彼らは他の人たちから取り分けられたのか?それは従順であるため、神に従うためです。神に選ばれたエリートだから偉いんだ、というような話ではなく、むしろ神に選ばれることで神に従う義務を負った人たちだということです。使徒パウロも自らの使命を異邦人を「信仰の従順」に導くことだと言いました。単に神を信じるだけでなく、神に従うこと、これが信仰の従順の意味です。私たちは神から選ばれたと喜ぶ際に、神に従う義務を同時に負っているということを忘れないようにしたいものです。

そして私たちが神の者とされるためには、私たちは清められる必要があります。清いというのはHolyではなくCleanのほうです。この違いについては来週詳しくお話ししますが、神様は清い方なので、私たちが神様の所有とされるためには私たちは罪の汚れから清められる必要があるのです。そこで私たちに必要なのが「イエス・キリストの血の注ぎかけ」です。これも一体何を言っているのか訳が分からないと思います。汚れから清められたい人が、他の人の血を振りかけられたら、ますます汚れてしまうではないか、というのが普通の感覚ですよね。しかし、ここはユダヤ教、旧約聖書の知識が必要になります。旧約聖書では、神殿など聖なるものを清めるために、屠られた動物の血を降り注ぐということをします。動物の血には、清めの効果があると信じられていたからです。クリスチャンは、生ける神殿であるというのが聖書の教えです。神殿とは神様の家ということであり、クリスチャンの体は神である聖霊の住まわれる家です。私たちの心身を聖霊なる神の家とするために、キリストの血は私たちを罪の汚れから清めてくださるのです。

ペテロは、そのように神に選ばれた異邦人たちの恵みと平安を祈ります。使徒パウロもその書簡の中で異邦人信徒たちのために常に「恵み」と「平安」を祈りますが、初代教会の使徒たちにとってこの二つの言葉が非常に大切だったのが分かります。

3節にも、とても大切なことが書かれています。それは、私たちが新しく生まれるために、神はキリストを死者の中からよみがえらせてくださったということです。つまり私たちの新生と、キリストの復活との間には深い関係があるということです。しかし、私たちが新しく生まれることと、イエスの復活との間にどんな関係があるというのでしょうか?ここで改めて「新生」という言葉の意味を考えてみましょう。これは、よくよく考えるとすごい言葉ですね。というのは、私たちが新しく生まれるためには、一度死ななければならないからです。生きたままでは、もう一度生まれることはできないからです。新生のためには「死」が必要だということです。ですから新生しなさいというのは、過激な言い方をすれば一度死になさいということでもあるのです。キリストが死んでよみがえったように、私たちもキリストと共に死んで、共によみがえらなければならないのです。このことは、ペテロ以上にパウロが強く主張していたことです。ローマ書6章4節をお読みします。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

とはいえ、キリストと一緒に死ぬとはどういうことなのか?と思われるかもしれません。パウロはここでバプテスマの儀式がキリストと共に死ぬことを示す儀式だと言っていますが、洗礼だけでなく十字架のイメージも用います。すなわち、私たちはキリストと共に十字架で死んだのだ、とも言います。これは、新生するというのは何か認識や考え方を改めるとか、そういう程度の話ではなく、これまでの人生と根本的に決別し、まったく新しい人生を歩み出すということを示しています。キリストを信じるということは、単に頭の中でイエスが救い主だと認めることではなく、「死んでよみがえる」とか表現しようがないほどに、人生そのものをまったく新しい方向に劇的に変更することなのです。

しかし、このような劇的な生き方の変化は自分だけでなく、当然他の人たちにも強い印象を及ぼします。「いったいお前はどうしちゃったんだ?熱にでも浮かされているのか」と、周囲の人たちはあなたに戸惑うでしょう。そうした人たちの態度を、ペテロは4章4節でこう記しています。

彼らは、あなたが自分たちといっしょに度を越した放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。

このように、周囲の人たちはあなたの変化に最初は驚き、そして段々とあなたの変化を快く思わなくなり、あなたを悪く言うようになるというのです。「いったいどうしたんだ?これまで一緒に楽しくやってきたのに、急に真面目ぶるなよな」と怒りだす人もいるでしょう。これが、ペテロの言う「試練」です。人から良く思われない、悪口を言われてしまうのは辛いことです。しかし、そういう試練には私たちから汚れや不純物を落とす作用があるとペテロは言います。金塊から純金を取り出すためには、金塊を高温で熱して、金と不純物を分離する必要があります。私たちもまた、これまでの人生で身に着いてしまった不純な生き方や習慣、思いを断ち切るためには試練という火で精錬される必要があるのだ、とペテロは教えています。たしかに、当座の間はそういう試練は気持ちの良いものではありませんが、それを通り抜けると、そうした試練も大切だったのだと振り返ることができるようになります。スポーツでも、辛いトレーニングをするのは大変ですが、それをやり終えるとぜい肉をそぎ落としてパワーアップした自分を発見できますよね。

それだけでなく、そうした試練の先には大変大きな報いが待っています。ペテロはそれを、「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」と呼んでいます。そうした資産は今天に蓄えられていますが、私たちはこの世の旅路、試練を乗り越えた時にそれを相続できるのです。しかし、本当にそんなものがあるのだろうか、誰も見たことのないお宝を目指して歩めと言われても、そんな話が信じられるものか、と疑う人もいるでしょうし、そういう疑いを抱くのは健全なことです。世の中にはそういううまい話で人々を洗脳し、人々を搾取する悪い宗教がたくさんあるからです。では、キリスト教の約束するこうした天の宝を保証してくれるものは何か?それがイエス・キリストです。彼の存在にこそ、すべてがかかっています。このイエスという人物が本物であれば、彼の指し示す天の宝も本物だということです。

ペテロの手紙を受け取った異邦人たちは、生前のイエスに会ったことがありません。イエスはユダヤとガリラヤで主にユダヤ人を相手に宣教していたからです。そういう意味では、私たちと全く同じです。彼らはイエスのことをペテロたち使徒たちから聞いて、彼のことを信じるようになりました。つまり彼らの信仰の根拠とは、イエスのことを直接知っているペテロたちの証言です。ペテロはイエスの公生涯のほぼすべてを目撃した、もっとも信頼できる目撃証言者です。彼らが自分たちの安定した職業を捨てて、命がけで十字架で死んだ哀れなユダヤ人男性のことを宣べ伝えているのはなぜなのか。もしイエスの話が作り話やでたらめなら、そんなもののために誰が命を懸けるだろうか、ということになります。彼らの人生を賭けたイエスへの献身こそ、イエスが本物の聖者であるということの証明なのです。

そして、彼らの証言に加えて、もう一つ極めて重要な証言があります。それは旧約聖書の証言です。旧約聖書というのは何百年もの時間をかけて、数多くの著者や編集者、編纂者の手に拠って作り上げられた大変複雑な書物で、そこには様々な思想や、古代世界の文明世界の多くの影響を認めることができます。しかし、いかに批判的な研究者でも、否定できないような不思議な預言が数多く含まれている書でもあります。この預言者はいったい誰のことを話しているのか、と不思議に感じられるような記述が含まれているのです。ペテロは、その旧約聖書の中にシルエットのように漠然と描かれている人物こそイエス・キリストであり、また預言者たちにその不思議な人物の幻を与えたのは受肉前のイエス・キリストの霊なのだと主張します。つまりイエスご自身の霊が、旧約聖書の預言者たちに、ご自身が受肉した後にどのような生涯を送るのかということについてのヴィジョンを示したというのです。これは気の遠くなるほど遠大な話ですが、これもまたイエスが神の聖者であることを示す確かな証拠なのです。

3.結論

まとめになります。今日から第一ペテロを読み進めていくのですが、その冒頭のテーマは信仰と救いでした。私たちを救いに導く信仰とはどのようなものか。それは忍耐を伴う信仰です。それは単に頭の中で、イエスについていくつかのことを信じれば終わるというようなものではありません。それは一度死んでよみがえるという表現でしか言い表せないほどの、根本的、全面的な人生の方向転換なのです。そのような根本的な変化は、周囲の人々の注目を嫌でも集めます。しかもそれは好意的な反応よりも、否定的な反応を招きがちです。そのような反応には当然がっかりさせられますが、ペテロはそれを「試練」として捉えなさいと語ります。その試練は、あなたを神の民に相応しい人格に作り変えるための、ある種のトレーニングなのです。しかもその試練の先には素晴らしい報いが待っています。

私たちの信仰生活も、良い時もあれば辛い時もあります。特に、親しい人たち、家族や友人たちが私たちの信仰を理解してくれずに非難するようなことがあれば、大変気落ちしてしまいます。幸い今日の日本では、キリスト教を信仰したからといって、人々から非難されるようなことはないでしょう。昔のように、「耶蘇教」などと後ろ指さされることはないのです。むしろ、「あの人はクリスチャンなのに、あんなことしてる」というように耳の痛い指摘をされることの方が辛いでしょう。しかしこれは、クリスチャンについて良いイメージが定着していることの証拠でもあります。人々を信仰に導くために一番効果的な伝道方法は、キリスト教が真理だと証明する立派な議論や解説ではありません。下手にそんなことをすると、かえって墓穴を掘ってしまうかもしれません。知識だけなら、クリスチャンよりキリスト教のことを知っている人たちはたくさんいるからです。むしろ、私たちは日々の行動や生き方で、キリスト教の何たるかを人々に示していく必要があります。それが一番効果的な伝道なのです。それがどんな生き方なのかを、第一ペテロの学びを通じて考えて参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今朝から第一ペテロを読み始めました。どうか私たちにみことばを理解する知恵と、それに従う柔らかな心をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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