惨劇と悲劇
第二サムエル13章1~39節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回の説教で、私は二つの問いを提起しました。それは、ダビデがバテ・シェバ事件のことを本当に悔い改めていたのかという問いと、神はダビデのすべての罪を赦したのか、また赦したとするならば、その赦しとはいかなるものなのか、ということです。どういうことかと言えば、例えばある生徒が学校の大事な掃除道具を壊してしまったとします。その際に先生は、「もういいよ。このことは一切忘れてあげる」というかもしれないし、あるいは「あなたのしたことは赦してあげます。ただし、その掃除道具が壊れてしまったせいで他の生徒さんたちが不自由しているので、あなたはこれから一週間放課後に残って教室の掃除をしてくださいね」というかもしれません。どちらも赦したことには違いはないですが、その中身はだいぶ違いますよね。

今日の箇所は、この二つの問いに答えを与えてくれる箇所だと私は考えています。というのも、今日の箇所でダビデ家を襲った二つの悲惨な出来事は、ダビデが犯してしまった罪と深い関係があるからです。今回の最初の悲劇的な出来事、すなわち兄が妹を辱めてしまうという恐るべき醜聞は、明らかにダビデが人妻であるバテ・シェバを辱めたことと深い係わりがあります。聖書を読むと、神が人の罪を取り扱う場合、その罪について直接叱責するのではなく、自分が人に対して犯した罪を、今度は自分が被害者となって受けることにより、罪の重さを身をもって体験させるということをなさいます。その典型が族長ヤコブの場合です。ヤコブという人は大変頭の良い人で、それに対して双子の兄エサウは単純な人でいま風に言えば脳筋という感じでしょうか、ヤコブはそんな兄エサウを子馬鹿にしているところがありました。そしてついに、ヤコブは兄だけでなく父イサクまで騙して兄に与えられるはずの長子のための祝福を奪い取ったことがありました。しかし神様はこのヤコブの卑劣な行いを責めることはせずに、むしろ叔父ラバンの下に逃げ延びるヤコブの道中の安全を約束します。これなどを読むと、神様はヤコブを偏愛、えこひいきしていて、ヤコブの行った騙しごとすらも容認しているのではないか、と思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。ヤコブはそれから先、叔父のラバンに何度も騙されます。騙す者が、今度は騙される者になったのです。ラバンはヤコブそっくりの、映し鏡のような人物でした。ヤコブは叔父に騙されることを通じて、人に騙されることでどんな気持ちになるのか、今まで自分が騙してきた兄や父はどんな思いで自分に騙されたのかを理解するようになります。こうしてヤコブは自らの過去の行いを深く顧みることになります。これは神のヤコブに対する裁きだと言えますが、それは教育的な裁き、ヤコブが人間的に成長するための裁きでした。ダビデ自身の子どもであるタマルとアムノンの事件も、ダビデに自らがバテ・シェバに対して行ったことを思い起こさせるために神が与えた試練だと言えるのではないでしょうか。

しかしこう言うと、それではあまりにタマルが不憫ではないかと思われるでしょう。父親のせいで、何の罪もないのに恐ろしい出来事に見舞われてしまったからです。実際に、タマルは本当に気の毒です。聖書全体を読んでも、これほどの悲劇に見舞われた女性はいないのではないか、と思えてきます。聡明で正しい心を持ち、美しい王女であった彼女の明るい未来は、この出来事のために永遠に閉ざされてしまいました。しかも、この悲劇をさらに暗いものとしているのは彼女の父ダビデが彼女の名誉や幸せのために何もしなかったことでした。ダビデはこの陰鬱な事件にかかわることを拒否し、明らかな加害者であるアムノンに対して何ら責任を問いませんでした。単に放置したのです。それは、この出来事が自分自身をしでかしたことを思い起こさせるものであり、もしアムノンを裁くならば、自分自身の過去の罪が蒸し返されてしまうことを恐れたのではないかと思われます。ダビデはもう自分の暗い過去を思い出したくなかったのです。しかしそのために、タマルの兄の怒りは収まらず、それが恐ろしい惨劇へとつながっていきます。ダビデが王としての責任、父親としての責任を放棄したために、さらなる悲劇がダビデ家を襲うことになるのです。そのようなダビデの姿を見ていると、彼は本当に自らの行動を悔い改めていたのか、自らの罪に向き合っていたのか、ということに大いに疑問符が付きます。彼は自分の罪から逃げることで、自分の最も愛する子供たちに恐るべき重荷を負わせてしまったのです。では、今日のテクストを詳しく見ていきましょう。

2.本論

ダビデには美しい奥さんが何人もいましたので、彼女たちとダビデの間の子どもたちは異母兄弟ということになります。アムノンというのは第一王子ですから、ダビデ王の後継者としては第一の候補になります。サウル王にとってのヨナタンのような存在です。彼の母はイズレエル人アヒノアムでした。ダビデの三人目の妻は、ゲシュルの王タイマルの娘マアカでしたが、そのマアカの娘がタマルでした。ゲシュルというのはヨルダン川上流の小国でしたが、マアカはその王女だったわけで、位の高い女性でした。タマルはその娘ですから、まさにお嬢様です。彼女の兄アブシャロムはダビデ家の第三王子でした。

このタマルという女性はよほど魅力的な女性だったのでしょう。第一王子のアムノンは、兄妹でありながら、そのタマルを恋するようになってしまいました。しかし、それが禁断の愛であることはもちろんアムノンも分かっていますから、悶々としていたのでした。ところが、そこにヨナダブという、頭は良いけれど道徳心に欠けた危険な人物が登場します。彼はアムノンがなにか悩みを抱えているのを見てとって、自分に打ち明けるように促します。そこでアムノンは自分が自分の妹への禁忌の愛に焦がれていることを打ち明けました。まともな人なら、なんとかそれを思いとどまらせ、別の女性に目を向けさせようとするのでしょうが、なんとヨナタブは、アムノンの無理筋な恋の手助けをしようというのです。彼はアムノンに入れ智慧をして、アムノンとタマルが二人きりになる状況を作り出そうとします。その作戦はなんと父王であるダビデを騙し、仮病のアムノンの介抱のためにタマルを寄こすようにさせるというものでした。ダビデ王の命令ならタマルも絶対に断れないからという、酷い作戦でした。アムノンも、さすがに王である父を騙すようなことをしては後で大変なことになると普通は考えそうなものですが、恋は盲目といいます、また自分は第一王子だという自惚れもあったのでしょう。父を騙すことさえしてしまうのです。バテ・シェバ事件のことはすでに宮廷内では知れ渡っていたでしょうから、アムノンも色恋沙汰では父ダビデも偉そうなことはいえないだろうと、ダビデを侮る気持ちがあったかもしれません。父親が浮気しているのに、その親が子どもの素行を注意しても、「どの口が言うのか」ということになりかねないからです。

ともかくも、ダビデはアムノンの嘘を信じて、娘のタマルをアムノンの介抱に行かせます。タマルも全く疑うことなく、お兄さんのためにと喜んで出かけていきました。アムノンは人払いをして、タマルに対して自分に食事を食べさせて欲しいと頼み、彼女を自分の寝室に呼びます。タマルもこのあたりから、何か変だと思い始めたかもしれませんが、相手は兄、しかも第一王子ですから、大丈夫だと自分に言い聞かせて兄のところに向かいました。すると、病気のはずの兄が床から起き出して、自分をつかまえるのです。この時タマルは初めて怖くなったのでしょう。いったい何が起こっているのかと、パニックになったかもしれません。そして兄アムノンの口から信じられない言葉を聞きました。「妹よ。さあ、私と寝ておくれ」と言われたのです。しかし、兄と妹です。レビ記18章9節で、妹を犯すことは禁じられています。そもそも聖書を持ち出さなくても、近親相姦は人類全体のタブーです。そんなことはできるはずがないと、タマルは必死に抵抗します。これは愚かなことだと。こんなことをしてしまえば、私たちは国中の笑いもの、面汚しになってしまいますと、兄アムノンに訴えます。それでも強引に迫ってくるアムノンに対し、せめて父ダビデに話を通してほしいと願います。父ダビデなら、何か良い考えで私たちのことも解決してくれるだろう、あなたは第一王子なのですから、父もあなたの願いをむげにはしないだろうと訴えます。それでも情欲に狂ったアムノンは力づくでタマルを辱めました。ダビデとバテ・シェバの場合にはこういう暴力的な記述はなく、単にダビデは彼女と寝た、となっていますが、タマルの件では「力ずくで」ということが強調されています。まさに女性の気持ちを完全に無視した強姦です。

しかも、さらに恐ろしいことに、タマルを辱めたアムノンは、その後に彼女を激しく憎むようになったというのです。まるでどうしても欲しかったおもちゃを手に入れたら、期待していたほど良くもなかったのでポイっと捨ててしまうわがままな子どものようです。旧約聖書では、族長ヤコブの娘ディナが異邦人の王子シェケムに辱められるという事件がありましたが、その後シェケムは平謝りに誤ってどうかディナを嫁に欲しいと願い出ています。強姦そのものは決して赦されませんが、責任を取ろうという態度はまともだといえますが、アムノンは自分のやったことが他人に与えた影響を全く考えようとしません。むしろ、衝動的な行動をした後に、自分のしたことの恐ろしさに気が付き、「この女がいたせいで、俺はこんなバカなことをしてしまったんだ。俺が悪いんじゃない、この女が俺を誘惑したんだ」というような、まったく無責任な責任転嫁を考え出してしまうのです。

このような人物がダビデ王家の第一王子であるということに衝撃を禁じ得ないのですが、こんなバカ息子を育ててしまったダビデにも親として大きな責任があるでしょう。そして、この愚かな人物のせいですべてを台無しにされたのがタマルでした。こんな愚かな兄に貞操を奪われ、さらには追い出されるという屈辱的な扱いを受けました。タマルも必死に抗議します。「それはなりません。私を追い出すなど、あなたが私にしたことより、なおいっそう、悪い事です」と訴えかけます。しかしアムノンはまるで下女でも追い出すかのように、召し使いを使って彼女を外に追い出して戸を閉めてしまいました。

タマルは頭に灰をかぶり、着ていたそれつきの長服を裂き、手を頭に置いて、歩きながら声をあげて泣いていた。

明るい未来を一瞬で奪われたタマルでした。生きているのも嫌になったでしょうが、そんな彼女を慰めてくれたのは実の兄のアブシャロムでした。いや、とうてい慰められることはなかったでしょうが、それでも絶望の淵での唯一の救いは兄の存在でした。兄は妹を慰めつつ、長兄アムノンへの復讐を心ひそかに誓ったのでした。

ダビデはこの事件を聞いて激しく怒りましたが、しかしアムノンを裁くことをしませんでした。ここにダビデの大きな問題がありました。王である自分の罪は不問に付したのに、第一王子の罪だけ厳しくさばけば、まさに片手落ちになってしまいます。自分の罪に厳しく向き合えなかったダビデは、自分の分身ともいえる第一王子の罪にも向き合うことができませんでした。それがタマルやアブシャロムに大きな失望を与えたのは想像に難くありません。ダビデはタマルの名誉と尊厳を回復するために、あらゆる手段を尽くすべきでしたが、それをしなかったのです。このダビデの不作為が、さらなる惨劇を招くことになります。

アブシャロムは一緒にいてわびしく暮らしている妹のタマルが不憫でなりませんでした。これから幸せな人生が待っているはずなのに、貞操を奪われ、その加害者には何のお咎めもありません。嫌な言い方ですが、傷物にされてしまったわけで、嫁の貰い手もいなくなってしまいました。それなのに、アムノンはのうのうと生きている、そのことが許せませんでした。とはいえ、相手は第一王子、ダビデ王に次ぐ権力者です。そのアムノンを討つとなると、自分の命さえ捨てる覚悟が必要です。それでもアブシャロムはタマルのために仇討をすることにしました。彼は二年間も機会を待ちました。大石内蔵助のような辛抱強さです。アムノンも自分を警戒しているだろうから、彼をどうやって自分の家に招くことができるか、それがアブシャロムにとっての問題でした。そこでアブシャロムは一計を案じました。まず王であるダビデを祝宴に招いて、しかもダビデが断らざるを得ないような状況を作り、ダビデの代わりにクラウン・プリンスであるアムノンを招くというものでした。これならアムノンも自分の招待に応じないわけにはいきません。

アブシャロムは、招待に応じないダビデに対し、それではあなたの代わりに第一王子のアムノンを招いて欲しいと願い出ます。ダビデも、なぜアムノンを招くのかと問いただして警戒しますが、アブシャロムが丁寧に懇願し、しかも他の王子たちも一緒だということで、まあいいだろう、王子同士で親睦を深めるのもよかろう、ということで承諾します。アムノンも、王命とあらばアブシャロムの招きに応じないわけにはいきません。しかも、王のダビデがいない以上、長兄の自分は主賓ということになります。彼の胸にも一抹の不安はあったでしょうが、ここは自分の威厳を示すためにも行くことにしました。

アブシャロムはこの千歳一遇のチャンスを逃しませんでした。彼は自分の部下たちに、アムノンが酔った時に彼を討てと命じます。とはいえ、相手は第一王子です。このようなだまし討ちで殺したとなれば、彼らも当然ただではすみません。決死の覚悟でことを成さなければなりませんが、驚くべきことにアブシャロムの部下たちはその命令に従いました。それは、不憫な王女であるタマルのために、仇を命に代えても取りたいという彼らの熱い思いがあったものと思います。また、彼らに命令を聞かせるアブシャロムのカリスマ性も大したものでした。そして、アムノンの殺害は計画通りに決行されました。

他の王子たちは恐ろしくなって一目散に逃げ去りました。アブシャロムが殺したのはアムノンただ一人でしたが、この知らせに尾ひれがついてしまい、なんとダビデの王子たち全員が殺されたという一報がダビデに届きました。ダビデも家来たちも衝撃を受けましたが、しかし、あのアムノンに要らぬ知恵を付けた危険な人物、ヨナダブは正確な情報を収集していて、殺されたのはアムノンだけだとダビデに報告しました。ヨナダブがタマルの事件のことをどう思っていたのかは分かりませんが、彼なりに責任を感じていたのかもしれません。ここまでの大事になるとは思っていなかったのでしょう。そして、ヨナダブの言う通り、他の王子たちは無事でした。とりあえず、最悪の事態だけは避けられたのでした。

アブシャロムは母マアカの実家であるゲシュル王のところに逃れました。おそらくアブシャロムは、この復讐劇を準備する段階で逃げ延びる算段も立てていたのでしょう。ゲシュル王も、事の次第を聞いて、たとえダビデ王と対立することになろうともアブシャロムを匿うことを決めていたのでした。

こうして、惨劇は終わりました。ダビデは王として、この第一王子暗殺という国家の一大事に対処しなければなりませんでした。日本でも、万が一天皇のクラウン・プリンスが暗殺されるなどということがあれば、国家の威信に架けてどんなことがあっても犯人を捕まえるでしょう。しかし、ダビデはこの時も全く動くことはしませんでした。もしアブシャロムの罪を問うならば、その原因となったアムノンによるタマル強姦の罪を裁かなければなりません。しかし、アムノンを裁くならば同じ罪を犯した父ダビデの罪をも問わなければなりません。結局自分の所に帰ってきてしまうのです。それでダビデは今回も何もしませんでした。しかし、このダビデの責任放棄が、ダビデの家族にも、またイスラエル王国にもさらに深刻な亀裂をもたらしてしまうのでした。

3.結論

まとめにあります。今回はタマルという聡明な女性を襲った悲劇、そしてダビデ家の家族の中での兄弟殺しという惨劇を通じて、二つの問題を考えてみました。それはダビデが本当に自分の罪を悔い改めていたのか、また神はダビデの罪を無条件で赦し、忘れ去ったのか、という問いでした。そして、答えはいずれも「否」ということにあると、結論付けざるを得ませんでした。

神は確かにダビデに直接罰を下すことはしませんでした。しかし、こともあろうに自分が行ったのと全く同じことを自分の長男が行うという現実に直面させられました。しかも毒牙に架かったのは人妻ではなく、まだ男を知らない自分の娘だったのです。この恐ろしい現実を前にしてダビデは何をしたでしょうか。彼は目を閉ざしたのです。自分の罪を思い起こすのを避けるかのように、この息子の罪をも直視しませんでした。そのため、タマルは貞操だけでなく、名誉も、また未来も失ってしまいました。この妹の絶望的な状況を怒ったのは兄アブシャロムでした。彼はきっと、兄アムノンだけでなく、妹の名誉回復のために何の行動も起こさなかった父ダビデのことも深く憤っていたのでしょう。そうして彼は二年待って、妹のための復讐を遂げました。ただ、もしダビデが正しくアムノンを裁いていて、少なくとも廃嫡にするとか、断固たる処置を取っていればこの惨劇は起こらずに済んだでしょう。したがって、ダビデの罪は誠に重かったと言わざるを得ません。ダビデの悔い改めのなさが招いた悲劇だったのです。

さらにいえば、私たちは神の裁きの厳しさに戦慄すら覚えます。神は不正を黙って見逃すようなお方ではありません。蒔いた者を刈り取らせる、というのが神が人の取り扱う上での原則です。彼はダビデに、ウリヤ殺しの罪の重さを恐ろしいほど厳しい手段で直面するように迫ります。しかしダビデはそれから逃げ続け、さらなる悲劇を自らに招いていくことになるのです。

私たちも、このダビデの転落の人生から多くのことを学ばされます。「罪の赦し」というのは簡単なものではありません。私たちが罪に直面することから逃げると、それはどこまでも私たちを追いかけるのです。神は私たちの罪を赦す前提として、徹底的な悔い改めを求めておられるということを忘れてはいけません。神の前に、また人の前に、謙虚に歩んで参りましょう。お祈りします。

憐み深い主よ。あなたは私たちを赦されます。しかし同時に徹底的な悔い改めをも求めておられます。そのことをダビデの生涯から学ぶことができますように。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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