ヤコブの勧告
ヤコブの手紙5章12節~20節

1.序論

みなさま、おはようございます。昨年から毎月の月末にはヤコブの手紙を学んで参りましたが、いよいよ今回で最終回になります。そこで今日は、ヤコブの手紙全般を振り返りながら今日のみことばを読み解いていきたいと思います。

ヤコブの手紙は、行動、実践をとても重視する書簡です。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」という言葉が端的に示すように、中身のない信仰、行動の伴わない信仰というものを信仰とは見なしません。そのために、この手紙を読み進めると「信仰のみで救われる」というプロテスタントの教えの意味を再度問い直されていきます。信じるだけ、ということは行いが不要だという意味ではないのです。むしろ、信じることと行うこと、信仰と行いが一致するとき、はじめて私たちには信仰があるといえるのだ、というのがヤコブ書の大切なメッセージでした。信じるだけで救われるというのは、信じることと行うこととが一致する場合にのみ言えることなのだ、ということがヤコブの繰り返し語っていたことでした。

ヤコブ書の最後の箇所である今日のみことばにおいても、ヤコブは私たちの語ることと私たちの行うこととが一致するようにということを強く勧めています。では、さっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2. 本論

では、まず12節からです。「誓い」についてのヤコブの教えです。誓いというのは私たちにはあまり馴染みのないものに思えるかもしれません。裁判所にでも行かない限り、私たちは何かに誓うことなど日常生活ではほとんど起こらないでしょう。けれども、約束をすることは私たちの日常でもよくあることです。誓いというのは、あえて言うならば約束の上位版、重みをもった約束だと考えてみてください。

また、ヤコブの教えには、イエスの教えと響き合うものがとても多いですが、この「誓い」についての教えもイエスの教えを思い起こさせるものです。ヤコブとイエスの教えを並べて読んでみましょう。まずヤコブからです。

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたがさばきに会わないためです。

次いで、イエスの山上の垂訓からのことばをお読みします。マタイ福音書5章33節から37節です。

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたは頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことばは悪いことです。

このように、イエスとヤコブのことばはとても似ていることに気が付かれるでしょう。ヤコブはイエスのことばを短くまとめていると言ってよいでしょう。ただ、注意したいのは聖書は「誓い」そのものは禁じていないことです。神様ご自身がアブラハムに対して誓われたこともありますし、旧約聖書も誓いを認めています。具体的な例として、レビ記19章12節を読んでみましょう。

あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

とありますように、誓い自体ではなく、偽って誓うことを禁止しています。では、なぜイエスやヤコブがそこからさらに一歩進んで、誓うことを禁止しているのかといえば、それは「誓い」が乱用されていたという歴史的な背景があるからです。

イスラエルの文化において誓いというのは、それを破れば私は神の呪いを受けてもよいと誓うことなのです。日本でも「嘘ついたら針千本飲ます」という言い方がありますが、よく考えると針千本飲むなんて恐ろしいことですよね。これは、私は約束を破ったら呪いを受けるよ、と自ら宣言していることなのですが、イスラエルにおける誓いは文字通りそのような非常に重大な行為だったのです。つまり、誓いは呪いとセットになっており、簡単に破ることができない重大なものです。ですから誓いのことばにはそれなりの信用が伴います。

しかし、それを逆手にとって、人に自分の言葉を信じてもらうために誓いを連発するような人が不届きモノが現れたのです。七十人訳聖書というギリシア語の聖書があり、そこには私たちが用いている聖書66巻には含まれない文書も収められていますが、その一つに「シラ書」というものがあります。そこにはこう書かれています。

むやみに誓いを口にしたり 聖なる方の御名をみだりに呼んだりするな。いつも問いただされている召し使いに鞭の生傷が絶えないように むやみやたらに誓いを立てたり御名を呼ぶ者も罪から清められることはない。(シラ23:9-10)

このように、誓いを乱用する人がいたのです。誓いというのは重大な、神聖なものと言ってよいほどの思いを持つものだったのに、あまりにも頻繁に使われるうちにその重みがなくなってしまったのです。日本語の「針千本飲ます」と言っても本当に飲ませる人なんていないですよね。イスラエルにおいても、誓いの重大さがそれが乱用されるうちに失われていったのです。

こうした、律法の本来の意図からは著しく逸脱した誓いの乱用という現実を前にして、主イエスは誓いを禁止したのです。ただ、イエスは誓いそのものが悪いと言っているのではなく、むしろあなたがたの間では誓いなど不要になるようにしなさい、と教えておられたのです。誓いが必要なのは、人の言ったことが信用できない場合です。ある人が何かの約束をした場合、「それは本当ですか?誓えますか」と問われて、「はい、誓います」と答えるということがあります。このように、誓いとは自分の言葉に十分な信用を与えられない人がそれを補完するためにするものです。逆に言えば、十分に信頼されている人のことばであれば、「はい」と「いいえ」だけで十分だということです。しっかりとした信頼関係が築かれていれば、もはや誓いは不要になります。イエスの「誓うな」という教えは誓いそのものを禁止したものではなく、むしろ誓いなど必要ないような、信頼のおける人間になりなさいということなのです。ですから、クリスチャンの中ではイエスの教えを文字通りに守るために一切誓いをしない、宣誓が要求される裁判にも参加しないという方がおられますが、そのような解釈は行き過ぎたものだと私は考えています。このように、誓いはある人の言うことと行うことが一致している場合、言行一致の場合には不要なものです。言行不一致という残念な現実があるから誓いが必要になってしまいます。イエスとヤコブは、この残念な現実を乗り越えなさいと教えているのです。

 さて、それでは次のテーマに行きたいと思います。それは祈りについて、特に病の癒しを願う祈りについてです。これは言行一致の話とは少し違いますが、これも非常に大きなテーマですね。私たちの人生における大きな困難の一つは病です。今日の社会では立派な医療制度が確立していますが、それでも直らない病というものがあります。ましてや、医療が整っていないイエスの時代には、人生における病の治療は大問題であり、病を癒せる人がいればその人は大変な人気を集めたことでしょう。実際、主イエスが大変有名になったのはその癒しの力のゆえでした。しかし、とはいえこのヤコブの手紙に書かれているような内容は、今日の教会にむしろ困惑を与えるものかもしれません。というのも、ここでは教会の「長老」と呼ばれる人たちに癒しの力があるということが前提となっているからです。しかし、私たちの教会にも他の教会にも病を癒せる人なんていませんよね。

しかし、今日の教会でも「神癒」と呼ばれる癒しの力を強調するグループがあり、それは主にホーリネス系のグループだと言われています。ホーリネスは日本最大の教派である日本キリスト教団においても、私たち同盟教団においても大切な母体となったグループの一つですので重要なグループの一つですが、そのホーリネスのクリスチャンの中ですら、本当に神癒と呼ばれるものが現代においてもあるのだろうかと懐疑的な方もおられます。イエス様や最初の使徒たちには確かにそういう力があったのだろうけれど、今日にはそういう力はないのではないか、と思う方の方が多いかもしれません。

しかし、20世紀においてもインドの聖者、使徒パウロの再来とまで言われたサンダー・シングという人は神癒を行ったそうです。とはいえ彼は、そのために人々の信仰がイエスではなく自分に向けられてしまうことを恐れて、一度それを行った後はその癒しの力を封印したそうです。他方で、アメリカのいわゆるテレビ伝道師は、テレビの中でいわばショーでも行うかのように様々な病の癒しを毎週実演していることがありますが、それはやらせではないかと思う人が多いようです。私も詳しくそういう番組を見たわけではないので、あまり正確なことは申し上げられませんが、その手の番組ご覧になった方の中にはそのような印象を持たれる方が多いということです。私個人の考えでは、今日でも例外的にそのような癒しの賜物を与えられている人はいるとは思うのですが、それはとうてい一般的なことではない、つまり誰でもできるようなものではない、というものです。また、癒しの賜物を与えられている人でさえ、いつもそれができるかと言えば決してそうではないとも思います。あのパウロでさえ、癒しを求めて神に三度祈りましたが、聞き入れられなかった、と書いています。ですから、癒しというものはそういう力がある人が祈ればいつでもどこでも叶うというような、そんな便利なものではなく、むしろ神の選ばれた時に、神がなそうとされた時のみに起きるもので、私たちの祈りとはそうした神の力が実現するために必要な要因の一つだと考えています。神は私たちの祈りに応えて癒しを行うということを望まれているので、私たちは祈るべきだということです。同時に、祈ったからといって自動的にそれが叶うとも考えてはいけないでしょう。あくまでこの件についての主権は神にあるのです。人間が立派な祈りを捧げたから、神は必ずそれに応えなければならないとか、そのように考えてはならないのです。神は私たちが祈ったからといって動かせるようなお方ではないからです。

ではそうした癒しの賜物が与えられていない人にはこのヤコブの言葉は何の意味がないのかといえば、そうではありません。ヤコブはここで、もう一つ非常に大切なことを述べているからです。それは罪の赦しの問題です。みなさんは、「信仰による祈りは、病む人を回復させます」という教えと、「また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます」という教えが並べられていることが奇妙に思われるかもしれません。病気の癒しと罪の赦しは全然別ものではないか、という疑問が生じるということです。現代の医学の常識から考えれば、罪を犯すと病気になるなどといえば、とんでもないことを言うと非難されるでしょう。ただでさえ病気で苦しんでいる人に、「あなたの病は自分の罪のせいだ、自業自得だ」などと言えば傷口に塩を塗るようなもので、相手をさらに苦しめることになるでしょう。

しかし、すべての病がそうだということではもちろんありませんが、罪と関係のある病というものも存在するようなのです。これは心理学者のフロイトらが発見したことですが、体調に不調を覚える人がある種のカウンセリング、セラピーを受けることによって治ったということがありました。どんな場合かといえば、過去のトラウマになった出来事があり、そのことを忘れていた場合にそれを思い起こすことで体の不調が直るというような事象は確かにあります。そのトラウマになった出来事が罪の意識を結びついていることが多く、そのことを思い出し、そしてその罪がもう赦されている、あるいは自分が思っていたような罪ではなかったことを自覚することで、音が聞こえないというような体の障害や不調が直ってしまうというようなことがあるのです。ですから、罪を告白してその罪に向き合い、その罪の赦しを願うことで癒しが起きるということは、素人考えながら心理学的にも実証された効用があるものと思われます。カトリックには神父に罪を告白する告解と呼ばれる秘蹟がありますが、プロテスタントにおいても信頼のおける兄弟姉妹同士で罪を告白しあうということは非常に意味のあることだということを、このヤコブの教えは示しています。心の重荷は担い合うべきだということです。

そして19節と20節にはヤコブの最後のお勧めがあります。それは真理から迷い出た兄弟姉妹に関することばです。そういう人を救い出すことができれば、その人自身のたましいを救うだけでなく、自分の多くの罪をもおおうことになる、自他ともに益を受けるということをヤコブは語っています。これも大切な教えですね。日本の教会では、洗礼を受けるまでは一生懸命世話をするのだけれども、その後のフォローアップが十分でないので洗礼を受けた後に教会を離れてしまう人が多いという話を聞きます。確かに大きな教会になると、なかなか一人一人の信徒に目を配ることができないという現実もあるのでしょう。キリスト教信仰というものは、一度信じたら終わりというものではなく、生涯をかけて変化し、成長していくものだと私は考えています。私自身の信仰を振り返っても、大きな変遷といいますか、大きく変わっていった過程があったと、今振り返ると強く思います。今思い返してみて幸いだったのは、信仰の成長の節目・節目に相応しい導き手のような方々と出会えたことでした。もしそういう出会いがなかったならば、私も信仰から離れてしまっていたかもしれません。ですから、私はそういう出会いに感謝し、私を導いてくださった方々だけでなく、そういう出会いを与えてくださった神に感謝しています。私たちも、自分の救いと同時に、信仰に迷う人たちを導けるような、そういう人になりたいと強く願うものです。そのためには私たち自身が成長していく必要があります。このように、信仰というものは一人で育てるものではなく、共同体の中で育まれていくものなのです。

3.結論

まとめになります。これまで一年間にわたってヤコブの手紙を学んで参りました。本当に大切な教えが数多く含まれる、みことばの宝石箱のような書簡でした。ヤコブの手紙の大きなテーマは「一致」でした。言葉と行動が一致すること、今日の教えにもあったように、自分の語ることと行うことが一致していることです。また信仰と行動が一致することの大切さも繰り返し語られました。よく、救いには行いが必要なのか、信仰だけでよいのかと聞かれることがありますが、そのような問い自体がおかしいのです。人間は本当に信じているものに従って行動します。私たちが何かを信じていれば、それは必ずその人の行動に影響を及ぼします。私たちは本当に信頼している人からのアドバイスであれば、それが多少難しそうに思えても実行します。実行しないのは、その人のことを心からは信頼していないためなのかもしれません。同じように、神を心から信頼していれば、おのずとその教えに従おうという気持ちになるでしょう。もちろんすべてをすぐさまできるようになることはありえません。それでも、神様を心から信頼しているのなら、私たちは自然にその教えに沿った生き方をしていくようになるのです。

また、教会の兄弟姉妹の間で信仰の一致があること、そうしたことの重要性を訴える書簡でもありました。信仰は、神様と私たち一人一人の間だけの問題ではありません。兄弟姉妹同士の間の信頼関係も同様に重要です。私たちが神様を信頼して歩むように、兄弟姉妹のことも信頼して歩む、助け合い、支え合って歩むことの重要性が、特に今日のみことばで語られていました。私たちは自分一人が神様とそれぞれ勝手につながっていれば救われるのではありません。横のつながり、兄弟姉妹のつながりなしには私たちの信仰は育たないのです。ですから教会は尊いのです。信仰とは仲間と共に育てるものだからです。

このように、様々な「一致」を教えるヤコブの手紙を、これからも折に触れて読み返し、朗読し、実践して参りましょう。お祈りします。

ヤコブの手紙を私たちにお与えくださった神様、そのお名前を賛美します。これらのヤコブの素晴らしい教えや勧めを胸に留めて今後も歩むことができるように私たちをお導き下さい。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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