1.序論
みなさま、おはようございます。主の年2025年の最初の礼拝を皆さまと共に主に献げられることを感謝します。今年の説教も、昨年に続きましてサムエル記を読み進めて参ります。昨年は主にサムエル記の前半、上巻を読んできましたが、そこで描かれるダビデは若き英雄、苦難においても神への信頼を失わない立派な神のしもべでした。しかし、これまでと違い、王となって地位と富を独占するようになる今後のダビデの歩みは神に選ばれた聖者とは程遠いものになっていきます。むしろそれは浅ましい、エゴイスティックな王で、自業自得で惨めな晩年を送ることになります。ダビデは王としても父親としても失格であるということが、これから起こる一連の出来事で明らかになっていきます。そのような今後のダビデの歩みを考えると、今日の箇所は驚くべき内容です。ダビデがどれほどひどい罪を犯そうとも、彼から恵みが取り去られることはないのだということがその内容だからです。
今日の箇所は、キリスト教信仰にとっても大変重要な箇所です。それは神がダビデに、とこしえの王座、永遠の王国を約束しているからです。ですからクリスチャンは、このダビデに与えられた永遠の約束がダビデの子孫であるイエス・キリストにおいて成就されたとして、この神とダビデとの契約をメシア預言として大変重要視しています。しかし今日の説教では、今日の箇所をイエスについての預言としてではなく、ダビデとその王朝にとってどんな意味があったのかという歴史的な観点から見ていきたいと思います。
ダビデという人物は、後世のユダヤ人にとっても、また私たちクリスチャンにとってもイスラエルに全盛期をもたらした伝説の王です。ダビデの時代にイスラエルは大発展し、帝国と呼べるほどまでに領土を拡大して中近東の大国になりました。ですからユダヤ人たちはダビデの時代をイスラエルの黄金時代として郷愁を持って思い出します。クリスチャンにとっても、主イエスが「ダビデの子孫」、あるいはダビデの再来というような言われ方をするので、ダビデを非常に高貴な人物とし見なし、ある意味、理想化されているとも言えます。しかし、ダビデの同時代の人々にとっては、彼はそのような人ではありませんでした。もちろん彼は誰もが知る有名人でしたが、すべての人が彼を快く思っていたわけではありません。彼はしがない羊飼いから大出世を遂げてイスラエルの王にまで上り詰めた人物でした。そのような異常ともいえる大出世には当然妬みややっかみがついて回ります。当時の有力者たちには、ダビデが王になったことをよく思わない人たちも当然いました。従ってダビデは、全イスラエルの住民に自分こそ王に相応しい人間であることを認めさせなければなりませんでした。ダビデの先代の王であるサウルはダビデと同じように神から見いだされ、イスラエルの初代の王となりましたが、その神から退けられてしまいました。永続的なサウル王朝を確立することはできなかったのです。ダビデとしてはその同じ轍を踏まないように、サウルとは違い安定した王朝を打ち立てることを何よりも願っていました。そのためには人々から認められる必要があったのです。
ダビデはそのための努力を続けています。まず、先代の王であったサウル王の娘のミカルと結婚します。これはダビデがサウル王の正統な後継者であることを示すために必要なことでした。日本でも、農民から天下人へと大出世した豊臣秀吉は非業の死を遂げた主君織田信長の妹の娘の淀君を妻にしましたが、それは自分が信長の正統な後継者であることを示すためでもありました。
そしてダビデは自分の王としての実績作りのために、新しい都づくりを始めました。日本でも鎌倉幕府や江戸幕府を開いた源頼朝や徳川家康は当時の日本の中心である京都を避けて、全く関係のないところにゼロから自らの居城を築きましたが、ダビデも同じことをしました。これまでユダ族の中心都市であったヘブロンではなく、外国人の都市であったエルサレムを攻略してそこを首都にしようとしたのです。エルサレムは難攻不落の都市であり、モーセの後継者のヨシュアの時代から数百年間もイスラエル人の攻撃を跳ね返してきた城塞都市でした。この都市を攻め落とすことができれば、自分に好意的ではないイスラエルの人たちも自分を王として認めてくれるに違いないと考え、ダビデはエルサレム攻略のための秘策を立てて、そしてそれを見事に成功させます。エルサレムというのはずっとイスラエルの首都だったというイメージを私たちは持ちますが、実際にはこの都市はダビデによって征服された都市だということに注意しましょう。
ダビデは、この新しく獲得したエルサレムという都市を自らの威光や権威を示すために大改造していきます。彼が最初に取り掛かったのは自らの居城、王宮の建設でした。彼は伝統的なイスラエル建築ではなく、当時の流行の最先端を行く王宮を建てようと、外国のフェニキア人の建築家を雇い、外国様式の王宮を建てました。その王宮にはレバノン杉がふんだんに使われていましたが、レバノン杉は当時の富の象徴で、現代の金持ちが富の象徴としてレクサスに乗るようなものです。ダビデは王の威光を示すような立派な宮殿を作ったのです。
しかし、自分のためだけに立派な王宮を建てることは、民衆から大きな反発を招く可能性がありました。なぜならイスラエルの人々にとって真の王様は人間ではなく神だからです。古代世界において、神殿とは第一に礼拝するための場所ではなかったということに注意が必要です。神殿とは何か?それは神の家でした。もちろん神は地上ではなく天上に住まうと古代の人たちは信じていましたが、その神は地上にも家を持っているとも信じていたのです。譬えて言うならば、天上の神の家が神の本宅であるならば、地上の神殿はこの世界における神の別宅、セカンドハウスのようなものです。このような世界観を古代の人たちは持っていました。したがって、王となったダビデが自分のために新しい都に宮殿を建てたのに、真の王である神のために都の中に神殿を建てないということは非常に由々しき事態でした。しかもダビデは前回学んだように、神の契約の箱をエルサレムに運び入れています。契約の箱は、神がそこから現れる聖なる箱、地上における神の象徴、あるいは神そのものとまで信じられていたものです。その契約の箱を収めるために、立派な神殿を作るべきではないか、という考えはダビデのみならず多くのイスラエル人が考えたことでした。
とはいえ、エルサレムに神殿を作るということには大きな問題もありました。なぜなら、神ご自身が作るように命じたのは幕屋であって神殿ではないからです。神はダビデの時代から数百年も前ですが、モーセに対して幕屋の作り方を詳しく説明してそれを作らせました。幕屋と神殿には根本的な違いがあります。幕屋とは、移動式テントだということです。テントは旅人が用いるものです。ですから神はこの地上においてはいわば旅人として、自由にどこにでも行かれるということを示しているのが幕屋なのです。それに対して神殿は固定式住居です。幕屋のように移動できませんから、ずっとそこに住み続けるということが前提とされています。ですから、固定式神殿を建てるということは、うがった見方をすれば神から移動の自由を奪うということになるのです。ダビデにとっては、神が自分の新しく作った都にいつまでも定住してくれるほうがありがたいのです。エルサレムという、これまでは外国人が住んでいた都市がイスラエル人にとって永遠の都になるためには、神ご自身がエルサレムを選んだ、神ご自身がエルサレムを終(つい)の都として定めたということになって欲しいのです。そうなれば、エルサレムの威信は否が応にも高まります。そしてひいては、その都を拠点とするダビデ王朝も盤石となります。このように、ダビデ王家を安定させたいダビデの政治的な思惑としては、神が自由にどこにでも行けてしまう幕屋ではなく、他の民族のように固定式の神殿を持ったほうがよいということになります。そうすれば神を自分の近くに留めておけるからです。しかしそれはダビデの思惑であり、神は一言も固定式の立派な神殿を作れとはおっしってはいないのです。そこにダビデと神の思いの食い違い、ずれがあります。サムエル記はダビデ王朝の視点から、ダビデ家の正統性を示すために書かれているという面があることに留意しなければいけません。しかし、人の思いと神の思いは違うということも、聖書を深く読んでいくと見えてくるところがあります。私たちはテクストの表面的な記述だけではなく、テクストの裏側あるいは奥を見ていくことで神の御心を探っていく必要があります。そのような観点から今日のみことばを見て参りましょう。
2.本論
さて、では7章から見ていきましょう。ここには三人の主な登場人物がいます。一人はダビデ王、もう一人は預言者ナタン、そして神ご自身です。この三者の思惑や目論見がそれぞれ異なっていることに注意が必要です。
まず確認したいのは、今回神殿を作りたいと言い出したのは神ではなくダビデだということです。神はかつて、モーセに対し幕屋を作るように指示をして、その作り方まで事細かく指示しました。それに対し、ダビデには一言も神殿を作れとは命じていないし、したがって神殿の構造や仕様については何も語っておられないのです。この神殿プロジェクトは神のプロジェクトではなくダビデのプロジェクトであるということをまず押さえておきましょう。
ダビデはこの計画を、神の預言者であるナタンにまず相談しました。預言者は神の代弁者ですから、預言者からお墨付きをもらうことは神ご自身からお墨付きをいただくことになります。これまでダビデの周りには何人かの預言者がいましたが、ここで初めてナタンという預言者が登場します。このナタンがどんな人物なのか、何の説明もありませんが、今後このナタンはダビデ家における非常に重要な預言者、かつてのサムエルのような権威を持つ預言者となっていきます。そしてナタンは初めにダビデの計画を聞いて、もろ手を挙げて賛成しています。「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい」と、ダビデを全面的に支持しています。しかし、実は神の御心はダビデともナタンとも違っていたのです。神に選ばれた王も、神の預言者も、少なくともこの時点では神の御心を読み違えていたのです。
さて、そのことに最初に気が付いた、いや気づかされたのは預言者ナタンでした。彼は神の言葉を預かりました。考えて見れば、ナタンは最初ダビデから神殿建築のプランを聞かされた時に、すぐにそれに賛成するのではなく、「まず神の御心を伺いましょう」というべきでした。それをせずにすぐにダビデに賛成してしまった点は、ナタンといえどもまだ預言者としては未熟だったと言えるでしょう。
しかしナタンは神の言葉を頂き、自分の誤りに気が付きます。神は、私は神殿を作れなどと一言も命じていないとおっしゃいます。神は、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と一言でも言っただろうかと尋ねます。ここには皮肉のトーンがあります。わがままな王様なら、自分の部下が杉で造ったかっこいい家に住んだらそれを妬んで、王である私はもっと立派な家に住むべきだ、というでしょうが、イスラエルの神はそんな小さなお方ではないということです。神はそんなものは不要だとおっしゃいます。さらに神は、ダビデの心の奥にある不安も見抜いておられるようです。ダビデが一番恐れているのは、自分が先代のサウル王のように神から見捨てられてしまうことでした。ですから自分の家のすぐ近くに神の家を建てて、神が自分を見捨てないように、どこかに行ってしまわれないようにと神殿を作りたがったのです。そこで神は、私はいつもあなたと共にいる、恐れることはないのだ、と語ります。神殿など造らずとも、私はどこにもいかないよ、ということを神はナタンを通じてダビデに伝えました。
それどころか、今度はダビデではなく神がイニシアティブ、主導権を取ります。ダビデが神のために家を作るのではなく、神がダビデのために家を作ろう、とおっしゃるのです。ヘブライ語の家はバイトという言葉ですが、これは家という意味と、王朝という意味の二重の意味があります。つまり神は、神殿を作りたいというダビデの申し出の背後に、自らの王朝を盤石なものとしたいというダビデの切実な願いを見て取り、それをかなえてあげようというのです。ダビデが一番聞きたかった神の言葉は、15節にあります。そこをお読みします。
しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。
ここで「恵み」という言葉が出て来ますが、これは「ヘセド」という言葉です。以前の説教でも取り上げましたが、この言葉は旧約聖書に二百回以上も登場する、大変重要なキーワードで、「恵み」の他にも「慈しみ」とか「愛」などと訳される言葉です。この言葉は不変の忠実さという意味合いがあります。ここで神はダビデに対し、サウルとサウル王家に起きたようなことはあなたの家には起こらないと約束したのです。つまりサウルは罪を犯した、神に対して忠実でなかったために神から退けられましたが、ダビデとその子孫が大きな罪を犯しても、あるいは神に不従順であっても、神はそれを懲らしめはするけれど、彼らから王位を取り上げることはしないと約束したのです。これはダビデにとっては願ってもないことでした。ダビデも人間ですから、当然罪を犯します。しかし、どんなに罪を犯しても、神は究極的には赦してくださるというのです。こんなにありがたい話はないでしょう。少なくともダビデは、神の言葉をそのように理解したものと思われます。しかし、この神の言葉の意味をそのように理解するのは果たして正しかったのか、私たちはよくよく考えなければなりません。
ともかくも、神の言葉はダビデに大いなる安心感を与えたものと思われます。この神の言葉に勇気を得たダビデは、次々と周辺諸国の征服に乗り出します。向かうところ敵なしの勢いで周囲の国々を平定していきます。その様子が8章に詳しく書かれています。まさに、この世の春を謳歌したダビデでした。
しかし、いくら罪を犯そうとも究極的には神は赦してくださるのだという理解は、段々とダビデ自身を、そしてダビデ王家を蝕んでいきました。これから見ていくように、今後ダビデはとんでもない罪を犯します。先代のサウル王の百倍も重い罪だといってもよいでしょう。サウルは王位を追われましたが、しかしダビデは王として留まりました。王の地位は失わなかったものの、ダビデの家はバラバラになり、崩壊していきました。ダビデの晩年はまったく輝きを失ったものとなりました。しかし、ともかくもダビデの王朝は存続できたのです。これは、神がダビデの家は永遠だという約束を守ってくださったからだとも言えます。そしてダビデの子孫たちは、そのように理解したものと思われます。これからダビデ王朝は四百年も続きます。四百年というのはとんでもない長さです。非常に安定していた徳川幕府でさえ260年しか続かなかったのですから。そしていつしかダビデ王朝の人たちは、ダビデの家は永遠だと信じるようになりました。どんなに罪を犯しても、神は結局は赦してくださる、ダビデとの契約がその保証なのだ、と思うようになったのです。神を蔑ろにする王も現れましたが、それでもダビデ家は続いていきました。
ですから四百年後にダビデ王朝がバビロンによって滅ぼされた時、人々はその現実を受け入れることができませんでした。ダビデ王朝は不滅ではなかったのか、と彼らは自問しました。むろん、神もダビデとの約束を忘れたわけではありませんでした。ダビデの家が永遠であるという約束は、ダビデ王朝が滅んでからなんと六百年も経ってからダビデの子孫であるイエス・キリストによって成就します。しかし、イエスの打ち立てた王国は、ダビデのように周囲の国々を次々と征服することによってもたらされるものではありませんでした。イエスの王国は、敵を滅ぼすことではなく、むしろ人々に仕えることによってもたらされるものだったのです。しかし、ダビデの幻影を追い求める人々は、イエスの王国が理解できませんでした。私たちも、もしかするとイエスの王国を理解しそこなっているのかもしれません。実際のところ、キリスト教国と呼ばれる国々は長いキリスト教の歴史の中で戦争ばかりしてきました。彼らが追い求めたのはダビデ的な王国であり、イエスの王国ではなかったように思われます。
3.結論
まとめになります。今日は神がダビデと結んだ契約を見て参りました。ダビデは神のために家を建てたいと申し出ました。その申し出にはもちろん神を畏れ敬う気持ちがありましたが、その奥底には自らの王国を盤石なものにしたいというダビデの個人的な目論見が隠されていました。神はそれをお見通しであり、神は神殿を建てたいというダビデの願いを退け、反対に神様の方からダビデに家を与えてくださるという約束をされました。この家とは王朝のことであり、ダビデの王朝は永遠だという約束でした。しかも、サウルのように罪を犯したからといって、この約束が撤回されることはないという非常に寛大な約束まで与えられたのです。これは神の大いなる恵みでした。しかしダビデもその子孫たちも、この恵みに誠実に応答したというよりも、むしろそれに安住して道を誤ってしまったように思えます。この神の絶対的な約束が彼らに誤った安心感を与え、罪に対する感受性を奪ってしまったようにも思えるのです。
私たちもここから大切なことを学ぶべきでしょう。ダビデは自分の王朝が存続するということの確証を求めましたが、クリスチャンの場合は王朝ではなく自分自身の救いの確証を求める傾向があります。これは特にルターの宗教改革を経たプロテスタントに言えることで、プロテスタントの人は「救いの確証」を何よりも強く追い求めます。自分が絶対に救われているという保証を求めてしまうのです。しかし、あの予定説を唱えたカルヴァンによれば、誰が選ばれているのかは人間には決して知り得ないのです。分からないことをあれこれ考えても仕方がありません。むしろ救いの確証ばかり求めると、むしろ私たちの霊性は歪んだものになりかねません。ダビデの子孫たちが自分たちの王国は永遠だという思い上がりから大きな罪を重ねてしまったように、自分は絶対に救われているという偽りの安心感を抱く者は、自分の罪に対して鈍感になってしまう可能性があるからです。たとえ救いを失わないとしても、私たちは自分の蒔いた種は必ず刈り取らなければならないことも忘れてはいけません。ダビデの王位は取り去られませんでしたが、彼はその罪の報いを死ぬことより苦しい家族の崩壊という形で味わうことになりました。私たちは主を畏れ、謙虚に生きていかなければなりません。正月早々、厳しいお話になりましたが、今年も主を畏れ、主の前に誠実に歩んで参りましょう。お祈りします。
ダビデに恵みを賜った神様、そのお名前を賛美します。しかし、私たちはそのような大きな恵みを自分に都合よく解釈してしまう愚かな者でもあります。どうか主の前に常に謙遜に歩む気持ちをお与えください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン