忍耐への報い
ヤコブの手紙5章7節~11節

みなさま、おはようございます。早いもので、本日が2024年の最後の主日礼拝になります。この一年間も主に守られてこうして教会の歩みを続けられたことを心から感謝します。今日はヤコブの手紙からみことばを取り次がせていただきます。ヤコブの手紙は今年の二月から毎月月末にメッセージさせていただいておりますが、来年の一月で最終回になります。ですから、ちょうど丸一年かけてヤコブ書を学んできたことになります。

そして今日の箇所ですが、これは前回の箇所である5章1節から6節までと対になっています。といいますのも、1節から6節までは、貧しい人を虐げる富んだ人たちに対する警告、神の裁きが近いという厳しいメッセージでしたが、この7節から11節までは逆にこうした富んだ人たちから搾取されて苦しむ貧しい人たちに向けてのメッセージになっているからです。貧しい人たちの苦しみを顧みずに彼らから搾り取れるだけ搾り取ろうとする人々に対しては、主の厳しい裁きが待っているわけですが、では彼らに苦しめられる側の貧しい人たちはどうすべきなのか?そのような状況に置かれていた彼らが取るべき態度は何か、というのが今回のテーマです。

そのような問いについて、今日の箇所をお読みいただければお分かりになるように、ヤコブは「忍耐しなさい」と教えます。しかし、こういう教えに反発を感じる現代人は多いのではないでしょうか。理不尽な状況に置かれながら、ただ我慢して待て、というのは我慢できないという人もおられると思います。資本家たちに搾取されていた労働者に対して団結を説き、ブルジョアを打ち倒して労働者の天国を築くことを目指した共産主義の生みの親であるカール・マルクスは「宗教はアヘンだ」と喝破しました。現状の不平等や不正義を手をこまねいて甘受し、いつか天国にいけるのだから今は我慢しようというような態度は、結局は時の権力者にいいように使われているだけではないか、と言おうとしたのでしょう。確かにマルクスの言うことにも一理あります。宗教を利用して、人々の当然持つべき不公平な状況への怒りを逸らしてしまおうという試みがあるとすれば、そんなことは許せないと感じるでしょう。権力の側と結びついた体制維持のための宗教には、確かに警戒しなければない面があります。しかし、ではかつての共産主義が是とした暴力革命、つまり力づくでブルジョアを打ち倒して理想の社会を築こうという試みが正しいのかといえば、暴力によって樹立された政権は、結局は人を幸福にはしてくれないということも歴史が証明した真実なのではないでしょうか。

私たちが目指すべきなのは、現状をただ仕方がないと諦めてしまう諦念でもなく、反対にいくら血を流そうとも理想の社会を追求するためにはそうした犠牲も仕方がないのだというある種のニヒリズムでもなく、むしろ主の御心を実行していくことです。では主の御心とは何かを考えてみましょう。

私たちは来年の年間主題聖句として詩篇37編の一節を選びました。それは、5節の「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」というみことばでした。そして、このみことばが含まれている詩篇37編全体は、今日のヤコブの手紙の教えと非常に深い関係がある箇所なのです。この37編全体のテーマは、悪を行って栄えている者に対してどうするべきか、ということです。それについてどのような教えがあるのか、いくつかの箇所を読んでみましょう。まず1節と2節です。

悪を行う者に対して腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるからだ。

また、7節にはこうあります。

主の前に静まり、耐え忍んで主を待て。おのれの道の栄える者に対して、悪意を遂げようとする人に対して、腹を立てるな。

さらに、10節から13節までをお読みします。

ただしばらくの間だけで、悪者はいなくなる。あなたが彼の居所を調べても、彼はそこにはいないだろう。しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。悪者は正しい者に敵対して事を図り、歯ぎしりして彼に向かう。主は彼を笑われる。彼の日が迫っているのをご覧になるから。

悪者に対して腹を立てるな、ということが強調されています。これらの箇所から明らかなのは、一貫した聖書の教えである「復讐は神のすることだ」という教えです。悪者に対して腹を立てるな、我慢し、耐え忍びなさいというのは、ただ我慢して悪事を見逃せということではなく、彼らの悪事を裁くために主が行動されるのを待ちなさいということです。主は悪が栄える状態をずっと放置することはない、だからあなたは慌てて動こうとせずに主が動かれることを信じて待ちなさいというのがこれらのメッセージの内容なのです。待つということは、正義を行われる主を信じることであり、それゆえ神への信仰が試されることなのです。

しかし、待つといっても神様が行動されるまで何もしないでじっとしていろということでもありません。確かに私たちは復讐や報復のような行動は控えなければなりませんが、しかし何もしないということでもないのです。そのことを、再び詩篇37編から確認してみましょう。3節にはこうあります。

主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を行え。

また、27節と28節にはこうあります。

悪を離れて善を行い、いつまでも住みつくようにせよ。まことに、主は公義を愛し、ご自身の聖徒を見捨てられない。

そして、34節にはこうあります。

主を待ち望め。その道を守れ。そうすれば、主はあなたを高く上げて、地を受け継がせてくださる。あなたは悪者が断ち切られるのを見よう。

このように、悪者が悪いことをして栄えているのを見ても、それを羨んで真似しようとしたり、あるいは反対に悪者を自分の手でやっつけてやろう、正義の鉄槌を下してやろうというようなこともせずに、むしろあなたはただひたすら正しいこと、善を行いなさいというのが聖書の教えなのです。私たちは悪への報復は主に委ねつつ、悪とは反対のこと、つまり正しい行いによって悪に抗議する、悪とは違う道があることを世に対して証ししていく必要があるのです。

そのような聖書の教えの積極的な面をも踏まえながら、今日のヤコブの言葉を読んでいきましょう。7節、8節、9節をお読みします。

こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。

ヤコブは、主が来られるまで耐え忍びなさいと繰り返し語ります。しかも、先に申しましたように、ここには単に待つだけでなく、倦むことなく善い行いをしなさい、という教えも含まれているものと思われます。同時に、主が来られる時は近いということを強調しています。主が来られるというのはイエス・キリストが再び来られること、すなわち再臨のことでしょう。そう考えると、ヤコブの手紙が書かれた頃から二千年も後の時代に生きている私たちは戸惑いを覚えてしまうかもしれません。主の再臨が近い近いと言われて、もう二千年も経ってしまったではないか、ヤコブは主イエスがすぐにも戻って来られるのだというような、大きな勘違いをしていたのではないか、と思われるでしょう。ヤコブだけではありません。パウロもこう言っています。ローマ書の13章11節をお読みします。

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

このように、パウロも主イエスが来られる日は近い、もうすぐだという確信を抱いていたように思われます。ヤコブやパウロだけでなく、実に新約聖書全体に、主の来られる日は近いというメッセージがあちこちにあるのです。これをどう考えるべきなのか、新約聖書を書いた人たちは主の再臨に関して間違っていたのだろうか、という疑問を持たれるかもしれませんし、実際にそのように論じている人もたくさんいます。これは新約聖書研究における大問題であり、学者たちの間でも喧々諤々の議論がなされているテーマなのです。

この件についての私の考えは、これは私の個人的な意見だと断ったうえで申し上げるのですが、確かに主イエスはもう来られたのです。主イエスご自身も、

まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。(マタイ16:28)

と言われました。主ご自身が、紀元一世紀に生きた弟子たちが生きている間に人の子が来ると予告されたのです。ここでの人の子とはもちろんイエスご自身のことです。ですから、イエス御自身が、ヤコブやパウロと同じように、主が来られるのは近いということを請け負っておられたのです。ただ、それは主イエスが文字通りの意味で人間の姿で空からスーパーマンのように下って来たという意味ではありません。私たちは「主が来られる」という言葉を文字通り、字義通りの考えようとしますが、その字義通りという考えかたそのものが曲者だということです。聖書というのは、比喩的な表現や象徴的な表現が非常に多く用いられている書です。それらを無理やり文字通りに読もうとしても、かえって意味を見失ってしまうのです。例えば出エジプト記の19章4節に、「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れてきたことを見た」とありますが、神様が本当にイスラエル人たちを鷲に載せて運んだわけではありません。神の力強い働きを鷲に譬えているのです。

「主が来られる」というのも同じです。神は霊ですから、神が来られる時に人間の肉眼で見える姿で現れると考えるほうがおかしいのではないでしょうか。実際のところ、神はこれまでも何度も世界に裁きのために来られたのですが、その際に人間の目に見える姿で来られたわけではありません。一番有名なケースは、ノアの大洪水の時でしょう。神は世界を裁くために来られ、現実に世界は神の裁きのために一度は水没して虚無に服しました。その時に神は確かに地を裁くために来られているのですが、それは文字通りに神が人の姿で人間の前に現れたということではありません。その他にも神は裁きのために来られています。

他の有名な例は、エレミヤが預言したようにイスラエルに裁きをもたらし、ソロモン神殿と呼ばれた最初の神殿を破壊するために来られました。エゼキエル書10章には、神がエルサレム神殿を視察して、その罪をご覧になったことが描かれています。その時も、神は肉眼で見えるような姿で現れたのではなく、霊において来られましたので、エゼキエルのような霊眼が与えられた人以外には神が来られたことを知る人は誰もいなかったのです。そして神は、バビロンを用いてイスラエルに裁きを下しました。主はエレミヤを通じて次のように宣言しています。エレミヤ書34章21節と22節をお読みします。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちを狙う者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ、わたしは命じ、-主の御告げ-彼をこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町々を、住む者もいない荒れ果てた地とする。

このように、主は地を裁くためにこれまでも何度も地に来られました。もちろん、多くの人は「そんなものは神とは何の関係もない。ノアの洪水はただの自然災害であり、神の裁きなんかではない。南ユダ王国とその神殿が滅びたのも、ユダ王国の誤った外交政策の結果であり、神とは何の関係もない。歴史の中に神の見えない手が働いているなんていうのは単なる妄想だ」というでしょう。しかし私たちクリスチャンの信仰は、本当の意味で歴史を動かしているのは人間ではなく神であり、紀元一世紀に主イエスが昇天されてからは世界の歴史は主イエスの支配の下で進んでいるのだと信じています。ですから主イエスが裁きのために霊において私たちの世界に来られたと信じることは、おかしなことではないでしょう。使徒パウロもコリント教会の人たちに対し、こう書いています。

私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。(第一コリント5:3)

パウロにできたことを、主イエスがなされるのは当然です。そして、紀元一世紀に主イエスが間違いなく来られたと信じるべき瞬間があります。それは、主イエスが地上の生涯の終わり、エルサレムに滞在中にその破壊を予告されたヘロデ神殿が崩壊した時です。この神殿を破壊したのはローマの軍隊ですが、その背後には主イエスの裁きの手が働いていたと考えるべきです。そして、この神殿が破壊された時に、ユダヤの貧しい人たちを苦しめて来た富んだ者たち、とくに神殿を支配し、貧しい農民から厳しい年貢を搾り取っていた大祭司たちは厳しい裁きを受けました。まさにヤコブの語った通りのことが起ったのです。

そして、主は裁きだけでなく、大いなる報いを携えて来られるということも忘れてはなりません。主は悪に対しては裁きで報いますが、善に対しては報いをお与えになるのです。ヤコブは10節、11節で次のように記しています。

苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ここで言われている預言者たちとは具体的に誰のことなのかは分かりませんが、迫害を受けながらも大胆に主のことばを語ったアモスやエレミヤが含まれているのは間違いないでしょう。ただ、次に語られているヨブについては、確かに彼の場合には苦難の後に財産も家族も二倍になったと書かれていて、報いを受けたというのは分かるのですが、預言者たちについてはそう言えるのでしょうか?預言者エレミヤは40年もの間激しい迫害を受けながら預言を続けましたが、彼の晩年はけっして平穏なものではありませんでした。彼は自分の意に反してエジプトに連れて行かれ、そこで不遇のまま没したと伝えられています。とても報いを受けたようには思えません。しかし、人間の目には不遇の一生のように見えても、死者の魂をも支配される神によってエレミヤは大いなる報いを受けたと考えるべきでしょう。ギリシア語で書かれている七十人訳聖書というものがあり、原始キリスト教たちによって大切に読まれていて、カトリックや東方正教会では聖書に含められている文書の一つに『知恵の書』とよばれる書があり、その3章1節から3節には次のように書かれています。

正しい人たちの魂は神の手の内にあり いかなる責め苦も彼らに触れることはない。彼らは愚か者たちの目には死んでいるように映り この世からの彼らの旅立ちは災いに 我々からの離別は破滅に見えた。しかし彼らは平安の内にいる。

このように、人間の目には報われない一生を過ごしたように見えた聖徒たちの魂は、主によってねんごろに取り扱われているということが書かれています。そういう人たちは主から大きな報いを受けるのです。

ここで、「報い」ということについて考えてみましょう。キリスト教神学、とりわけパウロ神学によれば、人間はひたすら神の恵みによって救われるのであって、神から報いを受けるのに値しない罪人だという見方があります。確かにそれは一面では正しい見方です。私たちが良いことをなすことがあったとしても、それは神の憐みのゆえに、聖霊の力で行ったことであり、私たちが神からの報いを期待できるような私たち自身の功績ではないのです。それでも、神は恵み深い方ですので、私たちの積み重ねた小さな善い行いを喜んでくださり、報いをくださるのです。パウロもこう言っています。

神は、ひとりひとりに、その人の行いに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え[られます]。(ローマ2:6-7)

主は私たちの歩みに注目しておられます。そして私たちがなす、ほんの小さな善行にも喜ばれます。それは親が子どもの良いところを見つけて喜ぶようなものです。人間の親ですら、子どもの良い行いには喜んでご褒美をあげるのですから、天の父はなおさらです。ですから、私たちは残り少なくなった今年も、そして来年も倦むことなく善い行いに励んで参りましょう。お祈りします。

憐み深く、恵み深く、私たちの悪を裁くことには忍耐強く、私たちの善に報いてくださることには鷹揚であられる主よ。そのお名前を賛美します。今年一年の守りに深く感謝します。私たちもまた、来年も主に従っていこうという決意を新たにしたものです。どうか私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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