イエスの父
マタイ福音書1章1節~25節

みなさま、クリスマスおめでとうございます。この喜ばしい主日を皆さまと共に祝えることに感謝です。さて、今日の説教タイトルは「イエスの父」です。ただ、イエスの父、と聞いてもそれが誰のことなのか、少し考えてしまうかもしれません。といいますのも、イエス御自身がおっしゃられているように、イエスの父、アッバとは父なる神のことを指すのではないか、とまず私たちは考えます。しかし、イエスを個人的によく知る当時のナザレの人々はイエスのことを「この人は、ヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)と言っていました。

つまり、新約聖書を通じてイエス降誕のことを聞かされている私たちはイエスの父とは神様なのだと思うわけですが、そういう事情を知らない当時の人たちにとってイエスの父とはヨセフのことなのです。しかし、新約聖書の中でも、あるいはキリスト教の歴史の中でも、このヨセフと言う人物の影は薄いです。といいますのも、イエスが公生涯を始められる頃にはヨセフは既に世を去っていてしまっていたからです。対照的に、イエスの母マリアの存在感は大変大きいものがあります。ルカ福音書の降誕物語ではマリアの心の動きに焦点が当てられていて、彼女の深い信仰心に注目が集まります。また、その後もイエスの成長に喜びと戸惑いの両方の思いを抱きながらわが子を見つめ、イエスが昇天した後にはイエスを主として崇める信仰者になっていく姿までが新約聖書には記されています。その後の伝承でも、マリアはヨハネと共に小アジアのエペソで信仰を全うしたことが伝えられています。

また、キリスト教神学においてもマリアは大変重要な人物となります。「イエスの母」に留まらず、「神の母」とまで呼ばれるようになり、三位一体の神に次ぐ崇敬を集める存在となります。カトリックの教義では「無原罪のお宿り」という教理まであります。この教理は、西方教会、つまりカトリックとプロテスタントでは人類は皆等しくアダムの罪、つまり「原罪」と呼ばれるものを背負って生まれるとされますが、マリアだけは奇跡的にその罪から逃れていて、罪のない状態でイエスを宿したというのです。原罪がない、と聞くと驚かれるかもしれませんが、ではイエスもまた原罪を背負って生まれてきたのかといえば、ほとんどのクリスチャンはそれを否定するでしょう。しかし、原罪を持った母から生まれた子は原罪を引き継いでしまいますから、イエスの母マリアに原罪があるとイエスにも原罪があることになってしまいます。そこで、イエスの母であるマリアにも原罪がなかったという教理が生まれたのです。

こういうややこしい神学的議論をするのは今日の説教の本意ではないのですが、それだけキリスト教神学においてマリアには特別の地位が与えられていることを示すためにお話しさせていただきました。それに対してイエスの義理とはいえ父であるヨセフには何ら特別な強調点が与えられてきませんでした。そこで今日の説教では、イエスの父としてのヨセフに注目して参りたいと思います。

さて、イエスの降誕物語を記しているのは四つの福音書の中でもマタイとルカだけですが、ルカ福音書は先ほども申し上げたようにイエスの母マリアの信仰に焦点を当てています。それに対して、マタイ福音書はイエスの父ヨセフのほうにスポットライトが当てられています。福音書記者マタイはヨセフのことをイエスの「父」とは呼んではいないのですが、そのヨセフがどのようにしてイエスを自分の子として迎え入れるのか、そのいきさつをマタイ福音書は記しています。このマタイ福音書は「イエスの系図」と呼ばれる長いリストから始まります。新約聖書をはじめて読む方は、いきなり系図が出て来ることに面食らうわけですが、実はこの系図、「イエス・キリストの系図」ではないのです。突然何を言い出すのかと思われるかもしれませんが、この系図はイエスではなく、イエスの父ヨセフの系図なのです。イエスとヨセフの血がつながっていないとすると、ですからこれは厳密にはイエスの系図ではないのです。

では、なんでまたマタイはイエスの系図ではないものを、「イエス・キリストの系図」としてわざわざ福音書の冒頭に置いたのでしょうか?それはマタイが、イエスこそ正統なダビデ家の血を引く王家の生まれ、メシアの資格を持った人物であることを証明するためでした。王家の血筋は基本的には男子から男子に継承されます。そこらあたりは今の日本の天皇家と同じですが、古代イスラエルにおける王の資格の継承は男系だったのです。しかし、イエスには人間の父親がいません。神の聖霊が人間のマリアの母体を借りて生まれたのがイエスですから、イエスに人間の父方はいないことになります。しかし、それでは問題が生じます。なぜなら、イスラエルの救世主はアブラハムの子孫でなくてはならず、またダビデ王家の血筋を引く者でなければならないのです。これが聖書の預言だからです。ではイエスがアブラハムの子孫であり、ダビデ王家の者になるためにはどうすればよいのでしょうか?それは、そのような資格を持つ人物に養父になってもらうほかにありません。そして、その資格を持つ人物がヨセフだったのです。ですからこの冒頭の「イエス・キリストの系図」は、イエスを養子にしたヨセフがダビデ王家の者であることを証明するために必要だったのです。イエス・キリストの「キリスト」とは苗字ではなく称号だと言うことに注意が必要です。「キリスト」とはメシア、すなわち油注がれた王という意味です。イエスがメシア王になるためには、王家の血を引くヨセフの養子になる必要があったのです。

実際、このイエスの系図ではダビデが非常に強調されています。17節ではアブラハムからダビデまでが14代、ダビデからバビロン捕囚までが14代、バビロン捕囚からキリストまでが14代となっていて、「14」という数字が非常に強調されています。この系図は14と言う数字を強調するために作為的に作られています。たとえば、バビロン捕囚からイエスまでの期間は、イエスを含めて14名の名前がありますが、同じ期間はルカ福音書の系図では22人もいます。このように、マタイは何とか系図を「14」という数字でまとめようとしています。それはなぜか?そこにはゲマトリアというものが関係しています。イエスの時代には、私たちのようなアラビア数字が使われていませんでした。では、どうやって数字を記したのか?それは、アルファベットのそれぞれの文字が同時に数字を表していたのです。英語で言えば、Aが1、Bが2という具合です。ヘブライ語のアレフ、ベートという22のアルファベットはそれぞれ数字を表しており、ダビデを表す三文字のダレット、ヴァヴ、ダレットはそれぞれ4、6、4を表します。それらを足すと「14」です。つまり、ダビデを表す数字は14なのです。マタイがイエスの系図で「14」という数字にこんなにこだわったのは、イエスの父ヨセフがダビデの子孫であることを強調するためでした。また、6節にはダビデが名前だけでなく、ダビデ王と、「王」という称号と共に紹介されていることも注目すべきです。

そして、マタイ福音書のイエスの系図には、もう一つの興味深い特徴があります。それは、この男系の家系図の中に四人の女性の名前があることです。それは族長ユダの妻タマルと、ルツ記の主人公のルツ、またルツの夫であるボアズの母ラハブ、また名前は記されていませんが、ダビデの不実の子を宿したバテ・シェバの四名です。このうちの二人、タマルとルツ間違いなく異邦人であり、またバテ・シェバは異邦人を夫に持っていました。つまりヨセフはダビデの子孫であるだけでなく、異邦人の血も引いていたということです。これは、イエスがイスラエルの王であるだけでなく、異邦人の救世主でもあるということを示唆するものです。マタイはこの家系図の中に、こうしたメッセージを込めたのです。

さて、それでは系図の話はここまでにして、ヨセフがイエスを自分の子として迎え入れた次第を18節から見て参りましょう。ここでは、ヨセフがマリアのいいなずけだったことが記されています。当時のユダヤ社会では、婚期は非常に早く、女性は13歳か14歳で嫁入りしていました。ですからマリアもまだ13歳、今でいえば女子中学生のような年齢でした。ではヨセフはどうかといえば、一家の大黒柱としての生活力がなければ結婚できませんから、20歳ぐらいではないかと思います。今でいえば大学生の男性と女子中学生の結婚ですからあり得ない話ですが、当時はそのような結婚が普通でした。このヨセフのことをマタイは「正しい人」、ギリシア語ではディカイオスという言葉で、直訳すれば「義人だった」となります。この「義人」という言葉は、バプテスマのヨハネの両親であるゼカリヤとエリザベツにも使われていますが、これは完全無欠で罪を犯したことがない人という意味ではもちろんありません。そんな人はどこにもいませんから。むしろ、神に選ばれた契約の民に相応しく生きようと常に務めていた人という意味合いです。もちろん間違いを犯すことはありますが、その時でもすぐに反省して悔い改め、神に立ち返ろうとする人、要は生き方の「姿勢」の問題で、そういう生き方をしている人を聖書は「義である」、「義人だ」と呼ぶのです。そのような人ですから、人生において何か問題が生じた際には、神の教えに即して問題に対処しようとします。そのヨセフは大変大きな問題に直面することになります。

それは、いいなずけだった幼い少女であるマリアが妊娠してしまったという衝撃の事実です。ヨセフもいろいろな可能性を考えたことでしょう。マリアが他の人を好きになって肉体関係を持ってしまったとか、あるいは無理やり本人の意思に反して妊娠させられてしまったという可能性もあります。いくつかの可能性があるわけですが、しかし婚約中の女性が妊娠してしまったというのは大変重たい事実です。何らかの行動を決断しなければなりません。では、聖書はこのような場合どうすべきだと言っているか、見てみたいと思います。申命記22章の23節から27節までをお読みします。

ある人と婚約中の処女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、このふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはこの女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである。この男が野で彼女を見かけ、婚約中のその女が叫んだが、救う者がいなかったからである。

このように、聖書の教えによれば、マリアが同意の上で他の男性と関係を持ってしまったのなら男も女も石打の刑、マリアの意に反して貞操を奪われてしまった場合には男のほうだけを死刑にするということです。ヨセフも、聖書の教えに従うならば、マリアを問いただしてどのような状況で妊娠したのかをまず確認すべきでした。しかし、ヨセフはマリアに何か質問をしたとは書かれていません。もしかすると、マリアは聖霊によって身ごもったと説明したのかもしれませんが、ヨセフにはそれが荒唐無稽な話に思えて信じられなかったのかもしれません。

ともかくも、ヨセフはマリアがどういう状況で妊娠したのかを知らなかったし、それを問い詰めて確認しようともしなかったようです。かえって、なるべく穏便に済ませようとして内密にマリアを去らせようとしました。去らせるといっても、マリアはどこに行けたのでしょうか。父親のいないシングルマザーとして、中学生ぐらいの若い女性が生きていく手段は当時はなかったでしょうから、普通に考えればマリアは子どもと一緒に死ぬしかなかったと思われますが、ヨセフがそのような非情なことをしたとは思えません。おそらくは親戚で匿ってくれる人のところに送り出そうとしたのでしょう。いずれにせよ、聖書はあまり詳しい情報を提供してくれないので、憶測になってしまいますが、ともかくもヨセフは律法の教えに従って、マリアの身の潔白を問いただすことはせずに、マリアを安全に去らせることを優先したのでした。

ヨセフは義人だと言われているのに、律法の教えに従わないことが奇妙に思われるかもしれません。しかし、律法を守るというのはその条文に杓子定規に従うことではありません。むしろ、その律法の精神に則り、律法の目指していることを行うことです。律法は正義を行うことを非常に大切にしますが、それ以上に弱い立場の人を守ることを大切にしています。そのような律法の趣旨に照らせば、立場の弱いマリアとその子供の安全を第一にすべきだと考えることができます。マリアがどのような事情で妊娠したにせよ、それを公衆の面前で明らかにしてしまえば、マリアの今後の人生はどう転んでもあまりよいものにはならなかったでしょう。たとえマリアが自分の意に反して妊娠したとしても、その相手の男が強姦罪で石打の刑で殺されれば、残されたマリアはシングルマザーとして生きて行かなければなりません。しかし、それがどれほど過酷な道であるかをヨセフは分かっていました。ですから、マリアのお腹が大きくなって表ざたにならないうちに、マリアをどこかに隠し、ほとぼりが冷めるまでは世間の好奇の目に晒させないようにしたのでした。このように、「義人である」ということは、ひたすら正しく正確に律法を行うことではなく、むしろ弱い人の立場にたって、律法の教えを無視してでもそうした人を守るということなのです。主イエスが言われたように、人が律法のためにあるのではなく、律法が人のためにあるからです。

しかし、そのようなヨセフに対して神からの直接的な働きかけがありました。神の使いがヨセフの夢に現れたのです。夢と言うのは、今日の心理学では人間の深層心理、無意識の状態を映し出すものとされますが、古代社会や聖書の世界では神のお告げを伝えるための重要な手段の一つでした。そこで天使はヨセフに呼びかけます。「ダビデの子ヨセフ」と。ここでもヨセフがダビデの子であることが強調されます。先ほども申し上げたように、イエスが王になるためにはダビデ家の血筋の者に子供として迎えられる必要があったのです。天使はヨセフにマリアの妊娠の次第を話しました。ヨセフはもしかしたらマリアからすでにその話を聞いていたのかもしれませんが、その場合には天使はヨセフに、マリアの話は本当であることを請け負ったということになります。天使はヨセフに、生まれてくる男の子に「イエス」と名付けるように命じます。ルカ福音書では、天使ガブリエルがマリアに対して、生まれてくる男の子をイエスと名付けるように言っていますが、マリアにもヨセフにも天使は同じことを語ったということです。

たぶん、ヨセフもマリアを心の中では妻に迎え入れたい、守ってあげたいという気持ちがあったのかもしれません。しかし、ヨセフは清廉潔白な人でもあったので、マリアが万が一他の男を好きになってその人の子を宿したのだとしたら、さすがにヨセフはそれでも彼女を妻として迎える、ということまではできなかったのでしょう。ヨセフの心の中にも、人には言えない葛藤があったに違いありません。どうすれば正解なのか、分からなかったのでしょう。しかし天使の話を聞いて、ヨセフも勇気を与えられ、意を決しました。マリアを妻として正式に迎え入れることにしたのです。とはいえ、いくら古代社会で夢は神のお告げを伝える場合があるといっても、それは本人の思い過ごしに過ぎないのではないか、という見方もあったと思われます。ヨセフも、今見た夢が本当に神からのお告げなのか、あるいは自らの願望が生み出した夢なのか、どちらだろうかと迷ったかもしれません。けれども、ヨセフはマリアを妻に迎えることを決めました。彼は、おそらく自分の心が本当に命じるところに従ったのでしょう。

しかし、そうはいってもマリアはすでに妊娠中です。そのことが表ざたになると、それはヨセフとマリアが婚前交渉した結果ということになります。現代では「できちゃった婚」が当たり前のようになっていますが、モラルの厳しい当時としては大問題です。そこで慌てて婚礼を前倒しにしてすぐに結婚したものと思われます。しかし、マリアに子供が生まれるまでは、夫婦となった今でもヨセフがマリアを知ることはありませんでした。ヨセフはどこまでもマリアを守ろうとしたのです。

まとめになります。今回は、イエスの父となるヨセフについて考えて参りました。マリアほど注目されることのないヨセフですが、彼がイエスの父となることはぜひとも必要なことでした。一つには、イエスがダビデ家の正統な王となる、メシアとなるためにはダビデの血を引くヨセフの息子となることが必要でした。しかしそれ以上に大切なのは、ヨセフが本当に心の優しい、そして勇気のある人物だったということです。このような愛情と正義感の両方を兼ね備えた立派な人物であるヨセフの子として育つことは、イエスがこれから人類救済を担う人物として成長していくためにはぜひとも必要なことでした。イエスという救い主が生まれ、また成長していくためにはヨセフとマリアと言う立派な両親の存在が欠かせませんでした。私たちはその意味でも、このクリスマスの時にヨセフやマリアへの感謝の思いを新たにしたいと思います。お祈りします。

私たちの救い主イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスを、愛する兄弟姉妹たちと迎えられたことに感謝します。また、主イエスを産み育ててくださったマリアとヨセフにも深く感謝します。私たちが主イエスの教えに従い、またヨセフやマリアの信仰に倣って歩むことができるように、私たちを強めてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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