みなさま、おはようございます。今日はアドベント第三週になります。いよいよ次週はクリスマス礼拝になりますが、今日の聖書箇所はクリスマスを待ち望むうえで大変重要な箇所です。実際のところイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。
クリスマスになると、クリスマス関連の音楽が流れますが、その中でも定番と言えるものの一つがヘンデルの「メサイア」でしょう。ヘンデルは元々ドイツ人でしたが、イギリスに帰化しました。ですからメサイアも英語の歌詞が使われています。宗教曲はラテン語とかドイツ語の曲が多いですが、英語の歌詞であるメサイアは日本人にとっても馴染み深いものでしょう。そのメサイアの歌詞はみな英語の聖書からの引用なのですが、なかでも「イザヤ書」からの引用がとても多いのです。そもそも最初の歌詞である「慰めよ、慰めよ」というところはイザヤ書40章からの引用です。なぜイザヤからの引用が多いのかといえば、「メサイア」というのはメシア、つまりキリストのことですが、イザヤ書は旧約聖書の中でも最も多くのメシア預言が含まれている預言書だとされているからです。イザヤにはメシアを示すと思われる部分があまりにも多いので、イザヤ書を新約聖書の四福音書に並ぶ「第五の福音書」と呼ぶ人までいるのです。
そのイザヤ書の中でもとりわけ重要なのが、イザヤ書40章から55章にかけてです。イザヤ書は66章ありますが、大きく分けて三つに分かれていると言われていますが、その真ん中の箇所である40章から55章までは一般的に「第二イザヤ」と呼ばれる箇所で、その著者は預言者イザヤより百年以上後の時代に生きた無名の人物だとされます。無名といっても、預言者イザヤの精神を引き継いだ、イザヤの弟子たちの中の一人だということです。日本でも、たとえば浄土真宗の中で一番有名な本は教祖の親鸞の書いたものではなく、お弟子さんの唯円(ゆいえん)が書いた歎異抄(たんいしょう)だと言われています。第二イザヤもイザヤの衣鉢を継いだお弟子さんが書いたということです。そして第二イザヤは、イザヤ書全体の中でも独特な性格を持っています。第二イザヤを理解するために、その前の部分である第一イザヤと比較してみましょう。
第一イザヤと呼ばれる1章から39章までは、イスラエルの罪と背信に対する神の厳しい裁きが述べられています。預言者イザヤの召命の時のあらましは6章に書かれていますが、イザヤが神から最初に与えられたメッセージは大変厳しいものでした。その9節と10節をお読みします。
すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え太らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」
このように、イスラエルの罪は重く、彼らには癒しではなく裁きが待っている、彼らは癒されてはならない、というのがイザヤに与えられた大変厳しい、重たいメッセージでした。イザヤは南ユダ王国が滅亡する紀元前587年の百年ほど前に活躍した預言者ですが、イザヤのメッセージはその百年後のユダ王国の滅びを予見するような厳しい内容だったのです。
それに対し、第二イザヤと呼ばれる40章以降は、国が滅びてしまい、亡国の民となったイスラエルの人々を慰めるメッセージになっています。つまり、まだ南ユダ王国が健在だった時代の人々に語られた第一イザヤとは時代背景が異なり、国を失って意気消沈した人々に語られているのが第二イザヤです。ですから第一イザヤの厳しいトーンとは打って変わり、慰めや励ましに満ちたメッセージになっています。第二イザヤの冒頭は次のような言葉で始まります。
「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き換え、二倍のものを主の手から受けよ。」(イザヤ40:1-2)
このように、国を失い、礼拝のための神殿も失い、外国で捕虜として暮らしていた亡国の民であるイスラエル人に対し、神は慰めを与え、また失った二倍のものを与えようと約束しているのです。素晴らしいメッセージですね。しかし、そんなに都合よく物事が進むのだろうか、と疑う人たちもいました。彼らは現に祖国を失ってしまったのです。帰るべき祖国はもうないのです。そんな厳しい現実を前にして、イザヤの言葉は気休めなのではないかと斜めに見る人たちがいたのです。
第二イザヤは、この神の約束、慰めと回復の約束がどのように実現するのかを示す書なのです。そして第二イザヤにはこの約束を実現してくれる二人の救世主、二人のメシアが登場します。しかし、その二人はまるで対照的な二人です。一人は、当時の世界最強の帝国であるバビロニア帝国を滅亡させた人物、アケメネス朝ペルシアの王キュロスです。私たちの使っている聖書では古い呼び方のクロスとなっていますが、一般的にはキュロスと呼ばれる人物です。彼はバビロンだけでなく、エジプトやヨーロッパのマケドニアも征服し、さらにはインドの国境沿いまでの中央アジアをすべて平定し、まさに空前絶後の世界帝国を築き上げた王でした。彼はイスラエルの人々からも深い尊敬を集めていました。実際、第二イザヤはキュロスを讃えてこう記しています。45章1節からお読みします。
主は、油そそがれたキュロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」
油注がれた者とはすなわちメシア、ギリシア語の「キリスト」です。ですからイスラエルの預言者イザヤは異教徒のペルシアの王キュロスのことを「キリスト」と呼んでいるのです。アケメネス朝の国教はゾロアスター教だったと言われていますので、キュロスはイスラエルの神の信仰者ではありませんでした。ユダヤ人以外の異教徒の王が「キリスト」と呼ばれているのはこのキュロスだけですから、ユダヤ人にとってキュロスという人物がどれほど重要だったか、分かろうというものです。実際、キュロスはユダヤ人にとっての救世主でした。キュロスによってバビロンに囚われていたユダヤ人たちはエルサレムに戻ることが許され、さらにキュロスはエルサレムに戻ったユダヤ人たちが神殿を再建するのを助け、資金援助をしています。まさにキュロスはユダヤ人の宿敵であるバビロンを滅ぼし、彼らを祖国に帰してくれた救世主だったのです。イザヤ書40章から48章までは、このキュロスによってユダヤ人たちがバビロンから解放される様子を描いています。それは「政治的」な解放であり、キュロスの軍事力によってそれは成し遂げられました。
しかし、第二イザヤでは、もう一人の救世主が登場します。その人物が成し遂げるのは、キュロスのような政治的解放ではなく、精神的または霊的な解放です。そしてその人物はキュロスのように軍事力を用いることなく、むしろその苦難を通じてイスラエルを霊的に解放するのです。その人物は「苦難のしもべ」と呼ばれますが、その名前は明かされていません。そして、その謎めいた人物が主役として登場するのは49章以降です。彼のことを描いている箇所をいくつか読んでみましょう。まず49章4節です。
しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」
また、50章4節から6節までをお読みします。
神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者にも私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
このように、主に従うしもべは人々から受け入れられず、むしろ侮辱されたりひどい扱いを受けます。これはイスラエルの預言者の宿命とも言えるもので、先々週取り上げたエレミヤもこのような扱いを受けていました。この「苦難のしもべ」と呼ばれる人物も、イスラエルの歴代の預言者たちと同じく人々からの迫害を受けながらも主の道を宣べ伝え、人々を励まします。そして、そのようなしもべの働きを通じて「福音」がイスラエルにもたらされます。
52章7節以降には、神がシオンに戻られて救いをもたらすことが「福音」として語られています。そこをお読みします。
良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る。
この一文は、「福音」とは何かを示すものです。福音とは、イスラエルの神が世界の王となられる、神ご自身がこの世界に正義と平和に基づく支配を行われる、「あなたの神が王となる」ということです。私たち福音派は、福音とは「イエス様を信じれば罪赦されて救われる、天国に行ける」ことだとついつい考えてしまいますが、実際は福音とは「神ご自身が王としてこの世界を正しく支配してくださる」ということなのです。私たち殆どすべての人は、現在の支配者に何かしらの不満を持っています。金銭的な面で不正をする政治家が嫌われるのはもちろんですが、たとえそういうことをしない清廉潔白な政治家だとしても、世界の問題を解決するには力不足なのではないか、と思われる政治家も少なくありません。そんな中で、全能の神様ご自身がそうした支配者に代わって正しい政治を行ってくださるとしたら、それは確かに素晴らしいこと、良い知らせなのではないでしょうか。
しかし、神様がこの世界を支配するというのは具体的にはどういう意味なのでしょうか?そもそも神様は霊であり、私たち人間には見ることも聞くことも触ることもできません。神様が人間の王様のように、私たちの目の前に現れることはないのです。その見えない神様が、いったいどうやって王としてこの世界を治めるのでしょか?イザヤは、「主はすべての国々の目の前に聖なる御腕を現した。地の果てもみな、私たちの神の救いを見る」と語りますが、私たちはどのようにして見えない神様の栄光を見るのでしょうか?イザヤはその答えを私たちに与えてくれます。私たちは「苦難のしもべ」の苦しむ姿を通じて、全能の神の力強い働きを見るというのです。これはまったく理解に苦しむ、矛盾した知らせではないでしょうか?先ほどの世界帝国を作り上げたキュロス王や、あるいはローマ帝国のユリウス・カエサルやナポレオンのような偉大な王の働きの中に神の力を見るというのなら話は分かりますが、人々の無理解に悩み苦しむ人物の苦悩の中に、どうやって神の全能の力を見ることができるのでしょうか?しかし、イザヤはまさにその人にこそ、神の聖なる御腕が現れるというのです。イザヤはこう書いています。
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたか。
イザヤは、主の御腕が世界に示されるというビッグニュースについて語りますが、誰もそれを信じられなかった、と言います。同じことは、すぐ前の52章13節と14節にも書かれています。
見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、-その顔だちは、そこなわれていて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた―そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
ここには矛盾した内容が書かれています。しもべと呼ばれる人物は、あらゆる者の上に立つ存在として非常に高められます。まさに王の中の王となるということです。それなのに、そのしもべの姿はひどく損なわれ、見るに堪えないものだとも言われています。人々から蔑まれるような人物があらゆる人の上に立つという驚くべき知らせを前に、王たちは口をつぐむだろうということが言われています。
この不思議な「しもべ」について、イザヤ書53章は語ります。2節の途中からお読みします。
彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
こうした記述を読むと、このしもべは王の中の王どころか、私たちの目から見ても気の毒な、可哀そうな人しか思えません。では、なぜこのような人物が神によってすべての上に立つ人物にまで高められたのでしょうか?それは彼がその人生において王たる人物に相応しいあり方、王道を示したからです。そしてその王道は、世間一般の王道とは正反対のものでした。
この世では、偉い人たちは自分たちの悪事や悪行の責任を取りません。それを下の者たちに押し付けます。「私は何も知りませんでした。秘書が勝手にやりました」というセリフを私たちは何度聞いてきたでしょうか。多くの人はそれが嘘だと直感的に気付くのですが、しかしそれがこの世の在り方としてまかり通ってきました。私たちの世界では、偉くなればなるほど罪を問われないということになります。最近も某超大国の大統領が自分の息子の罪を帳消しにしました。偉くなれば罪を問われない、法律を超越した存在になれる、それが分かっているからこそ、多くの人は偉くなろうとするのです。しかし、このしもべはそれとは正反対です。彼は自ら他人の罪を背負うのです。人に自分の罪をなすりつけたりすることなく、むしろ人々の罪の重荷を背負ってくれるのです。これが神の前に正しい王としての在り方、真の王道なのです。しもべはそのようにして上に立つ者としての正しい在り方を自分の生きざま、そして死にざまを通じて世界に示しました。だからこそ、神は彼をあらゆる者の上に立つ存在としたのです。
しかし、そんな奇特な人がこの世にいるのだろうか?と思われるかもしれません。それがいたのです。それがイエス・キリストであり、その十字架なのです。イエス・キリストはそれを成し遂げたからこそ、あらゆる者の上に立つお方とされたのです。この方こそ、イザヤの示す苦難のしもべの正体なのです。
このように、主イエスは私たちの罪の重荷を担ってくださいました。私たちは、だからといって、イエス様のおかげで助かったよ、私たちはこれで苦しまずに済んだ、などと考えるべきではありません。なぜなら、「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(一ヨハネ2:6)とヨハネが語っているように、私たちもまた、イエスの十字架を模範として歩まなければならないからです。神の国、神の支配に参加するということは、人の上に立って王のように命令することではなく、むしろイエスのように人のしもべとなって歩むということです。人に罪をなすりつけるのではなく、むしろ自らが人の罪を背負う、それが神の国の生き方です。楽ではないのです。簡単でもありません。しかし、そのように歩まなければいつまでたってもこの世界に真の平和が訪れないのも事実です。私たちが作り上げるべき共同体、世界とは互いに仕え合う共同体、世界です。暴力や強制によって敵を打ち倒すこの世の帝国とは全く異なっています。それが神の国が天におけるように地にも到来するということです。もちろん、私たちは一朝一夕にイエスのように歩めるようになるわけではありません。すぐに神の国、神の支配がこの世に実現するのでもありません。私たちはいつもイエスを見上げ、それを目指して一歩一歩歩んでいくしかないのです。そのような思いを胸に、アドベントの最後の一週間を歩んで参りましょう。お祈りします。
王となるために僕として歩まれた平和の主よ、そのお名前を賛美します。あなたは私たちにまことの人間としての在り方、まことの王としての在り方を示してくださいました。私たちもそれに倣って歩むことができるように、上よりの助けをお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン