永遠の王国
ダニエル7章1~28節

みなさま、おはようございます。今朝はアドベント、待降節の第二主日になります。先週もお話ししましたように、アドベント期間中はこれまでのサムエル記の講解説教から離れ、アドベントにふさわしいと思われる箇所からメッセージさせていただきます。先週はエレミヤ書からのメッセージでしたが、今朝はダニエル書からのメッセージになります。

そこで、このダニエル書という文書の概要をまずお話ししたいと思います。預言者ダニエルという人物は、バビロン捕囚の民の一人だと言われています。南ユダ王国は大国バビロンに敗れ、紀元前597年と紀元前587年の二度にわたってユダ王国の主だった人々はバビロンに捕虜として連れて行かれたのですが、ダニエルはその中の一人だということです。ダニエルは連れて行かれた先のバビロンと、後にバビロンを滅ぼして中近東の覇者となったペルシアの二つの帝国の宮廷に仕えたユダヤ人だとされます。ただ、このダニエル書自体が完成したのはそれよりずっと後の時代、バビロン捕囚から三百年後の紀元前二世紀ごろだったとされています。実際、ダニエル書が完成したのは旧約聖書のすべての文書の中でも一番最後だと考えられています。つまり、ヨハネ黙示録が新約聖書の最後の書であるように、ダニエル書も旧約聖書の最後の書だということです。

そして、この二つの文書には興味深い共通点があります。それはどちらも「黙示文学」と呼ばれていて、主に終末の出来事を扱っているということです。ダニエル書には、終わりの時にすべての人、善人も悪人もあらゆる人が復活して裁きを受けるという明確な思想が表明されています。それは聖書で初めて表明されたものです。しかし、さらに重要なことは、ダニエル書がイエス・キリストの宣べ伝えた福音、つまり「神の国」の到来を予告していることです。ダニエルはそれを神の国とは呼ばずに永遠の国、永遠の王国と呼んでいます。ダニエル書の中でも特に2章と7章はその永遠の王国についての預言となっています。今日はダニエル書7章を読んでいただきましたが、そこを詳しく見ていく前に、その7章と並行関係にある2章をまず見ていきたいと思います。 

ダニエル書の2章は、バビロンの王ネブカデネザルが不思議な夢を見たというところから話が始まります。王はその夢にうなされ、心を騒がせていました。古代世界では、夢は神のお告げだとも考えられていたので、王はなんとしてもその意味を知りたいと願いました。そこでネブカデネザルはバビロン中の知者を呼び集め、自分の見た夢を解き明かすようにと命じます。しかも、自分の見た夢がどんなものかは明かさずに、まず自分の見た夢を言い当てて見よ、と命じたのです。ネブカデネザルは知者たちが自分の夢にもっともらしい解釈を施して言い逃れるのを警戒したのでしょう。しかし、そのような要求を出されたバビロンの知者たちはたまったものではありません。なんとかその夢の内容を教えて下さいと王に願います。しかしそれを聞いたネブカデネザルはむしろ怒り狂い、お前たちは皆死刑だ、と言い出します。

この状況に皆が困り果てたときに、捕囚の民の一人で神の知恵を宿すと評判だったダニエルに声がかかります。ダニエルはイスラエルの神に願い、王の見た夢の内容とその解き明かしを神から授かります。そしてダニエルはネブカデネザル王の前に出て、解き明かしを行います。ダニエルは、王が見た夢とは強大な像についてであると語ります。この像は頭が金、胸が銀、腹が銅、そして足は鉄と粘土でできていました。しかし、一つの石が人手によらず切り出され、その石が巨像を打つと、像は粉々になりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちるという、そういう不思議な夢でした。ダニエルは次いで、その意味を説明します。金・銀・銅、そして鉄と粘土はそれぞれ世界を支配する四つの帝国を指すというのです。最初の金の帝国とは、ネブカデネザルが治めるバビロニア帝国です。その後にも次々と帝国が興りますが、しかしそれらすべての帝国を打ち破るような王国を神自身が起こします。巨像を打った石は、その神がもたらす国、「神の国」を表しているのです。ダニエル自身のことばでそのことを見てみましょう。2章44節です。

この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることはなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。

この永遠の国こそ、主イエスが宣べ伝えた「神の国」なのです。

このダニエル書2章を踏まえたうえで今日のダニエル書7章を読むと、いろいろなことが見えてきます。7章はネブカデネザル王の時代ではなく、バビロニア帝国の最後の王であるベルシャツァルの時代の出来事です。今度は王ではなく、ダニエル本人が夢を見ます。そしてダニエルの見た夢は、明らかに先にネブカデネザル王が見た夢と深い関係があります。ネブカデネザルの見た夢では、バビロンから始まる四つの世界帝国はそれぞれ金・銀・銅・鉄で表されましたが、ダニエルの夢では四匹の獣として表わされています。第一の獣は翼を持つ獅子、ライオンでした。これは明らかにバビロニア帝国を表象しています。その獣には人間の心が与えられたと言われていますが、これはダニエル書4章の出来事、つまりネブカデネザル王が神によって試練を受けて、その結果神を畏れる心を与えられたことを指していると思われます。二匹目は熊です。この熊は何を指すのかについてはいろいろな意見がありますが、普通に考えればバビロンを倒して次の覇者となったキュロス王の率いるアケメネス朝ペルシアだということになるでしょう。ペルシアは中近東のみならず、東はインドとの国境まで、南はエジプトを征服し、ヨーロッパのマケドニア地方の一部まで支配するという、まさに空前絶後の大帝国でした。そしてその次の獣はひょうでした。ひょうは足の早い俊敏な動物ですので、あっという間に旧ペルシア帝国の領土を征服したアレクサンダー大王のことを指しているのかもしれません。つまり第三の獣はギリシアだということです。この獣には四つの頭があるということですが、これはディアドコイと呼ばれるアレクサンダー大王の後継者たちのことだと思われます。アレクサンダー大王は早死にし、帝国は分裂して王たちが互いに争う時代になりました。そして第四の獣ですが、これは他の獣とは違って圧倒的に強く、すべてを踏みつぶすと言われています。この第四の獣が何を指すのかいついても学者の間ではいろいろな意見がありますが、少なくともイエスの生きた紀元一世紀においては、この獣はローマ帝国を指すのだと多くのユダヤ人によって信じられていました。この第四の獣の時代に、神は永遠の王国を打ち立てるというのがダニエルの見た夢のメッセージだったのです。

実際、このダニエルの預言はイエスの時代のユダヤ人たちに大きな希望を与えました。というのも、イエスが十字架に架かってから約四十年後、ローマ帝国に支配されていたユダヤ人たちはローマに対して反乱を起こします。そして8年間も戦い続けた挙句、首都のエルサレムは破壊され、エルサレムにあった壮麗な神殿は跡形もなく壊され、ユダヤ民族は国を失ってしまいました。普通に考えれば、小さな植民地に過ぎないユダヤ民族が圧倒的な軍事力を持つローマと戦って勝てるはずがないのですが、しかしユダヤ人たちは勝てると信じて戦い続けたのです。彼らの自信は何の根拠のない自信だったのでしょうか?いえ、そうではありません。彼らは自分たちの勝利は聖書に予告されていると信じていたのです。そして彼らの根拠となったのが、このダニエル書の2章と7章の預言でした。

紀元一世紀のユダヤ人にヨセフスという人物がいます。彼は貴族の生まれで祭司であり、またローマとの戦争に加わった司令官でもあったのですが、実際にローマと戦ってみて、これは到底勝てる相手ではないということを思い知り、ローマに降って後のローマ皇帝となるウェスパシアヌスから取り立てれられ、ローマお抱えの歴史作家になった人です。彼は自分自身も従軍したこのユダヤ戦争についての歴史書を書き残していますが、そこにはなぜ同胞のユダヤ人たちがこの無謀な戦争にのめり込んでいったのか、その理由が書かれています。

しかし、他の何にも増して彼らを戦争へと駆り立てたのは、ある一つの曖昧な託宣だった。その託宣もまた、彼らの聖なる書に見いだされるものだった。それは、この時代に彼らの国から現れる者が世界の支配者になるだろうという趣旨の託宣だった。彼らはその人物が彼ら自身の民族に属する者だと理解し、そして多くの賢明な者たちがその解釈によって道を誤ってしまった。しかし、実際にその託宣が告げていたのは、ユダヤの地で皇帝であることを宣言したウェスパシアヌスの統治のことだったのだ。とは言うものの、人は自分の運命から逃れることはできない。たとえそれを予見していたとしても。それで、それらの凶兆のいくつかをユダヤ人たちは自分に都合の良いように解釈し、他のいくつかについては馬鹿にして取り合わなかった。彼らの国土と彼ら自身の破滅が、彼らに自分たちの愚かさを気づかせてくれるまでは。(「ユダヤ戦記」より引用)

ここでヨセフスが言っている、ユダヤ人の聖なる書、つまり聖書に書かれた「曖昧な託宣」とはダニエル書のことだと思われます。それは、ダニエルが幻で見た第四の帝国、つまり無敵のローマ帝国の時代に、石が巨像を打って粉々に破壊したように、一人の神に選ばれた人物が現れて永遠の王国を打ち立てるという預言のことです。ユダヤ人たちは、ローマを倒すために神がメシアと呼ばれる救世主を遣わし、自分たちを勝利に導いてくれると信じたのです。しかし、ユダヤ人のヨセフスは、なんとその石とはユダヤのメシアのことではなく、ユダヤを倒すためにローマから派遣されていたローマの将軍ウェスパシアヌスだと宣言したのです!それを聞いたウェスパシアヌスは大変喜び、ローマに抵抗したヨセフスの罪を赦して彼を従軍作家に取り立てたのでした。実際、ウェスパシアヌスは次のローマ皇帝になるのですが、彼の王国は永遠でも何でもなく、彼の王朝は僅か三代で途絶えてしまうのですが...

ともかくも、このダニエル書2章と7章はイエスの時代の多くのユダヤ人たちの愛読書であり、彼らはこの書を読んではローマ帝国を打ち倒して神の国を打ち立てることを夢見ていたのです。そして人々の中には、イエスこそこのローマを倒してくれるメシアではないか、と期待する人たちもいました。イエスが十字架刑で死んだ後、エマオへの道を歩いていた弟子たちは、「ナザレ人イエスのことです。[…]私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました」(ルカ24:19, 21)と語りましたが、イスラエルを贖うとはイスラエルをローマの支配から解放するという意味です。人々は、イエスがローマをやっつけてくれると期待していたのに、かえってローマの手で殺されてしまい、それでがっかりしていたのです。

しかし、彼らはダニエル書の預言を誤解していたのです。誤解といっても、ヨセフスの言うようにこれがローマの新しい皇帝の誕生の預言だった、ということではもちろんありません。むしろ、彼らはダニエル書に書かれた大事な一文を見落としていた、いやあえて読まないようにしていたのです。それが7章21節です。そこをお読みします。

私が見ていると、その角は、聖徒たちに戦いをいどんで、彼らに打ち勝った。

ダニエルは、神の民が第四の獣、すなわちローマと戦ってこれに勝つ、とは預言していないのです。むしろ反対に、「負ける」とはっきり書いてあるのです。ここだけではありません。25節にもはっきり書かれています。

彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。

聖徒たちは敗れ、獣の手にその命運を握られてしまうのです。しかし、その負けたはずの神の民は、天に上げられて、神の前に導かれ、そこで神から永遠の王国を授けられる、これがダニエルの預言の驚くべき内容なのです。獣に裁きを下すのは、人ではなく神です。神の民が戦争でローマに勝つのではなく、むしろ神のみがローマに裁きを下す、これがダニエルの「曖昧な託宣」なのです。そして神の民が永遠の王国、神の国を授けられる様子をダニエルは次のように記しています。13節からお読みします。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

イエスは繰り返し、この幻が自らにおいて成就すると語りました。イエスは弟子たちに、あるいはイエスを滅ぼそうとする大祭司たちに、「あなたがたは人の子が雲に乗って来るのを見るだろう」と語られました。その意味は、しばしば誤解されるようにイエスが地上に再臨するのをもうすぐ見るだろうという意味ではなく、むしろ天上でイエスにすべての主権が授けられたこと、今やイエスが全世界の王とされたことを知るだろう、という意味なのです。

イエスは戦いで勝つことを通じてではなく、むしろ負けること、武器を取らずに戦わないことを通じて栄光を受けたのです。これが、まさに逆説的ですが勝利への道、神が示す十字架の道なのです。

そして大事なことは、このことはイエスの場合にのみ当てはまることではありません。イエスに従う人々にとっての勝利の道も、武器を取って戦うことではなく、むしろイエスにしたがって十字架を負うこと、敵を憎んで殺すのではなく、敵を理解しようと努め、敵を愛することなのです。そんなことをすれば敵から容赦なく殺されるだけではないか、殺される前に殺す、これが悪者に対峙する唯一の道ではないか、という人もいるでしょう。確かにそれもこの世の知恵としては正しいのです。しかし、神の知恵は人の目には愚かに見えても、むしろ敗北を受け入れるようにと私たちを諭すのです。このことをダニエル書以上にはっきりと指し示しているのが新約聖書の最後の書、ヨハネ黙示録です。とりわけその11章の「二人の証人」の幻です。しかし、今回の説教ではそこまでは触れません。

まとめになります。今日は預言者ダニエルが見た幻の意味を考えて参りました。確かにダニエルは、ローマ帝国の時代に神の国が到来すると預言しました。ですからイエスの時代の人々が、神の国の到来が差し迫っていると考えたこと自体は間違ってはいなかったのです。しかし、彼らが間違っていたのは、神の国がどのようにして来るのか、その道筋についての理解でした。彼らは暴力によって、戦争によって神の支配が実現すると考えてしまったのです。だから彼らは平和を唱えるイエスを敗北主義だと切って捨て、受け入れなかったのです。

しかし、そのような誤解はユダヤ人だけのものではありません。むしろイエスを信じているはずのキリスト教徒たちの方が、よほどイエスの教えを誤解するか、あるいは無視してきたのではないでしょうか。私たちはキリスト教の二千年の歴史を振り返って、このような悔い改めの心を持つべきではないでしょうか。宗教改革の後にドイツで起こった三十年戦争で、カトリックとプロテスタントの間での戦争のために何とドイツの人口の三分の一が死にました。福音の真理のためにはどれほどの犠牲が出ても仕方がなかったと言うべきなのでしょうか?いいえ、福音の真理のためなら、なおのこと戦うべきではなかったのです。この戦争に振り回される今日のような時代にあって、私たちは主イエスの教えに固く立つべきです。アドベントはそのような心持で歩みたいと願うものです。お祈りします。

平和の主よ。そのお名前を賛美します。今朝はダニエル書の預言を通じて神の国、永遠の王国がどのようにして到来するのかを学びました。私たちが戦争に明け暮れたキリスト教の歴史を心から反省し、福音の真理に生きることができるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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