みなさま、おはようございます。いよいよ本日から待降節、アドベントに入ります。アドベント期間中は、これまでのサムエル記からの講解説教からは離れ、アドベント、つまり主のご降誕を「待ち望む」というこの期間にふさわしいと思われる箇所からメッセージをさせていただきます。そして第一アドベントの今日はエレミヤ書からです。私が当教会に赴任して最初にさせていただいたのがエレミヤ書からの講解説教なので、久しぶりの同書からのメッセージとなります。
今日の箇所は、エレミヤ書の中でも最も希望にあふれた、前向きなメッセージを含む聖書箇所です。神とイスラエルとの特別な関係は、イスラエルの罪のゆえに壊れてしまいましたが、神はイスラエルと再び新しい契約を結ぶ、と約束しているからです。その新しい契約はイエス・キリストによって結ばれた、というのが私たちクリスチャンの信じるところです。ですからこの箇所はイエス・キリストの大切な働きを預言する、非常に重要なところなのです。
けれども、エレミヤ書においてはこのような明るい未来を展望する箇所は実は大変少ないのです。例外的とすら言えると思います。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、エレミヤ書は確かに涙なしには読めないようなところがたくさんあります。そして、このエレミヤの苦難の預言者としての歩みは、そのまま主イエスの苦難の人生を先取りしたようなところがあります。そのような意味で、主イエスのご降誕を待ち望む時期にエレミヤ書を改めて読むことには大きな意味があると私は考えています。
では、なぜエレミヤはそんなに苦しい人生を歩まなければならなかったのでしょうか?それは、彼が人々の聞きたくない、人々を嫌な思いにさせるメッセージを語ったからです。エレミヤのメッセージは人々をイライラさせる、不愉快なメッセージだったのです。エレミヤがどんなことを語ったのか、私たち日本の歴史を振り返りながら考えてみましょう。私たち日本は、戦後は平和国家として歩んできましたが、戦前は戦争に次ぐ戦争、戦争に明け暮れる日々を送っていました。そんな時代に、人々が一番喜ぶニュースは「戦争に勝った!」というニュースでした。大国中国に勝った、ロシアに勝った、日本は今や世界の一等国だ、と人々は興奮したのです。いつしか日本は絶対負けないのだ、という根拠のない自信を人々は抱くようになりました。
しかし、そのような時代に「日本は必ず戦争に負ける」、「日本の国力の何倍もあるアメリカのような大国に勝てるはずがない。はやく降伏して命乞いしなさい」などと叫ぶ人がいたら、周囲の人たちは激怒したことでしょう。「非国民」と呼ばれて石を投げられたり、最悪の場合は命さえ危なくなったことでしょう。そして、エレミヤはまさにそのようなことをイスラエルの人々に語ったのです。そのような箇所を一つ読んでみましょう。エレミヤ書38章1節から4節です。これは、エルサレムがバビロン軍の大軍に包囲されて、籠城戦をしている時の話です。
さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは彼の分捕り物として彼のものとなり、彼は生きる。』主はこう仰せられる。『この町は、必ずバビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」そこで、首長たちは王に言った。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」
このように、バビロンの猛攻に必死に耐えているイスラエルの人たちに対して、「お前たちは必ず負ける。無駄な抵抗は止めなさい。降伏すれば命だけは助かる」と叫ぶエレミヤは、裏切り者として人々からひどく嫌われました。この時エレミヤは捕まって、不衛生な牢屋に入れられて、死にかけています。
このバビロンに包囲されている時だけでなく、バビロンとの戦争が始まる前、平和な時ですら、エレミヤは盛んにバビロンに仕えろ、逆らってはならないと預言していました。ユダ王国の王様に対してですら、繰り返しそう語ってきたのです。その箇所を読んでみましょう。27章の8節から12節をお読みします。
バビロンの王ネブカデネザルに仕えず、またバビロンの王のくびきに首を差し出さない民や王国があれば、わたしはその民を剣と、ききんと、疫病で罰し ―主のみつげ― 彼らを彼の手で皆殺しにする。だから、あなたがたは、バビロンの王に仕えることはない、と言っているあなたがたの預言者、占い師、夢見る者、卜者(ぼくしゃ)、呪術者に聞くな。彼らは、あなたがたに偽りを預言しているからだ。それで、あなたがたは、あなたがたの土地から遠くに移され、わたしはあなたがたを追い散らして、あなたがたが滅びるようにする。しかし、バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える民を、わたしはその土地にいこわせる。 ―主の御告げ― こうして、その土地を耕し、その中に住む。』」ユダの王ゼデキヤにも、私はこのことばとおりに語って言った。「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。どうして、あなたとその民は、バビロンの王に仕えない国について主が語られたように、剣とききんと疫病で死んでよかろうか。」
このように、ユダ王国の王様に対してでさえ、その首をバビロンの王に差し出せ、と語ったのです。一度ならず、何度もです。しかし、自分たちは神に選ばれた特別な民族であり、バビロンは偶像を拝む神に背く国であると信じるイスラエル人にとって、エレミヤのいうことは到底受け入れがたいものでした。実際、過去の預言者たちも、ここまで露骨に外国に仕えろと叫んだ預言者はいませんでした。預言者イザヤは、大国エジプトに頼って彼らと同盟を結ぼうとするユダ王国の指導者たちを皮肉って、次のように言っています。
あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわかに水があふれ、超えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」(イザヤ28:15)
イザヤは、繰り返しイスラエルの指導部に対し、大国に頼るな、どの国にも仕えるな、ただイスラエルの神にのみ仕えなさい、と語っていました。そのようなイザヤの言葉を覚えている人たちにとって、異教の神々を礼拝するバビロンに仕えろというエレミヤのメッセージは、異様なものとして聞こえたかもしれません。
人々の中には、バビロンに降伏しろ、仕えろとしつこく叫ぶエレミヤはバビロンのスパイなのではないかと疑う人までいました。その場面を読んでみましょう。37章の11節以降です。
カルデヤの軍勢がパロの軍勢の来るのを聞いてエルサレムから退却したとき、エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子イルイヤという名の当直の者がいて、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか」と言って預言者エレミヤを捕らえた。エレミヤは、「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕らえて、首長たちのところに連れて行った。
この場面は、エルサレムを包囲していたバビロン軍が、エジプトがユダ王国を助けにきたという知らせを聞いて、一旦退却したところです。エルサレムを出ようとするエレミヤのことを、退却するバビロン軍に合流しようとしていると思ったのでしょう。エレミヤが普段からエルサレムの人たちからどのように見られていたのかが分かろうというものです。つまり、エレミヤはバビロンに内通していて、エルサレムの人たちの士気を内側から無くさせようと画策していると思われたのです。
このように、エレミヤの苦難、同胞からのひどい仕打ちの原因の多くは、敵であるバビロンへの降伏を呼びかけたことによる反発だったことがわかります。
そして、こうした苦しい状況をなんとも思わないほどエレミヤは鋼のメンタルを持っていたわけではありません。それどころか、エレミヤは非常に感受性の強い人で、孤独に悩んでいました。エレミヤは故郷アナトテの人たちから命を狙われたこともあったので、親兄弟との関係は良くありませんでした。さらには結婚もしていなかったので、問題を一人で抱え込まなければならない状況にいました。エレミヤ書には、この預言者の内面の葛藤をつづった箇所が数多くあります。エレミヤの告白と呼ばれる箇所ですが、それらの箇所を二つ読んでみましょう。まず15章17節と18節です。
私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。
もう一か所お読みします。20章7節以降です。
主よ。あなたが私を惑わしたので、私はあなたに惑わされました。あなたは私をつかみ、私を思いのままにしました。私は一日中、物笑いとなり、みなが私を嘲ります。「暴虐だ。暴虐だ」と叫ばなければなりません。私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです。私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。
このように、エレミヤは主のことを「当てにならない」とか、「私を欺いた」とまで言うほど精神的に追い込まれていました。そんな状況でも、なぜ彼は語り続けたのか。それは同胞の命を一人でも救いたかったからです。戦いで命を落としてはいけない。たとえ屈辱的であっても、敗北を受け入れて生きなさい、というのがエレミヤのメッセージでした。
しかし、これは大変勇気のいるメッセージです。人々は負けるぐらいなら、悪の力に屈服するぐらいなら、潔く死んだ方がよい、と考えてしまうものです。エレミヤの時代から、いきなり現代の問題に話題を変えてしまうのをお許しいただきたいのですが、朝日新聞の記者をしていた副島英樹さんという方は、現代は「殺すな」と言いにくい空気があると語っています。ウクライナ戦争について論じた彼の著者から引用させていただきます。
そうした中、「ウクライナが負けないように武器支援すべきだ」という「戦え一択」の主張が朝日新聞を含む日本の大手メディアでも当然のように流され、それが「ロシア憎し」の感情にとらわれた世論と共鳴し合う様相になった。憎きプーチンをたたくためなら、ウクライナ市民の多少の犠牲はやむを得ないという思考に陥ってはいないだろうか。「戦え一択」の思潮には疑問をぬぐいされない。(「ウクライナ戦争は問いかける」)
かつての日本人は、「これは正義の戦争だ」と信じ、「欲しがりません、勝つまでは」と犠牲をものともせずに戦い続け、300万人もの犠牲者を出しました。その経験から、もう武力、軍事力で問題を解決しない、勝つためには多少の犠牲が出ることはやむをえないという考え方は捨てることを誓ったはずです。しかし今の日本は急速に別の空気に覆われている気がします。そういう中で、エレミヤの「負けなさい。降伏しなさい」というメッセージは衝撃的です。しかし勝利よりも一人一人の命の方が大事だ、というのは青臭い理想論ではなく、非常に大事な主からのメッセージなのではないでしょうか。
主イエスも、エレミヤと同じような時代に生きていました。先週もお話ししましたが、ローマ帝国の植民地になってしまったユダヤの人々は、ローマの課す重税と、逆らう者への暴力に怒りをたぎらせて、暴動を繰り返し、ついには八年間に及ぶローマとの大戦争に突入してしまいました。その結果は夥しいほどの死者と、国を失うという悲劇でした。イエスは暴力による解決を求める人々を戒め、敵を愛する、つまり敵を理解して、暴力とは別の方法で事態を打開する道を示そうとしました。しかし、人々はイエスの示す平和の道を選ぼうとはしませんでした。そのことを主イエスは嘆かれました。ルカ福音書19章41節以降をお読みします。
エルサレムが近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
主イエスが本当に神から遣わされた神の子であることを知り、彼の教えに聞き従っていれば、エルサレムは最悪の破局を免れることが出来たはずでした。しかし、エレミヤの教えを無視して破局に突き進んだイエスの時代から六百年前のエルサレムの人々のように、イエスの時代の人々も破局への道を選んでしまいました。
私たち日本人も、かつて80年ほどまえに破滅を経験しています。その記憶を忘れてはいけません。軍事に頼れば、さらに大きな軍事力によって滅ぼされます。そのような轍を二度と踏まないように、このアドベントの季節に私たちは改めてエレミヤのメッセージ、主イエスの平和のメッセージを聞くことを願うものです。
最後に、今日のテクストを見てみましょう。この箇所は、特にエレミヤの新しい契約の約束のところが有名ですが、しかし私が一番好きなのはそこではありません。私の愛唱聖句は26節です。そこをお読みします。
―ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。―
神から厳しいメッセージを託され、それを人々に伝えなければならなかったエレミヤはそのために人々から憎まれ、厳しい孤独な人生を送りました。眠れぬ夜も何度もあったことでしょう。そのエレミヤが、本当にここちよく眠ることが出来た夜がありました。その時、主はエレミヤに慰めのメッセージ、希望のメッセージを授け、その美しいヴィジョンをエレミヤに見せたのです。破局の先にある希望を垣間見て、エレミヤの心は満たされました。彼はぐっすりと、心から安心して眠ることができたのです。そのエレミヤの見たヴィジョンは、彼の時代から六百年後にお生まれになった主イエスによって成し遂げられました。主イエスは命をかけて、新しい契約を結ばれたのです。私たちはその新しい契約に招かれた人たちです。そのことを覚え、感謝し、私たちもまた、勇気を持って主イエスの掲げた平和への道を歩んで参りましょう。お祈りします。
エレミヤを召し、叱咤激励し、また慰められた神様、そのお名前を賛美します。今日は改めてエレミヤのメッセージを学びました。悪に勝つためには多少の犠牲も仕方がないという空気に支配されつつある今日において、エレミヤのメッセージは非常に大切な主の御心を語っています。私たちもエレミヤの、そして主イエスの教えに従って歩むことができるように、力をお与えください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン