1.序論
みなさま、おはようございます。毎月月末は、サムエル記から離れて新約聖書のヤコブの手紙からメッセージをさせていただいております。そのヤコブの手紙も、終盤にさしかかって参りました。ヤコブの手紙ではとりわけ貧しさや富の問題がクローズアップされていますが、今日のみことばもまさにそのような内容になっています。
さて、私たち誰もが感じていることですが、ここ数年の物価の上昇は驚くべきものがあります。ずっとデフレでモノの値段は上がらない、あるいは下がるという状態に慣れてしまった私たちにとって、この物価上昇は大変きついものに感じられます。値段が上がっているものも、住宅のような一生に一度の買い物から日用品に至るまで、あらゆるモノの値段が上がっています。日本人の日々の食卓に欠かすことのできないお米は、感覚的には倍近くに値上がりしているようにすら思えますが、報道でも60%の上昇だということです。こういう時に、お金の心配がないお金持ちはいいなあ、と思うのが庶民の気持ちでしょう。しかし、今日のみことばでは、金持ちに対して非常に厳しい言葉が向けられています。読んでいると、財産を持つのは悪いことのようにすら思えてきてしまうのですが、しかしそういう単純な話でもありません。ヤコブは金持ちのどのような点を問題にしているのか、その背景をよく考えていく必要があります。
聖書を読むと、このヤコブ書に限らず神様は貧しい者の味方で、富んだ者には大変厳しいという印象を持たれるかもしれません。有名な話では、イエス様が神殿のお賽銭箱の前で、大金をポンと献金するお金持ちと、僅かな金額ながら全財産を献げた貧しいやもめをご覧になって、こう言われました。
まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費を全部投げ入れたからです。(マルコ12:43-44)
このように、主イエスはとりわけ貧しい人々の信仰心に目を留められ、称賛されました。また、ルカ福音書では、主イエスはご自身が貧しい人たちに福音を宣べ伝えている(ルカ7:22)と語り、特に福音宣教の対象として「貧しい人々」を名指ししています。さらには、マタイ福音書の「山上の垂訓」に対応するルカ福音書の「平地の説教」では、富んだ者と貧しい者がはっきりと対比されています。
貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。[…] しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。(ルカ6:20-21, 24-25)
マタイ福音書では「心の貧しい者」となっていて、精神的な貧しさ、乏しさについて語っているように見えますが、ルカ福音書では明らかに経済的な貧しさ、貧困や飢えについて語っています。このように、主イエスの教えにははっきりと経済的な弱者への慰めと、経済的に富んだ者たちへの警告というメッセージが込められています。
しかし、聖書全体を見回すと、単純にお金持ちが非難されているわけではありません。むしろその反対に見えるような箇所もあります。例えば箴言10章15節には次のようなみことばがあります。
富む者の財産はその堅固な城。貧民の滅びは彼らの貧困。
このように、財産は自分を守ってくれる良いものなのだ、というような見方があります。また、いわゆる自己責任論、つまり貧困は自らの怠惰が招いたものなのだという見方もあります。有名な箇所ですが、同じく箴言6章6節以降をお読みします。
なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時には食糧を集める。なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。
このように、聖書の中には私たちの貧困はだらしない生活を送ってきた私たち自身が招くものだ、というような見方も確かにあります。それも場合によっては真実でしょう。しかし、いくら頑張っても貧困から抜け出せないというような場合も確かにあるのです。そのような場合、貧困はその人のせいというより社会全体の問題、構造的な問題なのです。
そしてイエスが貧しい人たちを擁護し、富んだ人たちを糾弾したのは、個々人の生活態度についてというより、社会全体の歪んだ構造を非難していたと考えるべきです。というのも、イエスの時代の貧困者の多くは歪んだ社会の犠牲者だったからです。
イエスの時代に、人々から軽蔑されていた職業というか生き方は四つありました。「取税人」、「遊女」、「物乞い」、そして「強盗」です。それぞれ全然違う生き方のように見えますが、そこには共通点があります。それは、そうした生き方をしている人たちは好き好んでそういう生き方をしているのではなく、強いられて、あるいはやむを得ずにそういう生き方しか出来なかったということです。なぜならイエスの時代の人々の税金は大変重かったからです。日本の江戸時代には五公五民という言葉がありました。収穫の五割はお上に年貢として納めるということです。今で言うと税金50%です。五割も税金に取られたら、低所得の人は生きていけませんが、今の日本ではここまで税負担が重いのは高額所得者だけです。しかし江戸時代は貧しい農民も50%の税金を納めていました。大変な負担です。まさに「生かさず殺さず」という状態です。
しかし、イエスの時代の人々は江戸時代よりもさらに過酷な現実の中を生きていました。ユダヤ社会は逆累進課税、つまり貧しい人ほど税金が重く、お金持ちはほとんど税を納めずにますます肥え太っていくという社会だったからです。一般のユダヤ人は宗教税として収穫の2割から3割を大祭司たちに納めていましたが、他方でユダヤを植民地支配するローマ帝国にも2割から3割の税を納めていました。ですから二重課税で、ユダヤとローマに収穫の5割から6割を納めていました。税金が払えない場合は、ローマの取り立ては厳しいので借金をしてまでも税を納めますが、その借金が返済できないと担保の畑を取り上げられてしまいます。しかも、そうした貧しい農民から畑を取り上げてお金持ちになっていくのは宗教的なリーダー、大祭司たちでした。イエスの時代の大祭司は、ローマによって大地主から選ばれていたと言われているからです。ですから、なんとイエスの時代の大富豪とは宗教リーダーだったのです。
こうして畑をなくした農民は小作農となり、小作料を払わなければなりません。税に加えて小作料も、となると、なんと収穫の8割をもっていかれ、手もとに残るのはわずか二割です。日本の平均年収は四百万と言われていますが、それで考えると税で三百二十万円もっていかれて残りの八十万円で生活しろ、と言われるようなものです。でも、それでは生きてはいけないですよね。食うに困るとどうするか?今の時代の困窮した若者が闇バイトに堕ちていくように、当時のユダヤの若者は「強盗」になりました。強盗になるほどの元気のない人たちは「物乞い」になりました。他の人たちはローマに雇われて同胞のユダヤ人から税を取り立てる、嫌われ者の「取税人」になり、若い女性は自分の体を商品にする「遊女」になりました。このように、「取税人」、「遊女」、「物乞い」、そして「強盗」になる人たちは、追い詰められてそういう生き方しかできなくなってしまった人たちでした。イエスはそういう弱い立場にある人たちに寄り添い、そういう歪んだ社会を維持しようとしている金持ちたちを批判したのです。今日のヤコブの手紙も、そのような時代背景を踏まえたうえで読んでいきましょう。
2.本論
今日の聖書箇所は富の問題を扱っていますが、それは前回の箇所、特に4章13節から17節までも同じでした。そこでも、富を得ようとして商売に励む人のことが語られていました。しかし、前回の場合はヤコブが語りかけている相手は同じクリスチャンでした。主にある兄弟姉妹に対して、愛を持って諭すというような内容でした。それに対して、今回の箇所はヤコブは教会の外の人たちに向かって語りかけています。その激しい言葉は、社会的弱者を虐げる特定のグループの人たちに向けられています。その舌鋒は、社会に蔓延する不正を厳しく糾弾した預言者アモスの言葉を彷彿とさせます。アモスは、経済的繁栄の下で貧しい人たちが苦しめられている状況について、厳しい神の言葉を残した預言者です。そのアモスの言葉を一つ読んでみたいと思います。5章11節以降です。
あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。私は、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。それは時代が悪いからだ。
ここで「正しい者」となっていますがヘブライ語ではツァディク、つまり「義なる者」、義人となっています。貧しい人は義人だと言われているのですが、その義人を富んだ者たちが虐げているというのです。「義人」という言葉は、しばしば「義人はいない」、つまり人間は皆罪人なのだ、というような意味合いで使われますが、このように聖書はしばしば貧しい人たちのことを「義人」と呼んでいることに注意すべきです。そしてそれは今日のヤコブ書でも同じです。5章6節には、「あなたは正しい人を罪に定めて、殺しました」となっていますが、これは直訳すれば「あなたがたは義人を弾劾して、殺しました」となります。これは罪のない正しい人を冤罪に陥れて殺したというような話ではなく、もっと生々しい話、つまり凶作で小作農が払えない貧しい農民を、税を払わないと訴えて身ぐるみはがして生活を破壊する、というような話でしょう。つまり法律的には合法かもしれませんが、人間としては最低な振る舞いのことです。合法といっても、当時の慣習では、という話であり、神の律法に照らせば違法です。なぜならモーセの律法は同胞のユダヤ人に利子を取って貸しつけることを禁止しているからです。「金銭の利息であれ、食物の利息であれ、すべて利息をつけて貸すことのできるものの利息を、あなたの同胞から取ってはならない」という教えが申命記23章19節にあります。しかし当時のユダヤ社会ではいろいろ理屈をつけて利息を取らないという教えが空文化され、むしろ高利で貸して返せない場合は身ぐるみはがすというようなことが行われていたのです。そのような行動はバビロン捕囚後に行われていて、ネヘミヤはそれを厳しく叱責していますが、利子の禁止をユダヤ社会に徹底するのは非常に難しかったようです。
さて、最後の6節をまず取り上げましたが、最初に戻って1節から見て参りましょう。ヤコブは金持ちたちに「泣き叫べ」と厳しい警告を発しています。これは笑って満足している金持ちたちに、冷や水を浴びせるような言葉です。なぜ金持ちたちが泣かなければならないのか。それは、彼らの頼りにする大きな財産が、裁きの日には彼らに不利な証拠となる、不利な証言をすることになるからです。ヤコブはここで明らかに、私たちのこの世の人生を超えた、永遠の運命について語っています。ヘブル人への手紙には、「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)というみことばがありますが、ヤコブはそのことを言っています。この世で満ち足りで死んでいった金持ちたちは、それで終わりではありません。死んだ後に、私たちはどう生き方が問われるのです。その時には、地上で頼りにしていた金銀財宝は腐り、さび付き、虫に食われているというのです。あの世を待つまでもなく、この世においても財産は一瞬で失われることがあります。日本もこれから巨大地震が来ると言われていますが、その時に失われる富の巨大さは天文学的なものとなるでしょう。だから主イエスも天に宝を蓄えなさいと教えられました。その箇所をお読みします。マタイ6章19節以降です。
自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
このように、オレオレ詐欺に狙われてしまうようなこの世の富を蓄えるのではなく、天に蓄えなさいとイエスは教えます。では、どうすれば天に貯金することができるのか?それは、貧しい人たちにタダで与えことによってです。そうすれば、私たちは天に宝を積むことになりますし、その宝は詐欺被害で奪われることもありません。しかし、ヤコブが語りかける金持ちたちは、貧しい人たちに与えることをせずに、むしろ奪ってきました。正当な対価を払わずに彼らを安い賃金で働かせ、そのおかげで自分たちは金持ちになっているのです。しかし、こうした未払いの賃金もまた、終わりの日の審判に際しては、金持ちに不利な証拠となり、不利な証言をすることになります。この世ではうまく逃げきれたとしても、私たちの死後の魂さえ支配される神は、私たちに正当な裁きを下されるでしょう。
3.結論
まとめになります。今日のヤコブの手紙の内容は、貧しい人たちを虐げる金持ちについてであり、私たちには直接関係のない話のように思われたかもしれません。しかし、正当な賃金を払わないという話は現代にも大いに関係してくる話です。今日はグローバル社会だと言われています。世界中の国々が自由に結びつき、国境がなくなり、モノやカネが自由に行き来するようになりました。これは素晴らしいことだ、というようなことがよく言われます。しかし、問題も大きいのです。例えば私たちの日本では、最低の時給は千円ぐらいですよね。しかし、最低賃金が300円の国があり、しかもその国民はよく働く人たちだとします。企業の経営者としては、三分の一の賃金で働いてくれる人たちの方に仕事を回そうと考えます。しかし、そうなると日本での仕事は失われます。どんどん失われていきます。日本人は三倍も給料が高いのだから、三倍ぐらい価値のある仕事をしないといけない、そうでなければ仕事を失いますよ、というわけです。しかし、人間の能力は途上国の人も先進国の人もそんなに変わりません。同じくらいの資質・素質の人の三倍も価値のある仕事をしろと言われても、とても無理でしょう。たしかに、一部の特別優秀な人はそれくらい難なくできてしまうかもしれません。しかし、そんなことが出来る人はごく一部です。こうして、仕事を奪われた人はどんどん貧しくなり、モノが買えなくなります。企業としても、国民がどんどん貧しくなるので国内市場には見切りをつけて、海外で勝負しよう、海外で売ろうという話になります。そして海外市場で勝つためにますます安い労働力が必要になるので、ますます賃金の高い日本人は雇わなくなります。こうしてグローバル化が進めば進むほど、普通の日本人は貧しくなっていくのです。こういう現象が日本だけでなく、あらゆる先進国で起こっています。あれだけアメリカのマスメディアから激しく攻撃されたトランプ氏が大統領選で勝てたのも、こういう人たちの不満にこたえようとしているという期待を多くの人たちが抱いたからなのです。そうはいっても、グローバル経済のおかげで貧しかった国々にもチャンスが生まれ、貧しかった国々はどんどん豊かになっているではないか、という反論もあります。先進国の人の問題ばかりを見るべきではない、とも言われます。しかし、今の中国を見れば分かるように、たしかに国としては豊かになっても、その繁栄の下で苦しむ貧しい人たちもものすごい数になっています。グローバル経済に組み込まれた途上国では、むしろ富の偏在が進んでいるのです。最近の中国で凶悪事件が増えているのも、そういう経済格差の大きさゆえだということはしばしば指摘されることです。
私たちの生きる時代は、ヤコブの手紙が書かれた時代とは全く異なります。ただ、グローバル化が進んだ時代という意味では似ているところがあるようにも思います。当時はバラバラだった世界をローマ帝国が武力で統一し、自由なモノの往来を可能にする経済圏を作り上げました。しかし、その結果生じたのは富の偏在、超格差社会でした。今日ではローマ帝国ではなく、自由主義経済が世界を統合しようとしています。主役は軍隊ではなく大企業です。しかし、その結果さらに極端な富の偏在、格差社会が生じてしまいました。それをどうすればよいのか、クリスチャンとしてどんな社会を目指せばよいのか、というのは非常に大きな問題です。けれども、自分の利益を最大化するためなら何でも許されるというような価値観が聖書の価値観と対立するものであるのは間違いのないことです。私たちの信じる神は弱い者の側に立たれる神であるということを覚えつつ、これからも神の目指す社会とはどんなものなのか、聖書に学び、真剣に考えなければなりません。そのために祈り、考え、働いて参りましょう。お祈りします。
貧しい者、弱い者を愛し、彼らを助けられる神様、そのお名前を賛美します。私たちは今日、富の問題、格差の問題をいろいろな場面で考えさせられますが、神様の御心に沿う生き方を願っている者でもあります。どうか私たちに知恵と、行動する勇気をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン