契約の箱
第二サムエル6章1~23節

1.序論

みなさま、おはようございます。第二サムエル記に入って、早いもので今回で6回目になります。前回はダビデがイスラエル全体の王となり、王都としてエルサレムを定めたことを学びました。福音派のクリスチャンの間ではエルサレムといえば未来永劫イスラエルの都だというようなイメージがありますが、それはむしろダビデの時代からだということに注意する必要があります。ダビデこそがエルサレムを奪取した王であるということです。今日は、エルサレムを首都と定めた後にダビデが行ったことを、かなり批判的にお話しします。ダビデが段々と主への信仰から離れて行ってしまうという視点からの話になります。

さて、ダビデの時代より数百年前、モーセの後継者であるヨシュアがカナンを征服したと言われていますが、その時以降もエルサレムは依然として外国人、つまりエブス人によって治められていたのです。それだけエルサレムは鉄壁の防御を誇る難攻不落の都市だったのです。ですから、ダビデがそのエルサレムを攻め落としたということは大変な偉業でした。ダビデが王になって初めて成し遂げたのがエルサレム攻略でしたから、ダビデは自分の王としての権威を高めるために、この偉業を大いに喧伝する必要がありました。そこでダビデがはじめに行ったのは、エルサレムに立派な新しい王宮を建てることでした。ダビデは王宮を伝統的なイスラエルの建物ではなく、当時の流行の最先端をゆく建物にしようとしました。そこで、富の象徴であるレバノン杉をふんだんにつかい、また外国のフェニキア人の大工や石工を招いて、フェニキア式の王宮を作りました。日本で言えば、伝統的な日本家屋ではなく、欧米風の洋館を建てた、という具合でしょうか。それをみたイスラエルの人たちも、ダビデと共に新しい時代が始まったと感じたことでしょう。

しかし、国を治めるための権威を示すためには、富を誇示するだけでは十分ではありません。イスラエルは宗教国家、契約の民であり、神のご加護がイスラエルにあることを示すことこそが、王たる者に求められました。ダビデは、この自分が勝ち取った新しい都エルサレムは神が選んだ都であるというイデオロギーを喧伝する必要があったのです。そこでダビデが目を付けたのが、忘れられていた聖なる箱でした。つまり、「契約の箱」です。そこには、あのモーセの十戒を刻んだ石板が納められていると言われていました。イスラエルにとって、十戒を刻んだ板ほど、神との特別な関係を示すうえで大きな意味を持つものは存在しないでしょう。それを治めた箱には、信仰と言ってよいほどのイスラエル人の絶大な尊崇が向けられていました。モーセも、その箱を通じて神と語らったと言われています。

けれども、その契約の箱は、実は当時のイスラエルでは厄介者扱いされていました。それはダビデが王になるよりも何十年以上も前のことですが、当時大祭司エリに率いられたイスラエルがペリシテ人と戦う時、契約の箱に備わっていると信じられていた神秘的な力を用いてペリシテ軍に打ち勝とうとしたイスラエル軍が、契約の箱を前線に運んできたことがありました。しかし、契約の箱にはイスラエル人が期待したご利益のようなものはなく、イスラエル軍はペリシテ軍に散々に打ちのめされた挙句、契約の箱まで奪われてしまいました。

契約の箱はただの箱だったのか、と落胆したイスラエル人も多かったでしょう。ところが、奪われた契約の箱は運び去られたペリシテ人の領内で恐るべき威力を発揮しました。なんと、契約の箱が置かれたペリシテ人の町では疫病が発生し、他の町に移してもそこでも疫病が発生するということで、困り果てたペリシテ人はのしを付けて契約の箱をイスラエルに返してきました。イスラエル人は、契約の箱がトロイの木馬のように敵陣に大損害を与えてくれたと大喜びでしたが、しかし戻ってきた契約の箱を見たイスラエル人がいたので神罰が下り、数多くのイスラエル人が死んでしまいました。つまり契約の箱はペリシテ人にもイスラエル人にも災厄を運んできたのです。人々はこの契約の箱を扱いかねました。ぞんざいに扱うわけにもいきませんが、かといって手もとに置いておくのも恐ろしい、ということで、キルヤテ・エアリムというあまり知られていない町に運んで、そこに二十年も放置していたのです。ダビデは、この忘れ去られていた聖なる箱のことを思い出し、それをエルサレムの権威付けのために用いようと考えました。そこで、契約の箱をエルサレムに運ぶための壮大なイベントを企画します。しかし、その行動には様々な問題が含まれていたのです。

2.本論

では、さっそくテクストを読んでいきましょう。ダビデは契約の箱が長年置かれている場所に赴いて行きました。実はその時、なんと手勢三万人も引き連れていったのです。戦争をするわけでもないのに、三万もの軍勢を引き連れるのは尋常なことではありません。それだけ、この神の箱をエルサレムに持ち運ぶというのは大変なことなのだ、重大事だと言うことを、ダビデは内外に知らしめようとしたのでしょう。それまで契約の箱は祭司のアビナダブが管理していましたが、今やその息子たちであるウザとアフヨがその任にあたっていました。契約の箱を運び出す時も、この二人の息子がその責任者になりました。

この契約の箱を中心に、三万もの大軍が行列を組んで行進するのです。ものすごく物々しいというか、壮観だったことでしょう。ただ、それは戦場に赴く軍隊の行進ではなく、むしろ戦の勝利を祝う凱旋パレードのような感じでした。今日でも、戦勝パレードなどでは吹奏楽団が威勢の良いマーチ音楽を演奏しながら大通りをパレードしますが、そんな感じだったと思われます。とはいえ、今から三千年前のことですから、今のブラスバンドとは全然違う音楽を奏でていました。楽器は、「立琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバル」とありますから、どんな音楽を奏でたのか興味津々ですが、残念ながら今日ではどのような音楽だったかは分かりません。三千年前の音楽というのはどんなものだったのか、とても興味をそそられますが、人類にとって音楽というものは今も昔も欠かせないものだったと言えるでしょう。ダビデも音楽の力を良く知っていて、この記念すべき出来事を祝うために音楽をフル活用したのです。

こうしてダビデは契約の箱を中心にイスラエルの町々を練り歩き、それを見守る人々もそれをワクワクして見ていたことでしょう。しかし、そのさなかに悲劇が起りました。契約の箱を運ぶ牛車が、牛がつまずいたために転倒しそうになり、契約の箱を守ろうとして手を伸ばした祭司のウザが神の怒りに触れて死んでしまったのです。まさに寝耳に水、衝撃的な事件でした。これで、お祭りモードはいっぺんに冷めてしまいました。この出来事の意味はいったい何なのでしょうか。ウザの行ったことは「不敬の罪」だとされていますが、しかしその場にいたらだれでも同じことをしたでしょう。いくら契約の箱といっても、ただの箱です。神様ではないのです。倒れそうになったら、誰かが支えるしかないでしょう。しかし、ウザはそのために死んでしまったのです。

これは私の個人的な理解ですが、これはウザの罪というより、ダビデの行動に対する神の怒りなのではないかと思います。ダビデが契約の箱を持ち出してきたのは、神への信仰心というより、この古の聖遺物を政治利用するためだったように思われるからです。すなわち、自分が新しく獲得したエルサレムの宗教的威信を高めるために、目に見えるシンボルが必要だったということです。しかしそれは、かつて祭司エリが戦争で勝つために契約の箱を戦場に運び入れて士気を高めようとしたのと同じ行動でした。こうした行動の背後には、神の力を自分の思い通りに使おうという人間側のたくらみ、思い上がりというものがあるように思います。ダビデは神に従う信仰の人、というイメージがありますが、王となった後のダビデは段々と主への信仰から離れて行きます。この出来事にも、ダビデの不信仰という問題が見え隠れしている気がします。神を都合よく利用しようという誘惑から、ダビデも逃れることができなかったように思います。神は誰にもコントロールなどされない、ということがこの契約の箱をめぐる一連の悲劇から学ぶべき教訓であるように、私には思えます。

このウザの死の悲報は直ちにダビデに伝えられました。ダビデは動揺しました。これまで契約の箱をめぐる様々なトラブルを聞いてはいましたが、もう大丈夫だろう、自分の治世においてはこうした不測の事態は起こらないだろうと思っていましたが、甘かった、とほぞをかんだことでしょう。ダビデはこの危険な箱が自分の新しい都に再び疫病などの災厄を招くことを恐れました。それで、箱をエルサレムに持ってくる計画を中止、断念しました。しかし、この箱をほおっておくわけにもいかないので、再び厄介払いすることにしました。こうして箱を押し付けられたのは、ガテ人だとされています。ガテというのはペリシテ人の都市です。そのペリシテ人の町から来たオベデ・エドムという人物がこの箱を預かることになりました。ダビデとしては、箱がさらに問題を起こしたとしても、ペリシテ人の関係者に対してならそれほど大きな問題にはならないだろうという政治的な打算がありました。しかし、契約の箱はここでも予想外の効果をもたらします。今度は災厄ではなく、祝福をこのオベデ・エドムの家にもたらしたのです。このように、ダビデの思惑とはことごとく反する効能を契約の箱は発揮します。ダビデも現金なもので、この契約の箱が祝福をもたらしているという噂を聞いて、この箱を再びエルサレムに運び入れることにしました。ここらへんからも、ダビデという人が結構ご都合主義なのではないかと思わされます。しかも、この間にダビデが主に祈ったとか、主の御心を伺ったという記事はありません。

そして、ダビデの不信仰を表す出来事がさらに続きます。ダビデは契約の箱をエルサレムに運び入れる途上で、祭司の装束である亜麻布のエポデを着て、牛をほふって神に献げました。しかし、この行動にも重大な問題が含まれています。ダビデはユダ族の出身であり、祭司になることが出来る家系であるレビ族出身ではありません。神の定めた秩序、神の律法によればダビデは決して祭司になれないし、祭司の仕事をすべきでもありませんでした。しかしダビデはこれを行いました。つまり、祭司職は王の絶対的な権限に含まれており、祭司たちは王に従わなければならないということを示そうとしたのです。ここでもダビデの増長ぶりがうかがえます。ダビデは契約の箱をエルサレムに運び入れてからも再びいけにえを献げ、さらには祭司のように民に対して祝祷を行いました。ここでも祭司の責務に対する越権行動があります。しかし、王はオールマイティーではないのです。祭司と王は補完し合いながら唯一の王である神に仕えるべき存在で、一方が他方の上に来るというような話ではないのです。しかしダビデは自分が王であるだけでなく、祭司たちの頂点に立つ教皇のような存在であることを示そうとしました。

さらにダビデは、裸になって契約の箱の前で踊り出しました。人々を盛り上げて、祝祭ムードをさらに高めようとしたのでしょう。民衆もダビデを見て喜び、お祭りムードは一層高まりました。しかしそれを冷ややかな目で見ている女性がいました。それがサウル王の娘で、最近前の夫から離縁させられダビデの妻となったミカルでした。彼女はダビデに対し、こう言いました。

イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前で裸におなりになって。

このミカルの言葉をダビデは侮辱と受け止めて、私こそサウルよりも神に選ばれた者なのだと言い返しました。このダビデの物言いは、ダビデの信仰心の表れだというように解釈されるのをしばしば聞きますが、私にはまったくそのようには思えません。むしろダビデはどこまでも自分勝手で、女性の気持ちを考えない男だな、と思います。ミカルの身になって考えて見てください。彼女はダビデの最初の妻、王女であり正妻です。しかも、父サウルを裏切ってまでダビデの命を救おうとしたこともありました。それが原因で、父サウルからダビデと無理やり離婚させられ、他の男に嫁がされました。彼女としては耐えがたかったでしょうが、しかし新しい夫は善い人で、ミカルを心から愛してくれました。こうして傷ついたミカルの心がようやく癒されて、新しい夫との充実した結婚生活を送っていたのに、再びダビデとアブネルの密談によってその夫との結婚も離縁させられました。こうして出戻りのようにダビデの家に戻ってくることになりましたが、そのダビデは自分が最初に結婚した初々しい若者とは似ても似つかない人物になっていました。昔のダビデは王女の自分を過ぎた嫁だと、下にも置かない扱いでしたが、出戻ったダビデにはもう美しい妻たちがたくさんいて、子どももたくさんいて、さらにダビデは美しい女と見れば次々に自分の妻として迎え入れます。ミカルの立場はすっかり弱いもの、自分はただサウルの娘なので、ダビデはサウルから正式に王位を受け継いだことのしるしとして、妻の一人に加えられたに過ぎないのだ、ということを思い知りました。王女としてのプライドはズタズタにされ、またこれまで何度も意に沿わぬ結婚・離婚を強いられた身としては、ダビデを恨みたくなっても当然でしょう。そして今回も、若い女たちの前でセックス・アピールをするかのように裸踊りをするダビデに皮肉の一言でも言いたくなるのは当然ではないでしょうか。そのようなミカルの気持ちを考えずに、まともに反論して怒りをあらわにするダビデは大人げない、男気のない人だと思わずにはおられません。最後に「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった」とありますが、ミカルは今後ダビデから無視され続け、飼い殺しにされたことを示唆しています。当時の女性は子どもが産めなければ価値がないと見なされた、そのような弱い存在でした。ミカルの肩身の狭い思いは想像に余るものがあります。ミカルという人からは、天下人織田信長の都合で翻弄されたお市の方様、あるいはその娘の淀君が思い起こされます。お市の方様は浅井長政に嫁ぎましたが、その夫は信長に滅ぼされ、次に嫁いだ柴田勝家は今度は秀吉に滅ぼされ、お市の方様は勝家と共に自害しました。母親を殺した秀吉の妻にならなければならなかった淀君の気持も想像を絶します。ミカルも、このように男たちの権力争いに翻弄された悲劇の女性でした。

3.結論

まとめになります。聞いていて驚かれたかもしれませんが、今日は王となった後のダビデの行動を非常に厳しく解説しました。今日はダビデが自らの王都エルサレムに契約の箱を運び込む話を学びました。しかし、この出来事は深い信仰心に基づくというよりも、ダビデの政治的打算に由来するものでした。「契約の箱」という神の力のシンボルをダビデは利用して自らの権威を高めようとしたのです。そうしたダビデの心を見透かすかのように、契約の箱のエルサレムへの搬入はトラブル続きでした。しかし、こうした失態を覆い隠そうとするかのように、ダビデはこの出来事を自分の権威付けに利用しました。ダビデは祭司だけがすべきことを勝手に自分で行い、まるで大祭司であるかのように振舞いました。さらには民への人気取りのためにした行動をミカルにたしなめられると、今度は逆切れしてミカルを完全に無視するようになりました。こういう一連の行動を見ると、今度のダビデ家の没落の予感があちらこちらに認められます。ダビデは確かに信仰の人でしたが、ひとたび大きな権力を手にすると、神を信じて従うよりも、神を自分の都合のために利用するようになっていったということです。

私たちは、今回のダビデの出来事に限らずサムエル記全体の「契約の箱」に関する様々なエピソードから大事な教訓を学ぶことができるでしょう。「契約の箱」は神の力のシンボルでした。イスラエルの人たちはこの箱を使って、神の力を引き出そうとしました。しかしそこに不敬虔があります。すなわち、神は私たちが思い通りにコントロールできる、自分の都合通りに動いてくれるようなお方ではないということです。イスラエルは契約の箱を使って神の力を使おうとして、ことごとく失敗しています。ダビデもその例外ではありませんでした。もちろん、私たちは神の力を必要としています。神に助けを求めて祈ることは良いことですし、大切なことです。しかし、神の力に頼ることと、神の力を利用しようとすることは似て非なるものです。私たちはどんな態度で神に向かっているのか、神に自分の思い通りに動いてもらおうなどと思っていないか、注意する必要があります。ご利益宗教の問題もそこにあります。献金を、神への感謝の気持ちとして献げるのか、あるいはお金を払って神に何かしてもらおうとして献げるのか、その違いは非常に大きいのです。

多くの宗教には、神の力を人間のために利用しようという動機があります。しかし、利用されるべきは神ではなく私たちなのです。私たちは神の主人なのではなく、しもべです。そのことを忘れると、宗教はまさに本末転倒、倒錯したものになってしまいます。そのことをダビデの生涯から学び、私たちは神の前にへりくだって歩みたいと願うものです。お祈りします。

天地万物を支配される神よ、そのお名前を賛美します。私たちはしばしば思いあがって、その神の力を自分の都合のために用いようとするようなこざかしい者であります。そうした傲慢から私たちを守り、謙虚に御前を歩ませてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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