惨劇
第二サムエル4章1~12節

1.序論

みなさま、おはようございます。さて、今日の説教題は秋のすがすがしい朝の空気に反して、「惨劇」という物々しいタイトルです。文字通り、悲惨な出来事についてのお話です。せっかくの主日礼拝なので、心が高揚する話や、心が温まる話を聞きたいと思われるでしょうし、私もできればそうしたいのですが、しかし講解説教ですので、この箇所は飛ばしてとか、そういうことはできません。そもそも、サムエル記の説教でこういう悲惨な場面を除いてしまうと、あとは何も残らないのではないかと思うほど、悲劇的な箇所が多いのです。悲劇といっても、地震などの自然災害のためではありません。むしろ人間同士の裏切りとか、騙し合いとか、そういうことが理由で起こる悲劇です。このサムエル記には、そういうドロドロした話がとても多いです。なぜそうなのかといえば、そこには権力闘争が絡むからです。王という至高の権力を求める話を描いているサムエル記は、まさにこの文書全体が惨劇の書だと言っても過言ではありません。

では、このような惨劇は権力を求める人間の醜い思いからのみ生じるものなのでしょうか。そこには神の御心が働いているのでしょうか。聖書が他の文学と大きく異なっているのは、私たち人類の歴史を動かしているのは、人間の欲望とか野心とか、そういうものだけでなく、神が歴史の中に常に働いていて、神の御心なしに起る出来事はなにもないのだ、という世界観が前提になっていることです。あらゆる出来事の背後に神の御心がある、ということです。ただこれは、神が操り人形のように各人物を思いのままに操って歴史を動かしているということではありません。人間は自由な存在であり、自分の意志で行動しています。今回の箇所でも、各登場人物は神の命令で暗殺を行ったわけではありません。彼らは自分たちが神の御心の執行者だと、ダビデを王にするという神の御心を実現するために行動しているのだと主張します。前回のアブネルもそうです。しかし彼らは神を言い訳にして、いわば神をダシにして、自分の利益のために行動しているのに過ぎないのです。彼らは自分の意志で、自分たちの利益のためにそうしているのです。人間の一番嫌らしい罪は、自分のために行動しているのに、それをもっともらしく神の御心にすり替えてしまうことです。神の名のもとになされる正義が、単なる自分の利己的な行動の隠れ蓑にすぎないということは、現代でも起きていることなのです。

では、あらゆる出来事の背後に神の御心が働いている、というのはいったいどういう意味なのでしょうか。それは、神はすべての出来事を御覧になっていて、人間のすべての行動を見ているということです。それだけでなく、神はそれぞれの人にその仕業に応じて報いるということです。サムエル記を読んでいて、強く思わされるのはこのことです。神は実に人々のことをよく見ています。人々の行動だけでなく、隠れた動機まで見ておられます。そして、それぞれにその仕業、行いに応じて報いを与えられます。サムエル記を読むうえでの大事なポイントはそのことです。

今回の話では、悪役は王を殺した二人のベニヤミン族だということになります。彼らの行動には、ダビデを通じて厳しい報いがもたらされることになります。では、今回は裁きの執行者となったダビデは、罪から免れた、神のような公平な立場にいる人物なのでしょうか?そうではありません。それどころか、ダビデは中立な立場にいるのではなく、正に利害関係人なのです。前回の話ではサウル王家の猛将アブネルが謀殺され、今回はサウル王家の二代目の、また最後の王であるイシュ・ボシェテが惨殺されます。彼ら二人の死によって、ダビデと王権を争っていたサウル王家の没落は決定的なものとなりました。いわば、彼らの死によってダビデの王権は確立されたのです。ダビデは彼らの死によって大きな利益を得たのです。それでも彼らの死に自分は何の責任もないということをダビデは強く訴えています。前回も、今回も、ダビデのしたことといえば自分の潔白の証明でした。ダビデが全イスラエルの王となったのは、敵対するサウル王朝がいなくなったためですが、サウル家の滅亡に関してダビデには何の責任もないということがダビデにとっても、またおそらくはサムエル記の著者にとっても非常に大切なことでした。しかし、ダビデは本当に責任がなかったといえるのでしょうか?

今回のイシュ・ボシェテの死の原因は、アブネルとダビデの密談によって、いわば定められていた、既定路線の出来事だったといえます。イシュ・ボシェテは自分の意志とは関係なく、キングメーカーであるアブネルによって勝手に退位させられることになり、そのアブネルの案にダビデが乗っかったために、彼が王位を失うことが決定したのです。この時点でイシュ・ボシェテはレームダックになってしまいました。ですからイシュ・ボシェテに政治的にとどめを刺したのはダビデだと言えるのです。しかしダビデはその事実を認めようとせず、むしろ大仰な行動によってその事実を覆い隠そうとします。あるいは、そうした行動によって、自分には罪がないと自分で自分に言い聞かせているかのようです。ダビデの行動は自己欺瞞に満ちたものなのです。しかも、ダビデのこういう行動はこれからも繰り返されます。ダビデの、自らの罪を認めようとしない姿勢、自分の罪の結果に向き合おうとしない姿勢のことを、私はダビデ・シンドロームと名付けたくなります。この自己欺瞞はいずれダビデの身に大いなる災いをもたらします。神はダビデのこと、ダビデの行動やその隠された動機を見抜いておられ、それに対する報いを与えられるということです。ダビデの後半生があんなにも真っ暗になってしまったのは、神がダビデのことを実に良く御覧になっているからだと思わされます。たしかにこの時点では万事うまくいっているように見えます。しかし、破滅の種はここでも確実に蒔かれているのです。このことを念頭に置きながら、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、前回はサウル家のキングメーカーであり、今度はダビデ家のキングメーカーに成り代わろうという野心を持ってダビデにすり寄ってきたアブネルを、ダビデ家のキングメーカーたろうという野心を持つダビデの甥ヨアブが謀殺するという場面を見て参りました。ここで強調したいのは、この謀殺を行ったヨアブに対しては、ダビデはいかなる刑罰をも与えなかったことです。今日の箇所で、イシュ・ボシェテを謀殺した者たちを直ちに極刑に処したこととは対照的です。

このアブネルの死は、直ちにサウル王家に伝えられました。これまでアブネルに頭を押さえつけられ、不満を抱いたこともあるイシュ・ボシェト王ですが、それでもアブネルは自分を王の位に就けてくれた、いわば後見人です。その後見人、後ろ盾を失ってしまったイシュ・ボシェテの動揺と不安は非常に大きなものでした。しかし、動揺したのはイシュ・ボシェテだけではありませんでした。サウル家の家臣たち、家来たちも自分たちが仕える王朝が滅びる運命にあることを明確に悟ったことでしょう。いつの時代にも目ざとい人たちは、次に何が起きるのかを考えてすぐさま行動を起こします。これからはダビデの時代だ、ということを理解したサウルの家来たちは、さっそく勝ち馬に乗ろうとサウル家を見限ってダビデに乗り換えようとします。しかし、昨日まで敵だった自分たちが寝返っても、高い地位が約束されるわけではありません。そこでダビデにお土産を持参した上で寝返ろうとした人々がいたのです。今日はまさにそれを実行した二人の人物の話です。彼らはサウル軍の中でも「隊長」という高い地位にありました。しかも彼らはベニヤミン族ですので、サウルの一族とは同族に当たります。しかしその彼らがサウル家の王を裏切るのです。ダビデは詩篇の中で、

私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、わたしにそむいて、かかとを上げた。(詩篇41:9)

と記していますが、イシュ・ボシェテ王もまったく同じ気持ちだったはずです。預言者エレミヤも、同じようなことを記しています。

あなたの兄弟や、父の家の者でさえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのあとから大声で呼ばわるのだから。彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。(エレミヤ12:6)

自分の利益や身の安全のためなら親兄弟さえ裏切るという、人間の悲しい現実を聖書は描いています。今回のサウル軍の隊長たちも、恩のあるサウル家を自分たちの保身や立身出世のために平気で踏み台にしようとしているのです。彼らの名はバアナとレカブでした。

さて、イシュ・ボシェテの暗殺の記述の間に、サウル王家のもう一人の人物のことが唐突に紹介されています。それはヨナタンの息子のことでした。ヨナタンの弟であるイシュ・ボシェテから見れば甥にあたる人物で、その名をメフィボシェテと言いました。このヨナタンの息子は、足の不自由な人物でした。もっとも彼は生まれつき足が不自由なのではなく、幼少期の事故のせいでそうなってしまったのです。というのは、サウル王とヨナタンが戦死した時、その知らせを受けたうばがこのヨナタンの子を安全な所に隠そうと急いで逃げたのですが、その時に五歳のメフィボシェテを落としてしまい、その時のケガで足が不自由になってしまったのでした。では、なぜ突然この少年の話が出て来たのかといえば、これからイシュ・ボシェテが死んでしまうとサウル王家の人は皆死んでしまったことになり、そうするとダビデがヨナタンとかつて交わした約束がどうなってしまうのか、という問題が生じるからです。その約束とは、ヨナタンが死んだ場合、サウル家の面倒を見るとダビデが約束したことです。この約束をダビデが忘れたわけではないことを読者に知らせるために、ここでヨナタンの子であるメフィボシェトのことが語られているのです。

しかし、今回の箇所の主役はメフィボシェテではありません。ですから話はすぐにイシュ・ボシェトへと戻ります。イシュ・ボシェテの家とは、おそらくは王宮のことでしょうが、そこでイシュ・ボシェテは昼寝をしていました。王宮は厳重に警備されているので、普通は王様の寝ているところに自由に入っていけるはずもないのですが、バアナとレカブはサウル軍の隊長なので、王と謁見することも珍しくなかったのでしょう、怪しまれることなく王の部屋に向かうことができました。そして、なんと寝ている王を惨殺したのです。哀れなイシュ・ボシェテ王は起きる間もなく、寝込みを襲われて死んでしまったのです。これが敵国のスパイの手にかかったのならまだしも、自分の信頼していた部下に殺されてしまったのです。その無念さはいかばかりだったでしょうか。

バアナとレカブの行動はこれだけでも十分に人非人ですが、彼らはなんとその王の首をはねました。恐ろしいことですが、ダビデに証拠の品を提示したかったのでしょう。王の首を抱えたまま、彼らは夜通しヘブロンにいるダビデの元に向かったのです。まるでホラー映画の一シーンのようです。彼らはダビデのもとに来ると、イシュ・ボシェテ王の首を差し出します。しかも彼らは、主が、神がこれをなさったのだとダビデに言います。たしかにダビデは、サウルがダビデに対して行った数々の罪の報いは神がなさるだろう、復讐は神のなさることだ、と言っていました。サウル王家に次々と悲劇が降りかかるのは、神がダビデのために復讐を行っているのだ、というように思えなくもありません。しかし、ではバアナとレカブは純粋に神の御心を行っているのでしょうか?そうではありません。彼らは単に自分たちの立身出世のために王殺しを行い、それを神の御心だとうそぶいているのです。神は彼らにイシュ・ボシェテを暗殺しろなどとは命じてはいないのです。彼らはイシュ・ボシェテを騙しただけではなく、神すら騙そうとしています。しかし神は侮られるようなお方ではありません。

ダビデもすぐにそのことを見抜きました。そして、直ちにこの二人の裏切り者の処刑を命じます。このダビデの行動自体は正しいものでした。しかし、それは公平なものとは言えませんでした。それはなぜか?バアナとレカブの王殺しが罪ならば、アブネルのやったことも同じです。アブネルは王殺しはしませんでしたが、しかし主君を政治的に抹殺しようとしたのです。それが神の御心だ、ダビデを王にするのは神の御心だから、自分はそれをするのだと、アブネルは今回のバアナとレカブとまったく同じことを言っています。自分のためにしているのに、それを神のせいにしているのです。しかしダビデはそのことを知りながら、アブネルと協力する道を選びました。いわばアブネルの主君殺しに加担しているのです。しかしダビデは、弱い立場のバアナとレカブの罪はすぐに裁くのに、強い立場のアブネルの罪は不問に付し、彼にむしろおもねりました。

また、バアナとレカブの卑怯な暗殺が罪なら、ヨアブによるアブネルの卑怯な暗殺は罪ではないのでしょうか?アブネルは裏切り者とはいえ、ダビデは彼を全権大使として迎え、国と国との密約を交わしたのです。そのような重要人物をだまし討ちにするなど、あってはならないことです。それなのにダビデはヨアブの罪を知りながら、ぶつぶつ不満を述べるだけでなにもしませんでした。それはなぜか?ダビデがヨアブの力を恐れたからです。ダビデはもはやヨアブなしでは王の職務を全うする自信がありませんでした。戦場で戦うのは今やダビデではなくヨアブです。ダビデは嫌な仕事をみんな彼に押し付けてきたので、彼なしでは今後やっていく自信がなかったのです。そこで彼はヨアブには何もしませんでした。ヨアブが強いので、彼をコントロールする自信がなかったのです。しかし、こうなるとユダの実質的な王はダビデではなくヨアブだということになってしまいます。

こうしてみると、今回のバアナとレカブの処刑について、ダビデは一件立派なことをしたように見えますが、それは実は自分のことは棚に上げて人のあら捜しをするという、非常に卑怯な行動だったということになります。しかも、ダビデはそのことに全く気が付かずに、自分は正義を行ったと誇らしげに思っているようですらあります。

3.結論

まとめになります。今日はダビデの王権を確立させるための重大な出来事、サウル王朝の最後の王であるイシュ・ボシェテの死について見て参りました。それは、サウル王家内部の卑劣な裏切りによって起こったことでした。確かにダビデを全イスラエルの王とすることは神の御心でした。ですからサウル王家を滅亡させた人たちは、神の御心を行っているように見えます、少なくとも表面的には。しかし、彼らの卑劣な行動が神の望まれることではなかったのは明らかでした。彼らは自分たちが神の御心を行っていると主張しましたが、それはただの言い訳です。彼らは自分たちの出世、あるいは保身のために行動したのに過ぎないのです。自分の利益のために神を持ち出すことは最も大きな罪の一つです。

キリスト教の歴史においても、神の名における戦争が何度も何度も起こされてきました。自分たちは神の御心を行っていると彼らは言います。しかしそれは単に侵略を正当化するため、または自分の利益のための行動を正当化するための方便に過ぎませんでした。世俗化が進んだ現代では、神の名を持ち出さなくても、「正義」のためとか「国際秩序」のためとか、「法の支配を守るため」というような言葉がよく使われますが、それは自分たちにとっての正義、自分に都合の良い秩序のため、自分は免責されるが相手は裁くという法律のため、というのがほとんどではないでしょうか。実際、「正義」を声高に主張する人たちほど怪しいという思いを、私たちは抱くようになっています。

今回は、ダビデが正義の執行者のような役回りになっていますが、彼もまた自分の利益のために行動していたと思わざるを得ません。ダビデの罪はここではまだ隠されていますが、それは段々と隠せないほど大きなものへと成長していってしまうのです。私たちも、自分たちが神の御心を行っていると考える時、よくよく自分の動機を吟味する必要があります。私たちは本当に神のために行動しているのでしょうか?私たちは自分で自分を騙して、神のために行動していると思いながらも結局は自分のために行動している、ということにならないようにしたいものです。「神の名をみだりに唱えてはならない」という教えは確かに真理なのです。今週も、神の前に謙虚に歩んで参りましょう。お祈りします。

歴史を導き、私たち各々の心の隠れた動機を探られる神様、そのお名前を讃美します。私たちは自分で自分を騙し、神の御心の名のもとに自分の利益を追求する卑劣な者です。そのような罪を犯すことがないように私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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