舌を制する
ヤコブの手紙3章1~12節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月末の日曜日は、サムエル記から離れて新約聖書からメッセージさせていただいております。というわけで、今日もヤコブ書からみことばを取り次がせていただきます。

これまで繰り返しお話ししてきたように、ヤコブの手紙の特徴の一つは「行い」の重要性を訴えていることです。よくキリスト教では「信じるだけで救われる」というようなことが言われますが、これは大変誤解を招く言葉です。「信じる」という言葉の意味をどう理解するのかにもよりますが、聖書は単に神が存在するとか、イエスが人類の救い主であるとか、そういういくつかの教理を頭で理解して受け入れれば、それだけで救われるとは教えていません。むしろ信じた者としてその信仰にふさわしく歩まなければならない、信じることとその行いが一致すること、それが大切だということです。中国の古い教えでは知行合一(ちこうごういつ)というのがあり、行動を伴わない知識には意味がないという意味ですが、キリスト教信仰においても行いを伴わない信仰、あるいは行いと一致しない信仰には意味がないのです。ヤコブの手紙はそのことを強く訴えます。

では、その行いとは具体的にはどんなものなのか?意外なことに、ヤコブは正しい行いとは正しい言葉なのだ、ということを言うのです。これにはちょっと驚さかれることかもしれません。なぜなら私たちは「口先だけで」行動が伴わない人のことを批判するからです。不言実行という言葉があるように、うだうだ言わずに黙って実行するのがよい、という価値観があります。しかしヤコブは、正しい行いの具体例として真っ先に「舌を制する」ことを挙げます。これは私たちにとっては盲点かもしれません。正しい行いは、正しく言葉を用いる、舌を制することと深い関係がある、正しい行いは正しい言葉から始まる、というのが今日のヤコブの教えのポイントです。

確かに言葉は大切です。「口は災いの元」ということわざが示すように、人間関係におけるあらゆるトラブルの元は私たちが考えもなしに口にすることであったりします。余計な一言が良好な人間関係を一瞬のうちに破壊してしまうこともあります。旧約聖書の箴言も、口が災いを招くことに警鐘を鳴らしています。箴言18章6節と7節をお読みします。

愚かな者のくちびるは争いを起こし、その口はむち打つ者を呼び寄せる。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。

このように、余計なことを言ってトラブルを起こすぐらいなら、いっそのこと黙っているほうがよい、ということになるかもしれません。実際、そのことにも箴言は触れています。箴言17章28節をお読みします。

愚か者でも、黙っていれば、知恵ある者と思われ、そのくちびるを閉じていれば、悟りのある者と思われる。

なるほど、と思わせるような聖書の言葉ですね。ただ、ヤコブは何も、自分を賢く見せるために余計なことは言わないようにしようという意味で「舌を制する」べきだと言っているのではありません。むしろ、人は積極的に舌を用いるべきだ、言葉を活用すべきだということをヤコブは言っているのです。なぜなら人の舌は神のことばを伝えたり、神を讃美したり、そういう素晴らしい目的で用いられるべきものだからです。ですから、ヤコブはなるべく黙っていなさいというような意味で「舌を制御しなさい」と言っているのではないのです。むしろヤコブが警告を発しているのは「二枚舌」の問題、あるいは「二心」の問題なのです。

つまり、言っていることとやっていることが一致しないということがないように、ということです。口では立派なことを言っていても、その人の生き方そのものが自分の言っていることを裏切ってしまっているという残念なケースはよくあります。男女同権を訴えている偉い先生が、自分の家では奥さんをメイドか女中のように扱うなどいうことがよくあったそうですが、そういう人は信用されません。さらには、言っていることそのものが矛盾していることがあります。ある人の前ではおべっかを使って調子のよいことばかり言っておきながら、他の場面ではその人の陰口をたたくというような場合です。そういう人も、信用されないでしょう。しかしヤコブはさらに深刻な問題を語ります。それは、同じ人の唇が、ある時には神を賛美しながら、その神のイメージに造られた人間を呪う、そのようなことがあってはならないとヤコブは訴えているのです。ヤコブ書のテーマは実に「一致」です。言っていることとやっていることが一致すること、また言っていることがその時々、状況次第で変わってしまうことがないようにすること、そして特に神を信じる人は神を賛美するための唇を人を呪うために用いることがないように、つまり生き方が一貫しているようにと教えているのです。

では、なぜ人はある時は素晴らしいことを語りながらも、他の場面では酷いことを言ってしまうのでしょうか。それは、人間の語ることは究極的にはその人の本質を反映してしまうからです。心に悪意を抱く人は、どんなに気を付けていても、つい本音を漏らしてしまうものです。しかし、言い繕った言葉ではなく、ついうっかり漏らしてしまうような本音こそがその人の本質を表してしまうということがしばしばあります。良い木が悪い実をならせることはできないし、悪い木が良い実をならせることはできない、と主イエスは言われました。同じように、人は思ってもいないことを言うことはできないのです。つい漏らしてしまう本音とは、その人がいつも心に抱いていることだからこそ、何かの拍子にあふれ出てしまう、表に出てしまうのです。

では、どうすればよいのでしょうか。どうすれば、いわゆる「失言」をしなくてすむのでしょうか。それは、心に抱いていることそのものを変えればよいのです。心に良いものを抱いていれば、その人の漏らす本音もよいものとなるはずだからです。良い実を実らすには良い木になるより他ないように、よい言葉を語るためには良い人間になるほかないのです。ですから「舌を制する」というのは単なる処世術ではなく、むしろ良き人間となれ、という教えでもあるのです。そのことを念頭に置きながら今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

ではまず1節を見てみましょう。ここでは、教師になることへの警告が語られています。今の時代、学校の教師というのはあまり割の良い仕事だと見なされません。それどころか非常にハードワークを要求されるきつい仕事で、敬遠されることも多いと聞きます。しかし、新約聖書の時代には教師というのは尊敬される職業で、教師になるだけで社会的なステイタスが上がると考えられていました。それは教会内でも同じで、教師になることで教会内での地位が上がるとみられていました。そんなわけで、教会の教師になりたいという人が少なくなかったのです。しかしヤコブは、そのような人たちに注意を促します。教師になるということは、格段に厳しい神のさばきを受けることになるということです。

今の日本では、地位が上がれば上がるほど守られる、責任を取らされることがないという傾向があります。いわゆるトカゲのしっぽ切りということで、組織の長ではなく末端に責任を取らせるという傾向があるのです。しかし、聖書では上に行けば行くほどその責任が重くなります。その代表例がモーセです。モーセはうなじの怖いイスラエルの民を大変忍耐強く導いた素晴らしいリーダーで、荒野をさまよった四十年もの間これといって大きな罪を犯したことはなかったのですが、しかし民全体の罪の責任を取る形で、約束の地に入ることを許されませんでした。モーセ個人にとっては残酷ともいえるような結末を迎えてしまったのです。このように、神の民の教師になるということには重い責任が伴います。ですからヤコブは、「多くの者が教師になってはいけません」と語ります。これは親心とも呼ぶべき助言でしょう。

それでも教師になる人は、ことばで失敗しないように特に心がけるべきです。そして、もしそれができるなら、その人はからだ全体を制御できるとヤコブは語ります。ここでいう「からだ」とはおそらくメタファー、つまりキリストのからだである教会のことを指すものと思われます。ことばを正しく制御できる人は、教会を立派に制御できるだろうとヤコブは語っているものと思われます。

教会と教師という問題に冒頭で触れて、ヤコブは本題、「舌を制する」という問題について語ります。口というのは人間の体全体から見ればごく小さな器官かもしれませんが、実際は体全体を振り回してしまうような驚くべき力を持っていることを、ヤコブは比喩的な例をいくつか挙げながら説明します。馬というのは大変な馬力を持つ動物ですが、その馬もくつわ一つでうまくコントロールできます。さらにヤコブは、口を船のかじに譬えます。小さなかじが大きな船を自在に操ることができるように、人間の口もその人全体の方向性を決定してしまうほどの力を持っています。

しかし、そのような大きな力を持つ人間の舌は、非常に危険な面も持っています。「大言壮語」という言葉がありますが、人は身の丈以上に自分を大きく見せようとする時に、大口をたたいてしまいます。大口をたたくぐらいならまだよいのですが、言葉というのはどんな凶器よりも深く人の心を傷つけることがあります。言葉というものは恐ろしい力を秘めているのです。それが人を生かしたり癒したりすることもあれば、人をどん底に叩き落すこともあります。ほんの小さな一言が、大きな団体や組織を崩壊に導いてしまうこともあります。ヤコブはこのことを、ほんの小さな火種が大きな森全体を焼き尽くしてしまうことを例に引いて説明します。そして、私たち人間はしばしば舌を制御できません。それはつまり、私たちが感情を制御できず、自分の感情が舌を通じてあふれ出てしまうということなのですが、私たちの感情がどす黒い場合、舌から出て来る言葉もゲヘナ、つまり地獄の業火のように恐るべきものとなります。ヤコブはそのことを恐ろしいほど鮮やかな言語でこう表現します。6節をお読みします。

舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。

ヤコブはさらに、舌は死の毒に満ちているともいいます。もちろん、舌は悪そのものであるわけではありません。舌はその人の心を反映するものなのです。心が悪いから、言葉も悪くなるのです。旧約聖書の箴言も、そのことを語っています。箴言26章の23節以下を読んでみましょう。

燃えるくちびるも、心が悪いと、銀の上薬を塗った土の器のようだ。憎む者は、くちびるで身を装い、心のうちで欺きを図っている。声を和らげて語りかけても、それを信じるな。その心には七つの忌みきらわれるものがあるから。憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる。穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石をころがす者は、自分の上にそれをころがす。偽りの舌は、真理を憎み、へつらう口は滅びを招く。

日本のことわざにも、「人を呪わば穴二つ」というものがありますが、聖書にも同じような格言があるのが興味深いですね。そしてこの箴言のみことばも、ヤコブと同じように二心の問題、つまり言っていることと心の中で思っていることが一致しない問題を指摘しています。

このように舌はその人だけでなく、教会全体、あるいは社会全体に悪影響を及ぼすような恐ろしいものにもなり得るものですが、用い方によってはとても素晴らしいものです。箴言には次のような言葉もあります。18章4節をお読みします。

人の口のことばは深い水のようだ。知恵の泉はわいて流れる川のようだ。

このように、人の口からは素晴らしい知恵の言葉が流れ出て来ます。それだけではありません。ヤコブが言うように、私たちは舌をもって主であり父である神を褒めたたえます。しかし問題は、その同じ口から「神にかたどって造られた人」を呪う言葉が飛び出してしまうことです。ヤコブは主にある兄弟姉妹に対し、「このようなことは、あってはなりません」と語ります。同じ口から神への賛美と神への呪いが出てくるようなことは、自然の理に反しているとヤコブは言います。彼はこう言っています。

泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。

自然の摂理に拠れば、同じ泉からは同じ種類の水が出て来るはずなのです。しかし、人の口という穴からは、まったく違う種類の言葉が出て来ます。それはなぜか?それは人間が二心を持つ生物だからです。それは、表面的な見せかけの態度と、心に隠している思いとが異なっているということです。しかし、それはよくないことです。悪い心を持ち、口にすることも悪いことばかりの人の方が、悪い心を持ちながらも、口ではなめらかで快いことばかり語る人よりも危険性が少ないと言えます。なぜなら、そういう人の方が人を騙す危険性が少ないからです。もちろん、悪い心ではなく、善い心を持ち、語ることもよいというのが一番良いのは言うまでもありません。ヤコブは12節でそのことを語っています。

私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることは、できることでしょうか。塩水が甘い水を出すこともできないことです。

悪い木が良い実をならせることはないし、苦い水の泉が甘い水を出すこともありません。人間の場合は悪い心が良い言葉を語らせるという欺瞞、騙しごとがありますが、しかしその場合でも、そのような悪い心はいずれは悪い言葉を紡ぎ出してしまうものなのです。そうならないために、私たちは良い人間になる必要があります。ここでは、何か循環論法のようになってしまいますが、私たちは良い人間となるために、常に良い言葉、神への感謝、人への感謝を言い表していくべきなのです。

3.結論

まとめになります。今日は善い行いと良い言葉の関係、そして良い言葉と良い心の関係についてヤコブの手紙を通じて考えて参りました。卵が先か鶏が先かの議論ではありませんが、良い言葉が良い心を形作っていくのか、あるいは良い心が良い言葉を生み出していくのか、どちらも本当だと言えるしょう。しかし大事なことは、その人の心の思いとその人が語る言葉とが一致していることです。また、その人の語ることが状況次第でいかようにも変わってしまう、そのようにならないことが大切です。心と言葉と行動が一致すること、しかも良い方向に一致すること、それがキリスト者が目指す生き方です。そのような生き方は、私たちがイエスを心から信頼し、主イエスの教えに従って歩むときに実現し始めます。そのような人には聖霊が働いてくださり、神が私たちを良き者へと変えてくださるからです。そしてこのように歩んでいくために、非常に具体的で現実的な問題として、私たちは自分が語ることに常に注意を払う必要があります。言葉を軽んじてはいけません。私たちの語る一言一言が、私たちの人格を形作っていくのだということを意識しながら、日々の生活を全うしていきましょう。お祈りします。

私たちに主を讃美する舌を与えてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちがこの唇を尊く用い、悪いことに用いることがないように私たちを助け導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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