1.序論
みなさま、おはようございます。今日もサムエル記から、ダビデの生涯について学んで参りましょう。今日の説教タイトルは「策士ダビデ」ですが、ダビデのことを「策士」と呼ぶことに違和感を持たれるかもしれません。ダビデと言えば、巨人ゴリヤテにも小手先の策を弄さずに正々堂々と立ち向かっていくイメージがあるので、策士という呼び名はダビデにはふさわしくないと思われるかもしれません。しかし今回の聖書箇所のダビデは、非常に食えない人物であるという印象を与えるのです。
さて、前回の箇所では、ダビデとサウル王との感動的な和解のシーンを見て参りました。そして今回の箇所ではダビデはサウル王の追及を恐れて国外逃亡したという設定になっています。サウルは自分の命を救ってくれたダビデの行為に感動し、ダビデを狙うことはもうやめると言っているのに、なぜダビデはサウルのことをそんなに恐れるのだろうかと不思議に思われるかもしれません。ダビデはサウルにしつこく命を狙われ続けたので、それがトラウマになり、サウルの言うことが信じられなくなってしまったのでしょうか?そうかもしれませんが、そうすると前回の二人の和解の感動も、少し興ざめしてしまいます。ダビデももう少しサウルを信用してあげてもよいのではないか、という気もします。
しかし、サムエル記はダビデのついての様々な伝承やエピソードを集めて編集された書なので、必ずしも前後の話のつながりがスムーズでないように思える箇所がいくつもあります。何が言いたいのかといえば、今日の27章の記述は、必ずしもサウルとダビデの和解のエピソードの後に起こった出来事だと考える必要はないということです。むしろダビデがサウルに追い回されていた23章の記事の続きとして今日の27章を読むと、内容がすっきりと入ってくるように思われます。つまりサウルとの和解の事は一旦忘れて、ダビデが相変わらずサウルに追われている状況の話として今日の箇所を読むということです。ここではダビデはサウルの執拗な追及に恐れをなして、彼らか逃れるために非常に大胆な作戦を思いつきます。それはサウルが最も恐れる敵、つまりペリシテ人のところに逃げこめば、サウルといえども手が出せなくなるだろうということでした。
実は前にもダビデはペリシテ人の所に逃げ込もうとしたことがありました。21章の話ですが、ダビデはサウル王から逃れて、たった一人でペリシテ人の都市ガテの王であるアキシュのところに行きます。その時ダビデは自分の立場を隠して、一人の傭兵としてアキシュ王に雇ってもらおうと思ったのです。しかし、アキシュの部下たちはその男がダビデであることにすぐに気が付きました。あのゴリヤテを殺したダビデがいると大騒ぎになり、敵軍の将軍として捕らえられそうになったダビデは、とっさに機転を利かせて狂人のふりをしました。よだれを垂らして訳の分からないことをわめき散らす、そういう気味の悪い人物を演じたのです。アキシュ王も、そんな狂人に用はないとばかり、ダビデを捕らえることもせずに追い出しました。
このように、ダビデとアキシュ王との最初の出会いは非常に後味の悪いものでしたが、今回アキシュ王を訪れたダビデは前回とは状況が違っていました。前回はたった一人でアキシュの所に来たダビデでしたが、今回は手勢六百人を連れて来たのです。つまり今度は一部隊ごと、軍団としてアキシュに傭兵として雇ってもらおうとやって来たのです。ただ、ペリシテ人はイスラエルの最大の敵です。そこの傭兵になるということは、祖国イスラエルとも戦わなければならないことになります。そんなことになれば、イスラエルの王になるというダビデの大望は実現不可能となってしまうでしょう。そこでダビデは非常に巧妙に立ち回ります。ダビデってこんなに残酷だったのか、と驚くほどです。では、さっそく今日の箇所を詳しく見て参りましょう。
2.本論
1節では、ダビデは不安な心持を吐露しています。自分はいつかサウルに殺されてしまうだろう、とダビデは考えていたのです。これは、26章のダビデとサウルの劇的な和解の後にしては、あまりにも悲観的な見方です。ですから先ほども申しましたように、この時のダビデはサウルと和解する前の、サウルにしつこく命を狙われているという状況にあったのだと思われます。ダビデはここで、死中に活を求めることにします。イスラエルの中を逃げ回っていてもだめだ、いずれ自分は民衆の手で捕まってサウルに売り渡されてしまう。であれば、敵の敵は味方ということで、サウルの敵であるペリシテ人のところに行けば、あるいはこの袋小路を打開できるのでは、と考えたのです。今や自分もサウルとは敵対する立場に置かれていて、その情報はペリシテ人の間にも伝わっているはずだ。今ならペリシテのアキシュ王もダビデとその軍団を、イスラエルの敵対勢力として受け入れてくれるかもしれない、と考えたのです。それは危険な賭けでもありました。前回単身でアキシュ王のところに乗り込んだダビデは捕らえられそうになりました。今回は六百人の部下を従えているとはいえ、かえって危険人物と見なされて今度こそペリシテ人に捕まってしまうかもしれないのです。それでもダビデは、ペリシテ軍のところに行く決断をしました。これが神の御心だったかどうかは分かりません。ダビデは神に祈ったとか、神の御心を示されたというような記述はないからです。もちろんダビデも神に祈ったでしょうが、はっきりとペリシテ人のところに行きなさいという御心は示されていなかったのかもしれません。ダビデも追い詰められていて、迷いながら手探りで行動していたようにも思えます。
ともかくも、ダビデはペリシテ人のアキシュ王の所に、今度は堂々と自分はダビデだと名乗って訪れました。そして、ひとまずはこのダビデの作戦はうまくいきました。アキシュ王はダビデの主張、つまり自分たちはもうイスラエルには居場所がない、これからはペリシテ人のアキシュ王のために働くので雇ってほしいというダビデの言い分を信じました。どうもこのアキシュ王という人は疑り深い性格の人物ではなかったようで、それがダビデには幸いしました。同時にこの作戦は、サウルの脅威から逃れるという意味でも大成功でした。サウルはダビデがペリシテ人の王に仕官したと聞いて、これではもはやイスラエルの王位を狙うことはできなくなったと考えて、もうダビデを追うのはやめました。もちろん、強力なペリシテ軍との無用な諍いは避けたいとの思惑もありました。
こうしてうまい具合にアキシュの傭兵になったダビデですが、しかしあまりアキシュの近くにいると、イスラエルとの戦争になったときに一緒に戦ってくれと王に頼まれることになるのは目に見えています。それだけはなんとしても避けなければなりません。また、ダビデとしてはペリシテ人の宮廷内の争いに巻き込まれるのも御免でした。ペリシテには当座の間、いわば緊急避難として腰かけているだけなので、王に近い所にいて無用な権力闘争に巻き込まれたくもありませんでした。むしろ王の監視の届かない辺境にいたいというのがダビデの希望でした。そこでダビデは言葉巧みにアキシュ王に願い出ました。私のような外様の新参者が王のおそば近くにいるのは恐れ多いです、何か実績を上げるために、どこか地方の町で王国の守備に当たらせてほしいと願い出たのです。ダビデも殊勝なことをいうと、その言葉はアキシュの気に入ったようです。アキシュはダビデをツィケラグというところに遣わしました。それはイスラエル12部族の内のシメオン族の嗣業の地に隣接した土地でしたが、確かにそこは辺境の地で、ペリシテ人の都からもサウル王の王都からも離れた場所でした。そこならダビデも周りの目を気にせずにのびのびと過ごせるというものでした。
もちろんダビデもそこで遊び暮らせるわけではありません。アキシュ王の部下になったのですから、王の利益のために働かなければなりません。アキシュは、ダビデが自らの祖国であるイスラエルと戦うことを期待していました。なにしろダビデはイスラエルではお尋ね者となっているので、いまさらイスラエル人と戦うことにためらいや問題はないだろう、とアキシュは考えたのです。しかし、それはダビデにとっては大問題でした。ダビデはアキシュの信頼を損ねないために、イスラエルと戦うふりをしなければなりませんが、それはあくまでふりであり、本気で戦うつもりは毛頭ありませんでした。ダビデは、いずれイスラエルに返り咲いて王となることを目指していたのですから、ここで同族殺しなどをしてしまえば彼の大望は潰えてしまいます。イスラエルとの戦いは何としても避けなければなりません。
このような状況でダビデが当面の敵として定めていたのは、イスラエルにとっての仇敵であり、またダビデの管理するツィケラグにとっても脅威となるアマレク人でした。アマレク人というのは、サウル王がサムエルから聖絶するようにと命じられて、サウルが不徹底にしか聖絶を行わなかったことをサムエルに咎められ、王失格の烙印を押されてしまった、あのアマレク人です。アマレク人はイスラエルにとっての不俱戴天の仇とされていたので、そのアマレク人をいくら殺しても、イスラエル人は誰もダビデを咎めないし、むしろ称賛するでしょう。またアキシュ王としても、国の国境を脅かす勢力であるアマレク人やその仲間のゲシュル人、ゲゼル人をダビデが征伐することは大変ありがたいことでした。
こうしてアマレク人と戦うダビデですが、彼は情け容赦なく戦士だけでなく女性も皆殺しにしています。これは虐殺であり、神の人と呼ばれるダビデがこういうことをしているのを聞くのは、私たちにとっても動揺させられることです。いや、アマレク人は皆殺しにしろと預言者サムエルはサウルに命じているので、ダビデはその命令に忠実に従っただけだ、と思われるかもしれませんが、もしそうだとすると、別の大きな問題が発生します。なぜならサムエルはサウルに、人間だけでなく家畜一匹も残らず皆殺しにしろと命じたからです。サウルはこの家畜を殺すという命令を守らなかったので、そのことにサムエルは激怒し、そのために王失格の烙印を押されてしまいました。しかし、なんとダビデもまったく同じことをしているのです。ダビデもまた、人間は皆殺しにしたのに家畜は生け捕りにして、それらをペリシテ人のアキシュ王への贈り物にしたのです。サムエルが聞いたら何と思うでしょうか?彼はサウルに続いてダビデも王失格を宣言しないと公平を欠くということになります。そうなると、ダビデの家も終わりだということになります。幸か不幸か、サムエルはすでに世を去っていましたので、ダビデはサムエルに怒られないですんだわけですが、しかしこう考えるとサウル王が大変気の毒になってきます。ダビデはお咎めなしなのに、サウルはサムエルから王失格を宣言されたうえで絶縁されて、そのせいで精神を病んでしまったからです。
さて、話を戻しますと、ダビデはアマレク人と戦い、そこで得た家畜を戦利品としてアキシュ王への贈り物としました。しかしアキシュ王には、それらがアマレク人から奪った戦利品だとは言いませんでした。むしろ、ダビデは自分の出身部族であるイスラエルのユダ族と戦ってきたといううその報告をしています。また、ユダ族と同盟を結んでいるエラフメエル人やケニ人とも戦ったという風に報告をしています。ダビデは自らの退路を断って、自分の出身部族であるユダ族とすら戦っているといって、アキシュの信頼を得ようとしたのです。しかし、繰り返しますがこれはうその報告です。そしてダビデと戦ったアマレク人の生き残りが本当のことをアキシュに告げてしまうと、ダビデのウソがばれてしまいます。ダビデはこうした危険も分かっていたので、そのための対策も打っています。つまり彼らの口封じのために、ダビデは男だけでなく非戦闘員の女性まで皆殺しにしたのです。別にサムエルから聖絶するように命じられたから皆殺しにしたのではなく、自らの身を守るために彼らを殺したのです。アキシュ王はダビデにすっかり騙されてしまい、ダビデを深く信用するようになり、こう思いました。「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう。」こうしてダビデの策略は見事に成功したのです。
こうしてみると、私たちのダビデという人物に対する印象がだいぶ変わるかもしれません。ダビデというと、信仰の人、正義の人というイメージがありますが、今回のダビデは政治的な生き残りのためには女子供でも非情にも殺すというマキャヴェリズム的なにおいがプンプンします。しかも今回のダビデの行動については、神に祈ったとか、神に命じられたという記述もありません。少なくともこの27章の記述からは冷徹で非常なダビデ像しか浮かんでこないのです。しかし、こうしたダビデ像が彼の本質なのかもしれません。ダビデは今回、ウソがばれないようにアマレク人の男女を皆殺しにしますが、王となった後のダビデも、バテ・シェバとの不倫を隠すためにうそをついてその夫ウリヤを殺しています。ウリヤというのは非常に立派な武人で、ダビデのために献身的に働いていました。その彼を、自分の罪を隠ぺいするためにうそをついて殺してしまうのです。今回のアマレク人の一件と似ていなくもありません。ダビデという人物には、こういう非常に利己的なところがあったのです。
3.結論
まとめになります。今日はサウル王からの追及を逃れるために、なんと宿敵であるペリシテ人を頼ったダビデが、そこで綱渡りのような駆け引きをしてペリシテ人の王アキシュの信頼を勝ち得ていく様子を見て参りました。ダビデは疑い深くないアキシュ王を手玉に取る策士ぶりを発揮しますが、これまでは割と一途な青年という感じだったダビデのこういう側面を見るのは驚きかもしれません。しかし、権力の階段を駆け上っていくような人物は、こういう策士的な面や非情な面も持ち合わせているものです。ダビデもそうだった、ということになるのでしょう。
ただ、信仰者としてこのようなやり方が正しかったかどうかというと、話は別になります。成功のためには手段を選んでいられない、嘘も方便、大望のためには多少の犠牲はやむを得ない…こうしたことは、この世の王たちがしばしば主張することであり、ダビデも今回はこの世のルールに従って行動しているように思えます。けれども、ダビデには別の道もあったように思えます。なにしろ、ペリシテ人はイスラエルにとっての最大の敵です。サウルの追及をかわすためとはいえ、そんな相手の軍門に降るというのが本当に神の御心だったのか、ダビデにはもう少し慎重さが必要だったように思えます。こういう無茶な作戦のため、どうしてもダビデはうそをつかなくてはいけなくなりました。うそにうそを重ねていくことがいずれ自分の首を絞めるということを、これからダビデは学んでいくことになるでしょう。
このように考えると、今回のダビデの行動は、少なくとも信仰面では私たちのお手本というよりも、反面教師の面の方が大きい気が致します。私たちはどんな場合でも、「しかり」は「しかり」、「否」は「否」と、正直でありたいと願うものです。たとえそれが馬鹿正直と言われてしまうとしても、うそをつくことには慎重であるべきです。なぜならうそというのは癖になり、小さな嘘が段々と大きな嘘、常習的な嘘へと変わっていってしまうからです。ダビデの場合も、嘘をつくという罪がウリヤ殺害という最悪の罪へと結実してしまったことを忘れるべきではありません。私たちが唇を制することができるように、主に祈って参りましょう。
私たちに讃美の唇を与えてくださった父なる神様、そのお名前を讃美します。今回はダビデの行動を通じて、神の民はどう歩むべきかを改めて考えさせられました。私たちは神の前に正直に歩むことができるように導いてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン