行いによって義とされる
ヤコブの手紙2章14~26節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記の講解説教から離れて新約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今日もヤコブ書からメッセージをさせていただきます。今日の箇所は、新約聖書の中でも最も有名で、かつ議論を呼ぶ箇所の一つだとされるところです。

なぜこの箇所がそんなに有名なのかといえば、今日の説教タイトルにあるように、ヤコブが「行いによって義とされる」ということを繰り返し説いているからです。しかし、宗教改革でルターが熱心に主張したのは「信仰のみで義とされる」という信仰義認論でした。「信仰のみ」とはすなわち「行いなしで」ということであることが強調されました。あまりこの教理についての難しい議論には触れないようにしたいのですが、一つだけ強調したいのはルターも決して「行い」の重要性を否定していたわけではなかったことです。クリスチャンとしての行いは大切であり、ひとたび神様に義とされて受け入れていただいた後には、クリスチャンは善い行いに励まなければならない、とルターは強く訴えています。ただ、ルターにとっては順番がなによりも大切でした。まず「行いなしに」義とされて、それからクリスチャンとして善い行いに励むという、そういう救いの順序を重要視していたのです。そのルターにとって、行いによって義とされると明確に主張するヤコブ書は自分の信仰義認の教理を脅かす書だと感じられたのでしょう。ルターのヤコブ書への評価は極めて低く、ルターはヤコブ書を「藁の書」、つまり終末の神の裁きの前には藁のように燃えてしまう書だとさえ記しているのです。

ここでルターがなぜ「行いなし」の義認にこだわったのかを考えてみたいと思います。ルターは当時の中世の神学と戦っていました。中世のカトリック神学によれば、神は自らが神の恵みにふさわしいことを示した人に恵みを施すとされていました。つまり、まず人間が頑張る、それに対して神様がご褒美として恵みを与える、という順番でした。しかしルターは、それでは順番があべこべである、と主張しました。まず神は、神の恵みにまったくふさわしくない人に恵みを施すのです。この場合、具体的には恵みとは「聖霊」のことです。人は恵みのみ、信仰のみによって無償で「聖霊」という賜物を与えられる、そしてその聖霊によって力を受けて人は善い行いをすることができる、これがルターの重要視した「救いの順序」でした。ルターがなぜヤコブ書を酷評したのかといえば、こうした救いの順序を無視した議論を展開しているように思えたからです。ただ、ルターの時代から千五百年も前に生きていたヤコブには、こういう微妙なスコラ的神学論争は縁のないものでした。ヤコブは中世の神学と戦っていたわけではありませんし、もっと物事をシンプルに考えていました。彼の目指したものは、人々の間に広がっていたある種の誤解、その誤解はいつの時代にも生まれるようなものですが、その誤解を解くことでした。その誤解とは、人が救われるためにすべきことは信じるだけ、「行いなしに信じるだけで救われる」というものでした。この場合の「信じる」というのは、ある種の知識を知的に受けいれるということです。その知識とは、「神は存在する」とか、「イエスは神の子である」とか、「イエスは人類の罪を背負って死んだ」などの教理のことで、こういった教理を知的に受け入れさえすれば救われる、天国に行ける、このように考えてしまった人がいたということです。イエスを信じて、イエスの教えに従って新しい生き方をする、生き方を変える、それが救いには絶対に不可欠だとは考えず、むしろ信仰とは頭の問題、知識の問題だと考えてしまうのです。どうしてそう考えてしまったのかといえば、それは当時すでに有名だったパウロの言っていることを曲解してしまった結果だと思われます。パウロは「律法の行いではなく、キリストへの信仰によって義とされる」ということを強く主張しました。このパウロの教えの真意を理解することはとても大切なのですが、しかしあまりこの問題に深入りすると、ヤコブの手紙ではなくパウロ書簡についての説教になってしまうので、ここではごく簡単に解説します。パウロが言わんとしたのは、「あなたは何の行いがなくても、ただ信じるだけで救われる」ということではありませんでした。むしろパウロはすべての書簡で、行いの重要性、必要性を強く訴えています。一番有名なのは、「なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです」というローマ書2章13節のことばです。ここで言っているのは、ヤコブの手紙と全く同じですね。パウロが「律法の行いでは義とされない」と語った前提として、モーセの律法はモーセ契約を結んだユダヤ人のみに与えられたものだということを覚えておく必要があります。つまり、モーセ律法のすべての戒めを守る義務を負っているのは契約の民であるユダヤ人だけなのです。私たち日本人クリスチャンが、モーセの律法を守って「これからトンカツは一生口にしません」と誓っても、それは豚肉を食べないユダヤ人にとっては義とされる行為であっても、日本人クリスチャンがそうしたからといって、神の前に義とされることはないのです。つまり、パウロは一般的な意味での善い行いは救いには関係ないとか必要ないと言いたかったのではなく、ユダヤ人に固有の教えをいくら熱心に守っても、私たちのようなユダヤ人以外の異邦人には意味がないということを指摘したのです。 しかし、ユダヤ人と異邦人との関係を念頭に置かずにパウロの言葉を聞くと、「ああ、パウロ先生は救われるためには善い行いをする必要はない、ただ信じるだけでよいと教えておられる」というように捉えてしまいがちです。そのような誤解は現代にもありますし、ヤコブの手紙が書かれた時代、つまりキリスト教の黎明期にもあったのです。ヤコブの狙いは、そうした誤解を打ち砕くことにありました。この点を念頭に置いて、さっそくテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

では14節から見ていきましょう。ヤコブは、行いの伴わない信仰が何の役に立つのか、そんな信仰が人を救うことができるのか、という問いを投げかけます。まずヤコブは、「口先だけの信仰」のむなしさを語ります。「口先だけの愛」がむなしいように、「口先だけの信仰」はむなしく、有害だとさえ言えます。

ある人が貧しくて食べるものがなくて空腹に苦しんでいる時に、食糧を十分に持っているその人の友人が、「たいへんですね。あなたのことを心から心配していますよ。あなたの空腹が満たされるように、お祈りしますね」と言いながら、その人に自分の食事のわずかな分さえ与えるのを惜しんだとします。では、その人の貧しい友人への同情心が本物だと思えるでしょうか。いいえ、それは口先だけの、見せかけの同情心に過ぎないのです。ずいぶん昔のテレビドラマで「同情するなら金をくれ」という有名なセリフがありました。ここまであけすけに言うと身も蓋もないですが、しかし本当に同情して心配してくれるなら必要なものを買うためのお金を提供してほしい、というのはもっともな願いでもあります。ですから本当の同情心は口だけでなく行動を通じて表わすべきものなのです。全く同じことが信仰についても言えます。いくら口先で「イエス様、あなたを信じています。あなたについて行きます!」と言ったところで、その人が生活においてイエスの教えを無視し、自分の判断で好きなように生きているとしたら、その人のイエスへの信仰は本物と言えるでしょうか。いいえ、そんなものは口先だけの信仰に過ぎないのです。言われてみれば当たり前の事なのですが、私たちはこのように考えてしまう罠に陥りやすいのです。

18節では、ヤコブは信仰についてのもう一つの誤解を取り扱っています。それは信仰を知識の問題として捉えてしまうこと、信仰を神についての教理を知的に受け入れることだと考えてしまう誤りについて指摘しています。ある人が、「私には立派な行いはないし、私の生き方は褒められたものではありませんが、しかし神様がおられて、神様が私の罪を赦してくださることは誰よりも強く信じています。この信仰の強さについては、誰にも負けません」と言ったとします。では、このような信仰は神の求める信仰なのでしょうか。ヤコブは、あなたの言う意味での信仰についてなら、悪霊の方があなたより強い信仰を持っているという事実を指摘します。神についての正しい知識なら、私たち人間よりも霊的存在である悪霊のほうがずっと優れた知識を持っているからです。ですから神が存歳するという教理を信じる度合いは、私たちよりも悪霊の方がずっと強いのです。では、そのような信仰によって悪霊は神に喜ばれ、救われることができるのでしょうか。いいえ、そんなことはありえないし、神はそのような信仰を求めてはおられないのです。この具体例から分かるように、信仰とはただ頭の中で考えたり信じたりすることではないのです。

そしてヤコブは信仰とは何であるのかを示すために、最後に旧約聖書で最も有名な人物を例に引きます。そう、「信仰の父」アブラハムです。ここで注意したいのは、アブラハムの信仰といっても、アブラハムの生涯のどの部分を切り取ってくるのかでその「信仰」についての印象もずいぶん変わってしまうということです。それを端的に示しているのがパウロとヤコブのアブラハムの描き方です。パウロは信仰義認論を論じる時に、常に創世記15章のエピソードを引用します。創世記15章のエピソードとは、子どもを与えてくださるという神の約束を信じてカルデヤからカナンの地にまで旅してきたアブラハムですが、もう80歳を超えても子どもは授かりませんでした。もうあの神の約束は無効になってしまったのかと弱音を吐くアブラハムに対し、神はかならず子どもを授けること、それどころか彼の子孫は空の星のように夥しい数になることを改めて約束します。アブラハムはこの神の約束を信じ、それが義とされたと書かれています。ここでアブラハムは何か立派な行いをしたとか、神の命令に従ったとか、そういうことは何もありません。ただシンプルに神の約束を信頼した、そのことが神に認められ、義とされたのです。このエピソードからは、確かに「行いなしに、信じるだけで、神に義と認めていただける」という結論が導けるかもしれません。ただ、忘れてはいけないのはこの出来事でアブラハムの信仰の旅路は完結したわけではなかったということです。また、神はこの時のアブラハムの受け身の信仰で完全に満足した、というわけでもありませんでした。もしそうなら、神は後にアブラハムの信仰をテストする必要などなかったからです。

本物の信仰というのは、人生のある時期に、一度でも神を信じればよいというものではないのです。むしろ、信仰とは人生全体に及ぶものです。これは愛の場合を考えても同じでしょう。ある人を一度は愛したけれど、その愛が時間と共に醒めてしまった、というのでは、その愛ははしかのようなもので、本物ではなかったということになるのではないでしょうか。信仰も同じです。神様を一度は信じた、信頼したければ、人生においていろいろと苦難が降りかかるともはや神を信じられなくなった、神がいるとは思えなくなった、というのではその信仰は本物ではなかったということになります。信仰は、人生の荒波や試練のただ中でも失われなかった場合にこそ、それが本物だと認められるのです。そしてアブラハムにとっての最大の信仰の危機は、いうまでもなく神にわが子イサクを献げなさいと命じられたときでした。これほど残酷な命令はありません。そもそも75歳という高齢になってまで、アブラハムが神の命令に従って生まれ故郷を離れて旅立ったのは、「子どもを与える」という神の約束を信じたからでした。アブラハムが神に求め続けたもの、それは子どもだったのです。その約束の子どもが、約束の時から25年も後になってやっと与えられ、そしてその子が順調に育ってきた、これでアブラハムもやっと安心してこの世を去ることができると思えたその時に、そのたった一人の子どものイサクを屠りなさいと神に命じられたのです。悪い冗談ではないか、と思えたことでしょう。そしてその神の命令が本気の命令だとわかったときに、アブラハムの心に神への不信感がまったく生まれなかったとは言えないでしょう。いったい神は何を考えておられるのか。私の人生を弄んでいるのではないか、という不信が全くなかったとはいえないでしょう。しかしアブラハムは、神と共にもう30年以上も共に歩んできました。神が自分を弄ぶとか、そんなことをする方ではないことは良く分かっていました。神は常に私にとっての最善を願っておられるという強い信頼が、その長い歩みを通じてアブラハムの心に生じていたのです。だからアブラハムはイサクを献げようと思ったのです。それはブラインド・フェイス、つまり盲目的な信仰ではありません。むしろその信仰は、長い人生経験に裏打ちされていました。これまでの人生の苦楽を共にしてきた信頼できるパートナーとしての神への全幅の信頼です。なぜ神がイサクを献げろと言われるのか、その真意は分からないけれど、神が私の信頼を裏切るようなことを命じるはずがない、という本物の信頼があったのです。そしてアブラハムの神への信頼は、行動を通じてでしか、行いを通じてでしか表すことができないものだったのです。アブラハムは神への信頼の証しとして、神の命令に従いました。そして、そのような神への全き信頼が神に喜ばれたのです。アブラハムはこの試練を通じて、なんと「神の友」とさえ呼ばれるようになりました。そしてこの時、アブラハムの子孫、つまりイエス様が全人類の祝福の基になることが確定しました。アブラハムの信仰に心を動かされた神が、ご自身に賭けてそのことを誓われたからです。私たちがイエス・キリストという救い主を得ることができたのは、アブラハムが神への信頼を全うしてくれたおかげなのです。ですから私たちはアブラハムに心から感謝するとともに、その彼の信仰に倣う者でありたいと願うものです。そして、繰り返しますがアブラハムの信仰とはその行動を通じてでしか表せないものでした。ですから信仰と行いとは決して切り離すことはできないのです。それが、次のヤコブの言葉の真意です。

人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。

この言葉はパウロの信仰義認の否定ではありません。むしろパウロの信仰義認への誤った理解を正してくれるみことばなのです。

3.結論

まとめになります。今日は新約聖書の中でも最も有名で、また最も議論を呼ぶ箇所の一つを読んで参りました。ヤコブの議論は具体的で分かりやすく、心に残るものでした。それは「信じるだけで救われる」という、非常に誤解を招きやすいものの、しばしばキリスト教のエッセンスのように語られるスローガンを正すためのものでした。

当たり前のことですが、誰かを信じるということは、それが神に対してであれ人に対してであれ、口先だけのものであってはならないのです。むしろ誰かを本当に信じているかどうかは、その行動を通じてでしか確かめることができないということがヤコブの第一のポイントでした。

ヤコブの第二のポイントは、信じるということは単なる知識の問題ではない、ということでした。誰かを信じるということは、それが神についてであれ人についてであれ、単にその人についての知識を受け入れることではありません。皆さんがスポーツクラブに所属しているとします。そこに優れた実績のコーチが新たに就任します。けれども、このコーチがどれほど優れているのかを知っていたとしても、それで皆さんが上達できるわけではありません。このコーチを信じて、その指導に従ってしっかり練習する、実践することを通じて初めて皆さんは上達できるのです。イエス様も私たちにとっての最高の霊的な指導者ですが、イエスが優れた教師であることを知るだけで私たちは霊的に成長するのではありません。イエスの教えに実際に従って初めて私たちは本当にイエスを信じたことになり、また成長できるようになるのです。つまり頭だけでなく、行動そのものでイエスへの信頼を表していかなければ私たちはいつまでたっても霊的に成長することはないのです。聞くだけでなく、実践すること、これが本物の信仰です。

三つ目のポイントとして、ヤコブはアブラハムを例に引きます。アブラハムの信仰は、一時期だけのものではありません。それは30年もの間、それどころか彼の人生の終わりまで持続するものでした。アブラハムは年をとっても、信仰面ではダイナミックに成長し続けました。このように、本物の信仰とは一時的なものではなく持続的なもので、なおかつ成長を止めないものでもあります。信仰の父であるアブラハムはまさにそのような信仰を体現した人だったのです。私たちを救うのは、そのような信仰です。そうした信仰を持ち続けることができるように、祈って参りましょう。

アブラハムの信仰の成長を見守り続けた神様、そのお名前を賛美いたします。私たちもアブラハムのような本物の信仰を持ちたいと願うものです。どうか私たちの信仰の歩みをも、守り導いてくださいますように、お願いいたします。われらの救い主、平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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