報復するは、神にあり
第一サムエル26章1~25節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはサムエル記を読み進めていますが、この物語もいよいよ前半の山場を迎えます。第一サムエル記の二人の主役は初代の王サウルと二代目の王ダビデです。主役と言っても、サウルの方は悪役、ヒールのような役回りをしていますが、この二人の神から油注がれた者たちの間の対立にどのように決着が付くのか、それが第一サムエル記の大きな関心事、テーマでした。

とはいえ皆さんもご承知の通り、サウルとダビデの確執は2章前の24章で解消したことになっています。サウルとダビデはそこで仲直りしたはずなのに、なぜサウルはダビデを相変わらず追い回しているのか、と疑問に思われるかもしれません。その理由としては、26章と24章の出来事はおそらく同じ出来事なのだろう、ということは前にもお話ししました。つまり、今回の話は24章の話の語り直しだということです。細かい部分はいろいろと違いますが、基本的な粗筋は同じだからです。では、なぜ同じ話が二度繰り返さなければいけないのかといえば、それは強調点が違うからです。今回の場合は、ダビデは報復は自分のすることではない、それは神がなさることだ、ということが強調されています。これは24章にはなかった点です。ダビデはこのことを、前回のナバルの一件から学んでいます。ダビデはそこから得た教訓を、今回のサウルとの一件で生かしているということです。

ここで少し考えてみたいのは、赦しと報復とは違うということです。ダビデは確かにサウルの命を奪うことはしませんでしたが、それは罪もない自分の命を狙って付け回してきたサウルの罪を赦してあげたから、というのではありませんでした。むしろダビデは、「主が必ず彼を打たれる」という信念の下で、サウルを討つことはしなかったのです。ダビデはサウルを赦したのではなく、サウルを神の裁きに委ねたのです。復讐は神のすること、というのは旧約・新約に共通する大きなテーマです。今回の「報復するは、神にあり」という説教タイトルも、パウロの書簡であるローマ人への手紙から取ったものです。そこをお読みします。ローマ書12章19節以降です。

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。

ここでパウロは箴言25章を引用し、敵に塩を送りなさいと教えています。しかし、それは相手を赦すからではなく、むしろ相手の頭に炭火を積む、苦痛を与えることになるからだ、というのです。この点は私たちを困惑させるかもしれません。イエス様の教えのように、敵を愛し、敵を赦すべきではないか、敵に塩を送りながらも、結局は敵の不幸を願うのは違うのではないか、と思われるかもしれません。主イエスは復讐心そのものを捨てるようにと教えているのではないでしょうか。自分では復讐をせずに神が復讐してくださるのを待つというのでは、結局相手を赦すことができずに復讐心に囚われてしまっているのではないかと思えるかもしれません。

これはなかなか難しい問題です。ただ言えることは、相手を赦すためにはその相手が本当に悔い改めて、悪から離れるということが条件になるということです。相手が一向に悔い改めずに悪を行い続けている場合、その相手を赦してしまうならば、かえって悪を助長することになってしまいます。ですからそのような場合に神に裁き、あるいは報復を委ねるのです。そして、神が復讐するという場合、やられたことをやりかえすというような、私たちの考える復讐とは次元が異なり、正義の回復、秩序の回復という目的があることを忘れてはいけません。神の復讐というのは相手が憎くて仕返しをすることではありません。私たちが自分で復讐をせずに神に任せるべきだということの一つの大きな理由は、私たちが自分自身で復讐する場合、どうしても自分の感情、相手を赦せないという気持ち、怒りや憎しみという感情がにじみ出てしまうからです。そのような復讐心から出た行動はさらなる報復という、報復の連鎖を生み出してしまいます。ですから公平な方である神に復讐を委ねるべきだという教えが大切なのです。神の復讐の目的は正しい秩序の回復にあるからです。詩篇94篇はそのことを言い表しています。1節から3節まで、それと16節から17節までをお読みします。

復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。主よ。悪者どもはいつまで、いつまで、悪者どもは勝ち誇るのでしょう。[…] だれが、私のために、悪を行う者に向かって立ち上がるのでしょう。だれが、私のために、不法を行う者に向かって堅く立つのでしょうか。もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。

ここでは、復讐が向けられるのは悪を行う人に対してです。悪を止めるために神が立ち上がるのです。神は悪者の悪のゆえに、彼らを滅ぼすとこの詩篇は結んでいます。

今回の26章においては、サウルは自分の非を認めて悔い改めています。ですからダビデも、最後にはサウルへの報復を神に願うことはせずに、サウルと和解した上で自分の道を歩み出しました。ダビデがサウルに対する復讐を願わなかったことは強調したいと思います。それではテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、では1節から見て行きましょう。ジフ人というのは23章19節にも登場しましたが、ダビデと同じユダ族の人々です。いわば同族であるダビデをサウル王に密告して売り飛ばそうとした人々なわけですが、ここでも彼らはサウルにダビデの居場所を教えています。すぐさまサウルは三千人の精鋭を連れてダビデを捕らえようとします。ダビデの方も、ほどなくサウルの動向を掴みます。そこでダビデは斥候を送り、サウル軍の動向を探らせます。サウルの軍には、大将軍アブネルもいました。アブネルを連れて来たというところに、サウル王の本気度が表れています。ダビデは斥候の報告で、サウルたちが野営している場所を突き止めました。

この時点で、ダビデの側にはこのサウルの追撃軍をどうすべきか、明確なプランはなかったように思います。ここに隠れ潜んでサウルの軍をやり過ごすか、あるいはダビデの方がサウルの手の届かないところに逃げのびるか、決めかねていたようです。そこでサウル軍を偵察し、今後の方針を決めようとしたのでした。ダビデは、有能な武人であり、また親族でもあるアビシャイを連れて行きました。アビシャイはダビデの家来の中でも三本の指に入るほどの勇猛果敢な人物です。サウルの側にはアブネル、ダビデにはアビシャイがいます。非常に重要な人物が集まっていたことになります。これは24章の場合とは異なる点です。

ダビデとアビシャイは夜陰に紛れてサウルの宿営に近づいていきました。しかし、夜といっても王の陣営です。簡単に近づけるはずがないのですが、どういうわけかダビデたちはサウルの眠っている幕営まで誰にも気が付かずに近づくことができました。これは明らかに普通の話ではありません。12節にあるように、神の超自然的な力がサウルの陣営に働いていて、サウル軍の兵士たちは皆眠りこけてしまっていたのです。つまり神はダビデに、誰にも知られずにサウルの所に近づくチャンスを与えたということになります。神はダビデがサウルをどうするか見ておられた、試したといえるでしょう。

そしてダビデとアビシャイは、自分たちの命を狙うサウル王の命を簡単に奪うことができる機会を得たのです。まさに千載一遇のチャンスです。ダビデと共にサウルに近づいたアビシャイは、これは神が与えたチャンスである、神が私たちにサウルを討つように命じておられるのだと考え、ダビデにサウルを打ち殺す許可を求めます。しかしダビデの判断は違いました。ダビデはアビシャイに、サウルを殺すことを禁じます。その理由は二つありました。まず、サウルは神ご自身がお選びになり、油を注がれた人物だという厳然たる事実です。たしかに今のサウルのやっていることは滅茶苦茶です。無実の、それもサウルと同じく神に選ばれたダビデの命を狙って追い回しているのです。しかし、それでもサウルが神に選ばれた人であるという事実は変わりません。ダビデはそのことを改めて強調します。

しかし、ダビデにはサウルを殺さないもう一つの理由がありました。それは、サウルは神ご自身が打たれると、ダビデが確信していたからです。サウルの罪は神がご存じである、神はご自身の選ばれたサウルを、ご自身で打たれるだろう、それがどのような形になるのかは分からないが、しかしサウルへの裁きは神に委ねるべきことだ、とダビデはアビシャイに諭します。ダビデは報復は自分のすることではない、神に任せるべきだということを、先のナバルの一件で学んでいたのです。とはいえダビデは、何もしないままサウルの下を去ったのではありませんでした。自分がその気になれば、確かにサウルの命を奪うことができたのだ、という証拠の品を持ち去りました。それはサウルがダビデの命を奪おうと何度も投げつけた槍と、水差しでした。この二つがあれば、確かにダビデがサウルの枕元に立っていたことが証明できます。サウル軍の兵士たちは相変わらず眠りこけていたので、ダビデとアビシャイは悠々とサウルの陣営を立ち去ることができました。

さて、ダビデはサウルの陣を離れて、サウルの陣営を見下ろせる小高い山に上りました。そこから大声で叫べばサウルの陣営にも声が届くような距離でした。ダビデはまず、サウル軍の中でも最も有能な武将であるアブネルに呼びかけました。ダビデはアブネルに対し、職務怠慢を咎めます。お前はイスラエル一の武将であるはずなのに、サウル王を守らないでどうする、と叱責します。このようにアブネルに呼びかけたのは、自分にはサウル王の命を狙いつもりがないということの証人となってもらうためでした。最初はダビデの呼びかけに反発したアブネルも、サウル王の枕元にあるはずの槍と水差しがあるかどうか確かめてみろとダビデに言われて、慌てたことでしょう。

さて、当のサウル王ですが、にわかに周囲が慌ただしくなってきたので、起こされてしまいました。そしてダビデとアブネルのやりとりが聞こえてきました。自分の枕元に槍と水差しがないことに気が付いたので、ダビデがアブネルに言ことに間違いがないことはすぐにわかりました。そしてサウルは、おそらくその時に瞬時にダビデの意図を悟ったのです。ダビデには自分を害するつもりがないのだと。そのためでしょうか、この時のサウルの反応は、驚くほど穏やかなものでした。なんと、「わが子ダビデよ」と呼びかけたのです。執念深くダビデの命を狙っていた人物の言葉とは思えないものです。神はサウルに、この時には平安な気持ちを与えていたのでしょう。サウルにはダビデの言葉を受け入れる心のゆとりが生まれていたようなのです。ダビデもサウルがこのように温かく呼びかけてくれたことに勇気を得て、サウルに直接呼びかけます。

ダビデはサウルに、なぜ自分の命を狙っておられるのかと直接尋ねます。以前はサウルの息子であり、また無二の親友でもあるヨナタンに、なぜサウルが自分の命を狙うのか、そのわけを尋ねたのですが、今回は直接本人に疑問をぶつけます。あなたが私の命を狙うのは、主が命じられたからなのか、あるいは誰かがあなたを唆したのか、それを教えて欲しいと訴えます。さらにはダビデは、自分は王にとっては蚤のようなちっぽけな存在にすぎない、そんな私の命を取ったところで、王には何の益もない、とサウルに語り掛けました。

このダビデの言葉はサウルの心に響きました。そしてサウルは自らの罪を告白します。自分は愚かだった、まちがいを犯してきたと率直に認めたのです。王であるサウルが、家来たちの前で自らの誤りを認めるというのは大変勇気のいることです。ここでサウルは本心から言っているのは間違いないでしょう。24章ではサウルは大泣きしたとあり、26章にはそのような記述はありませんが、おそらくサウルは涙を流してダビデに語り掛けていたものと思われます。そしてサウルはダビデに自分の所に帰って来てほしいとまで言います。

ダビデも、サウルの言葉に偽りがないことは分かったでしょうが、しかしここで帰るわけにはいかないということも分かっていました。サウルもダビデも王の器です。両雄並び立たず、という言葉があるように、今ダビデがサウルの宮廷に戻ってしまえば、必ずこの二人をめぐって王国に分裂が生まれてしまうことが分かっていました。今やダビデの側にも、早く彼に王になって欲しいと願う部下たちが大勢います。そんなダビデたちの一行がサウルの軍団にすんなりと合流できないことは、これまで辛酸をなめて世間を学んできた今のダビデには十分分かることだったのです。そしてダビデはサウルに、若い者をよこしてあなたの槍を引き取ってください、と申し出ます。そしてダビデは最後に、神がそれぞれをその行いに応じて報いてくださるように、と語ります。それはダビデが神に油注がれたサウルの命を大切にしたように、ダビデ自身の命も神が大切に扱ってくださいますように、という祈りでした。サウルもその言葉を受けて、ダビデの祝福を祈りました。もはや共に歩むことは叶わない二人でしたが、互いを認め合い、それぞれの道を行くことにしたのです。

3.結論

まとめになります。今日はサウルとダビデの確執についに決着がつくという場面を読んで参りました。ダビデをゆえなく追い回すサウルに、ダビデが復讐する機会を神が与えてくれました。ただこの機会は、ダビデにサウルを殺させるためのものではありませんでした。神はダビデが、ナバルの時に学んだように、報復を神に委ねることを望んでおられたのだと思います。ダビデも、このような神の期待に応える行動を取りました。サウルの寝込みを襲うようなことはせずに、自分たちが確かにここに来たという証拠の品だけを持って去っていったのです。ダビデは、サウルの罪については神にすべてをお委ねするという信仰を、行動を通じて表わしたのです。

このダビデの行動は、劇的な効果をサウルの心にもたらしました。このダビデの行動から、ダビデには自分を害するつもりがないことを悟ったのです。サウルはこれまでの自分の行動を恥じて、また悔いて、ダビデに和解を呼びかけました。ダビデの方もサウルの気持ちは受け取りましたが、しかし覆水盆に返らずで、サウルとダビデが再び王宮で共に過ごすことはできない相談でした。たとえサウルとダビデがそれで良くても、周りの家来たちはそうはいかないからです。それでも、ダビデにしてみればサウルの誤解が解けたことは本当に感謝すべきことでした。

歴史にもし、はありませんが、もしダビデがここでサウルを殺めるようなことがあればどうなったでしょうか。それですんなりダビデがサウルに代わって王になる、というような展開にはならなかったでしょう。ダビデが王になるためには、人々から王として認められ、また王になることを求められる必要がありました。実際にダビデはそのようにして王となっていくのですが、そのためにはもっと多くの時間と、正しい順序が必要でした。それなのに、先代の王を殺して自分がそれに成り代わろうというのではダビデの正統性に大きな疑問符がつくことになります。ですからダビデがサウルを殺さなかったことは、信仰面のみならず政治的にも正しい判断でした。

私たちの人生にも、自分がどのように行動するのか神に試されていると思えるような場面があるかもしれません。私たちは弱い人間ですから、つい目先の安易な道を選んでしまおうとするかもしれません。ダビデも、ここでサウルと別れても、相変わらず辛い逃亡生活、亡命生活が待っているだけです。そんな先の見えない道を進むなら、一思いに最大の障害物を取り除いてしまえ、と考えても不思議ではなかったのです。しかしダビデは遠回りでも正しい道を選びました。自分で早急に問題を解決しようとはせずに、神の動かれるのを待ったのです。この「待つ」ということが信仰にとって一番大切なことです。アブラハムも、神が約束の子どもを与えてくれるという約束を待つことができずに、若い妾に子供を産ませることで問題を解決しようとしました。その結果、アブラハムにはイシュマエルとイサクという二人の子どもが生まれてしまい、その子供たちの子孫はそれぞれアラブ人とイスラエル人になり、今日に続くまで争い続けています。もしアブラハムがもし信仰を持って待つことができれば、このような争いは起きなかったかもしれないと思うと複雑な思いがします。しかし、それほど信仰を持って待つということは難しいことなのです。私たちも、もし自分が神様に試されているのではないかと思う局面に立つことがあったなら、慌てて行動することはせずに、少し冷静に考えてみる、祈ってみる、そして待つ、ということが必要になるでしょう。そのような信仰の人生を歩む力をお与えくださるように、祈りましょう。

サウルとダビデを和解に導いてくださった神様、そのお名前を讃美します。サウルがダビデの行動に心を動かされて悔い改めに至ったことは素晴らしいことでした。私たちも、目の前にある問題を手っ取り早い方法で片付けてしまおうという誘惑にかられることがあります。特に、相手が悪いという確信がある場合には、自らの手でその悪を取り除いてしまおうと考えてしまうこともあります。しかし、そのようなときにも神に委ねるという気持ちを忘れることがないように、私たちを導いてください。われらの平和の主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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