1.序論
みなさま、おはようございます。前回は、サウルの命を簡単に奪う機会があったのにもかかわらず、見逃したダビデの行動に心を動かされたサウルが、ついにダビデを認め、あなたこそイスラエルの王にふさわしいと語る感動的な場面を学びました。しかし、今回の箇所は前回の話とは直接関係のない話になっています。むしろ、今日のエピソードは次の26章の話の重要な伏線になっています。先週もお話ししましたように、来週取り上げる26章は24章の話と非常によく似ています。細かい点は違うものの、ダビデが絶好の機会があったにもかかわらずサウルの命を奪わずに、そのことがダビデとサウルの和解につながるという基本的なプロットは全く同じです。そして、24章と26章とは、おそらく同じ出来事についての異なる二つの伝承だろうということもお話ししました。この件の説明は繰り返しませんが、ではなぜ同じ話を二度繰り返す必要があったのかといえば、今日の25章の話の上に26章のサウルとダビデの和解の話が成り立つからです。ですから今週と来週の話は、一つの長いエピソードの前編と後編というような意味合いで聞いていただきたいと思います。
さて、今日の説教タイトルは「愚かな夫と賢い妻」、つまりナバルとアビガイルのことです。しかし、この説教題をつけた私が言うのも何なのですが、この二人の関係をこのように言い表すのはいかがなものか、と思わないでもありません。というのも、ナバルの取った行動は単に愚かなものとは言い難いからです。今回ダビデがナバルにやろうとしたことは、暴力団まがいの乱暴な行動だと言えます。ダビデはナバルの雇っている羊飼いを外敵から守ってやりました。その対価として何らかの報酬を求めましたが、それを拒まれると彼らを一族郎党皆殺しにしようとします。でもこれと、いわゆる暴力団のみかじめ料と何が違うのでしょうか。みかじめ料とは要は用心棒代のことであり、ある地域で商売をする人を暴力団が守ってあげるかわりに、その代価として金品を要求するというものです。日本ではこのような行為は法律で禁止されています。しかしダビデを暴力団と比較するのはいくらなんでもひどいではないかと思われるかもしれません。でも、ナバルの立場から見れば、そうとも言えなくもないのです。当時のダビデたちは、いわれのない理由とはいえ、王であるサウルから反逆者として追われているお尋ね者の身です。ですからダビデの周りに集まったグループは、いわば反政府的組織ということになります。その彼らが裕福な商人であるナバルの羊飼いたちを守ってあげて、その見返りに物資を要求しているわけです。ナバルとしては、頼んだわけでもない、また政府の警察や役人でもないダビデたちの行為に対して、どうして保護料などを払う必要があるのか。むしろそんなことをしたら、お尋ね者のダビデを助けて殺された祭司アヒメレクのように、サウルの目を付けられてどんな目に遭うか分からない、そうナバルが考えても不思議ではないわけです。そうしてナバルはダビデの要求を拒否しますが、それにダビデは怒って、ナバルたちを殺そうとします。これなど、みかじめ料を払わない人にお礼参りに行く暴力団と何が違うのか、ということになりはしないでしょうか。もちろん、ダビデは聖書の中でもとても有名な英雄ですから私たちは普通はそのようには考えないのですが、よくよく当時の状況を考えるとこういう見方もできるということです。
ただ、そういうことを考慮に入れたとしても、この時のナバルの取った行動は、彼が愚かな人物であることを示しています。「金持ち喧嘩せず」といいますが、ナバルはここでわざわざダビデを侮辱するようなことを言って挑発し、自分の身に災いを招いているとも言えます。ナバルは「このごろは、主人のところを脱走する奴隷が多くなっている」と言っていますが、これはつまりダビデが主人のサウルのところから逃げ出した奴隷だと仄めかしているのです。しかしダビデは暴力団どころか、何度もイスラエルの危機を救って来た大将軍です。確かに今はサウル王と対立関係にありますが、もしナバルが自分で調査してこの対立の背後に何があるのかを知っていたのなら、ここまでダビデに無礼なことは言わないでしょう。さらにいえば、頼んでもいないとはいえ、彼に雇われている羊飼いたちは、確かにダビデたちに守ってもらったわけです。ですからサウルを刺激しないような形で、ダビデに何らかのお礼をするのが賢い人の取るべき行動だったはずです。
そのような夫ナバルの思慮のない行動に危機感を持ったのが、妻のアビガイルでした。アビガイルはいろいろな意味で非常に賢い、有能な女性でした。まず彼女は部下たちや召使たちから非常に慕われていました。ダビデとナバルの間のいざこざも、ナバルの手下の若者がいち早くアビガイルに報告したことで、彼女は今の状況を正確につかむことが出来ました。ナバルの部下が、危機の時にいち早く奥方のアビガイルに報告するということは、いかに彼女がナバルの家の人から信頼されていたかを伺わせます。さらには、彼女は行動力も抜群でした。彼女は一刻の猶予もないことがよく分かっていました。ダビデによって、一族が根絶やしにされてしまう危険を理解していたのです。そこで、主人のナバルに相談することなく行動を起こしました。もしもナバルに話したら大反対されて、行動を邪魔されることは目に見えていたからです。今はそんな内輪もめをしている時ではない、一刻も早く事態を打開しなければ、という判断を下し、行動する力がアビガイルにはあったのです。ここから見ても、アビガイルの器の方がナバルよりもずっと大きかったのが分かります。もっと言えば、彼女はダビデについてもかなり正確な情報を掴んでいたようです。「主が、あなたについて約束されたすべての良いことを、ご主人さまに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき」とダビデに話していますが、これはサウルによるダビデの追跡は王の嫉妬によるものであり、大義はダビデにあるということを理解していたからこそ言える言葉です。
このように、アビガイルは非常に賢い妻だったのが分かります。では、そんなに賢い女性が、どうしてナバルのようなつまらない男と結婚したのか、という疑問を持たれるかもしれません。しかし、当時の女性には配偶者を選ぶ権利はありませんでした。おそらくアビガイルの両親が、金持ちのナバルとの結婚は良縁だとして、娘の意志も聞かずに結婚させたのでしょう。アビガイルは結婚してから主人のナバルの愚かさに何度も失望していたのでしょう。今回ナバルに何ら相談することなく行動していますが、これは非常に大胆な行動です。なぜなら当時は夫の立場の方が圧倒的に強かったからです。ここからアビガイルは賢いだけでなく、非常に気の強い女性だったことも伺わせます。さて、では今日のみことばを詳しく見て参りましょう。
2.本論
さて、今日の25章のうち、最初の1節だけは孤立したといいますか、残りの25章とは分けて考えた方がよい部分です。というのも、この1節はむしろ前の24章の結末として読むべきものだからです。ここではサムエルが死んだことが書かれていますが、それは先の24章の結末部分でサウルとダビデの和解が成ったこととの関係で理解すべきだということです。すなわち、サウルとダビデの二人の王に油を注いだサムエルが、その二人が和解したことを見届けて安心して死んでいったという、そういう流れだからです。
ですから25章の実質的なスタートは、2節からということになります。ここでナバルとアビガイルの夫婦のことが紹介されていますが、アビガイルが才色兼備の妻だったのに対し、ナバルは大金持ちではあるものの、頑迷で行状が悪かったとされています。金持ちになったのも自分の才覚ではなく、親から遺産を受け継いだだけのドラ息子だったのでしょう。そういう苦労知らずの人物にはありがちなのですが、ナバルという男は傲慢で、思い込みの激しい男だったようです。勇猛果敢な将軍としてのダビデの名声はすでにイスラエル中に鳴り響いていたはずですが、ナバルは気に留めず、ダビデのことをサウル王から追われている負け犬ぐらいにしか思っていなかったのです。そのダビデが、ナバルの羊飼いたちのことを守ってやっていたことを聞いても、なんとも思わなかったようです。ナバルが独自の情報網をもって、ダビデの事を調べていたら、既にダビデが多くの配下を従えて一大勢力になっていたことを知り得たでしょうが、そんな情報集めはしていなかったようです。ダビデを単なるお尋ね者ぐらいにしか思わず、そのダビデからの非常に丁寧な申し出、つまりあなたの羊飼いを守ったことの見返りとして、何らかの物資を提供してほしいという依頼をけんもほろろに突き返しました。そのことを聞いたダビデは激怒しました。求めていた物資を得られなかったことだけでなく、ナバルの無礼な物言いに、ひどくプライドを傷つけられたのです。この侮辱に対し、断固報復することを神に誓います。ナバルだけでなく、こわっぱ一人に至るまで皆殺しだというのです。
ただ、このダビデの反応も決して褒められたものではありませんし、正当化もできないでしょう。ダビデの部下たちがナバルの羊飼いを助けたのは確かですが、しかし頼まれたわけでもないわけです。いわば、勝手に助けたわけで、そのお礼がないからといって相手を一族郎党皆殺しにするというのでは、ギャングか暴力団と何も変わらないと言われても仕方がありません。ダビデもこのころは追い詰められていて相当気が立っていたのでしょう。しかし、もしダビデが本当にナバルの一族を、小さな子供に至るまで皆殺しにしてしまったら、イスラエルの人々の間にダビデについての悪評が後々まで語り継がれていたことでしょう。そういう意味では、ダビデは非常に危ない橋を渡ろうとしたのです。
ですから、アビガイルの行動はそもそもナバル一門の命を救うための行動であったのですが、ダビデのことも末代まで語り継がれたであろう悪評から救うことになる、極めて重要な行動だったと言えます。そのアビガイルですが、まずは急いでダビデたち一行の胃袋を満たすほどの十分な食事を用意します。ダビデの一行には大の男が四百人もいて、お腹をすかせて気が立っています。人は空腹のときには怒りっぽくなるものです。反対に、満幅の時にはそんなにカリカリすることはありません。それをアビガイルはよく承知していて、ダビデを説得するためにと、まず膨大な食事を急いで用意します。この手際の良さも、アビガイルという女性が機転の利くことを示しています。そしてアビガイルはダビデのところに駆けつけ、初対面のダビデを前にして、見事な演説をぶちます。
まずアビガイルは、夫ナバルは取るに足らない男であり、ダビデが手を汚す価値もない人間であることを訴えます。ここまで夫の事をくそみそに言うのもどうかと思いますが、本音半分、ダビデをなだめるためも半分だったでしょう。それからアビガイルは、非常に大切なことを諄々と語ります。それは25章、26章を貫くテーマなのですが、「復讐」は神に属することがらである、ということです。神を信じる者は、不当な扱いを受けた場合に自分でその報復をしてはならないという大事な原則を、アビガイルはダビデに訴えたのです。アビガイルは決して夫ナバルや一門の人々の命乞いをしたわけではないことに注意してください。夫ナバルの行動に悪い点や不正があるならば、それは裁かれるべきだということは認めているのです。しかし、実際にその裁き、報復を下すのは神であり、ダビデのような神の人は急いで自分の手を汚すことはせずに、むしろ自重して神の裁きを待つべきだと訴えたのです。
これは非常に大切な真理です。私たちはまるで自分を神、あるいは神の代理人であるかのように考え、正義のために報復を行なうことを良しとします。現在の国際政治を見ても、戦争の動機の一つは、悪い国を神に代わって成敗する、ということであるのがしばしばです。自分を世界の警察官であるかのように考えて、いつも他国の戦争に介入する国があります。しかし、私たちは神ではありません。神のように物事の全体が見えているわけではありませんし、自分が正義だと思っていることも、別の角度から見ればまったく違っているということもよくあることなのです。また、報復というのは常にやりすぎの危険が伴います。20世紀の戦争を見れば分かるように、正義の戦争などといいながらも敵国の民間人を何十万人も殺すようなことがありました。これは明らかに報復の限界を超えています。しかし、愚かで感情的な人間はしばしばそのようなことをしてしまうし、実際にダビデもそのように行動しそうになったのです。ですから報復は神に委ねるべきだ、という聖書の原則があるのです。神を信じない人にとっては無責任極まりないことのように響くかもしれません。何もしなければ、どうやって正義が回復されるのか、と。確かに不正に対して何もしないということは無責任だし、問題です。悪は悪として糾弾し、名指しすべきです。しかし、悪を非難することと、悪に対して暴力で報復することは次元の違う話なのです。人の血を流すというのは、本来的には完全に公正な方である神のみに許されることなのです。ダビデには、ナバルの恩知らずの行動を非難する正当な理由がありました。しかしそのことと、ナバルの一門を子供に至るまで皆殺しにすることとは全然違うことなのです。ナバルの非については、神がきっと裁いてくださる、自分が血を流すことはしない、それは神に委ねるべきことだ、そのように信じるのが神の人にふさわしいふるまいですと、アビガイルはダビデに訴えます。このアビガイルの言葉は、ダビデの胸に深く響きました。ダビデは即座に自分の非を認め、自分で報復しようとしたことは間違いであったとアビガイルに言います。この潔さが、このころのダビデの魅力の一つでした。ダビデはアビガイルねんごろに労い、立ち去っていきました。
その後、アビガイルは酔っぱらってご機嫌になっている夫ナバルのところに向かいました。アビガイルは酔っぱらっているナバルには何も話さずに、彼がしらふになるのを待ちました。そして朝になって洗いざらいを話しました。ナバルは昨夜のうちに死んでいてもおかしくなかったのだと。その話はナバルにとってはよほどの衝撃だったようです。彼は恐怖で気を失ってしまいました。そして十日後にナバルはあっけなく死んでしまいました。その話を伝え聞いたダビデはつくづく思ったことでしょう。「復讐と報いとは、わたしのもの」だという申命記32章35節のみことばは真理なのだと。そしてダビデは、自分にこの大切な真理を教えてくれたアビガイルを妻として迎えようとします。アビガイルの方も、喜んでその申し出を受け入れました。
そして最後の44節には、残念なことが書かれています。命がけでダビデの命を救ったサウルの娘ミカルは、本人の意思に反して父サウルによってダビデと別れさせられ、別の男にとつがされていました。ミカルというのはつくづく薄幸な女性だと思います。
3.結論
まとめになります。今回は、冒頭でもお話ししたように、次回の26章の出来事に続く内容の話でした。それはつまり、「復讐」、「報復」の問題です。日本でも「倍返し」という言葉が流行り言葉になったように、人間の基本的な行動原理の一つは「やられたらやり返す」、「侮辱には報復で答える」というものです。ダビデは自分が侮辱された、親切にしてやったのに無視された、その報復としてナバル一族を皆殺しにしようとしたという、そういう話です。羊飼いを助けてあげたお礼をもらえなかったからといって、その本人のみならず一族すべてを殺そうなどというのはとんでもない蛮行で、そんなことをすればダビデの評判は地に堕ちてしまったでしょう。また、信仰者としても、復讐は神のなさること、という大原則を破る不信仰な行いになってしまいます。ダビデは危うくそのような危険な道を進みそうになっていました。それを止めたのがアビガイルで、彼女は賢いだけでなく、信仰的にも非常に優れた女性でした。そのアビガイルの真摯な忠告を聞き入れたダビデも、この時点ではまだ真っすぐな信仰を持っていたと言えるでしょう。
今回の話は次回の話の前提になるものですが、私たちにも非常に大切なことを教えてくれます。現在は戦争の時代であり、私たちは既に二つの大きな戦争が行われているのを目撃しています。どちらの戦争も報復合戦です。自分たちの受けた被害、屈辱は決して忘れずに、倍返し、三倍返しともいうような感じで、やられたらやりかえすという精神が燃え盛っています。そのために出口の見えない戦争になってしまっています。そんな時に、「敵を愛しなさい」という主イエスの教えは空しく響きます。そんなきれいごとでは悪は止められない、悪を野放しにすればこの世は真っ暗だ、だから力には力で報復するしかないのだ、という声が圧倒的に優勢です。その結果、より多くの人が死ぬとしても、悪を倒すための代価として受け入れなければならない、ということが言われています。しかし私たち神を信じるものは、一歩下がって考えてみるべきでしょう。復讐を完全に否定はしませんが、しかしそれは私たちがすることではなく、神のなさることだ、というのが聖書の教えだからです。まどろっこしく感じるかもしれません。神が動かれるのを待つ、というのは私たちには辛抱のいることです。しかし、そのような時こそ私たちの信仰が本物かどうかが試されている時だとも言えます。今日のみことばを胸に留めて今週も歩んで参りましょう。お祈りします。
復讐心にかられたダビデにアビガイルを遣わし、大切なことを教えてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちもつい復讐心に囚われてしまうことがありますが、そのようなときは私たちにもアビガイルをお遣わし下さい。今週も平和のために歩む勇気と力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン