サウルとダビデ
第一サムエル18章1~30節

1.序論

みなさまおはようございます。桜の咲く、新年度に入りました。改めて、今年度もよろしくお願いいたします。私が当教会に遣わされて、早いもので今回が五度目の春になります。五年目に入ったということですが、みなさまに支えられて、共に主の前を歩ませていただいております。

さて、私たちはサムエル記を読み進めています。サムエル記は言うまでもなく、物語形式の聖書文書です。物語には、新約聖書の使徒書簡のような「このように生きなさい」ですとか「こうしなさい」という明確な指示や教えがありません。だからといって、サムエル記には私たちがどう生きるべきかという倫理的な教えがないわけではありません。むしろ、物語の大きな特徴は、私たちが物語の登場人物たちに感情移入して、「自分ならこんな時にどう行動するだろうか」とか、「自分ならどう思うだろうか」と考えながら読み進めることで、生きる上でのヒントや教訓を得ていくことができるということなのです。この18章では、二人の人物が中心にいます。一人は次々と成功を重ね、地位と名声を得ていくダビデです。ライジングスターという感じで、特に女性たちから絶大な人気を集めている、まさにヒーローそのものです。そしてもう一人は、そのような若きダビデの活躍を不安と嫉妬の思いで眺めているサウル王です。サウルは若いダビデのことを、疑いの面持ちで見つめています。親子ほどの差がある若者の活躍を素直に喜べないのです。大人げない、とはサウル自身も分かっていますが、自分の負の感情をどうしても抑えられないのです。

こう考えると、この18章ではダビデがヒーローでサウルはヒール、つまり悪役です。私たちも、自分を重ね合わせるならばヒーローであるダビデの方に肩入れしたくなるところです。しかし、私たちは人生に置いてこのサウルのような立場や役回りになり得るのです。私たちが苦労して、ようやくある地位を手に入れたとします。そのための努力が大きければ大きいほど、せっかく手に入れた地位を失いたくないと思うものです。それは別に会社の中の地位やポストだけの話ではなく、ある人の恋人や親友という特別な立場を失いたくない、というようなケースもあるでしょう。私たちは自分の立場が安定したものであって欲しいと願い、それを脅かす存在を恐れたり、敵意を抱いてしまうこともあります。そのような存在が自分にはない才能や若さなどを持っていると、嫉妬心がますます強まってしまいます。サウルはまさにそのような思いに囚われてしまっているのですが、これはサウルだけでなく私たち一人一人の誰にでも起こり得ることなのです。ですから今日の18章でも、一つの読み方としては自分がサウル王の立場に置かれたならば、どのように感じるだろうか、どう行動するだろうか、そのように考えながら読むということです。そう読んでいくと、悪役であるサウルにも案外共感を覚えるところがあるかもしれません。さて、ではさっそく今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、前回はダビデがペリシテ人の巨人兵ゴリヤテを打ち倒し、周囲の人々を驚かせて勇名をはせたというところでした。サウル王も、まさかまだあどけなさの残る少年に過ぎないダビデがゴリヤテを打ち倒すとは思ってもいなかったので、彼の活躍にびっくりしました。サウルだけではありません。サウルの第一王子で、既に勇猛果敢な武人であるという名声を博していたヨナタンも、少年ダビデの活躍にすっかり心を奪われていました。ヨナタンはダビデに惚れ込み、自分と同じくらいダビデを深く愛するようになりました。サウル王もダビデの実力を認め、すぐに自分の軍団に召し入れました。サウルは常に優秀な軍人になれそうな若者をスカウトしていたので、ダビデのことも躊躇なく自分の部下にして、ダビデの父エッサイのもとには帰らせませんでした。しかし、ヨナタンのダビデへの入れ込みようはそれどころではなく、ヨナタンはダビデと契約を結んだ、と書かれています。契約を結ぶとはどういう意味なのだろう、と思われるかもしれません。聖書の言う契約とは、コントラクト、すなわち会社同士が結ぶビジネス上の契約のことではありません。それは、血縁関係にない人々の間に血縁的な関係を作り出すこと、具体的には結婚や養子縁組のようなことを言います。ですからヨナタンとダビデが契約を結んだと言うのは義兄弟の契りを結んだ、というような意味です。有名な話では、『三国志演義』において桃園の誓いというのがあり、劉備玄徳と関羽、張飛が義兄弟の契りを交わすという場面がありますが、ヨナタンとダビデの契約もそのようなものです。そして義兄弟というからにはどちらかが兄となり他方が弟になるわけですが、この場合はどうもヨナタンの方が弟分になると申し出たようです。年齢も地位もヨナタンの方がずっと高いはずですが、ヨナタンはダビデの実力を認めて彼を立てたようなのです。そのしるしとして、自分が身に付けていた高価な鎧兜をすべてダビデに与えました。ヨナタンがどれほどダビデを気に入って高く評価していたのかが分かろうというものです。

ダビデもそのような周囲の人々の期待に応えました。彼は向かうところ敵なしで、送り出された戦場すべてで勝利を収め、その結果サウル王は若いダビデを兵士たちの長として取り立てました。ダビデの名声は一般の人たちの間にまで広まり、特に女性たちからは圧倒的な人気がありました。よく高校などでスポーツ万能の男子が女子生徒の人気を一身に集めるというようなことがありますが、ダビデもそんな感じだったのかもしれません。女たちはダビデをほめそやして、こんな歌を作りました。それは、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という歌でした。たわいもない歌ですが、しかしそれを聞いて心が穏やかではない人物がいました。それがサウル王でした。彼は、ダビデを自分の王位を脅かすライバルとして認識するようになってしまったのです。サウルは、ダビデが預言者サムエルによって油を注がれたことを知りません。ですから、いくら人気があるからといって、ダビデのことを自分の王座を狙っているとまで考えるのは少し疑い深すぎるようにも思えます。サウルがここまで猜疑心が強くなってしまったのは、サムエルとの以前のやり取りにその原因があるのでしょう。サムエルは、サウルに対して二度までもはっきりと王失格の宣言をしています。それだけでなく、神がサウルに代わる新しい王を立てるだろうとも予告しています。そのことがサウルの心に常に重くのしかかっていたのです。サウルは心の病を発病していましたが、その引き金となったのがサムエルからの絶縁宣言と、自分が王位を失うだろうという預言にあったものと思われます。その不安が彼の心に住み着いてしまい、彼を苦しめていたのです。実際に、サウルはダビデが自分の王位を狙っているのではないかという猜疑心に囚われた翌日に、再び心のバランスを失ってわめき散らすようになってしまいました。皮肉なことに、サウルをそのような苦しみから救ってくれる唯一の人物が、サウルが脅威と感じ、ライバル視している若きダビデだったのです。ダビデの竪琴による一種の音楽療法で、サウルの心は救われていたからです。そのような矛盾が、サウルをますます狂気へと駆り立てました。なんとサウルは、自分の心を癒すために琴を弾いていたダビデを殺そうとしたのです。なんとも不可解な行動ですが、サウルは無意識のうちに、自分の心の不安を生じさせている原因がダビデにあると気が付いていたのでしょう。ですから、ダビデの弾く琴の調べに癒されながらも、そのダビデを殺そうとするという何とも矛盾した行動を取ってしまったのでした。

しかし、ダビデには神の守りがありました。サウルは二度までもダビデを刺し殺そうとして槍を投げつけましたが、ダビデは二回とも躱して身を守りました。サウルはそれを見て、さらにダビデのことが恐ろしくなりました。なぜなら、神がダビデを守っているということをサウルは直観的に感じたからでした。サウルは正気に返ったときに、さすがに罪もない若いダビデを殺そうとしてしまったことを恥じたのでしょう。今後そのようなことをしないように、ダビデを自分から遠ざけました。ダビデはそれまでサウル直属の近衛兵のような立場でしたが、ダビデを別部隊の隊長、千人隊長に任命して前線で活躍するようにさせたのです。そして、ダビデは新しい持ち場でも成功を重ねていきました。ダビデのことをいったん忘れようとしていたサウルですが、彼の大活躍がひっきりなしに報告されるのを聞いて、再び不安な思いが強まっていきます。民衆は自分よりもダビデを支持しているのではないか、人々はダビデを担いで自分の代わりに王とするのではないか、そういう思いが頭から離れなくなってしまったのです。

そして、その頃のダビデは確かに人々から絶大な支持を集めていました。その理由の一つが、「彼が彼らの先に立って行動していた」からでした。これはとても重要なことでした。戦場で命の危険がある時でも、ダビデは兵士たちの先頭に立って真っ先に先陣を務めていたのです。後にダビデは王になると自分は戦場に行かずに昼寝をして、人妻と不倫をするような堕落した王になってしまうのですが、この時のダビデはまだ情熱にあふれて自分の身の危険を顧みない勇気を持っていました。このことは、フランス革命の英雄だったナポレオン・ボナパルトのことを思い起こさせます。ナポレオンも、皇帝になる前の若き将軍の頃は、兵士たちの先頭に立ち真っ先に戦場を駆け抜けました。周りの兵士たちは、将軍がやられては大変だと必死で彼を守ったという話が伝わっています。そのナポレオンも功成り名を遂げて皇帝になり、ロシア攻めをする頃には決して先頭に立たなくなり、兵士たちの前に姿を見せないようになりました。不思議なもので、そういう軍隊は弱くなってしまうのです。このころのダビデも、若きナポレオンのように身の危険を顧みずに戦場では先頭に立ち、それが兵士たちを奮い立たせて勝利を呼び込むという良い循環の中にいたのでした。

こうしてますます実力も人気も増していくダビデに恐れをなしたサウルは、自分の手は汚さずに、戦場でダビデが死ぬような状況を作り出そうとしました。皮肉にも、ダビデ自身も王になった後に、自分の忠実な部下でバテ・シェバの夫であるウリヤを戦場で陥れて殺そうとしましたが、若いダビデはサウルに同じ目に遭わされそうになっていたのです。サウルの策略とは、先に巨人ゴリヤテを倒した者には自分の娘を与えるという約束を果たすために、自分の長女メラブを与えるので、それに見合う活躍をしてほしいとダビデを促すことでした。サウルは、功に焦ったダビデが危険な戦場に赴き、そこで戦死してくれればよいと考えたのです。ダビデも、先のゴリヤテの時の約束があるとはいえ、身分の低い自分が王の娘を貰ってよいのかとためらいますが、それでもそれにふさわしい働きをしようと、ますますハッスルしました。そうして再び戦場で活躍するダビデに、サウルも自分の娘を与えないわけにはいかなくなりましたが、殺そうとしている人物に自分の娘をやるのはさすがにサウルにも耐えがたく、直前に何か適当な言い訳を考えて、娘のメラブを他の人物に嫁がせてしまいました。

約束を反故にしてしまったサウル王ですが、折よく下の娘のミカルがダビデのことを深く愛しているという話を耳にしました。そこでサウルは一計を考えました。メラブの代わりにミカルを与えるとダビデに伝える一方で、部下を使って花嫁料としてペリシテ人の軍人百人を打ち取るようにとダビデに間接的に要求したのです。地位もお金もないダビデは、戦場での実績で王の婿になる資格を得よ、ということです。サウルも、いかに勇敢なダビデといえども、強力な武器を持つペリシテ兵百人を打ち取ることはできないだろう、そんな無理をすれば、今度こそ戦死するに違いないと考えたのです。しかし、ダビデの実力はサウルの思惑をはるかに上回るものでした。なんとダビデはサウルが要求したものの二倍、二百人ものペリシテ人を打ち取りました。この大活躍に、サウルも今度こそ約束を守らざるを得なくなり、ダビデに娘ミカルを嫁がせました。サウルは、このダビデの超人じみた活躍の背後に主の守りがあるのを見て取りました。そして段々と、このダビデこそ神が自分の代わりに選んだ人物なのだという確信を深めていきました。そしてわが子ミカルがダビデを深く愛していることにも不安を感じました。自分の娘でさえ私よりダビデを選ぶとは!彼は身内にすら見捨てられたような気分になり、そのような魅力を持つダビデに嫉妬し、恐れました。そんなサウルの気持ちをよそに、ダビデはその後もますます戦場で活躍し、名声を高めていきました。

3.結論

まとめになります。今日は対照的な二人、つまり疑心暗鬼にかられて自分の若い部下を信頼できなくなり、あまつさえ殺そうとしたサウル王と、そんなサウルの気持ちには気が付かず、ひたすら成功の階段を順調に駆け上っていく若き将軍ダビデです。ダビデは、サウルが与えた罠でさえ出世のための試練として嬉々として乗り越えていくのです。こうしてダビデが成功すれば成功するほど、サウルのダビデへの恐れや不安は増していきました。

サウルを悪役として見るのは簡単です。しかし、もし私たちがサウルのような立場に置かれたならば、サウルとは異なる行動ができるでしょうか。サウルは預言者サムエルから、すでに王位を追われるという宣告を受けています。そしてその宣告を現実としてしまう人物が目の前に現れたのです。心穏やかでいられるはずがありません。

サウルも自分の王位にこだわらずに、神が新しい人を選んだのならその人に王権を譲ればいいではないか、と思うかもしれません。しかし、人の心はそんなに簡単ではありません。サウルも、王になる前は野心のない、気のいい若者でした。それが突然神に見いだされて王様になります。させられた、と言ってもよいくらいです。そのような急激な人生の変化の中で、サウルは必死に務めを果たそうとしてきました。命の危険のある戦場にも赴き、強大な敵たちとも戦い、武勲を挙げて、ようやく民衆からも王として認められるようになりました。サウルも苦労して今の地位を確立してきたのです。それなのに、サウルからすれば十分納得できないような理由で預言者サムエルから王失格の烙印を押され、王位を失うことが運命づけられてしまいました。サウルには受け入れがたいことでした。そのような葛藤が彼に心の病をもたらしてしまいました。そうした状況に置かれたサウルが選んだ道とは、自分の地位を守るために競争者やライバルを駆逐することでした。そのために、何の罪もないダビデのことを殺そうとさえします。これは恐ろしいことですが、しかし王という絶対的な権力を手にした場合、こういう悪の誘惑を退けるのは大変難しいのです。実際、王となったダビデは全く同じこと、それどころかサウルよりもずっと悪い犯行に手を染めてしまったのですから。私たちのような平凡な人間には、絶対的な権力を手にした人物の気持ちがなかなか理解しづらいかもしれません。けれども、小さな世界の中では圧倒的な力の差のある人に悪意を向けてしまうことは起こり得ることです。とても痛ましいことですが、最近の日本では わが子を虐待するという事件の報道が後を絶ちません。家庭という小さな王国の中で、絶対的な権力を握る者が自分の不満を最も弱い者に向けてしまうのです。こういう事件が後を絶たないことを思うと、サウルの心の闇は私たちすべての心の中にも潜んでいると思わされます。

では、どうすれば私たちはこのような闇に陥らずにすむのでしょうか。その答えは簡単ですが、しかし実行するのは難しいことでもあります。それは、自分の持っていると思っているものは、すべて神からの預かり物だと認めることです。誰でも、ある立場や地位を得るためには相当な努力を払います。会社や組織内の地位だけでなく、母親になるためにも出産や子育てという大変な努力を払うことになります。そのように大きな努力を払って得た地位を、私たちは自分のものだと考えてしまいます。それは理解できることですし、その努力も本物ですが、それでも自分が得たと考えているものは実際には神から与えられたものであり、しかもそれは一時的に与えられたものなのです。子どもは親の専有物ではないし、いずれは独立していきます。子どもですら、一時のあいだの神からの預かりものなのです。そう考えると、私たちが持っている立場や地位は、いずれは私たちの元を去っていくものなのです。私たちは神からその地位や立場を預けられている間に、最善を尽くしてその務めを果たし、その役目が終わったならば、その地位を喜んで手放すべきなのです。繰り返しますが、これは言うに易く行うに難いものです。そう簡単に割り切れないから苦労するのだろうと言われればその通りです。それでも、私たちはこのことをいつも自分の心に刻んでおきたいと願うものです。そしてそれこそが、今回のサウルの残念な行動から学ぶべき教訓なのです。私たちもサウルのようになり得る、いや私たちこそサウルなのだ、という思いを持ちながら、これからもサムエル記を読み進めてまいりましょう。お祈りします。

サウルを王として召し出し、またダビデを王として召し出された父なる神様、そのお名前を讃美します。今日は彼らの物語を通じて、私たちの持つ立場はすべて神から一時的に預かったものに過ぎないことを学びました。私たちはそれぞれの持ち場で、それぞれの役目や立場を与えられているものですが、各々の持ち場で最善を尽くして役目を果たすことができるように力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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