復活によって主とされた方
ローマ書1章1~4節

みなさま、イースターおめでとうございます。今日は、主イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことを祝う、キリスト教において最も大切な日です。イエスの復活ということは、キリスト教信仰の中心にあるもので、これなくしてはキリスト教そのものが存在しなかったほど重要なことです。使徒パウロは、「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(第一コリント15:17)と語っています。つまり、イエスの復活がなければ、あの十字架の死でさえも無意味なものになる、無駄死になると言っているのです。

それほどまでに重要なイエスの復活なのですが、同時に復活とはいったい何なのか、理解するのが容易ではないことがらでもあります。注意したいのは、復活とは「蘇生」ではないということです。医学的に死亡したと診断された人が数時間後、あるいは数日後に奇跡的に息を吹き返すという現象がごくまれにありますが、イエスの復活とはそのようなものではないということです。端的に言えば、イエスがよみがえったというのは、死ぬ前の状態に戻ったということではないのです。といいますのも、蘇生した場合でもその人はいずれは死ぬことになるわけですが、復活したイエスはもはや死ぬことがないからです。パウロも、「死はもはやキリストを支配しない」(ローマ6:9)と言っています。死なないからだによみがえったということは、イエスは死ぬ前の元の状態に戻ったのではなく、むしろ全く異なる別の存在になったということです。とはいえ、全く異なる別の存在だといっても、それは幽霊のような存在になったということでもありません。古今東西の多くの文明では、人は死ぬと肉体を離れて霊になって生き続けるということが信じられてきました。科学が発展した今日の世界でさえ、そのように考えている人はたくさんいます。そうした霊は、私たち生きている人間には見ることができないわけですが、何かの特殊な状況ではそうした霊を見ることができるという稀なケースがあり、それがいわゆる幽霊現象、お化けを見たということになります。これは実は結構あるケースでして、例えば遠く離れたところにいた身近な人が死んだときに、一瞬その人の姿を見たとか、そういう体験をしたという人は、私の知り合いの中にもおられます。虫の知らせという漠然としたもの以上の、忘れ難い経験だったという話を聞いたことがあります。しかし、イエスの復活とは、イエスの幽霊を弟子たちが目撃したということではありません。ルカ福音書が特に強調していることですが、弟子たちは復活したイエスを見ただけではなく、触ることができたのです。幽霊なら触れることは不可能です。このように、イエスの復活とは蘇生とも違う、また幽霊体験とも異なる、きわめてユニークな出来事でした。そのイエスのような復活のからだを、私たちイエスを信じる者は将来いただけるという希望があるので、イエスの復活のからだがどんなものかというのは私たちにとって大変興味深い、重要なテーマです。しかし今日はこの点ではなく、もう一つの重要なテーマについてお話ししたいと思います。

それは主イエスのステイタス、あるいは立場に関することです。何のことかといえば、復活する前と後では、イエスのからだの性質、もっと言えばイエスの存在のあり方そのものが変わったということを今お話ししましたが、変わったのは体の性質だけではなく、彼の立場も変わったのです。その点を考えるために、今日の聖書テクストであるローマ書の1章4節に注目しましょう。私たちの使っている新改訳聖書では、ここは「死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」となっていますが、これは訳としては少し問題があります。といいますのも、この新改訳の最新版である新改訳2017ではここは「聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです」となっています。また、プロテスタントとカトリックの両方で用いられている聖書協会共同訳、これも最新版で2018年に出版されたものですが、そこでは「聖なる霊によれば死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められました」となっています。この二つは、かなり違う訳だということにお気づきでしょうか。私たちの聖書訳では「大能によって神の御子」と訳されているところが最新訳では「力ある神の子」となっています。大能というのは父なる神の力のことですが、これはイエスの力を指していると理解したほうがよいということです。そして、ギリシア語の原文を読む限り、最新訳のほうがパウロの言わんとすることを正しく伝えています。では、「神の子」と「力ある神の子」とでは一体何が違うのか、と思われるかもしれませんが、そこには確かに違いがあります。話を分かりやすくするために、一つのたとえを話しましょう。ある国に、王子がいたとします。彼は王様の息子ですから、もちろん高い地位にあります。けれども、王様は王子がまだ若く、経験が不足しているとみなして、何の権限も役職も与えていませんでした。このような場合、王子はたとえクラウン・プリンスであっても事実上の政治権力を何も持っていないのです。もちろん、いずれは王様になるのだろうということで、周囲の人たちから敬意を払われているでしょうが、だからといって王子さまは政治的な権力や権限は何も持っていないのです、今のところは。しかし、その王子が大きな実績や功績を挙げて、周囲の人たちにその実力を示したときに、王様もよい頃合いだということで、自らの政治権力や権限をすべて若い王子に委譲したとします。そうすると、その王子はこれまでの名ばかりのプリンスという立場から、王の権限のすべてを持つ、国の最高権力者となります。父である王はまだ存命ではあるものの、実質的に王子は王様になったということです。

大雑把に言えば、イエスが復活した時に起こったことは、王が王子にすべての権力や権限を委譲するように、神の至高の権限、世界の支配者としての神の権限がすべて神の子であるイエスに委譲されたということです。イエスは復活によって、神から世界の支配権を受け継ぎました。このように聞くと意外に思われるかもしれません。イエス様は初めから神と等しい権威を持っておられたのではないか、と思う方もおられるでしょう。けれども、イエスが復活の後に至高の権威を与えられたということは、実は新約聖書のいたるとことに書かれていることなのです。この点について、マタイ福音書を見てみましょう。復活した後のイエスにガリラヤで会った弟子たちは、復活の主から驚くべきことを伝えられます。それは、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と語りました。イエスは神のみが持っておられる権威、つまり天国においてもこの地上世界においても、すべての権威を持つのは今や私なのだと語っているのです。ではイエスはいつそのような権威を与えられたのでしょうか。イエスは初めからそのような権威を持っていたのではなく、むしろそれは復活の時なのです。ほんとなのか、と思われるかもしれないので、さらに聖書のほかの個所を見ていきたいと思います。パウロのピリピ人への手紙を見てみましょう。2章6節からの有名なキリスト賛歌をお読みします。

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

この有名な賛歌によれば、イエスが「すべての名にまさる名」を与えられたのは果たしていつなのかといえば、それは十字架の死のあと、すなわち復活の時なのです。イエスは死に至るまでの従順を神に認められ、天においても地においてもすべてのものの上に立つ存在にまで高められたということです。

このことを明確にいい表している、もう一つの例を挙げましょう。新約聖書のへブル人への手紙です。へブル書2章9節をお読みします。

ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

ここでは、イエスは地上の生涯を歩まれた間は、御使いたち、つまり天使たちよりも低くされたのですが、十字架での死の苦しみを味わったがゆえに、栄光と誉れの冠を受けたと言われています。「故に」ということは、そこには因果関係があるのです。苦しみを味わった結果、イエスは栄光を受けたのです。ということは、やはりここでもイエスは十字架の死のあとに、復活の際に栄光と誉れの冠を受けたということが語られているのです。

最後にもう一つだけ、今度は旧約聖書から、イエスが世界の支配権を与えられたのはいつなのか、ということを考えてみたいと思います。福音書で、イエスが自分のことを「人の子」と呼んでいるのは皆さんもご存じだと思いますが、この「人の子」という呼び名はダニエル書から来ています。そしてこの「人の子」が苦しみを受けた後に栄光を受けるだろうということがダニエル書で予告されているのです。その重要な個所を読んでみましょう。ダニエル書7章13節から14節です。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

ここで言われている「年を経た方」とは父なる神のことです。そして、ここで言われている「人の子のような方」こそがイエスのことなのです。イエスは父なる神から全世界の支配権を授けられることが預言されていて、それが「人の子が来る」という有名なイエスの言葉の意味なのですが、人の子が栄光を受けるのは神に逆らう勢力によって苦しみを受けた後、受難の後なのです。

このように、イエスが死者の中から復活したということは、単に一度死んだ人がよみがえったというような話ではなく、むしろイエスが苦難を受けた後に全宇宙のあらゆる権威を授けられたということ、イエスが世界の真の支配者となられた出来事だということです。そして、ここで強調したいのは、イエスが世界の支配者となったということは、イエスがクリスチャンにとっての王となったということには留まらないということです。むしろ、イエスのことを信じようと信じまいと、イエスに従おうと逆らおうと、その人がイエスについてどんな考えを持とうとも、イエスはあらゆる人の上に立たれるお方だということです。日本の総理大臣であろうと世界一の大富豪であろうとも、すべての人はイエスの権威の下にいるということです。このように考えると、キリスト教はとんでもない主張をしているということがお分かりになると思います。宗教に関心があろうとなかろうと、すべての人はイエスとは無関係ではいられないのです。アメリカ人であれば、大統領のことが好きでも嫌いでも大統領の権威を認めなくてはなりません。同じように、人間であればイエスのことを好きでも嫌いでも、イエスの権威を認めなくてはならないということです。そしてイエスがそのような権威を持っているという証拠がイエスの復活なのです。パウロはこのことを、使途の働きの中でこう宣言しています。使途の働きの17章31節をお読みいたします。

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくために、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、そのことの確証をすべての人にお与えになったのです。

このように、イエスは人類のすべての人をさばくという特別な役割を神から与えられており、その証拠がイエスの復活だというのがパウロの主張なのです。ですから、もしイエスが復活しなかったのなら、このキリスト教の途方もない主張はすべて崩壊してしまいます。キリスト教が立つのも倒れるのも、すべてイエスの復活次第だということがお分かりいただけると思います。

これまでの話でしっかりお伝え出来たと思いますが、イエスの復活は、十字架以上に重要な出来事です。キリスト教のシンボルは十字架ですが、復活なしには十字架ですら無意味なものとなってしまいます。私たちが福音を宣べ伝えるということは、イエスが世界の真の支配者であり、すべての人を裁く方だということを人々に教えるということであり、その途方もない主張の根拠が、神がイエスを死者の中からよみがえらせたという事実なのです。「事実」と今申し上げましたが、そんなことが事実であるはずがないだろう、何の証拠もないのだから、と思われる方がたくさんおられると思います。たしかに、死人が死なない人間によみがえるなどという出来事は先にも後にも聞いたことがない出来事であり、それがあり得るということを科学的に証明することなど不可能です。しかし、イエスの復活については何の証拠もないとも言えないのです。なぜなら、私たちが歴史上の出来事を事実だと信じるのは科学的な証拠があるからではなく、そのことが起きたと信じるに足る、信頼できる証言があるからなのです。源平合戦の壇ノ浦の戦いが確かに起こったということを私たちは科学的に証明できませんが、しかしそれが起こったという当時の出来事を記録した文献や証言があるので、私たちはその戦いがあったことを事実として認めています。イエスという人間が2千年前に生きていたこと、また十字架で死んだことを疑う歴史家はいませんが、それは科学的な証拠があるからではなく、信頼できる証言があるから事実として認められているのです。確かにイエスの復活というのは科学的には不可解な出来事ですが、しかしいくら今日の科学において説明不能だからと言って、しっかりとした証言に基づく過去の歴史上の出来事を否定することはできません。科学では説明できないことは起きうるし、科学は決して万能ではないのです。そうはいっても、イエスの復活を目撃したというのはイエスを信じる人たちだけなのだから、そういう偏った証言によってイエスの復活を事実と認めることはできないだろうという方もおられると思います。しかし、イエスの復活を目撃したのはイエスを信じる人たちだけではなかった、ということを改めて強調したいと思います。むしろイエスを信じていなかったのに、復活を目撃してしまったことでイエスを信じるようになった人たちがいたのです。彼らのような人々の存在こそ、イエスの復活を否定できない強力な根拠であり、そしてそのような人の典型がこのローマ書を書いたパウロなのです。パウロは生前のイエスに会ったこともないし、イエスがよみがえったなどという荒唐無稽な話を信じてもいませんでした。パウロはそのようなウソ、あるいは世迷い事を広めて人々を惑わすキリスト教をむしろ滅ぼそうとしたのです。そのパウロがなぜミイラ取りがミイラになってしまったのか、なぜ突然最も強力なキリスト教のスポークスマンになってしまったのか?パウロによれば、理由は一つだけです。すなわち復活の主を目撃したからです。そしてパウロは、自分の全存在をかけて、イエスの復活が事実であることを証しています。パウロはこう言っています。

そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。(第一コリント15:14-15)

このようにパウロは、もしキリストの復活がなかったのなら私は単なるペテン師だ、と言っているのです。しかし、パウロのように誇り高く誠実な人物がペテン師だというのは私にはとても信じられません。このようなパウロの証言を、私たちは重く受け止める必要があります。パウロだけではありません。もう一人、とても重要な人物がいます。彼もまた、イエスを信じていませんでしたが、復活の主を目撃した後に考えを改めて、キリスト教の最も重要な指導者になった人物です。それは、主イエスの実の弟であるヤコブです。私たちが毎月学んでいる「ヤコブの手紙」の著者とされる義人ヤコブです。彼もまた、イエスの生前には自分の実の兄がメシアだとは信じられず、気が違ってしまったものと考えて、イエスをナザレの実家に連れ戻そうとしたこともありました。そのヤコブは、イエスの復活の後はエルサレム教会の指導者となり、ペテロやパウロさえ一目置く、最も権威のある指導者になりました。しかし、繰り返しますが、ヤコブもまたイエスのことを信じていませんでした。イエスの復活を目撃したことが、彼の人生を根本から変えてしまったのです。

まとめになります。今日はイエスの復活の意味を、イエスの立場、ステイタスの変化という観点から考えていきました。イエスが復活したということは、単に死んだ人が不思議なことに生き返った、というような話ではありません。むしろもっともっと大きなこと、ずっとずっと重大なことが起きたのです。それはイエスが復活によって全世界を統治する方、また全世界を裁く人物として神によって任命されたということなのです。世界中の人々は、認めようと認めまいと、すべての人がイエスの支配される世界に生きているのであり、また私たち一人ひとりがどのように生きたのか、その全生涯をいずれイエスによって評価される日が来るということです。普通の人が聞いたら、頭がおかしいのではないかと言われるようなことをキリスト教は主張しているのですが、その途方もない主張の根拠がイエスの復活なのです。ですからキリスト教を否定したければ、イエスの復活を否定すればよいのです。それほどまでに重要なのがイエスの復活です。

そして私たちはそのイエスの復活を信じていると告白します。喜びをもって告白します。そして、イエスのような素晴らしい方、真の愛を持つ方、私たちの弱さを思いやり、私たちの苦しみを共に担ってくださる方、そのような方が世界の支配者であるということを神に感謝します。イエスがこのように素晴らしい方であるからこそ、私たちは苦しみを背負って生きている多くの人々に、喜んでイエスのことを宣べ伝えるのです。このイースターという佳き日に、改めてその思いを新たにしたいと願うものです。ともに祈りましょう。

イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちは今日、その復活を喜び、祝うためにここに集いました。主イエスは素晴らしい方で、すべての人を助け導きたいと願っておられます。そのイエスを、一人でも多くの人たちに紹介できるように、私たちを強め、整えてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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