1.序論
みなさま、おはようございます。私たちは毎週、旧約聖書のサムエル記を学んでいますが、月の最終主日だけは新約聖書からメッセージをしています。先月までは、使徒パウロによる第一テサロニケ書簡を読んできましたが、今月からはヤコブの手紙を読んで参ります。
では、これから学んでいくヤコブの手紙とは、いったい誰が書いた手紙なのでしょうか?聖書テクストはこの手紙の著者について「ヤコブ」としか書いていませんが、ヤコブというのはヨハネのように、当時のユダヤ人の間ではよくある名前でした。新約聖書ではヤコブという名前を持つ有名な人物が二人います。一人は十二使徒の一人で、ゼベタイの子ヤコブです。彼は同じく使徒であるヨハネとは兄弟で、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人は十二使徒の中でもイエスの側近とも呼べるグループでした。しかし、そのヤコブは、かなり早い時期にヘロデ・アグリッパによって殺されています。そのことは使徒の働き12章に記されています。ですからこの手紙の著者も十二使徒であるゼベタイの子ヤコブではないでしょう。
新約聖書の中でもう一人有名なヤコブがいます。それは、「主の兄弟ヤコブ」と呼ばれる人物です。クリスチャンは信者同士を兄弟姉妹と呼び合いますが、この場合については、ヤコブは文字通りの意味での主イエスの兄弟、つまりマリアの子どもだということです。このヤコブは、実の兄であるイエスが家を離れて伝道に旅立った時、初めはその行動を理解できませんでした。父ヨセフを亡くした家族の中で、長男であるイエスは父代わりの大黒柱でした。その家族を捨てて旅だってしまったイエスに対し、見捨てられたような思いになったのかもしれません。イエスは頭がおかしくなったと思って、連れ戻そうとしたことさえありました。しかしそのヤコブは、死者の中から復活したイエスに出会い、その認識を改めました。イエスは単なる自分の肉親であるのではなく、神から選ばれた全世界の主なのだ、ということを受け入れるようになったのです。そのヤコブは母マリアたちと共に、生まれたばかりのエルサレムの信徒の群れに加わり、そしてヤコブはついには十二使徒たちよりも権威を持つ、エルサレム教会の指導者になりました。彼は非常に立派な、高潔な人物だったようで、「義人ヤコブ」と呼ばれていました。しかし後に、ヤコブは大祭司の謀略によって殺されてしまいます。その時に、イエスを信じる教会とは対立していたはずのパリサイ派でさえその死を嘆き悲しみ、ヤコブを殺した大祭司をローマ帝国に訴えて罷免させたほどです。敵からすらも高い尊敬を抱かれたほどの立派な生き方をしていた人物、それが「主の兄弟ヤコブ」、「義人ヤコブ」でした。
古代の教会教父たちは、このヤコブの手紙の著者を主の兄弟ヤコブだと考えていました。とはいえ、この手紙が本当にヤコブの手によって書かれたのかということについて、十分な証拠があるわけではありません。ヤコブの手紙が新約聖書の正典として受け入れられたのも、比較的遅い時期です。それは、古代教父たちもこの手紙が本当に主の兄弟ヤコブが書いたものなのか、確証が得られなかったからでしょう。また、ナザレというガリラヤの小さな村出身の主の兄弟ヤコブが流ちょうなギリシア語の手紙を書けたのだろうか、という疑問もあります。ですから私もこの点については確信がありません。ただ言えることは、このヤコブの手紙の内容が、主イエスの教えと非常に近いということです。彼はイエスの教えを良く知っていて、それに基づいてこの手紙を書いたということは間違いありません。ですからこの手紙の著者はイエスと非常に近い人物だっただろう、ということは言えます。とすれば、この手紙の著者が主の兄弟ヤコブだったということは十分あり得るということにもなります。ギリシア語の問題については、ヤコブが口頭で話した内容をギリシア語の堪能な彼の弟子がギリシア語に翻訳したということが考えられます。ただ、この手紙が主の兄弟ヤコブが書いたものであってもなくても、これは間違いなく正典の一部であり、またその内容は本当に素晴らしいものです。ですからその教えに素直に耳を傾けていきましょう。
2.本論
では、さっそく本日の聖書テクストを詳しく見て参りましょう。まず1章1節です。この手紙の著者は自分のことを、「神と主イエス・キリストのしもべ」として自己紹介しています。主イエスの兄弟であるとか、使徒であるとか、そういう肩書ではなく「しもべ」、直訳すれば「奴隷」であると自らを紹介しています。そして手紙の送り先は、直訳すると「ディアスポラにある十二部族へ」となっています。ディアスポラという言葉は今や日本語にもなっていますが、祖国を離れて外国に移住や避難をしている人々を指す言葉です。十二部族とはイスラエルの十二部族のことで、これは比喩的な意味で異邦人から成る教会を指す場合もありますが、おそらくヤコブの手紙では文字通りの意味でのイスラエル民族を指していると思われます。つまり、この手紙は世界各地に散らばっているイスラエル人、ユダヤ人に送られた手紙だということです。この手紙が主の兄弟ヤコブが書いたものだとするならば、エルサレム教会のリーダーであるヤコブが、全世界に散らばった同胞たちに回覧されることを意図して書き送った書簡だということになります。世界各地のディアスポラ・ユダヤ人共同体に共通する問題があり、それを取り扱うために義人ヤコブが書き送った書簡だということです。
では、全世界に散らばった、イエスをメシアと信じるユダヤ人たちが共通して直面していた問題とはいったい何だったのでしょうか。それは、彼らが各地のユダヤ人共同体から排斥され、ユダヤ人同士の相互扶助のネットワークから疎外されていたということです。今日の例でいえば、世界中にチャイナタウン、中華街があり、中国人はどの国に行っても中国人のネットワークに属することができます。しかし、そのチャイナタウンから除名されてしまうと、大変なことになります。見知らぬ地で、頼る人がいなくなってしまうのです。私も7年間も留学していましたら、現地の日本人ネットワークには大変助けられました。もちろん現地のイギリスの人たちも大変良くしてくれましたが、やはり日本語が喋れて日本食が食べれるという環境があったことは、本当に大きな助けでした。
イエスやパウロの時代のユダヤ人たちもそれは同じでした。世界中に散らばったユダヤ人たちは現地で互いに助け合っていたのです。しかし、そのユダヤ人の中で生まれた新しいグループ、すなわちナザレのイエスをメシアと信じる人たちの群れは、周りのユダヤ人仲間からは好意的には受け止められませんでした。なにしろ、イエスは当時のユダヤ人の最高権力者である大祭司から断罪されて、ローマ帝国の手によって十字架で殺された人物です。ローマを倒してくれるはずのメシアが十字架で死ぬはずがないではないか、と当時のユダヤ人たちは考えていて、イエスを信じるユダヤ人たちのことを異端者として排斥するようになったのです。
そのような周囲のプレッシャーを受けて、イエスを信じるユダヤ人たちは社会的にも経済的にも困難な立場に立たされました。ユダヤ人ネットワークから外れてしまうことで、商売上で不利益を被る人たちもいました。そういう人たちの中には、イエスへの信仰を持ち続けることに疑問を感じ始めた人もいたことでしょう。そういう人たちを励まし、イエスへの信仰に留まるように勧めること、これがヤコブの手紙の目的でした。そういう意味では、新約聖書の他の書簡である「ヘブル人への手紙」とも共通しています。「ヘブル人への手紙」も、迫害にめげて信仰を捨てそうになる同胞たちを励ます手紙でした。
では、ヤコブは迫害にある人々、厳しい試練に直面している人たちに何と言って励ましたのでしょうか?なんと、ヤコブは試練を受けたなら「この上もない喜びと思いなさい」と語るのです。しかも、これはヤコブだけが言っていることではなく、新約聖書全体を見ても、迫害を喜べ、試練を喜べということが繰り返し語られます。これは私たちの常識に反することですが、いったいどういう理由で迫害や試練を喜ぶことができるのでしょうか?そこには二つの理由があります。その一つは、主イエスのために苦しみを受けることには大きな報いがあるというものです。主イエスはこう言われました。マタイ福音書5章10節から12節までをお読みします。
義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
イエスの十二使徒の一人、ペテロも同じことを言っています。第一ペテロの4章12節と13節をお読みします。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。
このように、キリストのために苦しむ者には大きな報いが約束されている、だから喜びなさい、ということが繰り返し教えられています。
しかし新約聖書には試練や困難を喜ぶためのもう一つの理由も語られます。それがより一般的なもので、クリスチャン以外のすべての人にも納得できるような、普遍的な理由です。日本語のことわざに「艱難汝を玉にす」というものがありますが、聖書にもそれによく似た教えがあります。人間は、試練に会うことで成長するということです。旧約聖書の詩篇には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)とあります。確かに、人間の成長のためには苦しみは不可欠です。なぜなら私たちは自分が苦しむことで、他人の苦しみにも共感できるようになるからです。フランス革命で散ったマリーアントワネットは、パンを求めて苦しむ民衆の苦しみが分からずに、「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」と語ったと言われていますが、これはマリーアントワネットが非情な人間だったというよりも、飢えというものを経験したことがないので、人々の気持ちが分からなかったのでしょう。飢えを知らない人は、飢えている人のことが理解できません。人に暴力を振るう人も、殴られることの痛みを理解していないことが原因であることも少なくありません。むろん、人生苦しみばかりではやってられませんが、しかし苦しみのない人生を送ってきた人には他人を思いやる共感力が圧倒的に欠けてしまうことも真実なのです。ですから苦難に遭うことは、人間性の成長にはどうしても必要だと言えます。
また、私たちの体や筋肉は、トレーニングでストレスをかけて鍛えなければ強くなりませんが、それは心にも当てはまります。もちろん大きすぎるストレスを受けると心が折れたり壊れたりしてしまいますが、適切なストレスであればその人を精神的に向上させます。ヤコブも、試練に対する忍耐がその人を成長させるのだ、と語っています。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な人になります。
使徒パウロも同じようなことを語っています。ローマ書5章3節と4節をお読みします。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すことを知っているからです。
このように、試練というものは忍耐を生み出し、その忍耐が人格の完成へと導くのだ、というのが新約聖書に共通した教えです。
ヤコブはもう一つ、試練に耐えるために必要なものを指摘します。それは「知恵」、しかもそれは人間的な知恵ではなく、神の知恵です。ヤコブは信仰によってそのような知恵を神から頂きなさい、と教えます。では、ここでヤコブが語っている「知恵」とは具体的にはどんな知恵なのでしょうか。それは知恵というよりも、「視点」と言い換えた方が分かりやすいかもしれません。どういうことかといえば、私たちの人生にはいろいろなことが起こります。その中にはよい出来事もあれば、悪い出来事もあります。悪い出来事が起きると、私たちは「いったいどうしてこんなことが私の人生に起こったのだろうか」と、その意味を考えます。そして、私たちがどのような視点を持つのかによって、起きる出来事の意味も変わってきます。人生に起こる出来事に意味なんでない、すべては偶然だ、悪いことが起きたのは、たまたま自分に運がなかったんだ、と考える人がいます。その人は、そういう視点で自分の人生を眺めます。そのように考える人は、自分の人生に生じた困難について、とても前向きに考えることなどできないでしょう。なにしろ、何の理由もなく不幸な出来事に巻き込まれてしまったのですから。また、今後の人生についても明確な明るい展望を持つことはできません。すべては偶然、運次第ということになります。
しかし、神から知恵を与えられた人は、別の視点から自分の人生を見つめることができます。それは、神がすべての状況を支配しておられ、自分の人生に起きる様々な出来事も神の許しなしに起こるものはない、という視点です。主イエスは次のように言われました。
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です(マタイ福音書10:29-31)。
このように、すべてのことは神の支配の下にあると悟ること、これが神の知恵を持つということです。そして、このような確信を持つためには神への揺るぎない信仰が必要です。ヤコブは「少しも疑わずに、信じて願いなさい」と教えます。このような信仰、神への信頼なしには、神の知恵、神の視点は与えられないからです。
そして、すべての出来事の背後には神の摂理があると知ることによって、私たちの人生に対する態度も変わってきます。様々な出来事はでたらめに起こるのではなく、それぞれに意味がある、こう考えることで、自分の人生に起きる出来事への応答も変わってきます。良いことがあると、「俺はなんてすばらしいんだ」と傲慢になったり、あるいは悪いことがあって「私はなんて運が悪いんだ」と落ち込んだりすることなく、むしろ良いことについては神に感謝し、悪いことについては神の御心を探る反省の機会とするのです。伝道者の書はこのことを、次のように述べています。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである(伝道者の書7:14)。
私たちの人生をコントロールしているのは私たち自身ではなく、偶然でもなく、神なのだ、このような視点を持つことこそ神の知恵を持つことなのです。
ヤコブはこの件について、「二心を持つことがないように」とも警告します。それは二股をかけるな、ということです。すなわち、神様に頼りながらも、神頼みだけでは不安だから、この世の知恵やこの世の力にも頼ろうとすることです。「神様も大事だけれど、やっぱり世の中最後は金だよね」というように、お金に執着するような態度のことです。もちろん、生きていくうえでお金は必要なものですが、お金を増やすことそのものが人生の目的になってしまうような生き方は、本末転倒です。このような貪欲な態度はお金を礼拝するマモン信仰であり、現代人が最も陥りやすい偶像礼拝です。現代人の偶像礼拝は金ピカの偶像を拝むような分かりやすいものではなく、もっと微妙なものです。現代の偶像はお金と力です。経済力と軍事力と呼んでもよいでしょうが、世界中の国々がそれらを求めて狂奔しています。しかし、私たちは神にこそ信頼しましょう。
3.結論
まとめになります。今回からヤコブの手紙を読み始めましたが、この手紙は出だしからいきなり重要な問題に切り込みます。それは私たちの人生に起こる困難について、どのように考えるべきか、向き合うべきか、ということです。ヤコブは人生の困難、試練の意味について、二つの重要なポイントを指摘します。一つは、私たちは苦難に耐えるために忍耐を求められますが、その忍耐は私たちが人間的に成長する上でぜひとも必要なものだということです。忍耐とは、単に辛い状況を我慢することだけではありません。それを経験することで、同じような苦しみを味わった人たちのことをよりよく理解できるようになります。そうして人間としての幅や大きさが生まれ、人格が練られていきます。
しかし、やはり人生に辛いことはないに越したことはない、とは誰もが思うでしょう。困難な状況のただ中にいて、それを肯定的に捉えるというのは簡単なことではありません。そんな時に必要なのは神の知恵です。神の知恵を持つとは、神の視点に立って物事を捉えるということです。そのような神からの知恵を持つ時に、私たちは物事を俯瞰してみる、ある意味で神の高みから物事を捉えることができるようになります。現実の中で、辛い、大変だという気持ちに圧倒されてしまいそうな時でも、今の状況すらも神の支配の中にあるのだ、そのように神に信頼することで、絶望的に思える状況にも希望を見いだすことができます。試練の中にあるときに大切なのは神への信仰、神の誠実さを全面的に信頼することです。そうすれば、神は必ずや試練から逃れる道をも示してくださるでしょう使徒パウロも、こう述べています。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます(第一コリント10:13)。
困難な状況に絶望してしまうのか、あるいはそこに希望を見いだせるのかは私たちの神への信仰次第です。神への揺るがない信頼を持っていれば、どんなときにも希望を持てるでしょうし、その希望は私たちを良い方向へと導いてくれるでしょう。お祈りします。
私たちの人生を導き、試練の中にある私たちを見守ってくださる神様、その御名を讃美します。私たちの人生には様々な試練や困難がありますが、そんな時にも信仰に堅く立ち、忍耐をもって歩むことで成長することができるように、私たちを導いてください。われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン