1.序論
みなさま、おはようございます。前回に続いて、今日も「主の箱」、「契約の箱」を巡るペリシテ人とイスラエル人との間の一連の騒動について見て参ります。聖書テクストを詳しく見る前に、この契約の箱のはらむ問題について少し考えたいと思います。この契約の箱は、一歩間違えればイスラエルを偶像礼拝に導きかねない、そのような問題を抱えているという話をさせていただきます。
聖書は私たちが「偶像」を作ったり、それを拝むことを堅く禁じています。偶像とは神や仏をかたどった像で、礼拝の対象となるものです。実際、世界中の宗教には偶像やそれに類するものがあります。日本でも大仏さんがたくさんありますね。かくいうキリスト教にも、イエス像やマリア像、聖人像のようなものがあり、それらに対して祈るという習慣があります。マリア像や聖人像はともかく、イエスの像に対して祈るのはよいのではないか、と思われるかもしれません。しかし、私たちは主イエスがどんな顔かたちだったか、全く知りません。写真はおろか、肖像画も残されていません。そして聖書にはイエスの風貌についての記述は皆無です。背が高かったのか、低かったのか、そういう情報もありません。ですから私たちが「イエス像」と呼ぶものは、私たちが勝手に想像して造り上げたイエス像にすぎないのです。よく金髪碧眼のイエスの絵画がありますが、歴史上の人物としてのイエスは間違いなくそのような姿ではありません。むしろ黒髪の巻き毛でひげの濃いアラブ人のような姿だったでしょう。でも、そんなイエスよりも、格好いいイケメンの西洋人のようなイエスの方がよい、と考える人は多いのではないでしょうか。しかし、そういう自分たちのイメージした、私たち好みのイエス像を拝むのが果たして偶像礼拝に当たるのか当たらないのか、というのはなかなか難しい問題です。
ともかくも、世界中の宗教は、なんらかの像を造り上げてそれを礼拝の対象とするということを行ってきました。実際、私たちは目に見える祈る対象を必要としているのかもしれません。祈るということは、精神を集中することです。いろんな思いや雑念を振り払い、神にのみ意識を向けようとします。そのようなときに、具体的に祈る対象があると私たちの意識の集中がしやすくなるでしょう。虚空に対して呼びかけるよりも、祈りを向ける対象がある方がよい、というのはよく分かることです。偶像がダメならば森羅万象を拝む、つまり月や星、あるいは神々しい大木や巨石を祭るということもあります。私たちはともかくも、祈りを向ける目に見える対象を求めてしまう存在なのです。
しかし、繰り返しますが聖書は偶像礼拝を堅く禁じます。そのことを記している聖書箇所を読んでみましょう。申命記4章15節以降です。
あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。(申命記4:15-19)
このように、聖書はこれでもか、というほど強く偶像礼拝を禁じます。しかし、人間の本性は礼拝する対象、目に見える対象を求めてしまいます。そして、誤解を恐れずに言えば、サムエルの時代のイスラエル人にとってそのような「偶像」の代わりになるものが契約の箱だったのです。しかも、聖書は契約の箱については礼拝の対象になりかねない要因がありました。
契約の箱がイスラエルの人たちから神聖視され、まるで神そのもののように崇められるのにはいくつかの理由がありました。そもそも契約の箱はいつ、何のために造られたのでしょうか?それは、モーセがシナイ山で神から十戒を刻んだ板を与えられた時に、その石板を収めるために造られました。神から直接与えられた物、というのは聖書全体を見ても皆無ではないでしょうか。そのような神聖なものを収納している箱が神聖視される、まるで神そのもののように崇められる、というのは人間の心理を考えればうなずけます。
また、契約の箱が置かれていた場所も重要です。イスラエルの神殿は二層構造になっていて、通常の礼拝行為が行われる聖所と、その奥に最も神聖なる空間である至聖所の二つがありました。この至聖所には誰でも入れるわけではなく、祭司の長である大祭司だけが入ることを許されていました。しかも、いつでも入ってよいわけではなく、年に一度、「大贖罪の日」と呼ばれる日にだけそこに入り、イスラエルのすべての罪を赦していただくための儀式を行いました。では、この至聖所とはどんなところなのか、何があるのかといえば、そこにあるのはたった一つだけ、すなわち契約の箱だけがそこにあるのです。まるで、至聖所は契約の箱のためにあるかのようです。日本には神殿の中に「ご神体」というものがあります。イスラエルの至聖所に相当する「本殿」に安置されるもので、ご神体には神が宿る、あるいは降ると信じられています。このご神体と、契約の箱は概念としては非常に似通っています。契約の箱にも、まさに神が宿るからです。神はモーセに対して、契約の箱の上からあなたに語りかけると言われました(出エジプト25:22)。契約の箱の上に神が現れるのなら、人は契約の箱にひれ伏すでしょう。日本ではご神体はまさに礼拝の対象ですが、契約の箱もイスラエル人にとって礼拝の対象となっていったことは想像に難くありません。しかしそれは一歩間違えればまさしく偶像礼拝なのです。
前回からこの契約の箱を巡って一連の大騒動が起こっています。そしてこれらの出来事を通じてイスラエルの人々は契約の箱が有難いものというより、気味の悪いもの、扱いに困るもの、という印象を受けたことでしょう。今日の説教タイトルは「一体何が起こっているのか?」というものですが、これはイスラエル人の契約の箱に対する困惑を言い表すためのタイトルです。イスラエルは目の前で起こっている状況に、どうしてよいのかわからなくなってしまっただろうということです。しかしそれらの一連の出来事は、イスラエル人が契約の箱を偶像にしてしまわないようにという生ける神の配慮によるものではないか、そのように思えます。そうしたことを考えつつ、今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本論
さて、前回はイスラエルを打ち破って、その勝利のしるしとしてイスラエルの神の契約の箱を奪ったペリシテ人が、その契約の箱を彼らの神であるダゴン神をまつる神殿に奉納したという場面を学びました。それはペリシテ人の都市であるアシュドデというところでした。しかし、契約の箱を従えるように立っていたダゴンの像が、不思議と人手によらずに何度も倒れてしまい、しまいには像そのものが壊れてしまうという事件が起きました。この不吉な出来事にペリシテ人は大きな不安を感じました。この契約の箱には、何か災いをもたらす力があるのではないかと。そして、彼らの不安は的中しました。なんと、人々の間に腫物が大流行したのです。ペリシテ人は、これは契約の箱のたたりに違いないと色めき立ちました。そこでアシュドデの人たちが下した決断とは、この契約の箱が諸悪の根源なのだから、これをどこかほかの場所に移してしまえばよい、というものでした。そこでガテという都市に契約の箱を移しました。しかし、ガテでもまったく同じことが起きました。その町でも腫物が大流行したのです。おそらくガテの人たちはアシュドデの人たちから腫物のことを聞いていなかったのでしょう。知っていたら、そんな箱を引き受けなかったでしょうから。しかし、腫物が大流行してからアシュドデで起こった事件を知り、それで慌ててその箱をまた別の都市に移そうという話になりました。そして今度はエクロンという都市に持って行こうとしましたが、しかしこの時点で契約の箱の噂は各地のペリシテ人の間に広まってしまっていました。「俺たちを殺す気か!」と怒るエクロンの人々を前に、これ以上契約の箱をたらいまわしすることはできなくなりました。そこで、ペリシテ人は領主会議を開き、そこでこの契約の箱はイスラエルに送り返すということに決まりました。今日の箇所は、その場面からです。
さて、この一連の騒動は七カ月にも及びました。半年以上、契約の箱はペリシテ人の間でたらいまわしされていたのです。5章では三つの都市だけが言及されていますが、どうもさらに二つの都市へとたらいまわしにされ、そのたびに種物の大流行が起ったようです。しかし、この間にペリシテ人たちもただ手をこまねいていたわけではありません。彼らの間で評判の高い占い師や、魔術師のような人たちを呼んで対策を練っていました。彼らのアドバイスによれば、ただ単に契約の箱をイスラエルに送り返すだけでは神の怒りは去らない、それなりの償いをしなければならない、というものでした。その償いとは、金でした。金は古今東西富の象徴ですから、賠償金としてはふさわしいものだったのでしょう。しかし面白いのは、ただの金塊ではなく、金でねずみの像を造れというアドバイスをしたことでした。おそらく種物が大流行したところではねずみが異常に繁殖して、ねずみを媒介にして種物が蔓延したのでしょう。ペリシテ人は、このねずみはイスラエルの神が送ったものだと信じました。そこで、そのねずみの像こそイスラエルの神への賠償品としてふさわしいものだと考えたのです。どうしてそのような発想になるのか、ちょっと理解に苦しむところですが、ペリシテ人の雇った占い師たちはそう判断したのです。
ただ、ペリシテ人の間にも、種物の大流行と契約の箱との因果関係を疑う人もいました。彼らは、種物が大流行した場所にたまたま契約の箱が運ばれてきただけで、別に契約の箱にのろいの力があるとか、あるいはイスラエルの神が怒っているのだとか、そのように結論づける必然性はないと論じたのです。多くの現代人もこのように考えると思うのですが、ペリシテ人の間にものろいとか、そういうものに疑いを感じる人がいたのです。ですから彼らは、この種物が本当にイスラエルの神の力によるものだという確証を求めたのです。そこで非常に具体的で合理的な方法を考えました。普通、子牛に乳をのませている雌牛は子どもから引き離されることを嫌います。その親子の関係を利用してペリシテ人が考えたのは、契約の箱を乗せた車を引かせる雌牛をあえて子牛から離れる方向へと向かわせようとしたのです。普通なら、子牛から引き離されるのを嫌って雌牛は先に行こうとはせずに引き返してくるでしょう。しかし、引き返すことはせずにまっすぐにイスラエル人たちの領地へと雌牛が進んでいくのなら、そこには超自然的な力が働いているわけで、この一連の種物騒ぎはイスラエルの神の力によるものだということが確認される、ということです。では、雌牛はどうしたかと言えば、子牛から離れていくにもかかわらず、まっすぐに歩み続け、右にも左にもそれることはありませんでした。これを見たペリシテ人は、一連の災いは確かにイスラエルの神によるものだったと、納得したのでした。
しかし、これでめでたしめでたし、とはならなかったのです。確かにペリシテ人にとっては、これで騒動が終わりました。しかし、今度はイスラエルに災いが降りかかってきたのです。契約の箱は、イスラエルの敵には災いを、イスラエルには祝福をもたらすものだとイスラエル人たちは考えていました。しかし、そもそもそのような前提が間違っていたのです。
今回の騒動は、そもそもイスラエル人たちがペリシテ人との戦争に勝ちたいばかりに、戦場に契約の箱を運んでいったことから始まりました。しかし、契約の箱は戦争に勝つための道具ではないのです。契約の箱は、神殿の深奥部、至聖所に安置されるべきもので、それを勝手に動かすなどということはそもそも許されることではなかったのです。それを無視して動かしたというのは、イスラエル人が神を自分たちの都合で自分たちの思い通りに動かそうとする、そういう不敬虔さを表すものでした。ここに、今回の一連の騒動の根本的な原因があったのです。
古今東西の世界の多くの宗教には、神を自分の思い通りに動かそうという思想があります。神に豊作を願ったり、あるいは戦いの勝利を願って、様々な儀式を行ったり呪文を唱えることを通じて、神に自分たちの願いを実現してもらおうとします。たとえば古代のカナンの宗教では、神殿の中で性交が行われていましたが、それは人間の性交を見て神々が興奮し、それが豊作につながると信じられていたからでした。つまり、様々な儀式は神を人間の思い通りに動いてもらうために行われていたのです。しかし、イスラエルの神はそのような人間の側からのいかなる働きかけやコントロールも拒否する神です。神は神ご自身の判断で、正しいことをなさるのです。人間側からどんな贈り物を受けたとしても、それで気が変わる神ではないのです。イスラエルの神は確かに戦争に介入することがありますが、それはイスラエルを無条件で勝たせるためではなく、神ご自身がイスラエルを救う必要があると判断した時だけなのです。もちろんイスラエルの神はイスラエルの民と契約を結んでおり、彼らとは特別な関係にあります。神はイスラエルの人々の幸せを心から願っています。けれども、神の考えるイスラエル人の幸福とは、単に無敵の超大国になって近隣諸国を従えるような圧倒的な富と武力を持つというような、人間の考えるような凡庸な幸せではないのです。むしろイスラエル人が霊的に成長して、神の民にふさわしい霊性を持つようになる、それが神の目指すところなのです。
ですからイスラエルの都合で、「神よ、いまこそわれらのために戦ってください」などと祈られても、イスラエルの神はそのような祈りには応えられません。それでも無理にでも戦っていただこうと、神が宿ると信じられていた契約の箱を戦場に持って行くなど見当違いも甚だしいことでした。ですから、イスラエル人はそもそも契約の箱の扱いを間違えていたのです。
そのようなイスラエル人の過ちにより、契約の箱はペリシテ人の手に渡ってしまいました。すると今度はペリシテ人が大きな勘違いをすることになります。彼らは、自分たちの神ダゴンがイスラエルの神ヤハウェに勝ったのだ、だから契約の箱を奪うことができたのだ、とそのように考えました。神はペリシテ人のこのような思い違いを容認されませんでした。そこで、しるしとして一連の災いを起こし、ペリシテ人の慢心を打ち砕こうとされました。その結果、ペリシテ人は悔い改めて、契約の箱をイスラエルに返そうということになりました。
この一連の出来事を見て、再びイスラエルの人々は思い違いをしてしまうようになりました。やっぱり神は私たちのために戦ってくださったのだ、と。神は契約の箱をトロイの木馬のように用いたのだ。わざと負けたふりをして敵陣深く潜り込み、ペリシテ人の地で契約の箱はその恐ろしい威力を発揮して、ペリシテ人をやっつけてくれたのだ。神は我々のために戦ってくださる軍神なのだ、契約の箱はそのシンボルなのだ、とそのように考えてしまったのです。
それでイスラエルの人々は、契約の箱が帰って来たのを見てお祭り騒ぎになりました。もちろん、正式な手順を踏んでいけにえを献げることもしました。しかし、悪乗りする人もいました。ある人は好奇心に駆られて、契約の箱はどうなっているのかとそれを覗き見たのです。その結果、五万七千人もの人が死にました。この数字には異読があり、他の訳では七十人となっているものもあります。こちらの数字の方が現実的ですが、それにしても大変な数です。しかも、覗き見た人はおそらく一人か二人だったのに、町の住民全体が神罰を受けたようなことになってしまいました。なぜ神の裁きがここまで重いものになったのか、覗き見た人たちを罰するだけで十分ではないのか、と私たちは考えます。しかし、このように裁きが重くなった理由は、イスラエルの人々の全体に、契約の箱に対する根本的な思い違いにあったのではないか、そのように私は考えています。彼らは契約の箱を持つことで、万能の神の力を自分たちが用いることができる、そのような不遜な思いがあったのではないかということです。神はイスラエル人の思惑通りに動かせるような神ではないし、契約の箱はそのための便利な道具などではないのです。結局、ペリシテ人だけでなくイスラエル人もその契約の箱を扱いかねて、なんとそれから二十年も契約の箱は辺境の地にとどめ置かれることになったのです。イスラエル人でさえ、契約の箱を厄介払いしてしまったのです。
3.結論
まとめになります。今日は、ペリシテ人が度重なる災厄に恐れをなして契約の箱をイスラエルに戻してきたこと、それをイスラエルの人々が大喜びしたものの、今度はイスラエルに大きな災厄が降りかかり、結局イスラエルの人たちも契約の箱を扱いかねて、たらいまわしにしてしまった、という場面を学びました。これらの災厄の背後には、神を人間が自由に制御できる、コントロールできるという危険な思想がありました。しかし、神は人間に使われるようなお方ではありません。神は常にご自身の判断で正しいことを正しい時に行います。人間の思惑でどうにかなるようなお方ではないのです。
このことは、私たちの神に対する関係についても大きな教訓を与えます。私たちは「神の御子を求めるのが大切だ」と常々言われています。しかし、では神の御心とは何なのか?というのは決して自明なことではありません。それに対し、私たちの願いというのは当然ながら分かりやすいものです。自分が求めているものが何なのか分からない、という場合もあるでしょうが、しかし自分の願いというのはほとんどの人が意識しているものです。私たちがついやってしまうことが、自分の願いが神の願いだと思ってしまうことです。神様は私の味方なのだから、私の気持ちを神様は分かってくれて、きっと叶えてくださると、そう思うのです。確かに神は私たちの思いをご存じですし、また私たちが幸せになることを願っておられます。しかし神は、私たちの願いが本当に私たちを幸せにするのかどうか、ということもよく知っておられます。親が子どもの願うものを与えないのは、それが子どもの利益や成長のためにならないと判断するからです。神も同じです。また、神は私一人だけの父ではなく、多くの人の父です。ですから多くの子どもがそれぞれ相反する願いを父に願っても、それを全部叶えることは不可能です。父は、子どもたち全体の幸せや調和を考えて、それぞれの願いに応えるでしょう。そのように、父なる神はより高い観点から物事を見ておられます。そのような神に、無理にでも自分の願いを叶えてもらおうとすることは良いことではありません。しかし、人間はしばしばそのような行動に走ってしまうのです。ですから私たちも主イエスが祈られたように、「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」(マルコ14:36)と祈りたいと願うものです。そのように今週も歩めるように、共に祈りましょう。
イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。ここ数回、契約の箱をめぐる騒動について学びました。そこで、神を礼拝するということはどういうことなのかを改めて学びました。私たちが神を動かすのではなく、私たちの方が神に喜ばれるように神に動かされること、これが真の礼拝です。そのように歩むための力をお与えください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン