1.序論
みなさま、おはようございます。今年から、毎月の月末は連続講解説教中のマルコ福音書から離れて、旧約聖書からメッセージをさせていただくことにしました。今回は二回目になりますが、今朝はヨナ書からお話しさせていただきます。ヨナの話は旧約聖書の中でも特に有名ではないでしょうか。ヨナが三日三晩をクジラのお腹の中で過ごすという、おとぎ話かファンタジーに出てきそうな話ですが、クリスチャンでなくても一度は聞いたことがあるというお話かもしれません。しかし、今日の説教題は「民族主義的預言者ヨナ」です。このタイトルから、どんな説教を想像されるでしょうか?みなさんも、ヨナ書を民族主義、ナショナリズムという観点から読まれたことはないかもしれません。
では、民族主義、ナショナリズムとは何であるのかを改めて確認したいと思います。ここに集っている方の多くは日本人、また日本に永住権を持ち、日本に骨を埋めるお気持ちをお持ちの方ですが、私たちの「自分は日本人だ」という意識そのものがナショナリズムの基本なのです。私とは誰か、何者なのかという問いへの答えに、多くの人は「私は地球市民です」とか「地球人です」ではなく、「日本人です」、「台湾人です」、「イギリス人です」と答えてしまうこと、それがナショナリズム、民族主義に由来するのです。このナショナリズムは、二十世紀においてはしばしば悪い意味合いで使われることがありました。それは、二度の世界大戦の大きな原因がナショナリズムにあると考えられていたからです。
二度の世界大戦の主戦場はヨーロッパでした。ヨーロッパの国々のほとんどはキリスト教国でしたから、二度の大戦ではキリスト教徒同士が殺し合ったのです。そこでは、「イギリス人の私もドイツ人のあなたも、主にある兄弟姉妹だ、クリスチャン同士だ」という意識は消えていきます。戦争がはじまると、敵国がどれほど残虐であるかということが喧伝されます。戦争ですから、日常ではあり得ないことが平気で起こるのですが、そのことが誇張して語られたり、捏造されることさえあります。日本もかつてはアメリカやイギリスを「鬼畜米英」などと呼んでいましたが、キリスト教同士の国でも互いに敵国の人々を悪魔化していきました。ある意味、相手を悪魔だと思い込まなければ戦争などできない、武器を持たない民間人を空爆することなどできないので、戦争になるとお互いに相手がどんなにひどい連中かということを宣伝しあいます。それが戦争プロパガンダで、そういうプロパガンダを毎日毎日聞かされると、本当に敵国人は自分たちとはまったく違う人種なのだと信じ込むようになります。このように、戦争を冷酷に遂行する上でナショナリズムというのは必要なものであり、二十世紀はまさにナショナリズムが荒れ狂った時代だと言えます。
しかし、ナショナリズムというのはもちろん悪い意味ばかりではありません。二十一世紀になってナショナリズムが見直されるようになっていますが、それは行き過ぎたグローバリズムに対する反省という意味合いがあります。グローバリズムというのもいろんな意味で使われますが、一番多いのが企業活動の全世界での活動という意味合いにおいてです。例えば日本を代表する企業であるトヨタ自動車ですが、トヨタが日本以外の海外で売った車の台数はおおよそ八百万台であるのに対し、日本国内での販売はその六分の一ほどに過ぎません。つまり、海外での売り上げのほうがずっと多いのです。トヨタだけでなく、たとえばご存じアメリカのコカ・コーラはアメリカ以外の売り上げが7割近くあります。つまり、グローバル・カンパニーと呼ばれるような企業は、自国よりも海外の売り上げが圧倒的に多いのです。そういう企業にとっては世界が舞台なので、「自分たちは日本の企業だ」とか「我々はアメリカの会社である」という意識はどんどん希薄になってきます。企業活動の基本は、なるべく安く作って、なるべく高く売ることにありますので、日本企業でも日本で製品を生産する必要はなく、海外で人件費の安い国に工場を移して、安い原価で製品を作ろうとします。そうすると、日本の人たちは仕事を賃金の安い国の人々に奪われることになり、失業したり、そこまでいかなくても賃金の安い国の人並みに賃金が押さえられます。すると、グローバル企業がいくら儲けても、その国の人たちはかえって貧しくなってしまう、そういう悩ましい現象が先進国と呼ばれる国々で起きるようになりました。日本が何十年間も賃金が上がらないデフレに苦しんできたのは、まさにそのような理由からでした。企業としては、儲けが大きくなるのが一番大事なので、日本人の賃金を上げる必要はありません。むしろ、世界中の国境がなくなって、「世界が一つになって」、一番賃金の安い国々で製品を作ってそれを世界中で売りまくれれば、それで幸せだ、ということになります。世界は一つ、というと何か平和運動のスローガンのようですが、実は金儲けのためのスローガンでもあるわけなのです。そうすると、大企業ばっかり儲かって、自分たちはちっとも幸せになれない、という不満が高まります。もっと自分の国の人のことを考えてほしい、自分たちの給料が世界で一番給料の低い国の水準まで下げられるのはやってられない、という話になります。この反発が、グローバリズムへの反感なのです。そして、そういう人たちの支持を集めたのがあのトランプ前大統領でした。行き過ぎたグローバリズムを改めて、自国の人々の幸せを第一に考えるという政策を掲げたのです。
2.本論
さて、ここまでの話は牧師の説教というより、私の前職の金融アナリスト時代の時のような話ですので、これと聖書の話に何の関係があるのか、と思われたかもしれません。それが、関係があるのです。現代の人々も、自国ファースト主義とグローバリズム、民族主義と国際主義の間で揺れ動いているわけですが、ヨナ書が書かれた時代のユダヤ人も、別の意味でこの狭間で悩んでいたのです。つまり、ヨナ書が書かれた時代、ユダヤ人たちは外国と親しく付き合うべきか、あるいは外国人との交際を止めるべきかという問題で、意見が分かれていたのです。
ヨナ書はアッシリア帝国が栄えていた時代、イスラエルが北と南の王国に分裂していた頃の話とされますが、実際にヨナ書が書かれたのはずっと後の時代、北と南のイスラエルが両方とも滅びてしまい、バビロン捕囚という亡国の時代を経験した後の時期に書かれたものだと考えられています。ユダヤ人たちはバビロンに滅ぼされて、一度国土を失い、捕虜として異国で暮らすことになりました。外国の地で暮らすユダヤ人たちは、外国の文化や宗教に毎日触れるわけですが、その時にユダヤ人の間には二つの相反する動きが起きました。自分は外国人とは違うという意識と、外国人ともっと親しくなりたい、同化したいという気持ちです。これは海外で暮らした経験のある方にはよく分かることだと思いますが、今まで自分が「日本人だ」とあまり意識したことがない人も、海外で暮らすと嫌でも自分が日本人だということを痛感させられます。私もイギリスの大学で学んでいた時、アジアやイギリスの学生たちから太平洋戦争時代の日本軍の残虐行為について、ことあるごとに聞かされました。私にいつもそのことをしつこく言ってくるシンガポール人がいましたが、彼が日本人留学生の女性にしつこく言い寄っているのを知っていたので、「君は、日本人であるその女の子のことが嫌いなのか?」といったら慌てて否定するというような笑えない話がありました。私自身は戦争を全く知らない世代ですが、しかし海外では自分が太平洋戦争を引き起こした日本人であるという現実からは決して逃れられないことを痛感しました。もちろん日本人で良かった、ということもたくさんあるわけですが、ともかくも海外生活は民族意識が強くなる経験でもあります。その反面、外国には日本にない良い面もいろいろありますので、外国文化が好きになる、そしてあまり自分が日本人であることに拘らなくなり、その国の文化に同化したいという気持ちが強くなるということもあります。
捕囚の民として、バビロンで外国生活を初めて経験したユダヤ人たちも、「自分たちはユダヤ人だ」ということを強く意識させられたことと思います。その場合、二つの相反する心が生じます。一つはナショナリズム、自分はユダヤ人であってバビロニア人ではない、それどころか自分たちは神に選ばれた特別の民であり、征服者であるバビロンの人たちには決して負けてはいないという意識で、もう一つはインターナショナリズム、つまり外国の文化に魅力を感じ、外国のものを積極的に受け入れたい、ユダヤ人という狭い殻を打ち破って、外国人ともっと親しくなりたい、一つになりたいという意識です。旧約聖書には、この相反する気持ちが両方とも現れます。旧約聖書の中で、この国際主義、世界は一つという思想が一番明確に表明されているのはイザヤ書でしょう。イザヤ書19章の23節から25節までをお読みします。
その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」
ここでは、歴史的にイスラエル民族と敵対してきたエジプトやアッシリアがイスラエルの神を礼拝し、イスラエルの神も彼らをご自身の民として受け入れるという、驚くべきヴィジョンが描かれています。イザヤ自身は、イスラエルがエジプトやアッシリアと連携するのに強く反対した預言者です。イザヤはエジプトとの同盟を「よみとの同盟」(28:15)と呼んで厳しく批判しましたし、アッシリアに至っては明確に敵として見ていました。というのも、アッシリアは北イスラエル王国を滅ぼし、続いてイザヤの祖国である南ユダ王国をも滅ぼそうとしていたからです。イザヤは、ユダ王国の王であるヒゼキヤに、「アッシリアに屈服してはいけない、イスラエルの神のみを信じ、信仰によってアッシリアを撃退しなさい」と言って励ましていたのです。そのイザヤが、エジプトもアッシリアも神の民となる、イスラエルは彼らと並んで第三のものとして真の神を礼拝するようになる、というのだから驚きです。これは、旧約聖書の中でも最も国際協調路線、民族の敵意を乗り越えて「世界は一つ」という思想を表明したものだと言えます。
このように、旧約聖書には民族の垣根を乗り越えようという思想があるのですが、それとは正反対の思想もありました。それは、徹底的な外国人排斥運動、民族純血主義とも呼ぶべきものです。ユダヤ人は神から選ばれた特別な民族なので、外国人とは交際すべきではない、ということです。それは、国が亡びるという深刻な経験をしたユダヤ人がたどり着いた一つの結論でした。ユダヤ人は、まず北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされ、次いで南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされるという悲劇を経験してきたのですが、そのような悲劇の原因は偶像礼拝、外国の神々を拝んでしまったからだ、ということを預言者たちによって知らされました。ではなぜ先祖たちは外国の神々を拝んでしまったのか、それは先祖の人々が外国人と付き合って結婚し、外国人の配偶者を通じて外国の神々を拝んでしまったからだ、という結論になったのです。その典型は預言者エリヤによって厳しく糾弾されたアハブ王で、彼は外国人の奥さんのイゼベルの影響でイスラエルにバアル礼拝を蔓延させてしまいました。ですからバビロンでの捕虜としての生活を終えてイスラエルに戻ってきたユダヤ人たちは、外国人との結婚を厳しく禁止するようになりました。その時期のリーダーであるエズラやネヘミヤは、外国人を妻としてめとったユダヤ人に、外国人妻と離縁するように迫りました。また、ユダヤ人と外国人との間に生まれた子供も混血児としてユダヤ社会から追放してしまったのです。このように、極端な民族純血主義、ナショナリズムが吹き荒れたのがバビロン捕囚以降のユダヤ社会でした。
今日の私たちの聖書箇所であるヨナ書の舞台設定は、まだ北イスラエルが存在していた時代でした。紀元前8世紀で、そのころの超大国、現在のアメリカに相当するのはアッシリア帝国でした。しかし、実際にヨナ書が書かれたのはそれから数百年後、北イスラエルが滅び、次いで南ユダ王国も滅び、70年間のバビロン捕囚を経験した後の時代だとされています。そのころのユダヤ社会は、今申し上げたように、極端に外国人を嫌う、外国人の影響をユダヤ社会から根絶しようとしていた時期でした。ヨナ書は、そのような当時の空気に抗う、排外主義に反対して外国と親しくすべきだという主張を持つ書だったのです。そのことを念頭に置いて今日のテクストを読んでいきましょう。
今日は3章と4章の全部を読んでいただきましたが、ヨナ書で有名なのはむしろ1章と2章の方でしょう。1章の1節は、アミタイの子ヨナという預言者に、アッシリア帝国の帝都ニネベに行って、神のことばを伝えなさいという命令が神から下ったということが書かれています。ニネベと言うのは今日の世界で言えばニューヨークに相当する、世界の中心だと思われていた大都市でした。ヨナの活躍した時代については、第二列王記に記述がありますので、そこをお読みしたいと思います。第二列王記14章23節から25節までです。
ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリヤで四十一年間、王であった。彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪をやめなかった。彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通じて仰せられたことばのとおりであった。
このように、ヨナの時代の北イスラエルはヤロブアム二世の治世でした。ヤロブアム一世は北イスラエル王国を創始した人物ですが、その創業の王と同じ名前を持つヤロブアム二世も、世俗的な意味では偉大な王で、彼の時代に北イスラエル王国は最大の領土を獲得しました。世俗的な意味で、といったのは、人間的には偉大な王でも、神の目からは深刻な罪を犯していた王であったからです。ですから聖書記者の彼の評価は大変低いです。それでも、彼の時代の北イスラエル王国は軍事的にも経済的にも大変栄えました。しかし、ヤロブアム二世以降、北イスラエル王国は急速に衰え、彼の死後わずか二十年ほどで北イスラエル王国はアッシリア王国によって滅亡させられます。そのような北イスラエルの王国の最盛期に活躍したのがヨナで、彼は預言者として北イスラエル王国が大いに繁栄することを預言しました。そのような繁栄を預言するヨナの言葉はイスラエルの人々にも歓迎され、彼は一躍人気者となったことでしょう。これは破滅を預言したエレミヤやエゼキエルとは正反対の現象でした。「あなたがたは滅びます」と叫ぶ預言者が歓迎されず、「あなたがたは栄えます」と叫ぶ預言者が人気を博すのは、まあ当然のことではあります。
しかし、そのヨナにとっての目の上のたん瘤は当時の超大国のアッシリア帝国でした。イスラエルの安全保障の観点からは、このような超大国に全面的に服従する、つまり今の日本とアメリカのような関係になることが一つの選択肢ですが、ちょうどヤロブアム二世の時代はアッシリア帝国の停滞期に当たり、ヤロブアム二世はいわばその権力の空白を利用して版図を拡大していたのです。ですから、イスラエルの安全保障にとっては、アッシリアはそのまま衰退して、消滅するのが一番望ましかったのです。ヨナも当然そのことを知っていました。しかし、そのような落ち目の状態にあったアッシリアを神が助けようというのです。ヨナはそれに反発しました。そんなことをして、アッシリアが息を吹き返しでもしたらイスラエルの安全はどうなるのですか?敵に塩を送るようなことはすべきではない、と思ったのです。このヨナの懸念は故なきことではありませんでした。実際、ヤロブアム二世の死後アッシリア帝国は勢いを取り戻し、わずか二十年後には北イスラエル王国を滅ぼしてしまうのですから。ともかくも、ヨナはアッシリアを滅びから救えと命じる神の御心が理解できず、その命令に逆らって遥か彼方の地に逃れようとしました。ヨナは船でタルシシュに向かいますが、タルシシュは現在のトルコにあった都市だとされます。しかし、ヨナを乗せた船は大嵐に巻き込まれます。この嵐は自分が神の命令に逆らったためだと気が付いたヨナは、自分を船から投げ下ろしてくれと頼みます。果たして、彼を海に投げ込むと嵐は止みました。海に投げ込まれたヨナを神は見捨てることなく、大魚の腹の中に三日三晩匿いました。ヨナはその暗やみの中で悔い改めて、神に従うことを決意します。すると、魚はヨナを陸地に吐き出します。
さて、今日の聖書箇所はそのような劇的な出来事に続く場面です。神は再びヨナに、アッシリアの帝都ニネベに行きなさい、と命じます。ニネベは行き巡るのに三日もかかるほどの、本物の大都市、当時の世界の首都と呼べる大都会でした。そこでヨナは「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」という不吉な預言を触れ回りました。外国人であるヨナが、当時の世界の超大国に向かって「あなたがたは滅びる」と叫ぶわけです。みなさんも、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに立って、日本語なまりの英語で「アメリカはあと四十日で滅びる」と叫ぶのを想像してみてください。変人か頭のおかしい人だと思われることでしょう。ヨナはそれをしたのです。すると、驚いたことに、ニネベの人々は上は王様から下は奴隷に至るまで、ヨナの言葉に真剣に耳を傾け、なんと悔い改めて外国の神であるイスラエルの主に対して頭を垂れたのです。彼らは単にイスラエルの神を信じただけでなく、その教えに従って悪の道から離れました。それを見たヨナもびっくりしたかもしれません。外国人である自分の言葉に世界帝国の人々が従うのですから、それは大変なことです。ともかくも、ニネベの人々は悔い改めて生き方を改めました。すると神は彼らの努力を認め、ニネベに裁きを下すという決定を撤回することに決めました。
そうすると、四十日後にニネベが滅びるというヨナの預言は外れてしまったことになるのでしょうか?そうではありません。聖書の神の預言とは、「未来予知」ではないからです。それどころか、預言とは本来未来を変える、特に滅亡の未来を変えるためにあるのです。例えばお医者さんが、毎日酒を浴びるように飲んでいる人に対して、「そんなことを続けていれば、一年以内にあなたは死にます」と語り、本当にその人が一年以外に死んでしまったなら、その医者には未来予知能力があるということになるでしょうか?いえ、そうではありません。その医者は、患者の現状を冷静に分析し、その行動の結果を予想しただけです。しかし患者が医者の忠告に従って、その生き方を改めればその破滅を逃れることができます。その患者が一年以内に死ななかったとしても、医者は間違えてしまったわけではありません。むしろその医者のことばのお陰で人の命が救われたのです。神の預言者の預言も同じことです。預言の目的は、未来を予知することではなく、未来を変えることなのです。ある民族や国の霊的な状態を診断し、「そのままの生き方を続ければ死にますよ、だから悔い改めて生きなさい」、これが預言者のメッセージです。ニネベが滅びなかったのはヨナの預言が外れたのではなく、むしろ彼の預言は本来の目的を達成したのです。ですから、ニネベが滅びなかったことをヨナは喜ぶべきでした。
しかし、ヨナはニネベが滅びなかったことに腹を立ててしまいました。繰り返しますが、このニネベを首都とするアッシリア帝国は、これから二十年後にヨナの祖国である北エルサレム王国を滅ぼすことになるのです。ヨナは、いわば敵に塩を送ることで祖国の滅亡に手を貸すことになります。もちろんヨナはこの時点ではイスラエル王国の滅亡をはっきりと確信していたわけではないでしょうが、アッシリア帝国の潜在的な脅威をいつも感じていました。ヨナは、神が憐み深い方であるので、万が一アッシリアの人々が自分の言葉を受け入れて悔い改めてしまったなら、彼らが神から赦されるだろうということを予感していました。だからこそ、彼はタルシシュに逃げてそのようなことが起きないようしたのです。しかし、紆余曲折の末に彼の望まない最悪の結果が起こってしまいました。イスラエルの安全保障上の脅威は残ってしまったのです。それで腹を立てて「死んだほうがましだ」とまでふてくされてしまったのです。
その後に何が起きたのかは、聖書テクストに書いてあるとおりです。神は「とうごま」を用いてヨナに教訓を与えました。実は、ヨナの怒りは見当違いなものでした。アッシリアが生き延びようと滅びようと、実はそれはイスラエルの未来にはあまり関係のないことでした。なぜならイスラエルが滅びるのは強い外国のせいではなく、その罪のためだからです。神がその罪を取り扱う結果として滅びが起こるのであり、強大な帝国の力のためではないのです。実際に、北イスラエルが滅びた後、神は信仰心の篤いヒゼキヤ王を擁する南ユダ王国のことは、アッシリアの攻撃から守っています。ですから、北イスラエルも神の前に悔い改めて正しく歩めば、アッシリアや南ユダ王国のように、神によって守られたでしょう。ですから北イスラエル王国が今回の出来事から二十年年後に滅ぶのはもちろんヨナのせいではなく、アッシリア帝国のせいですらありません。イスラエルは自らの罪の重さに押しつぶされてしまったからです。神はその裁きを、たまたまアッシリアを用いて下したのです。もしその時にアッシリアが滅んでいたら、神は別の手段でイスラエルに裁きを下したことでしょう。
したがって、神がアッシリアを救ったことで、自分はイスラエルに災いを残してしまったなどと、ヨナは考える必要はありませんでした。むしろヨナがこの出来事を通じて学ぶべきことは、神はイスラエル人だけの神ではなく、アッシリア人の神でもある、という事実でした。使徒パウロはこう言っています。
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても神です。神が唯一ならばそうです。(ローマ3:29-30)
神はユダヤ人だけでなく、アッシリア人の神でもあるので、ユダヤ人が滅びるのもアッシリア人が滅びるのも望まれないのです。神はすべての人を愛しておられるからです。しかし、バビロン捕囚後のユダヤ人は、主イエスが来られる時代まで、このことを見失っていました。自分たちだけが神の民である、と信じるがゆえに外国人との交際や結婚を避けるようになりました。もちろん外国人がユダヤ教に改宗すれば話は別ですが、それ以外は彼らとは親しく交わらないようになってしまいました。しかし真の神を知るユダヤ人が外国人を避けるようになってしまったら、だれが外国人に真の神を伝えるのか、だれが彼らに救いをもたらすのか、という深刻な問題が生じます。そしてこの問題に解決を与えたのが主イエスと、その使徒たちだったのです。
3.結論
まとめになります。今日は、祖国イスラエルを愛するがゆえに神の命令に逆らって逃亡し、その後に神の御心に従って敵国人の救いのために赴いたものの、その敵国人が救われてしまったという事実を、彼らがイスラエルの安全保障上の脅威だという理由のために素直に喜べなかった一人の預言者のことを学びました。ナショナリズム、愛国主義は第二の宗教と呼ばれるほど、私たちの心に深く根差したものです。しかし私たちの神は、ユダヤ人だけの神ではなく、日本人だけの神でもありません。すべての民族にとっての唯一の神です。そのような神を礼拝する私たちはナショナリズム、特に戦争に関係するナショナリズムに陥ることがないようにしましょう。特に今のような時代には、それは強く求められていることなのです。お祈りします。
ユダヤ人だけの神でもなく、日本人だけの神でもない唯一の神様、そのお名前を讃美します。今日、民族主義が高まり、ある特定の国々を敵視する風潮が高まっていますが、神はあらゆる民族を愛しておられます。それが民主主義の国であろうと共産主義の国であろうと、あるいは王政の国であろうとそれは変わりません。どうか私たちが狭い民族主義を乗り越えて平和のために働くことができるように、力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン