1.序論
みなさま、おはようございます。私たちはマルコ福音書を読み進めていますが、以前私はマルコ福音書の主題、メインテーマは「神の王国」である、ということを申し上げました。日本の聖書訳では「神の国」と訳されることが多いのですが、「神が王である」という大事なポイントを見失わない限りは「王」という言葉の含まれない「神の国」でもよいと思います。ですから私も説教で「神の国」と言ったり「神の王国」と言ったりしますが、あまりそうした違いは気にしないでください。ともかくも、「神の王国」こそイエスの宣教の中核、あるいはイエスの意図を理解するカギなのですが、その言葉が特にこの10章では繰り返しイエスの言葉の中に現れます。その意味で、今回そして次回学んでいく10章のイエスの教えは大変重要なものです。
とはいえ、今日は10章からではなく9章42節から読んでいきます。そして、この42節以降にも「神の国に入る」という言葉が登場します。つまりここでも「神の王国」は重要なテーマなのです。今日の聖書箇所は「つまずきの問題」、「離婚問題」、そして「子ども」についてと、一見バラバラなテーマの寄せ集めのように見えますが、その根底には「神の王国」、「神の国に入るためには」という共通した問題意識が横たわっているのです。
さて、私は以前の説教で、イエスの宣べ伝えた「神の王国」とは私たちが死んだ後に行くであろう世界、「天国」とは違うものだということを強調しました。むしろイエスが伝えていたのはこの世、私たちが生きるこの世界に神の平和な支配がもたらされるということでした。しかし、このように言いますと、「では、私たちの希望である天国はどうなってしまうのでしょうか?イエス様は天国について教えられなかったのでしょうか?」という質問をたびたび受けることがありました。結論から言えば、この地上にイエスがもたらした神の王国も、死後の世界である天国も同じものです。つまり、この世であろうとあの世であろうと神が支配するところは神の王国なのです。こういうと、不思議に思われるかもしれません。私たちの生きる世界は戦争や病気、様々な問題であふれています。そんなところが神の国であるはずがないではないか、という疑問がわいてきます。たしかに、この世の有様は神の目指す平和な支配とは程遠いものです。しかし、そんな世界のただ中にあっても、神の支配が実現するところは神の王国なのです。この世は、ある意味では練習場だと言えるかもしれません。私たちの受け継ぐ神の国、天国には、それにふさわしい生き方、ライフスタイルがあります。この世に生きる間、私たちは訓練によって神の国、天国にふさわしい生き方、生活習慣を身に着けるべきなのです。よくスポーツや音楽などで、「練習でできないことは本番でもできない。だから練習を本番のようにしっかりやりなさい」ということが言われます。それは天国でも同じことです。この世で神の国にふさわしい生き方を身に付けなかった人は、あの世の天国でもそういう生き方ができない、神の国に適合できない人になりかねません。ですから、この世で神の王国に生きるためにふさわしい生き方を学ぶ、身に着けることは非常に重要なことなのです。そのことを念頭に置きながら、今日のイエスの教えを見て参りましょう。
2.本論
さて、9章42節から50節までは「つまずき」についての教えです。しかしながら、しばしばこれらのイエスの教えそのものにつまずいてしまう、という声を聞きます。イエスのこれらの教えは厳しすぎて、受け止めきれないというのです。確かに、首に石臼をつけて海に投げ込むとか、手足を切るなどと聞くとぞっとします。しかし、もちろんイエス様は文字通りにこれらのことをしろと命じておられるのではなく、大げさな表現を用いてつまずきの問題の深刻さを伝えようとしておられるのです。前回の箇所では、イエスは神の王国における価値基準はこの世のものでは違うということを教えられました。この世では取るに足らない、無価値だと切り捨てられるような人は、神の目には高価で尊い者なので、ゆめゆめぞんざいに扱ってはならない、ということをはっきりと教えられました。ですから42節のポイントも、この文脈で考えるべきなのです。中世のヨーロッパでは、身分に応じて刑罰が違いました。たとえば王様が農民を殴っても無罪でしたが、逆に農民が王様を殴りつけたら死刑になることもありました。つまり、相手が偉ければ偉いほど、同じ犯罪行為でも刑罰が重くなるのです。平民が王様を殺しでもしたら、ただの死刑では済まされず、それこそ首に石臼を結び付けて海に投げ込むぐらい話になったことでしょう。逆に無価値だと思われる人がどんな目に遭っても誰も気にしなかったのです。イエスの42節のポイントは、王様とか教皇とか、そういう偉い人を侮辱した時に課されるような極刑が、世の中で一番無価値だと思われる人を躓かせたときにこそ課されるべきだ、一番小さな人の価値は実は王侯貴族にも等しいものだ、ということを示して私たちの価値の転換を促そうとしているのです。厳しい言い方をすれば、小さな者を軽んじる人、馬鹿にするような人には神の王国には居場所はないということです。これは私たちの世界の持つ価値観を猛烈に揺さぶる教えなのです。
では、次の43節から49節までの教えについてはどうでしょうか。これらの教えは、しばしば罪と戦うためには手足さえ失う覚悟をしなさい、それほど罪との戦いは厳しいのだ、というような意味合いで語られます。でも、いくら誇張とはいえ、手足を捨てろとは言い方がきつ過ぎると感じられるのではないでしょうか。しかしこれも、当時のユダヤ社会では実際に手足を失っている人が少なくなく、そうした人たちは社会的な不利益や偏見に苦しんでいたという現実を考えるなら、違った意味合いが浮かび上がってきます。当時のユダヤ人の人々の間では、手足を失った人は神の国に入れないのではないか、と思われていたので、手足を失っても神の国に入りなさい、というイエスの言葉は矛盾しているように響いたということです。ユダヤ社会では、片手を失った者、片足を失った者、片目を失った者は神に受け入れられない人だと見なされる傾向がありました。実際、旧約聖書のレビ記には体に障害のある者は祭司になれないという規則が書かれています。そのために、これは本当にあった話ですが、自分の兄弟がエルサレムの大祭司職に就くのを妨げるために彼の両耳を切り落としたという人物がイエスより100年ほど前にいたのです。ですから、イエスの「手足を切り落とせ」という教えは、たとえ言葉の綾であっても、とんでもないことだと思うユダヤ人は少なくなかったでしょう。しかしイエスには、そのように体に障害を負った人を見下してはならない、という思いがあったように思えるのです。彼らを低い者のように扱って彼らをつまずかせるぐらいなら、自分の手足を切って彼らと同じ状態になってでも彼らの気持ちを理解しなさい、そうイエスは教えておられるということです。ここにも、神の王国ではこの世の基準とは違う価値観を持たなければならない、この世ではハンディキャップと見なされることも神の王国ではそうではない、そのようなイエスの教えがあるのです。
イエスはこうした大げさともいえる言い方をしてまでも、小さな者が神の王国に入るのを妨げてはならない、なぜなら神の王国はそうした者たちのためのものだからだ、神はそれらの人々のことをとても大切に思っておられる、そう伝えようとしたのです。こうした小さな者たちを軽んじ、躓かせるような人たちを待ち受ける裁きの厳しさをもイエスは強調しています。46節に「ゲヘナ」という言葉がマルコ福音書では初めて登場しますが、ゲヘナとはエルサレムの外にあるごみ捨て場のことでした。そこではごみを燃やすために絶えず火が燃やされていました。小さな者たちを躓かせるような者は、ゴミ捨て場送りになるとイエスは厳しく警告しておられるのです。
50節も同じことを言っています。クリスチャンは「塩」に譬えられています。塩は、食物を腐敗から守り、鮮度を保つ働きをします。クリスチャンの役割も、社会の腐敗を防ぐこと、特に平和を保つということにあります。その役割を失ってしまうと、クリスチャンの存在意義はなくなってしまいます。ですから私たちは常に平和づくりのために、和合のために働くべきなのです。
さて、続いてイエスは離婚の問題について教えられました。これはイエスがイニシアティブをとって教えたというよりも、イエスを陥れようとするパリサイ派たちの挑戦に対して答えたものでした。今も昔も、「離婚」について語るということは宗教家にとって大変難しいものです。私自身もこの問題の難しさを垣間見せられたことがありました。私がイギリスに留学中のことでしたが、あるイギリス人の熱心なクリスチャンのご婦人とバスの中で話をしていた時のことでした。彼女はアメリカにも長く暮らしていた経験がある方だったので、アメリカの福音派について話をしていました。私はその時、「アメリカ人のクリスチャンは、中絶や同性結婚についてはあれほど猛烈に反対するのに、なぜ離婚のことは問題にしないのですか?離婚については、これほど明確なイエスの教えがあるのに」と話しました。私は決して意地悪な質問をしようと思ったのではなく、素朴な疑問として語ったのですが、その私の言葉を聞いたそのご婦人は顔を真っ赤にして怒られました。「あなたは、あの地獄のような状態を我慢しろというのか、なんてひどいことを言うのだ」というようなことを言われました。バスで回りの人も聞いている状況だったので、私もその反応には相当動揺してしまいましたが、しかし熱心なクリスチャンにとってこの問題は触れてほしくないことだったのかもしれません。アメリカは、一時期は二人に一人は離婚するとまで言われていた離婚大国ですので、聖書の教えに忠実だとされる八千万人とも言われる福音派の人の中にも離婚を経験している人たちは少なくないはずです。実際に離婚を経験した方は、トラウマになるほど辛い経験をしてこられたことでしょう。そうした方にイエスの教えを指摘するのは傷口に塩を塗るようなものだ、あまりそうしたデリケートな問題にはズカズカと踏み込んでほしくない、そういう思いがあるのだと思います。
イエスについて離婚のことを尋ねたパリサイ派にも、実はこのような狙いがありました。彼らはイエスが離婚に反対していることを知っていて、それをあえて民衆の前で公言させることで、離婚を当たり前だと思っているユダヤ人たちにイエスの教えは厳しすぎる、ついていけないという印象を持たせることを狙っていたのです。ですから、これはイエスにとっても決して簡単な問いではありませんでした。この問題について尋ねられたイエスは、いつものように逆に問い返すということをなさいました。「モーセはあなたがたに、なんと命じていますか」、つまり聖書はなんと教えているか、そのように問うたのです。パリサイ派たちは聖書をよく知っていますから、正しい答えをします。モーセは離婚を認めたと。その箇所を読んでみましょう。申命記24章1節から4節までです。
人が妻をめとり夫になり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、彼女が家を出、行って、ほかの人の妻となり、次の夫が彼女をきらい、離婚状を書いてその女に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいはまた、彼女を妻としてめとったあとの夫が死んだ場合、彼女を出した最初の夫は、その女を再び自分の妻としてめとることはできない。
ここでのモーセの教えのポイントは、離婚を言い出せるのは男性側だけだということです。女性から離婚を持ち出すことは認められていませんでした。また、「何か恥ずべき事」というのも非常にあいまいで、どうにでも解釈できてしまう恐れがあります。実際、当時の文献を見ますと、「もっときれいな女性を見つけた」というとんでもない理由でも離婚が認められていたのです。このような男性絶対優位の状況で、離婚を認めないということは男性の特権を失わせることになります。イエスが離婚に反対したら、怒る男性が少なくなかっただろうことは想像に難くありません。しかし、イエスはご自分の主張を曲げませんでした。
イエスはここで、モーセの教えは神の本来の意図ではなく、イスラエルの人たちの罪深い性格のゆえに、モーセがいわば譲歩として許した教えに過ぎないと指摘します。イエスは申命記のモーセの教えではなく、さらにさかのぼって人類が創造された時の神の教え、創世記の記述に注目するように促します。結婚とは神が定めたものであり、結婚によってふたりは一体となる、直訳すれば「一つの肉となる」とあります。離婚とは、神が一つにしたものを二つに分けることになるので、そうであってはならない、これがイエスの教えでした。このことをイエスは公衆の面前で教えられました。
しかし、弟子たちはこのイエスの答えに納得できなかったでしょう、家に入ってイエスと弟子たちだけになったときに、この問題についてイエスのさらなる教えを請いました。弟子たちは、むしろパリサイ派の方に近い意見だったのでしょう。離婚を認めないイエスに反発する気持ちがいくらかあったのかもしれません。そこで離婚して、それから他の人と再婚するのはどうなのですか、とイエスに尋ねました。イエスの答えは同じでした。男が妻を離縁して、ほかの女を妻にすることは罪になると言われました。イエスはここで、これは男だけでなく、女性の場合も同じだと言われました。当時のユダヤ社会では、特別身分の高い女性以外は女性の方から離婚を言い出すことはできなかったのですが、イエスは女性が夫と離縁して別の男性と結婚するのも同じことだ、と指摘しました。これは、まさにバプテスマのヨハネが批判したケースでした。つまりガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは妻を離縁して別の女性と再婚しましたが、このヘロデが再婚した女性も実は夫がある身でありながら、夫と別れてヘロデと再婚したのです。彼女の前の夫との子どもが、あのサロメだったのです。ですからイエスはここで、ガリラヤ領主のヘロデ夫婦はどちらも同じ罪を犯しているということを明言したのです。これはバプテスマのヨハネがヘロデに処刑されたことを考えれば、政治的に大変危険な発言だと言えます。
ともあれ、イエスは明確に離婚に反対の立場を取られました。これは現代に生きる私たちにはなかなか受け入れがたいことかもしれません。とくに、家庭内暴力を受けて地獄のような結婚生活を送っている人には、あまりにも酷な言葉に響くこともあるでしょう。私も、これはイエス様のおことばなのだから、ともかく離婚はだめなのだ、というようにしゃくし定規に受け止めるのは的を外している気がします。むしろ、主イエスは神の王国、天国の状態に、私たちのいまの状態を近づける努力をしなさい、と教えておられるように私には思えます。天国では、私たちは主にある兄弟姉妹と永遠に共に過ごすことになります。性格の不一致だとか、相性が合わないから別れましょう、というのは天国ではあり得ないことなのです。そのような神の国、天国に召されている私たちはこの世の生活で、違いを乗り越えて愛し合う、受け入れ合うことを学ぶ必要があります。人間の様々な人間関係の中で、他人同士が一つの家族として暮らすようになるという結婚は、そうした天国での永遠のあり方を学ぶ最良の機会の一つでしょう。もちろん、どうしても結婚しなければならないわけではありません。イエス様も使徒パウロも独身で過ごされたので、結婚しなくてもキリストの愛を学ぶ道はあります。しかし、結婚するという道を選んだならば、その結婚を天国的なあり方を学ぶ道として重んじなさい、とイエスは教えておられるのです。日本でも離婚は当たり前になりつつありますが、イエスの教えは私たちに今一度結婚の神聖さを深く考えさせるものです。
さて、13節からはまた別のテーマに移ります。群衆が子どもたちをイエスのもとに連れてこようとするのを、弟子たちが妨げようとしたことをイエスが叱ったという場面です。先の9章でも、イエスは子どもを呼び寄せて、人より偉くなることを目指していた弟子たちに、むしろ人に仕える生き方を教えられました。このような文脈で子どもを例に引いたのは、イエスの時代において子どもとは地位の低い人の典型、シンボルだったからです。この点は、子どもを大切にし、子どもであることはむしろ有利に働くことさえある今日の世界とは考え方が大きく異なるので注意が必要です。神の王国とは、子どものような小さな者、身分の低い人のために喜んで働く、喜んで仕える、そのような心根を持った人たちが集まる世界なのです。その有様は私たちの生きる世界とは大きく異なります。私たちの世界では、偉い人のためには人々が言われなくても先回りして、つまり忖度してその人のために働きますが、身分の低い人がそのためにどんなに苦しんでいようがそうした人の苦しみは切り捨ててしまう、そういう時代です。森友公文書の改ざんを命じられ、良心の呵責に耐えられずに自殺した赤木さんのような人を生み出してしまう社会です。しかし、神の王国はそのようではないのです。
話を戻しますと、弟子たちはイエスのところに子どもたちが来るのを妨げようとしました。今の時代では、子どもがスターにサインを求めにやって来ると、人々はそれを微笑ましいものと見て、子どもを優先的にスターに会わせてあげようとするでしょう。しかし、イエスの時代では子どもは取るに足らない者のシンボル、象徴でしたから、そんな小物が大先生に近づくのを良しとしない雰囲気があったのです。今風に言えば、セレブに一般ピープルが近づくな、という感じでしょうか。しかし、イエスはそのような弟子たちの姿勢をたしなめて、神の王国とはこのような小さな者たち、この世の基準では取るに足らない者たちのものなのだ、ということを改めて教えられました。それからイエスはこう言われました。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。
ここでイエスのおっしゃっているポイントを間違えないようにしましょう。イエスは、神の国に入るためには大人の心を捨てて、子どものような天真爛漫で純粋な心を取り戻さなければならない、と教えたのではありません。ピーターパンシンドロームという言葉があります。これは大人になるのを拒否し、いつまでもピーターパンのように永遠の少年であり続けたいと願う心理状態のことですが、イエス様はピーターパンシンドロームを肯定したのではありません。むしろ子どものように神の国を受け入れるとは、自分を小さな者として、取るに足りない者として神の前にへりくだって神の支配を受け入れる者、ということです。それは、誰が神の王国で一番偉くなるか、一番出世するのかということを論じ合っていた弟子たちへの強烈な批判、目を覚ましなさいという叱責の言葉なのです。
3.結論
まとめになります。今回はつまずきの問題、離婚の問題、そして子どもというテーマからイエスが神の王国にふさわしい生き方、人間性はどのようなものであるのかを教えられた場面を学んで参りました。神の王国では、この世の基準では取るに足らないような人が非常に重要な人として扱われます。ですからそのような大切な人をぞんざいに扱い、神の王国に入るのを妨げるような人は災いです。私たちはこのイエスの教え、警告を深く胸に刻む必要があります。また、来るべき神の王国において私たちは、様々な人たちと個性や性格の違いを乗り越えて永遠の時間を過ごしていくことになります。私たちのこの世の生は、こうした来るべき世の生のための練習の場であるとも言えます。特に結婚は神が定めたものであり、こうした神の王国の人と人とのあり方を先取りするような非常に重要な人間関係です。ですから結婚は本当に重んじられなければならないし、良好な関係を維持するための努力を惜しんではならないのです。このように、私たちのこの世での人生は、永遠の人生の準備となるとても大切なものです。私たちは利己主義、自己中心性を乗り越えて、神と人とに仕えることを喜ぶ、そのような人間性を身に着けていく必要があるのです。そのような人へと私たちを変えてくださる聖霊を豊かに与えてくださるように祈って参りましょう。お祈りします。
私たちを神の王国を受け継ぐために召し出されたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美いたします。仕え合う人々のための王国にふさわしい人間に成長できるように、日々私たちを御霊を通じて導いてくださいますように、切に祈ります。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン