* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。
本日の聖書箇所は預言者エリヤが「よみがえりの奇跡」を行った箇所です。しかし、この聖書箇所にはこだわらず、エリヤという預言者は何をしたのか、またその後、エリヤはどのような人物として見られるようになったのか、もあわせ見ていきたい、と思います。
まず最初にエリヤが活躍した時代背景を概観します。エリヤが活躍したのはBC9cの中期です。北王国イスラエルの王はアハブとそのあとのアハジヤの時代です。この時期の大部分はアハブ王の時代です。北の十部族によって形成されたイスラエル王国は南王国ユダに比すれば、経済的には豊かな地でしたが、王位継承が安定せず、BC876に軍人オムリがクーデタにより王となりました。これがオムリ王朝と呼ばれています。オムリは有能な政治家であり、近隣の地を支配下に置くとともに、有力な外国とは婚姻政策により連携し、貿易も拡大しました。当初は西ヨルダン川の中ほどのティルツァに居を定めましたが、その後ティルツァの南西のサマリヤに移りました。この町は南王国のエルサレムに対抗して造られた町です。またガリラヤ湖の南西にあるエスドラエロン平原にあるエズレルにも王宮を持っていたと言われています。オムリは国内的にはイスラエル人とカナン人の同化政策を基本としていましたのでカナンの地場信仰であるバアル信仰を公認しました。このバアル信仰はそもそもはフェニキアの北のウガリット地域の信仰がフェニキアを経由してカナンの地に入ってきたものです。豊饒を願う農業神信仰です。サマリヤにはヤーウェ信仰とバアル信仰が並列する状況になりました。オムリは外交面では地中海沿岸のフェニキア都市国家とも善隣外交を行い、息子アハブの妃としてフェニキアの都市ツロの王エテバアルの娘イゼベルを迎えました。イゼベルは気の強い女性だったようで、優柔不断のアハブに強引に決断をせまる場面もあったようです。このイゼベルはツロにおける信仰を持ち込みました。オムリの後をついだアハブはこのオムリ王朝の第二代の王になりますが父オムリの政策を踏襲しました。宗教的には宗教混淆政策、外交的にはシリアにおけるアラム人国家を当面の敵とし、他の国とは善隣外交、軍事的には富国強兵策を採用しました。BC853にはシリアとも連携し、強大になりつつあったアッシリヤのシャルマネセルIII世と戦いますが、その中心的勢力はアハブ王のイスラエル軍でした。とりあえずはアッシリヤ軍を退却させることができたようです。アハブのあとはアハジヤ、ヨラムと続きますが支配下にあったモアブの離反など勢力は漸次低下し、やはり軍の指揮官エヒウのクーデタによりBC842、オムリ王朝は滅びます。いずれにせよ、エリヤが活躍したアハブ、アハジヤの時代はオムリ王朝の下で経済的に繁栄した時期にあたります。今で言えば、安定した経済成長を遂げていた時期という訳です。しかし、宗教的には、地場信仰とヤハウェ信仰の混淆が公然と認められ、むしろ国はバアル信仰を推奨するような状況でした。ヤハウェ信仰もサマリヤで金の牛を拝するようないかがわしいものでした。
このようななかでイスラエルの伝統的なヤハウェ信仰を復活すべきだ、と声をあげたのがエリヤです。列王記上17:1には「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った」とあります。ギルアデはヨルダン川の東部ですが、カナンの地のような肥沃な地ではありません。むしろ、荒涼とした地ですが、産業は牧畜です。この地は、イスラエル十二部族のうち、ガド族に与えられた地です。民数記32章によれば、ガド族は牧畜に良い土地だということでこの地に住みたいと言い、カナンの地に侵入することを拒みました。結局、カナンの地に入って戦いはするが、このギルアデに戻ってきて住み着く、ということで妥協した土地です。この事があり、ガド族は真のイスラエル民族ではない、とされていました。従って、この地も、信仰的には純粋なヤーウェ信仰ではない、と見られていました。出身の町、ティシュベはギレアデの中部ヤベシ・ギルアデの南です。アハブは王ですからその時はおそらくサマリヤに居た、と思われますから、エリヤは信仰的にあやしい、と思われていたギルアデの地から、ヤハウェ信仰を鬻(ひっさ)げて、都に来たという訳です。このティシュベには預言者の学校のようなものがあったのかもしれません。エリヤの名前は「神、主(ヤハウェ)」という意味です。エルが神で最後のヤはヤハウェのことです。アハブ王は各種宗教を並列的に認める政策を展開していましたが、一応自分はイスラエル信仰に立っている、と思っていましたから、預言者集団からエリヤが来た、ということだと会わざるを得なかったと思われます。神学校の学長がなにか言いたいことがある、というので大統領に会いに来た、というところです。アハブは性格的にも弱い面もあり、自分の宗教政策に後ろ暗い点を感じていたのかもしれません。
しかし、エリヤが言い出したことは強烈です。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」と言うのです。「主は生きておられる」と言う表現は、「神様が為されることです」の意味であり、確実に現実化する、ということを意味しています。「神かけて誓って」ということです。サムエル記上と列王記上にのみ出てくる表現です。繁栄していたオムリ王朝二代目のアハブの時代になんと三年間の飢饉がくる、というのです。そして本当に飢饉になってしまったのです。これはオムリ王朝衰退の契機になり、その後、国の勢いは回復せず、オムリ王朝の崩壊にまで至るのです。わが世の春みたいな浮かれた調子でいると、神様は強烈な警告を発します。経済的に豊かな状態になると、宗教多元主義になり、倫理が低下し、すべてが相対的になってしまいます。そうすると神への恐れ、を失い、人間の自己過信に落ち入ります。バベルの塔を築いていくことになるのです。神様は多くの場合、自然の力をも使い、人間に警告を発します。自然災害自体はそれほどの災害にならないようなものであっても人間の傲慢さによって大災害になってしまう、ことは枚挙にいとまがないほど沢山あります。人間が神への恐れ、自然への恐れを持って居たらこんな馬鹿なことをしないだろう、というようなことはこの世にはよくあります。原発などその最たるものでしょう。廃棄物をどうするかもわからない時に、科学は解決の道を見出すだろうと信じて大々的に始めちゃったのです。この聖書の時代でも、エリヤがこのような神の警告を告げ知らせているのに、アハブは宗教政策を変更する訳でもなく、飢饉が猛威を振るうままにしたようです。また、この箇所は宗教多元主義に対し、私たちはどうするべきかを考えさせる箇所でもあります。100%の信仰的確信と他宗教への寛容がどう両立するかという問題です。ここではただ問題の指摘に留めます。
17:2-7までは「神、養い給う」というテーマのところで教会学校でもよく話題に取り上げるところです。前半部分はこの飢饉のなかで神様は烏が食べ物を運ぶというやり方でエリヤを養った、という話です。場所はケリテ川のほとりです。ヨルダン川の中ほどにあり、東からヨルダン川に流れている小さな川です。エリヤの出身地ギルアデのティシュベの若干南です。そこにいるエリヤに朝と夕二回、烏がパンと肉を運んできてくれた、というのです。水はケリテ川の水を飲みました。ここで興味あるのは烏です。レビ記11:15では「烏の類全部」が忌むべきもので食べてはならない鳥とされています。また、例のノアの方舟のところにも烏がでてきます。創世記8:6-7です。「四十日の終わりになって、ノアは、自分の造った箱舟の窓を開き/烏を放った。するとそれは、水が地からかわききるまで、出たり、戻ったりしていた。」とあります。このあと、鳩を放ちます。烏は全く役に立たなかったのです。烏は食べるのを禁止され、神の祝福を受けられない鳥とされていたこと、またノアの洪水のところでは、探索の役にも立たなかったのです。即ち、みんなから役にも立たないばかりか忌むものとされた烏が、この飢餓の中、エリヤをちゃんと養う手助けをしたというのです。神様は見るからに役にも立たないものを役立てる、という訳です。
次いで、17:8-16はエリヤがやもめに養われる話です。烏に養われるのも長続きせず、川が枯れてしまった時、主の言葉でシドンのツァレファテに行くことになります。ツァレファテはフェニキアの二つの都市ツロとシドンの間くらいに在る町で、シドンの属領です。シドンはアハブ王の妃イザベルの出身地です。シドンの神はメルカルトですがこれはバアル信仰の系列に属します。エリヤは町の門に着くと、たきぎ拾いをしているひとりのやもめに声をかけて、水差しに少し水を入れて飲ませてくれ、といいます。たきぎでも、たきぎを切り出した後の小枝を拾うようなことをしていたので、やもめだとわかったのでしょう。夫が戦死したのか、病死したかして嫁ぎ先から追い出されたのだろうと思われます。夫の弟が妻としてくれると言うこともなく、子供を連れて家を出て行かざるを得なかったようです。そして彼女が水を取りに行こうとしたところで、エリヤは「一口のパン」も持ってきてください、と言います。さすがにこのやもめも、エリヤのずうずうしさにあきれて、17:12で「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです」と言います。このやもめはこの飢饉のなかで乞食のような生活も続きそうになく、息子とともに死のうと決めていたようです。ここで死ぬ、という言葉は「mu:t」ということばであり、「死の状態となる」と言う意味であり、自殺を意味しているのではなく、「確実に死ぬ」ということを言っています。餓死のことかもしれません。このやもめが「あなたの神、主は生きておられます」という言葉を使っていることは驚きです。これに対しエリヤはパン粉は尽きず、油もなくなることはない、と言います。事実、家族中で食べても尽きなかったのです。新約聖書にもイエス様が尽きないパンの奇跡を行った話が出てきますが、ここでのエリヤの話はその先駆けであったと言えます。後にみるように新約聖書でエリヤと主イエスは並列的に扱われる場合が何度もありますが、これはそういう伝承のスタートだと言えるでしょう。烏によってとかやもめによってとか、イスラエルの通常の感覚から言えば、取るに足らないものにエリヤは養われた、というのです。神様が奇跡的な業を為す時、このような世の中から低く見られている者を通して行われる、ということは肝に銘じて記憶しておくべきことと思われます。
そして17:17から17章の最後までがこのツァレファテのやもめの息子の復活の話です。この女性の息子が病気で死んでしまいます。彼女はエリヤに「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」という、いやみともとれる言葉をはきます。「神の人」と呼びかけているところをみると、本当はエリヤがこの子を死なせないようにしてくれることに期待を掛けていたのかもしれません。エリヤは子供をかかえ、屋上の部屋に入り寝台に横たえて祈りました。エリヤは「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか」とこちらも文句のを言うような祈りをします。いずれも典型的な模範的信仰者の祈りとはいえません。しかし、神様はこのような祈りも許容してくれる、ということを知るべきです。なんでも言いたいことを祈っているうちに、あるべき祈りに神様が導いて下さる、という事なのだと思います。そしてエリヤが三度、身を伏せて祈ると「その子は生きかえった」のです。そして、エリヤはその子を母親に返し「ご覧、あなたの息子は生きている」と言います。これに対し、この女は「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」と言い、エリヤに対する全面的信頼を表白します。もう一度エリヤを「神の人」と呼びます。
このように死人が甦る話は他にもあります。このエリヤの弟子はエリシャと言います。やはり偉大な預言者です。列王記下4章にはエリシャが死人を甦らせた話が記されています。シュネムの女という子のない女がエリシャの預言で子を産みますが、その子が亡くなってしまいます。その女はエリシャに「私があなたさまに子どもを求めたでしょうか。この私にそんな気休めを言わないでくださいと申し上げたではありませんか」と嫌みのようなことを言います。この点もツァレファテのやもめに似ています。しかし、エリシャがその子に身を伏せたりすると子供の体が暖かくなり、最後に子供の上に身をかがめるとその子が7回くしゃみをして目を開いた、と言います。また新約聖書ではヨハネ福音書11章にラザロの復活の記事が出てきます。主イエスに香油を塗ったベタニヤのマリヤと姉マルタの兄弟ラザロの話です。ラザロは病気で亡くなります。ここに来た主イエスに向かって姉マルタは「主よ。もしここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と後悔のような言葉を吐きます。主イエスは涙を流されます。そして墓の石を取り除けさせ「ラザロよ。出て来なさい」と言うと、ラザロは長い布にまかれたままでてきます。復活です。これは明らかに主イエスが、自らに起きることを象徴した出来事です。このように死者が甦る話は、そのよみがえりをとりなす人物のいわば決定的場面で起きています。復活の奇跡は奇跡の中でも、決定的、例外的、最終的なものと考えられていたことがうかがえます。主イエスの復活は、これらの「死者の復活」とは何が違うのでしょうか。私は主イエスの場合は霊的死も経験されたが、他の場合は肉体的死を一時的に経験した、ということで「死者の蘇生」と言うべきものです。一時的な肉体的死であり「三途の川の手前で戻ってきた」というような話だと思います。霊的死は「黄泉(死者の世界)」に行くことです。イスラエル信仰では「霊的死」が本当の意味での死であり、肉体的死は本来の死の入り口のようなものです。聖書での奇跡は、人間が神の力を信ずることができるように神様が特別に起こす恩寵の業です。いくら科学的な説明をしても、今一つ、合点がゆきません。最後の所、「やはり不可解」と言わざるを得ません。そこは神の業としか言いようがありません。そんなんだったら最初から、聖書の語っていることをそのまま奇跡として受け止める方が良い、というのが私の奇跡理解です。
もう一つ、「神の人」のことを申し上げなければなりません。ここで「神の人」と訳されているのはヘブル語では「i:sh erohi:m」であり、文字通り、「神の人間」です。この表現はそもそもはモーセに対し使われた言葉です。申命記33:1に「これは神の人モーセが、その死を前にして、イスラエル人を祝福した祝福のことばである」とあります。士師記やサムエル記上では神の使者の意味でも使用されています。そして列王記上12:22では預言者シェマヤが「神の人」と呼ばれています。彼は北王国と戦おうとした南王国の指導者に同じイスラエルの中で戦うな、という主の言葉を告げます。これにより南北両王国の戦いが避けられました。13章には名前のわからない「神の人」が登場し、北王国の王ヤロブアムに警告的言葉を発します。祭儀において律法をちゃんと守らなかったからです。これがその後ずっと「ヤロブアムの罪」と呼ばれることになります。そしてエリアが「神の人」と呼ばれるようになります。その後継者のエリシャも「神の人」と呼ばれます。要するに偉大な預言者を指すことばになるのです。ネヘミヤ書12:24や12:36ではダビデが「神の人」とされています。外典ギリシャ語エズラ記でもモーセが「神の人」とされています。新約聖書でもテモテの手紙でこの言葉が使われています。第一テモテ6:11では敬虔な信仰者を「神の人」と呼んでいます。第二テモテ3:17では信仰者全般を指して「神の人」と言っています。旧約聖書ではモーセ、エリヤ、エリシャのような偉大な預言者を指す言葉として「神の人」と言われていたのが新約聖書では敬虔な信仰者のことをさして使用するようになっています。しかも例外的な利用に留まっています。福音書にはこの言葉はありません。旧約での使用方法が例外的にではありますが、大きく拡大使用されるようになった、と言えるでしょう。主イエスはモーセ、エリヤと並べて偉大な預言者として見做されている場面もありますが「神の人」という表現はされていません。むしろ主イエスには「神の子」という表現が使われます。この差をどう理解するのか色々な考え方はあろうかと思いますが、私は「人となられた神」と「神に近い者とされた人」の差ではないかと考えて居ます。「神の子」主イエスは「神が人となられた」のであって偉大な預言者が神に近い者とされたのではない、ということです。私たち、キリスト者は主イエスを偉大な預言者として崇敬しているというのではなく、三位一体の神として信仰の対象にしているのです。この差は、キリスト教とユダヤ教を分かつ基本的な点でもあります。
さて、エリヤの話に戻します。列王記上18章は有名なエリヤとバアルの預言者との対決の話です。飢饉の三年目に主なる神は雨を降らせる、とエリヤに告げます。アハブ王は部下のオバデヤと手分けして水を捜しに出かけます。馬や騾馬(らば)を生かしておける水がみつかるかもしれないという期待です。オバデヤはその途上でエリヤに会います。若干の会話があった後、エリヤは王の前に再び出ることになります。アハブはエリヤに対し「イスラエルを煩わすもの」と非難の言葉を吐きますが、これに対しエリヤは「あなたの父の家こそそうです」と言います。あなたの父の家というのはオムリ王朝のことです。さらには、偶像礼拝を受け入れた北王国初代の王ヤラベアムの家系ということまで広げて意味しているのかもしれません。煩わす、と訳されているのはヘブル語では「a:kar」でトラブルを起こす、の意味です。口語訳ではイスラエルを悩ますもの、と訳されていました。アハブ王にとってはヤハウェ信仰を強調し他の宗教を止めるべし、と言っているエリヤが、トラブル・メーカーです。エリヤにとってはヤハウェの民を止めようとしているアハブこそイスラエル共同体にトラブルを持ち込む者だということになります。直接の犯人はバアル信仰の推進者イゼベルです。
エリヤはこのイゼベルと食事を共にしている450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者との対決を申し出ます。こちらは一人です。アシェラという神は、女神でバアルという男神と対となっている神です。農業豊饒神です。バアル信仰と共にカナンの地に根付いていた地場信仰です。そもそもはフェニキヤの方から来た神ですので、イゼベルはバアル信仰の一つとしてアシェラ信仰もしていたと考えられます。彼らをカルメル山に集めどちらの祈り、叫びに神の応答があるか勝負しよう、というのです。カルメル山はフェニキヤに近い地域です。エリヤが二度目に隠れたツァレファテの方角です。まずバアルの預言者が雄牛を奉げても神の応答のしるしの日は下りませんでした。最後は剣や槍で体を傷つけるような荒い祈りもしますがだめです。
エリヤは十二の石で祭壇をつくり、周りにはみぞを掘りました。四つの水がめに水を満たし、生贄とたきぎに水を注ぎ、みぞに水が満ちるようにしました。そこで祈ると、18:38で「主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。」とされています。民はみなこれを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言ったと記されています。「主こそ神です」はヘブル語では「yahawe: hu: ha-elohi:mu」であり直訳は「主、彼が神」です。ヤハウェこそ全能の神だ、というのです。神の力が示されたからです。「そしてバアルの預言者をとらえ、キションで殺した、とあります。おそらくアシェラの預言者も同じ目に遭ったと思います。ここで使われている「殺した」は「sha:hat」という動詞で、生贄のために殺す意味で使用される言葉です。「殺す」という言葉はヘブル語ではいろいろありますが、此処で使用されているのは宗教的意味での「殺生」です。十戒での「殺す」はイスラエルの同胞を殺すことですから意味がことなります。「ra:tsaha」という言葉が使用されています。そして、雨が降ってきました。カルメル山の頂上で行ったり来たり7度やっていると濃い雲がでてきて大雨になりました。アハブ王は車に乗ってイズレエルに急ぎました。エリヤはその前を走りました。イズレエルはエスドラエロン平原とヨルダン川の間にあり、イゼベルが滞在していた地だと思われます。
19章では、これを聞いたイゼベルの反応がしるされています。19:2によると「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」と言ったとされています。これはエリヤに対する復讐宣言です。“私が、エリヤをバアルの預言者のように殺すことをしなかったら、神の罰が降るように”と言っています。旧約聖書における逆説的表現の一つであり「絶対こうする」という確信的決意の表現です。エリヤはどうしたでしょう。逃げました。途中で「わたしのいのちを取って下さい」と祈るまでのところに行っています。神の御使いが助けます。四十日四十夜ののちホレブ山に着きます。ここはアラビヤ半島の先にあるモーセが十戒を戴いた場所です。「エリヤよ。ここで何をしているのか」という声が聞こえました。激しい大嵐などが起きましたが主はおられず、19:12によると「地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。」と言われています。「かすかな細い声」です。主は、エリヤにダマスコの荒野に行ってハザエルに油注いでアラム王にせよ、言われます。アラムはイスラエルの敵ですから、神様は敵を手段としてイスラエルの罪を罰しようとしているようです。また、エフーに油注いでイスラエルの王とせよ、とも言われます。エフーはアハブの次の次の王ヨラムを滅ぼした軍人でエフー王朝を創設した人物です。また、アベル・メホラの出身のエリシャをエリヤの後継者として油をそそげ、と言われます。イゼベルが復讐を誓っているこの時にはまだ起こっていないことですから、予言的に語っていることになります。これだけ具体的なことは事が起きる前の言葉として理解するのには無理がありますので、事後預言として後に書き足されたと考えても良いと思います。ここで油注ぐことが出てきますが、王の任命、預言者の任命についてこの方式がとられることがわかります。実は大祭司の任命にも油注ぐ儀式が行われます。この油注ぐ、がメシアの語源となったヘブル語の「ma:shaha」です。19:19から19章の終わりまではエリシャの召命の記事です。エリシャは家族に対し、為すべきことをしたうえでエリヤにつき従ったようです。新約聖書での十二弟子の召命のところでは、家族に挨拶もほとんどなかったように書かれています。十二弟子の場合はなにか省略記事があるのではないかと言うのが私の推測です。
列王記上でのエリヤの話はこれで終えますが列王記下に続きの話があります。簡単に見てみます。列王記下1章はアハブの後のアハズヤの時代の事柄です。モアブがイスラエルに背きます。アハズヤは、病気になったところ、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いをたててくれと言います。バアル・ゼブブというのは「蜂の主」という意味であり、後にサタンと同一視されたエクロンの守護神です。名前からしてバアル神の系統です。エクロンはフェニキアに近い平原の町です。アハズヤはエリヤに対し「神の人よ」と呼びかけますがエリヤは一向に王のいう事を聞く様子もありません。エリヤは「毛衣を着て、腰に帯を締めていた」と言われています。アハズヤが五十人隊を次々に送りますがその都度エリヤの祈りにより天から火が下ってきて滅ぼしてしまいます。ここでは神の力は火で表されています。ついにエリヤはアハズヤに死の宣告を行い、アハジヤは死にヨラムが王となります。これがオムリ王朝の最後の王となります。
2章にはエリヤからエリシャへの預言者の後継物語があります。ではこの列王記の記事の後、エリヤはイスラエルの民にどのように扱われてきたのでしょうか。旧約最後の文書であるマラキ書4:5には「見よ。わたしは、 主の大いなる恐ろしい日が来る前に、 預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」とあり、メシアがこの世に来る最後の日の前に預言者エリヤが再び来る、と言われています。マラキはBC5-6cの預言者です。ユダ族が捕囚ののち帰還した頃です。この時までに偉大な預言者神の人エリヤはその再来が期待されるようになっていた、ということがわかります。旧約と新約の間のいわゆる中間期の文書であるマカバイ記Iの2:58には「エリヤは燃え立つ律法の熱情のゆえに、天にまで上げられた」とあり、エリヤと律法が関連付けられています。また「シラ書」別名「集会の書」48:1には「そして火のような預言者エリヤが登場した。彼の言葉は松明(たいまつ)のように燃えていた」とあり、48:12は「エリヤが旋風の中に姿を隠したとき、/エリシャはエリヤの霊に満たされた。彼は生涯、どんな支配者にも動ずることなく、/だれからも力で抑えつけられることはなかった。」とあります。更に、やはり外典の「ラテン語エズラ記」7:109では「エリヤは雨を待つ人々のために、また死人のため生き返るように祈りました。」ともあります。新約聖書ではマタイ17:3でモーセ、エリヤ、キリストが話し合っている場面が記されています。またマタイ17:11によれば主イエスは「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです」と言われています。マラキ書の再来のエリヤの話が一般民衆の中でも期待し、信ぜられるようになっていたことが解ります。マルコ9:13ではイエス様の言葉として「あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです」と言われていますので、主イエスはエリヤの再来とはバプテスマのヨハネのことを指している、とお考えだったように思えます。
キリスト教の時代に入ってからもエリヤは絵画、音楽、小説の主題に取り上げられ今に至っています。エリヤと同じように烏によってパンを食していたと言うエジプトの初期修道士聖アントニウスの話もあります。またヨルダンにアル・マグタスという世界遺産がありますがここはエリヤが生きたまま天にあげられた場所と伝えられています。しかし、われわれキリスト者にとっては、主イエスの再来の時までにまたこの世に来る、と記されている人物ではありません。その意味では過去の人物にすぎません。しかし、あのアハブの時代に敢然とイスラエルの伝統たるヤハウェ信仰に立ち帰れ、と神の言葉を述べた態度は、この後に続く預言者の先駆けとなるものです。そしてアハブの時代の如く、物質的豊かさのみを追い求め、宗教混淆を当たり前とする現代の社会に対しても預言の叫びをあげているように思えます。人間社会の罪の現実は更に深まっている、としか考えられない時、「神の人」エリヤに繋がる我々でありたい、ものです。預言者の声は「かすかな細い声」かもしれませんが、エリヤの頃から、止まらず、伝えられています。祈ります。
(ご在天の父なる御神様、今日はエリヤの生涯を振り返ってみました。エリヤは、オムリ王朝アハズ王の時代に預言者として活動しました。時代は物質的に繁栄した時代でした。繁栄の時代は宗教的混交が起きるのが常です。おそらく、当時は、時代の空気を読まない変人として扱われたに相違ありません。キリスト者が純粋な信仰を貫こうとすると同じ状況に置かれます。どうか私たちを、エリヤの信仰に連なるものとさせてください。それは主イエスの言動に生きて働いています。この世の動きに流されることなく、イスラエル信仰の基本に忠実に、主イエスの教えに忠実に生きることができるよう、知恵と力とそして勇気をお与えください。主の御名により祈ります。アーメン。)