日々新たにされる
第二コリント4章13~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は召天者記念礼拝、先に天に召された兄弟姉妹の方々を覚えながら礼拝するという特別な日です。そのような特別な日だということで、メッセージのための聖書箇所も、昇天者の方々を覚えるのにふさわしい特別な聖書箇所から、とも考えました。しかし、これまで連続説教をしてきた第二コリント書簡の今回の箇所が、奇しくも死者の復活についての箇所で、まさに今日の召天者記念礼拝にふさわしい箇所でしたので、今日もこれまで通りに第二コリント書簡からメッセージをさせていただくことにしました。

キリスト教の宣べ伝える大いなる神秘は、死者の復活です。私たち人間は死すべき存在であり、どんな人も死を逃れることはできません。しかし、死は終わりではないというのが私たちの信じることであり、そのことを何度も何度も聖書から確認していく必要があります。そこで、今日の聖書箇所を詳しく見ていく前に、より広い視点から聖書の教える「死」について、少し考えてみたいと思います。聖書が教える死には二種類があります。第一の死とは、私たちの肉体が滅びること、自然的な死のことです。私たちの体は若い時は元気ですが、だんだん歳を取ると体のあちこちが言うことを聞かなくなります。自分が思った通りには体を動かせなくなっていきます。また、歳を取らなくても、若い時にでも重い病気にかかったり、事故に遭うと、体の自由が利かなくなってしまいます。このように、私たちの体の機能は遅かれ早かれいつか止まってしまいます。そして心臓、肺、そして脳の働きが停止すること、これを私たちは肉体の死と呼びます。

しかし、聖書はもっと恐ろしい死について語ります。これが二つ目の死です。人間というのは、肉体だけでできているのではありません。人間は肉体と霊で構成されている、これが聖書の教えです。肉体と霊との関係は、乗り物と乗り手の関係に譬えられるかもしれません。私たちの霊は、肉体という乗り物に乗っているのです。ですから、肉体という乗り物が事故で壊れてしまったり、あるいは老朽化して使えなくなると、私たちはこの世界において、もはや動けなくなります。活動できなくなります。しかし、だからと言って私という乗り手、わたしの霊そのものは消えてなくなるのではありません。乗り物がなくなってしまった以上、この地上世界にはいられませんが、霊として活動できる世界に移るわけです。ですから、肉体の死がすなわち霊の死ではないのです。そして霊というものは基本的には不死の存在ですが、しかしその霊にも死があると聖書は教えます。では、不死であるはずの霊が死ぬとはどういうことなのか?それは、人間の霊が神のかたちを完全に失ってしまうことを指して死と呼ぶのです。聖書は、私たち人間は神のかたちに創造されたと教えます。これは非常に重要な教えです。私たち人間には、神のかたちが本来備わっているのです。では、霊が神のかたちを失ってしまうとはどういうことなのでしょうか。これはなかなかイメージしづらいかもしれません。しかし、神はそのことを教えるために私たちに肉体を与えたのではないか、とも思えるのです。私たちは霊が老朽化する、あるいは霊が壊れていくということはイメージしづらくても、肉体が老化していく、あるいは肉体が壊れるということはよく分かります。若くても、体を酷使したり、不養生を続ける、つまり体を大事にしないと、体は確実に劣化していきます。これは霊についてもそのまま当てはまります。霊にとってよくないことを続けると、霊にとっての本来の姿、つまり神のかたちに造られたはずの人間の姿がどんどん壊れていくのです。私たちは心に渇きや虚しさを感じると、肉体的なことでその虚しさを埋めようとします。お酒を飲んだり、快楽に溺れたり、ひどい場合は薬物に手を出すこともあるでしょう。そのようなことをすれば一時は心の虚しさはなくなりますが、しかしそれはその人の体に非常な負担を強いますし、もっと悪いことに心の虚しさはもっと大きくなります。霊が傷んでゆくのです。そして人間の霊が神のかたちとは似ても似つかない、変わり果てた姿になってしまうこと、しかも、回復の見込みがないほどまでに徹底的に神のすがたを壊してしまうこと、それを霊的な死と呼ぶのです。肉体の場合と違い、霊は消滅することはありません。霊の死とは、存在するけれど、でも死んでいるというのは恐ろしい状態です。このような霊の棄損、破壊のプロセスは非常にゆっくりと進みます。肉体の老化と同じく、それは一朝一夕にして起こることではありません。しかし、いつかは肉体にも終わりが訪れてそこからは後戻りできないように、霊についてもいつか後戻りできない死が来るのだと、聖書は言います。イエス・キリストの福音は、私たちをそのような霊の死から救い出してくれます。私たちがほんとうに神のかたちを取り戻すことが出来ること、それがイエス様の与える救いなのです。そのことを踏まえて、今日のみ言葉を味わっていきたいと思います。

2.本文

さて、13節は「私は信じた。それゆえに語った」という言葉から始まります。なかなか印象的な言葉ではありますが、しかしどういう意味なのか、分かりづらいかもしれません。これは詩篇116篇10節からの引用なのですが、しかし実際にその箇所を開けて読んでもそれらしい言葉が出て来ません。10節には「『私は大いに悩んだ』と言ったときも、私は信じた」としか書いていないのです。パウロが引用した言葉とは違いますね。では、それはなぜかと言えば、パウロがここで引用しているのはヘブル語で書かれた旧約聖書ではなくて、それをギリシャ語に翻訳した聖書、それは七十人訳聖書と呼ばれるのですが、そこから引用しているからです。七十人訳聖書と、ヘブル語の旧約聖書との間は、微妙な違いがあります。今日はこの点についてはあまり詳しいことはお話ししませんが、旧約聖書の詩篇116篇を見てもここでパウロが引用した言葉が見当たらないのは、パウロはここでギリシャ語に訳された旧約聖書から引用しているからだということを覚えていただきたいと思います。

では、そのギリシャ語聖書に書かれている「私は信じた。それゆえに語った」とはいったいどんな意味なのでしょうか。この詩篇116篇全体を読むと、そこにはある神のしもべの苦難の人生が描かれていて、この一節はその中のちょうど真ん中に書かれています。その神のしもべの人生は、ちょうどパウロが描いた彼自身の人生とそっくりなのです。パウロは4章の8節で、「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」と書いていますが、詩篇116篇の神のしもべも同じようなことを書いています。これはギリシャ語の旧約聖書ではなく、私たちが使っている方の旧約聖書ですが、その116篇3、4節にはこうあります。

死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

このように、詩篇116篇には苦しみに遭いながらも主に信頼し、神のことばを語り続ける人物が描かれています。パウロはおそらく、この人物に自分自身の人生を、さらにはパウロが模範としている主イエスの苦難の人生を重ね合わせたのだと思われます。だからここで、この詩篇の言葉を引用したのでしょう。

さらに言えば、「私は信じた。それゆえに語った」というパウロが引用した言葉は、この詩篇を詳しく調べると少し意味合いが違うようです。ある学者が指摘するように、ここは「私は神に忠実だった。それゆえに神のことばを語った」と訳した方が良いでしょう。このギリシャ語の「ピステウオー」という言葉には信じる、神を信じるという意味もありますが、この文脈では「神に忠実である」という意味の方が合っていると考えられるからです。ですからここでの意味は「私は苦難の中でも神に忠実だった。それゆえ、私は神のことばを語り続けた」ということなのです。パウロとその同労者たちは、この詩篇116篇に描かれている人物、そして主イエスと「同じ信仰の霊」、もっと正確には「同じ神への忠実さの霊」を持っているので、困難な状況の中でも神のことばを語り続けるのだ、これが13節の意味です。

そして、困難な状況にもめげずに福音を語り続けられるのは、パウロにははっきりとした希望があったからです。それが14節にかかれている復活の希望です。その箇所をお読みします。

それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

神は、神に忠実に歩み続けたイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。そしてイエスに倣って神に忠実に歩むパウロたちをも、イエスと共に復活の命へとよみがえらせてくださるでしょう。しかも、イエス様やパウロという並外れた人たちだけでなく、多くの失敗を繰り返してきた弱いコリント教会の人たちも復活の恵みに与らせてくださいます。この14節の「あなたがた」とはコリント教会の人たちのことだからです。ですから私たちも心強いですね。イエス様やパウロのようなスーパーマンだけではなく、私たちと同じような弱さや愚かさを持つコリントの人々も復活の恵みに与るのです。ですから私たちも、先に天に召された兄弟姉妹と共に、この復活の希望を持つことができるのです。

 パウロは15節で、なぜこれほど多くの苦難を経験しながらもパウロが必死に伝道を続けるのか、復活の希望に留まらない、さらなる理由を簡潔に述べています。

すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです。

パウロが伝道をするのは、ますます多くの人たちが福音に触れて神のかたちを取り戻し、そのことで彼らが神に感謝するようになる、感謝するだけでなく、彼らもまた神の栄光を反映するようになる、こうしてこの世界に神の栄光がますます輝くようになるためだ、ということです。

このような希望があるので、パウロは勇気を失いません。勇気を失わない、という言葉は4章1節にも出てきますが、ここでもそれが繰り返されています。そして次に大変有名な、私たちに勇気を与えてくれる言葉が続きます。

たとい私たちの外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされています。

この言葉を深く味わっていただきたいと思います。私たちの肉体は、歳を重ねるごとに衰えていきます。それを逆転させることはできません。私たちのできることと言えば、衰えるスピードをいかに遅らせるか、そのための努力でしかありません。しかし、肉体はそうであっても、霊は違います。私たちの内なる霊、あるいはもっと正確に言うならば、イエスを信じることで神から頂いた内なる新しいいのち、新しくされた私たちの内なる霊は、衰えたり、老化したりすることなく、むしろますます成長していくのです。新たにされていくのです。私たちは肉体が衰えると、もはや自分の肉体的な力には頼れなくなります。その分、私たちは神に信頼し、神により頼むようになります。そうすると、肉体は衰えても、私たちの内なる霊は神との交わりを深くして、むしろ強くなる、新しくされていくのです。老い、肉体の衰えという試練により、霊はむしろ鍛えられ、強められ、そして神との関係を深めていくことができるのです。歳を取ると肉体は衰えるのに、霊はむしろ成長していくのです。私たちの霊の成長というのは肉眼で確かめることはできません。それは神にしか見えないものです。神は私たちの霊の成長を喜ばれ、またその成長を助けてくださっています。この霊の成長というのは無限です。肉体の成長には限界があります。若いスポーツ選手にも、その成長には限度がありますが、霊の成長にはそういう限界はありません。最も初期のキリスト教の教えを保持しているといわれるギリシャ正教によれば、私たちの霊の成長は死んだあと、天国に行った後にも続きます。天国に行ったら、私たちは何もしないで遊んでいるわけではないのです。天国に行ってからも、ますます神のかたちへと成長を続けます。ギリシャ正教で聖人とされる、紀元4世紀に活躍したニッサの聖グレゴリオスという古代教会の教父はこう書き残しています。

そのようなわけで偉大なるモーセは、偉大になりつつも上昇を休みもしなければ、上昇に見切りをつけたわけでもない。神の用意した梯子をいったん登りはじめると、さらに一段上へといつも、自分のいるところから先に登りつづけて、絶え間なく高きところに登る。

このように、あの偉大なるモーセですら、ここで終わりということはなく、天国に行ってからも霊的な成長を続けていくのです。つまり私たちは天国に行ってからも、退屈で困るということはないのです。天国には天国のチャレンジがあり、私たちは今の地上の生涯と同様に、成長を続けるのです。

このような大いなる希望があるので、パウロは今の苦難にもへこたれません。パウロは17節でこう書いています。

今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

パウロは今自分が経験している困難のことを「軽い」と言っています。もちろん、パウロは死ぬほどの苦難を経験したのですから、彼の苦難が軽いはずはありません。しかし、彼が将来受ける栄光の重さに比べたら、今の耐え難いほどの苦難も軽くなってしまうとうことです。また同時に、今パウロが受けている苦難は将来への備えでもあるという意味もあります。「艱難汝を玉にす」という日本のことわざにもありますように、人間の品性が成長するためには、私たちはどうしても苦難を通らざるを得ないのです。何の苦労もない人生は確かに多くの人の理想かもしれませんが、しかしそのように苦労知らずできてしまうと、その人間性が磨かれないのも確かです。また、人の苦しみも分からなくなってしまいます。ですから、パウロは「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と語り、苦難を積極的に評価しています。私たちはこの世で得た財産をあの世に持っていくことはできませんが、この世で獲得した優れた霊性は、あの世に持っていくことができるのです。ですからこの世の苦難の中で霊性を磨くということは、永遠の価値があることなのです。

そして結びの18節になります。パウロはこう語ります。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

私たちの世界を支配する法則は諸行無常です。形あるものはいつかは滅び、肉体的な強さや美しさも一時のものでしかありません。しかし、霊性、私たちの内なる霊は、滅びることなく成長を続けていきます。日々成長し、ますます神のかたち、キリストに似たものへと変えられていきます。ですから私たちは何歳になっても希望を失うことはありません。希望とは、未来があるからこそ持てるのですが、私たちにはこの人生100年時代をも超えた、さらにずっと長い未来があるからです。私たちは目先のことではなく、このずっと長い未来を見据えて今日を歩むべきなのです。この未来はいつまでも続いていくからです。

3.結論

まとめになります。今日は、パウロの手紙の中でもひときわ希望に満ちた、力強い箇所を学びました。パウロは詩篇116篇に描かれている神のしもべ、またパウロが模範としているイエス・キリスト、そのキリストが持っておられたのと同じ霊、つまり神への忠実さの霊を持っているので、大胆に神のことばを語ります。そしてその神の霊は、キリストを死者の中からよみがえらせました。その同じ霊がパウロを、そして私たち一人一人を、死の力から救い出してくれるのです。私たちには永遠のいのちが約束されています。では、今私たちがするべきことは何でしょうか?その永遠のいのちにふさわしい、優れた品性、優れた霊性を磨くことです。その永遠のいのちの重さを考えれば、今の世の中の苦難も軽いものとさえ思える、とパウロは語っています。そして私たちにもその栄光の未来が約束されています。その未来に備えて、私たちもキリストのように生きること、キリストのように愛することを日々学んでいきましょう。先に天に召された先輩たちもそうやって歩んでこられました。そして天国に行かれた今も、歩き続けておられるのです。私たちもまた、生まずたゆまず歩み続けて参りましょう。お祈りします。

「私は神に忠実だった。それゆえ、神の言葉を語り続けた。」パウロを支え、その伝道の生涯を全うさせてくださった御霊なる神様、そのお名前を賛美します。また、先に天に召された兄弟姉妹の信仰の生涯を支え続けてくださったことを感謝します。私たちもその信仰に倣い、神に忠実な歩みを全うしたいと願うものです。どうかその願いを全うさせてください。われらの救い主、主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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