1.導入
みなさま、おはようございます。さて、第二コリントもいよいよ三章に入りました。ここからは、パウロの真骨頂ともいうべき議論が始まります。これまでの1章、2章では、パウロとコリント教会の人々との間のこれまでのいきさつについてパウロが振り返っていました。一度は険悪な状態になったパウロとコリントの信徒たちですが、双方が和解に向けて歩み寄っている、そのような内容でした。しかし、3章からはこれまでとは内容が変わっていきます。ここからパウロはキリスト教の真髄について語り始めます。パウロは、ここではキリスト教とは何なのか、特にこれまでパウロ自身の同胞であるユダヤ人たちが信じてきたユダヤ教とはいったい何が違うのか、ということを詳しく語り始めます。パウロのポイントを一言で言うならば、キリスト教とは聖霊の宗教なのだ、ということになるでしょう。ユダヤ教も神のことば、聖書という聖なる書に基づく宗教です。しかし、キリスト教は文字ではなく、むしろ御霊に基づく宗教なのだ、というのがパウロの主張なのです。しかもそれは旧約聖書に約束されていたことの成就なのだ、ということをパウロは論じていきます。
そしてパウロがこうした本質的な議論を始めるきっかけとなったのが、「推薦状」の問題でした。キリスト教の真髄と、推薦状に何の関係があるのか、と思われるかもしれませんので、少し説明しましょう。古今東西、人々が職を得ようとする場合にしばしば推薦状の提出を求められます。私も同盟教団の教師となるための試験を受ける際に、先輩の先生方に推薦状を書いてもらいました。以前に私が博士課程に進むときにも推薦状を大学院に出しましたし、また一般的に大学の教職ポストを得る場合にも、推薦状の提出が求められます。もちろん誰もが知るような超大物の場合には推薦状は不要なのでしょうが、ある分野においてキャリアが短かったり無名であったりする場合には、推薦状は非常に大きな意味を持ちます。このように、今日においても推薦状というものは、ある人の信用を担保するうえで大変重要なものですが、古代においてもそれは同様でした。古代社会は現代以上にコネ社会でしたから、たとえば有力者に面識のない人が会おうとする場合には必ず推薦状が必要でした。誰が誰を知っているのか、ということは社会を渡っていくうえで極めて重要な事柄だったのです。
では、なぜパウロはここで突然推薦状の話を始めたのでしょうか?ここで再びコリント教会の状況について振り返ってみましょう。コリント教会は、パウロの1年半に及ぶ開拓伝道によって立ち上げられた教会です。コリントで教会が立ち上がった後は、パウロは他の場所で精力的に開拓伝道に励みますが、パウロが去った後にはコリントには別の宣教師たちがやってきました。パウロのすぐ後に来たのがアポロでしたが、そのアポロもコリントを去ると、今度はエルサレム教会と深い関係を持つ宣教師団がコリントに到着しました。当時のエルサレム教会は、12使徒のペテロやヨハネ、そして主の実の兄弟ヤコブによって率いられるキリスト教の総本山でした。そしてコリント教会にやって来た宣教師たちは、自分たちはエルサレム教会から遣わされた、権威ある正統的な宣教団だと自負していました。彼らはエルサレム教会と関係の薄いパウロのことを少し見下していたのかもしれません。コリント教会の信徒たちから当教会の創立者はパウロだと聞かされて、「パウロとはどんな人物ですか?彼は然るべき人物、例えば12使徒の一人から推薦状をもらったうえでコリントに来たのですか?」と尋ねたのでしょう。コリント教会の人たちはパウロからはそんなものを受け取っていませんでしたので、今からでもパウロのための推薦状をもらっておいたほうがいいのではないか、そういう話になったようなのです。その話がパウロに伝わったのですが、それを受けてパウロは今日の箇所を書いています。わずか3節の短い箇所ですが、こうした背景を念頭に入れてさっそくここを詳しく見てみましょう。
2.本文
では3章1節ですが、パウロは「私たちはまたもや自分たちを推薦しようとしているのでしょうか」と書いています。これは何のことかと言えば、パウロはこの前の2章16節で、「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」と語り、その後に、私たちこそそのような務めにふさわしい、と続けています。こうして読むと、パウロは自分で自分を推薦しているかのように聞こえます。しかしパウロは私にはそんなつもりはない、と改めて断っているのです。パウロが自分で自分を推薦しないのであれば、ではパウロは他の人たち、例えばエルサレム教会の重鎮たちから推薦状をもらう必要があるのでしょうか?あるいは、パウロが他の都市で開拓伝道する時に、コリント教会の人たちから、「パウロはコリントで立派に伝道しました」という趣旨のことが書かれた推薦状をもらう必要があるのでしょうか?
いや、そんな必要はないとパウロは推薦状の必要性を否定します。なぜでしょうか?パウロはその答えを2節にこう記しています。
私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。
この、「私たちの推薦状はあなたがたです」というのはとっても感動する言葉ですね。私が立派な伝道者であり、キリストの使徒である証拠はあなたたちなのだ!と言われて、コリント教会の人たちも鼻が高いというか、誇らしい気持ちになったことでしょう。パウロ先生は私たちに厳しいことばかり言うけれど、本心では私たちのことを高く評価してくれていたんだ、と思ったかもしれません。しかし、ここにはちょっとした皮肉があるのでしょう。パウロは、コリント教会の人たちが、新しくコリントにやってきた宣教師たちに影響されて、パウロに推薦状を出してくれるように頼んだとするなら、その彼らに対して「私はあなた方に推薦状など出す必要はない。なぜならあなたがたが私の推薦状だからだ」と言っていることになります。そうです、彼らはパウロが1年半どのように彼らに接し、またどんなに熱心に伝道に打ち込んできたのかを目の前で見て来たのです。彼らはパウロがどんな人なのか、一番知っている人なのです。そのあなたがたが、なぜ今更推薦状が必要だなどと言い出すのか、ということをパウロは暗に指摘しているのです。
さて、少し理解が難しいのが次のパウロの言葉です。「それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです」とありますが、「私たちの心に記されている」というのはいったいどういう意味なのでしょうか。この「記されている」という言葉は直訳すれば「刻み込まれている」となります。これは石板に文字を刻み込む、そういう時に使う言葉なのです。コリント教会の人たちがパウロたちの心に刻み込まれている、それがこの言葉の字義通りの意味です。では、それはいったいどういう意味なのかということは、よくよく考えると難しいですね。ここでは一種の比喩、メタファーが使われているのは間違いありません。文字通りにパウロの心にコリント教会の人々の名前が刻み込まれているとか、そういうことではありません。ここでは、パウロの心とはパウロの伝道者としての働きのことを指す一種の比喩的表現だと言っていいでしょう。パウロの伝道者としての働きはどんなものだったか、それを最も雄弁に示すのは他ならぬコリント教会の人たちなのです。彼らがどんなクリスチャンであるのかで、パウロの働きの質が評価されるということです。
このことに関連して、パウロは第一コリント4章で、キリスト教の伝道者たちの働きは火によって試される、と語っています。そこを読んでみましょう。3章13節から15節です。
各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすのです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
ここで言われている建物というのは、伝道者たちがそれぞれ立て上げた教会のことです。もちろん教会の建物に火をつけてそれが燃えるかどうかを試す、というような意味ではありません。むしろおのおのの教会が試練を耐え抜くことができるかを神はご覧になるので、その試練のことを火に譬えているのです。先ほどのパウロの「それは私たちの心に記されていて、すべての人に知られ、また読まれているのです」という言葉は、したがってパウロたちの働きの実であるコリント教会はすべての人に知られ、見られている、ということです。次の「あなたがたがキリストの手紙です」というパウロの言葉の真意は何でしょうか。これはつまり、キリストご自身がパウロのために推薦状を書いてくださるのですが、その推薦状の中身がコリント教会そのものだということです。ですから、伝道者としてのパウロの信用は、ひとえにコリント教会にかかっているのです。パウロの評価はすべてコリント教会の霊的な状態にかかっているということです。そして、そのキリストの手紙とはもちろんペンとインクで書かれたものではありません。それは「生ける神の御霊によって書かれた」ものだというパウロの言葉は、キリストがパウロのために書いた推薦状は、聖霊によって書かれているということです。これも文字通りに取るとなんだかよく分かりませんが、キリストの手紙、推薦状とはすなわちコリント教会のことだと分かればその意味もおのずから明らかになるでしょう。コリント教会とはすなわち聖霊の実なのです。コリント教会の人々が信仰に導かれたのは、もちろんパウロたちの働きを通じてですが、しかし彼らの心に直接働きかけたのはパウロではなく聖霊だということです。彼らの心に聖霊が働いたからこそ、彼らは信じたのです。パウロの話がうまかったから、巧みだったからではないのです。コリント教会が「生ける神の御霊によって書かれた」というのは、そういう意味です。
その次の「石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである」という下りでは、パウロは新しい、そしてとても大事なことを言っています。「石の板に書かれたもの」とは十戒を指しています。ユダヤ教の大元はモーセの律法であり、モーセの律法のエッセンスを凝縮したのが十戒です。その箇所を読んでみましょう。出エジプト記32章15節と16節です。
モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。
この神ご自身によって十戒が刻まれた石の板、これはユダヤ教にとって最も聖なるものであり、ユダヤ教のシンボルとも呼ぶべきものでした。しかしパウロは、キリスト教は石の板に書かれた十戒に基づくのではなく、人の心に直接、聖霊によって書かれたものに基づくものなのだ、ということを言っています。このパウロの言葉の重要な背景が、私たちが昨年学んだ預言者エレミヤの預言です。その箇所を読んでみましょう。エレミヤ書31章31節から33節です。
見よ。その日が来る。-主の御告げ-その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。-主の御告げ-彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。-主の御告げ-わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
ここでエレミヤが、「エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約」と呼んでいるのがモーセの契約です。モーセはイスラエル人をエジプトから導き出し、シナイ山で神の手によって書かれた石板、十戒の書かれた石版を受け取り、神とイスラエルとの契約の仲介者となりました。しかし、イスラエルはモーセが神から与えられた律法を守ることができず、モーセの契約は壊れてしまいました。エレミヤは、この破られた契約に代わって、神は新しい契約を結ばれるだろう、と預言しました。そしてその新しい契約において、神は今度は石の板に戒めを刻み込むのではなく、信仰者一人一人の心に戒めを刻み込む、と約束されました。そしてその約束の成就が、まさにコリント教会の人たちなのだ、とパウロは語ります。今や神は、聖霊によって信仰者一人一人の心に神の戒めを刻み込んでいるのだ、とパウロは語ります。
これは素晴らしいことですね。でも、同時によく考えると当惑もさせられないでしょうか。コリント教会の信仰者一人一人の心に今や聖霊が神の戒めを書き込んだのだとするなら、なぜコリント教会はこんなに問題だらけなのか、という疑問が生じてしまうのです。コリントの人たちは、まるで神の戒めが何であるのかを知らないかのようです。だから彼らには常に問題が生じ、その問題を解決するためにパウロは第一コリント、第二コリントという長文の手紙を書かなければならなかったのです。この矛盾こそ、パウロ書簡に横たわる核心問題だという気さえします。パウロは異邦人の信徒たち、ギリシア人やローマ人の信徒たちにモーセの律法を教えませんでした。パウロは、彼らにはそれはもう不要だと信じていたからです。モーセの律法に代わる、もっと素晴らしい戒め、聖霊が直接教えてくださる神の戒めがある、それが信者の心に書き記されている、それがパウロが旧約聖書の預言から学んだ信仰でした。ですからパウロはガラテヤの教会やコリントの教会では、モーセの律法を詳しく教えることを断固拒否しました。しかし、コリント教会の実情はそれとは程遠い状態でした。彼らは神の戒めが何なのか、神の御心が何であるのかがよくわからずに、実際の生活の中でどのように神の御心を行うべきか、悩み苦しんでいたのです。このコリント教会の理想と現実のギャップに苦しみぬいたのがパウロだったという気がします。
ここで大胆なことを言わせていただくと、パウロは少し楽観的過ぎた気がします。確かに信仰者すべての心には聖霊が働いていました。聖霊なしには、私たちは信仰を持つことができないからです。しかし、だからそれで十分だということにはならないのでしょう。異邦人の信徒たちはパウロのようなユダヤ教の背景を持っていなかったので、信仰という意味では赤子のような存在です。聖書のことを何も知りませんでした。ですから彼らには手取り足取り、辛抱強く指導してくれる人が必要でした。そうして初めて、彼らは聖霊の導きに従って一人で歩めるようになるのです。しかし、パウロにはそうするだけの時間がありませんでした。彼は地中海全域に福音をくまなく届けるために走り回っていました。ですから、赤ん坊を辛抱強く育てるための時間はなかったのです。この矛盾が最も端的に現れたのがコリント教会で、この教会は問題のデパートのような教会になってしまいました。しかし、これはコリント教会だけが悪いのではありません。赤ん坊が自分のことを一人でできないからといって責められるべきでしょうか?そうではないでしょう。赤ん坊を育てない親にも、いや親にこそ、問題があるのです。
ここから私たちも大事な教訓を学ぶことができるでしょう。信仰者がキリスト者として独り立ちするためには大変時間がかかり、手間暇もかかるということです。もちろん私たちに信仰を与えて育ててくださるのは聖霊ですが、私たち人間のキリスト者にもやるべきことはたくさんあるのです。キリスト教信仰は、洗礼を受ければ終わりではありません。それは単なるスタートラインです。私たちは一生涯学んでいかなければなりません。一生かかっても、十分に学びきれないでしょうから、天国に行った後も学び続け、成長し続ける必要があります。当教会でも、そのような思いをもって、私自身も皆さんも共に、聖書を学び続けていきたいと願っています。
3.結論
まとめになります。パウロは、自分自身に推薦状を出すようにとの要求に対し、自分には推薦状は必要はない、むしろ私の推薦状とは、私が立て上げ育てたコリント教会なのだ、コリント教会の存在こそ、私がどんな働きをしたのかを何よりも雄弁に示すものなのだ、と語ります。そしてコリント教会こそ、エレミヤの預言の成就、モーセによって与えられた十戒の板ではなく、聖霊によって信仰者の心に直接書かれた神の戒めに基づく新しい契約の民なのだと主張します。しかし、私たちが同時に学ぶべきことは、聖霊がすべてやってくださるから私たちは何もする必要はない、ということではないということです。私たちは成長していくために、しっかり学び続ける必要があります。私たちの教会が学び続ける教会であることができるように、祈りましょう。
私たちに聖霊を賜り、私たちの心にその教えを直接教えてくださる神よ、そのお名前を賛美します。今日もパウロの手紙を通じて、様々なことを教えられました。と同時に、私たちはこれからもたくさんのことを学ぶ必要があります。そのための忍耐と知恵とをお授けください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン