1.導入
みなさま、おはようございます。第一コリントからの説教も、今日を含めて残すところあと二回となりました。先週までは15章で書かれている死者の復活と終末について考えていきました。その壮大なヴィジョンが終わって、今日の16章は手紙の末尾、いわばあとがきのような内容になっています。ただ、普通の本でも著者のあとがきというのは重要な内容を含んでいます。私自身もつたない物書きとして本を書かせていただいておりますが、あとがきは一生懸命書きます。ですから、この第一コリントの16章もじっくり学ぶべき価値のある章だと言えます。
16章にはいくつかのことが書かれていますが、はじめにエルサレム教会のための献金について書かれています。この第一コリントの講解説教が終わったら、続けて第二コリントの講解説教に入りますが、第二コリントにおいてはエルサレム教会への献金は大変重要なテーマになっています。ですから、第二コリントの説教の予告編のような意味でも、わずか4節の短い箇所ではありますが、今日の箇所をしっかりと見ておきたいと思います。
エルサレム教会への献金は、パウロの生涯を考えるうえで、とても大事なトピックです。使徒の働きに記されているように、パウロは身の危険をも顧みずにエルサレムに向かい、そこで逮捕されてローマに囚人として護送されます。使徒の働きはそこで終わり、その後のパウロの運命は書かれていませんが、伝承によれば、そのローマでパウロは処刑されたという説と、ローマではいったんは無罪放免となって自由になり、それからスペインまで伝道した後にローマにもどり、そこで迫害に遭って殉教したという説の二つがあります。いずれにせよ、パウロが命がけでエルサレムに上ったことで彼の人生は大きく変わります。では、なぜ身の危険を顧みずにパウロはエルサレムに向かったのかといえば、それはエルサレム教会に諸教会からの献金を届けるためでした。パウロは自分が開拓伝道したアジアやヨーロッパの諸教会を行き巡り、彼らからエルサレム教会への献金を集め、それを届けようとしたのです。エルサレム教会への献金は、パウロにとっては命を懸けるほどの意味があったものなのです。
ですから、パウロという人物のことを理解するために、エルサレム教会への献金について私たちは知っておく必要があります。なぜパウロがエルサレム教会への献金にそこまでこだわったのか、これはとても大事な問題なのです。
皆さんもよくご存じのように、パウロはイエスと会ったことがありませんでした。彼はイエスの弟子ではありませんでした。むしろ、イエスが昇天してから急速に拡大していった教会に危機感を抱き、教会を撲滅しようと走り回るような人でした。パウロは非常にまじめな人でしたから、ローマ帝国から無残に処刑された人物を救世主として拝むような宗教は怪しげなカルト宗教としか思えず、自分の使命は人々を惑わす教会を滅ぼすことだと信じていたのです。さらには、キリスト教会について、特にパウロが気に入らなかったことがありました。それは、教会の中ではユダヤ人がユダヤ人以外の外国人と親しく付き合っていたことでした。当時のユダヤ人たちは、必要最低限のこと以外ではユダヤ人以外とは付き合いませんでした。日本語のことわざに「朱に交われば赤くなる」というのがありますが、ユダヤ人たちは偶像を拝む外国人と付き合うと、彼らの偶像礼拝の習慣に染まってしまい、まことの神への信仰から逸れてしまうということを心配しました。イスラエルは過去に偶像礼拝にはまり込んで失敗したことがありましたが、それは偶像を拝む外国からの影響を受けたためでした。「羹に懲りてあえ物を吹く」、ということわざもありますが、過去の偶像礼拝を反省するあまり、外国との付き合いを控えようという、外国嫌いといってもよいようなメンタリティーになってしまったのです。さらには、当時のユダヤ人はローマ帝国の植民地になっていたという事実があります。ローマから課される高い税金に苦しみ、それに反抗すれば十字架に付けられて殺されるという暴力的な支配、それが我慢できないと考えていたユダヤ人はたくさんいましたが、それが彼らの外国人嫌いをますます強いものにしていました。
そういうユダヤ人の中にあって、キリスト教の教会は多くのユダヤ人からはとても許しがたいようなことをしていました。教会の中では、ユダヤ人は外国人を「兄弟姉妹」と呼んで親しく付き合い、ともに食事をしていました。しかし、ユダヤ人にとって外国人と一緒に食事をすることは大変なスキャンダルでした。今日でもユダヤ人の人はコシャーと呼ばれる特別に調理された食事をします。モーセの律法に従って、豚肉を食べないとか、甲殻類を食べないとか、そういう戒律を厳しく守っているのです。パウロの時代のユダヤたちも、こうした食事規定をしっかりと守っていました。しかし、外国人、つまり異邦人と一緒に食事を取るとなると、このような戒律を守ることは大変難しくなります。異邦人の人々はユダヤ人の食事のルールなど知りませんので、豚肉なども平気で出すわけです。ユダヤ人の側は、「この肉は鶏肉ですか、豚肉ですか」といちいち確認しないと食べれないわけです。そういうのは面倒だから、出されたものは何でも食べます、となってしまうと、律法違反になります。こんな面倒なことになるなら、そもそも異邦人とは食事をしなければいいではないか、という話になります。
さて、この問題は教会にとっても無関係ではありませんでした。イエスを信じてクリスチャンなったユダヤ人は、それからもユダヤ人であることには変わりはないので、彼らはクリスチャンになった後もモーセの律法を守り続けようとします。他方で、教会にはユダヤ人以外の信徒がどんどん加わってきました。そこで、教会の中には律法を守るユダヤ人信徒と、律法を守らない異邦人信徒が共存することになります。この際に問題となるのが、食事をどうするのかという問題でした。以前の説教でも学んだように、当時は聖餐式は食事の後に行っていましたので、食事を取ることは、礼拝の重要な一部分でした。しかし、モーセの律法を守らない異邦人と厳格に守るユダヤ人とでは、食事の中身が違ってきます。その彼らが一緒に食事を取るためには、二つの選択肢しかありません。一つは、ユダヤ人信徒の方がモーセの律法を守ることを止めて、異邦人と同じように何でも気にせずに食べるという選択肢です。もう一つの選択肢は、反対に異邦人信徒の方がモーセの律法を守るようにし、食事に関してもモーセの律法に従ったものを食べるようにする、というものです。ですから、二つの選択肢というのはユダヤ人が異邦人のようになるか、あるいは異邦人がユダヤ人のようになるか、ということになります。
実は、この問題は初代教会においても大問題となり、初代教会のリーダーであるパウロとペテロはこの件をめぐって激しく対立したことがありました。その箇所をお読みしたいと思います。
ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。」
この話は、シリアの首都アンテオケで異邦人信徒とそれまで仲良く食事をしていたペテロが、エルサレム教会からの人々が何人かアンテオケを訪れた際、彼らの目を気にして、異邦人信徒たちとの食事を止めてしまったのですが、そのことにパウロが怒って、彼のことを皆の面前で叱責した、というものです。エルサレム教会の人々は、キリスト教を敵視するユダヤ人たちの中で生活していました。いわば敵地にいるようなものです。周りのユダヤ人たちはイエスのことを彼らの救世主、メシアだとは認めていませんでした。エルサレム教会の人たちがユダヤ人たちの中で生活を許される最低条件は、モーセの律法をしっかりと守りユダヤ人らしく生活することでした。ですから彼らは、クリスチャンになった後も、先祖からの戒めであるモーセの律法を厳格に守って暮らしていました。12使徒のひとりだったペテロも、エルサレム教会の一員でしたから、エルサレムにいたときはモーセの律法をしっかりと守っていました。そんな彼も、異邦人信徒が多いアンテオケの教会に来た時には、異邦人信徒と親しく付き合うために、モーセの律法の厳格な順守を緩めて、異邦人に合わせたライフスタイルを送っていました。しかし、そんなところをかつての仲間であるエルサレム教会の人々に見られるのが嫌だったのでしょう。エルサレム教会から何名かの人たちがアンテオケの教会を訪問すると、ペテロはモーセの律法を守らない異邦人信徒たちと一緒に食事をするのを控えるようになりました。イエスの一番弟子であるペテロの行動の影響は大きく、アンテオケ教会の他のユダヤ人信徒たちも、ペテロに倣って異邦人信徒たちと食事をするのを控えるようになりました。そして、なんとパウロの盟友であるバルナバまで異邦人信徒との食事を控えるようになりました。こうなると、アンテオケ教会がユダヤ人信徒と異邦人信徒の二グループに分裂することになります。この状況を見過ごせなかったのがパウロでした。パウロはペテロに対し、「あなたは今まで、ユダヤ人でありながら異邦人のように、つまりユダヤ人の食事のルールを守らずに異邦人のように何でも食べていたのに、どうして急に異邦人たちにユダヤ人のように、つまりユダヤ的な食事制限を課そうとするのですか」と怒ったのです。
このパウロの怒りはもっともではありますが、しかし怒られたペテロの方も気の毒な面があります。実は、このアンテオケの出来事が起きる前に、パウロとエルサレム教会の人たちは、ある取り決めをしていました。それは、異邦人信徒たちにはモーセの律法を守ることは要求しないという取り決めでした。キリスト教は、もともとユダヤ教から生まれたものです。イエス様もユダヤ人、12使徒もユダヤ人、ペンテコステの日に聖霊を注がれたのもみなユダヤ人、ですから初代教会にはユダヤ人しかいなかったのです。彼らはユダヤ人でしたから、イエスを信じる前も、イエスを信じた後も、当然のようにモーセの律法を守っていました。しかし、異邦人の場合は全く話が違います。私たち日本人のことをかんがえてみても、イエスを信じる前にモーセの律法を守っている人などいないように、当時のギリシア人たちでモーセの律法を守っている人などいなかったのです。その彼らが、イエスを信じた後に、ユダヤ人のようにモーセの律法を守るべきか、というのは大きな問題でした。ユダヤ人信徒の一部は、モーセの律法は聖書に書かれていることだから、十戒や他の律法全般も神の戒めとして新しく信者になった異邦人にも教え込むべきだ、と主張しました。しかし、パウロたちのように異邦人たちに対して福音を伝えていたユダヤ人のクリスチャンは、600以上もあるモーセの律法を、それまでそれとは無関係に生活していた異邦人たちに守らせるのは酷だ、そんなことは必要ないと強く主張しました。そして、異邦人にはモーセの律法を守らせる必要はない、という取り決めがエルサレム教会において決定されました。
ただ、この取り決めには落とし穴がありました。異邦人信徒はモーセの律法を守る必要はない、でもユダヤ人信徒は?という問題のことは考えなかったのです。ユダヤ人信徒たちは、当然のようにこれからもモーセの律法を守るべきだと考えていました。しかし、彼らがモーセの律法を守ろうとすれば、モーセの律法を守らない異邦人信徒たちとはいっしょに食事ができないことになってしまいます。そのために、先ほどのペテロのアンテオケのような行動が生じてしまい、その結果異邦人信徒とユダヤ人使徒との間で分裂が生じることになります。ですからパウロは、教会の一致のためには、ユダヤ人信徒もモーセの律法を守ることを止めるべきだ、具体的にはユダヤ教の食事規定に従うべきではない、と主張したのです。このパウロの主張は、その意図は理解できるものの、保守的なユダヤ人クリスチャンには受け入れがたいものでした。モーセの律法はなにしろ聖書の教えです。その教えを守らなくていいとは何事か、という反感を抱いた人々もいました。ですからエルサレム教会の中にはパウロのことを快く思わない人たちがいました。
パウロもこの状況が良いとは決して思ってはいません。そこで、彼自身とエルサレム教会との和解のために、さらにはエルサレム教会を中心とするユダヤ人クリスチャンと、パウロによって建てられた、律法を守らない異邦人クリスチャンとの間の真の和解のために、異邦人使徒たちからエルサレム教会への献金プロジェクトを何としても完遂したいと願ったのです。こうしたことが、今日のみことばの背景なのです。
2.本文
さて、背景の説明が大変長くなりましたが、このことを踏まえて今日の短いみことばを見ていきましょう。まず1節ですが、「聖徒たちのための献金」とは、「エルサレム教会の人たちのための献金」ということです。エルサレムにいるユダヤ人信徒たちは、他のユダヤ人たちから好意的には見られていなかったので、生活が大変苦しかったのです。その彼らのための献金を、「聖徒たちのための献金」とパウロは言っているのです。パウロはコリントの教会だけでなく、彼が立ち上げたすべての教会に向かってエルサレム教会のために献金を集めるように命じていました。それは小アジアにあるガラテヤの教会も同じでした。興味深いことに、パウロは自分自身の宣教活動のための献金をガラテヤ教会、テサロニケ教会、ピリピの教会などから受け取っていましたが、コリントの教会からは自分個人のための献金を受け取ろうとはしませんでした。しかしパウロは、エルサレムの教会への献金についてはコリントの教会にも強く要請をしていました。このことは、パウロがエルサレム教会向けの献金をどれほど重要視していたのかをよく示すものです。次いでパウロは、どうやって献金を集めるかという方法についてまで、詳しく2節で説明しています。
私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。
パウロは非常に具体的なことを書いています。「週の初めの日」とは日曜日のことです。ユダヤ教では土曜日が安息日で、日曜日は週の初めの日なのですが、日曜日が礼拝の日になったのは、それが主イエスの復活の日だったからです。日曜日に礼拝をするのは、その日が安息日だからではなくて、主イエスが復活したことをお祝いするためだったのです。このことを忘れないようにしましょう。主イエスの復活を祝うのはイースターだけではなく、毎週日曜日なのです。その日曜日に、収入に応じて、毎週エルサレム教会のために献金を取り分けておきなさい、とパウロは指示しています。献金というのは一つの習慣なので、このように自分の中でルールを作ってその分は取り分けておく、というのは私たちにも参考になるアドバイスだと思います。
パウロはこうして集められた献金は、「あなたがたの承認を得た人々」に手紙を添えてエルサレムまで届けてもらうか、あるいはパウロ自身も届けに行くことになるかもしれない、と書いています。実際は、パウロは自らエルサレムに献金を届けることにし、そこで逮捕されることになるのですが、パウロが自分の身の危険を顧みずに献金を届けようとしたのは、なんとしてもエルサレムの人たちと真の和解を成し遂げたいというパウロの強い気持ちの表れだったのだと思われます。
3.結論
今日は、パウロはコリントの人々に、あとがきの最初のところでエルサレム教会のための献金を指示する箇所を学びました。コリントの人たちにとっては、実際にお世話になっているパウロに対しては献金をせずに、エルサレム教会の人たちのためにだけ献金をするというのは、すこし違和感があったかもしれませんし、実際に第二コリント書簡ではこの問題が浮上します。このことは、第二コリントを読んでいく中で考えていきます。
さて、今日の私たち日本の教会は、エルサレムにある教会のために特別に献金をするということはしていません。そういうことに力を入れている日本の教会もありますが、多くの教会はそうではないでしょう。しかし、私たち日本の教会が今このように福音を聞くことができるのも、さかのぼってみれば初代教会であるエルサレム教会の人たちの献身的な働きがあったからこそです。私たちの日本の教会は、主にアメリカの教会や宣教師たちから支援を受けてきたのですが、彼らの背後には彼らに福音を伝えたもっと古い宣教団体があり、それをどんどんさかのぼっていけば、いずれはエルサレム教会にたどり着くのです。そういう先人たちの努力や献身を決して忘れてはならない、私たちが直接覚えている宣教師さんたちだけではなく、その背後にいる私たちが直接知らない人々についても、常に感謝の気持ちを忘れないようにしたい、ということを今日のパウロのことばから思わされます。同時に私たちもまた、受け取った福音を他の人たちにも伝えていかなければなりません。私たちは初代教会から綿々と伝わる伝道の流れの名にあるのです。その力が与えられるように、ひと言お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ。そのお名前を讃美します。今朝はパウロが自分の立て上げた教会の人々に、エルサレム教会への献金を熱心に要請している箇所を学びました。私たちにも、多くの先人の努力によって福音が届けられたことを覚え、感謝します。私たちに恩返しする機会が与えられたなら、積極的にそうすることができますように。そして私たちもまた、福音を伝える者となることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン