からだは一つ、御霊は一つ
第一コリント12章12~30節

1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。ペンテコステというのは、イースター、クリスマスと並ぶキリスト教の三大聖日の一つですが、クリスマスは主イエスの誕生を祝う日、イースターは主イエスが死者の中から復活したのを祝う日であるように、いずれもイエス・キリストの生涯にかかわるものですが、ペンテコステは三位一体の父・子・聖霊の中でも特に聖霊に関係する日です。ペンテコステというギリシャ語の言葉の意味は、50番目という意味なのです。では何から数えて50番目なのかといえば、ユダヤ教のお祭りの一つである初穂の祭りから数えて50日目ということです。初穂の祭りというのは、収穫の初穂を神に感謝してお献げする日ですが、人類の中で初めて死者の中から復活したイエス・キリストを比喩的に言えば人類の初穂です。ですから、初穂の祭りとはそのままイエスの復活の日を指し示すものなのですが、それから50日後に教会に聖霊が降ったので、その日がペンテコステの主日となったのです。

ではペンテコステとはどんな日なのか、その日にはどんな意味があったのか?といえば、それは教会が実質的に主イエスの働きを引き継ぐための力を与えられた日、ということになるでしょう。主イエスご自身はその公生涯において驚くべき業を数多く行いましたが、それは聖霊の力を受けることで可能になったのです。そのことがルカ福音書に書かれています。

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。

聖霊を受けられた後、主イエスは聖霊の力によって様々な奇跡など、驚くべき業をなされたのです。しかし、その主イエスが天に昇られ、教会は取り残されてしまいました。イエス様がいない教会が、どうすれば主イエスの働きを引き継ぐことができるのか、その答えがペンテコステだったのです。つまり、主イエスに下ったのと同じ御霊が、エルサレムの教会の人々に下ったのです。主イエスは最後の晩餐のときに、こう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います(ヨハネ14:12)

イエスの弟子たちが、イエス様より大きなわざを行うというのです。どうしてそんなことが可能なのかと言えば、それはイエス様に大きなわざを行う力を与えたその同じ御霊が、弟子たちにも同じ力を与えるからなのです。そして、その大いなる力を与える御霊が弟子たちに下ったのが主イエスの復活から数えて50日後、ペンテコステの日だったのです。

今日の私たちの教会では、初代教会のような圧倒的な聖霊の働きを体験することはないかもしれません。しかし、キリスト教黎明期の教会であるコリント教会では、驚くほどの聖霊の働きがありました。しかもそれはパウロとかペテロとか、使徒や伝道者という特別な人たちだけでなく、一般の信徒たちの間でも聖霊の力が働いていたのです。今まで普通に暮らしていた人が、突然天使の言葉と言われる異言を語りだす、あるいは病を癒す力が与えられる、こういうことが起こったのです。こんなことが皆さんにも起こったら、どうなってしまうか想像してみてください。よくSF映画やアニメなどで、普通の少年が突然超能力を使えるようになる、という話がありますね。そのようなことが起こると、最初その少年は戸惑います。しかし、だんだん自分の新しい能力に慣れてくると、その力を良からぬ目的、非常に利己的な目的で使い始めてしまいます。それでも、経験を重ねるうちにだんだんとその誤りに気が付いて、自分の力はもっと大きな目的、人助けのために用いるべきものだと気が付いていく、これが超能力少年の話をめぐるお決まりのストーリー展開ではないでしょうか。

いきなり何の話をするのかと思われるかもしれませんが、今日のコリント教会の話も、ある意味で同じような話なのです。コリント教会の人たちは、主イエスを信じたことで突然聖霊による不思議な力や賜物が与えられるようになりました。しかし彼らは、自分たちになぜそんな力が与えられたのか、よくわかっていませんでした。そして彼らは、そうした賜物を自分が他人より優れていることの証明だと見なすようになってしまいました。コリント教会にはもともとそういう傾向というか、問題がありました。彼らは教会の他の信徒たちを仲間というよりライバル、誰が一番優れているのかを競う競争相手のように見ていました。そんな彼らでしたから、聖霊の賜物をいただくと、では誰が一番素晴らしい聖霊の賜物を持っているのかと競い合うようになってしまいました。

この状況を伝え聞いて危機感を抱いたパウロは、ここで聖霊の与えられた目的はなんであるのかを説明します。パウロの伝えようとしたことを一言でいえば、「一人はみんなのために、みんなは一つの目的のために」ということになるでしょう。これはラグビーでよく使われる合言葉であるOne for all, all for oneを訳したものです。この言葉はもともとフランスのアレクサンドル・デュマの『三銃士』という小説に登場する合言葉ですが、ラグビーでも使われるようになりました。この言葉はしばしば「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と訳されてきました。一人は全員のために奉仕しますが、全員もまた一人を助けるためにあるんだ、という美しい友情の言葉として理解されてきたのです。むかし、山下真司主演の『スクール・ウォーズ』という熱血スポコン・ドラマがありましたが、そこでも出てきました。しかし、そのスクール・ウォーズの登場人物のモデルとなり、残念ながら故人になられたかつての日本のラグビーのスーパースター平尾誠二さんによれば、これは大変な誤訳なのです。One for allの方はそのままなのですが、all for oneのoneは一人ではなく、一つの目的、つまり勝利のためだ、ということです。ですから、この合言葉は単にお互いに助け合いましょう、支え合いましょうという意味のみならず、それぞれ異なった、違う個性や賜物を持った人々が、心を一つにして一つの目的のために一致して進んで行こう、という意味なのです。

そしてこの言葉は、そのまま教会でも使うことができると思います。「一人がみんなのために」というのは確かに大事ですが、同時に「みんが一つの目的のために」ということです。この一つの目的と言うのは、勝利のことではありません。教会は勝つことが目的の団体ではないのです。むしろ一つの目的とは、神の愛と正義がその世界を覆うようになることです。今の世界にはいろいろと複雑な問題があり、人類の未来は決して明るいとはいえないでしょう。人類だけでなく、環境問題の影響で他の動物や生物も、今や危機に瀕しているものが少なくありません。しかし神は、ご自分が創造されたこの世界を深く愛し、その未来を深く憂慮されています。神は私たちに、この世界を善い方向に導く働きに加わってほしいと願っておられます。神の目的、ヴィジョンとは、繰り返せばこの世界が神の愛と正義に包まれることです。この目的のために、私たちは働くように召されています。そして、それを成し遂げるために私たちには聖霊が与えられるのです。そのことを忘れないようにしながら、今日の御言葉を読んで参りたいと思います。

2.本文

まずこれまでの議論の流れを復習しましょう。パウロは11章から、礼拝の問題について語り始めます。頭のかぶりものの問題、次いで主の晩餐の問題、それから礼拝中の異言語りについて取り扱います。12章1節から12節までは、パウロはクリスチャンに与えられる様々な御霊の賜物について語りました。コリントの教会の大きな問題の一つは、自分が他の人より優れていることを示そうと競い合い、そのために教会内で分裂や不和が起こってしまったことでした。自分はあの人より優れた御霊の賜物を持っている、知恵において優れていると互いに競い合い、地味な目立たない賜物を持った人たちを見下すようなことが起きてしまっていたのです。そこでパウロは、神がそれぞれに御霊の賜物を与えたのは、個々人の益となるためでなく、教会全体のためなのだ、ということを強調しました。前の説教でお話しした6節、7節にはこうあります。

働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

教会員にはそれぞれ異なった賜物が与えられていますが、それらはすべてお一人の御霊の働きであって、また誰にどの賜物を与えるのかは聖霊の自由な主権による、ということを強調しています。誰々さんが優れた人だから聖霊が優れた賜物を与えた、というのではないのです。むしろ、同じ一つの御霊が相応しい賜物を各人に与えるのは、全体の益のため、つまり教会を建て上げ、また力強く福音伝道の業を遂行していくためです。自分のためではなく、皆の益のため、教会のため、さらには世界のためなのです。

そのようなことを強調した上で、今日の聖書箇所である12節でパウロは大切なことを書いています。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

ここで注目すべきなのは、パウロが「からだ」という時にキリストのからだである教会を念頭においているのは明らかなので、最後の部分は「からだはいろんな部分から成っているが、そのいろいろな部分すべてが一つであるように、教会もいろいろな個性や賜物を持った人たちから成っていますが、教会の場合も同様に一つなのです」となりそうなものですが、パウロは「教会もそれと同様です」とは言わずに「キリストもそれと同様です」というのです。つまり、キリストと教会とがほとんど同じもののように語られているのです。これは私たちに畏れを抱かせないでしょうか。私たち教会は単なる人間の集まりではないのです。キリストの血によって清められ、聖霊によって力を与えられた、キリストと一つにされた特別な存在です。しかも一人一人が皆そうなのです。あの人はキリストのからだで、この人はそうではない、ということはありません。すべての人がキリストのものであり、そこに優劣はありません。パウロは次にこう言います。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのです。この言葉は、パウロの別な有名な言葉を思い起こさせます。そう、ガラテヤ書の一節です。パウロは3章27節、28節でこう言っています。

バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

しかし、コリントの今日の箇所では「男も女もありません」という一文が除かれています。これはおそらく、11章の礼拝中の女性のかぶり物についての教えの中で、男と女の区別を曖昧にするような礼拝中の行動について反対することを述べていたことが関係しているのかもしれません。今日の箇所でのパウロの関心事は、むしろ教会の中で「奴隷と自由な身分の者」という社会的には身分が異なる人たちについて、教会の中にもそのまま社会での身分制度を持ち込むことに反対することにありました。といいますのも、古代社会ではある組織や集団を「からだ」に譬えることがしばしばありましたが、その場合にはからだのいろいろな部分が平等であることを示すためではなく、むしろ身分の違いを強調するためにこうした比喩的表現が使われていたからです。例えば「頭」や「目」などは社会的な身分の高い人を表わし、手足で表されている人たちは「誰々さんの手足となって働く」という表現があるように、「頭」に譬えられている、司令塔と目されている人に従わなければならない、というような用いられ方をしたのです。つまり権力者側に都合がいいように「からだ」の譬えが使われていたのです。しかし、パウロはそのようには「からだ」のアナロジーを用いませんでした。むしろ、からだのあらゆる部分は人間が生きていく上で不可欠な部分であり、その間には優劣がない、ということを強調します。たしかに、人間は「頭」だけでは生きていけませんし、また逆に「足」だけでも生きていけません。そのどちらもが協調して一緒に働くことで、人間らしい生き方ができるのです。からだが全部頭だったとしたら、その人はもはや人間とは言えないでしょう。パウロは19節で「もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう」と語っているのはこのことです。

先ほども言ったように、コリントの教会の一番の問題は、教会の各メンバーが、自分が他の人より優れていることを示そうと、御霊の賜物を誇ったり、知恵を誇ったり、またこの世の財産や地位を誇ったりすることにありました。このような自慢や誇りは、キリストのからだである教会が全体としてうまく機能して、福音伝道に励んだり、また世の光として教会の外の人たちから尊敬を集めるようになるためには百害あって一利なし、というものでした。

からだのアナロジーで言えば、私たちのからだでは、あまり目立たない部分こそが私たちの活動に重要だということがあります。私たちのからだの中には多くの内臓器官があり、それは人の目には入りませんが、それらの活動なしには私たちは生きていくことが出来ません。教会でも「縁の下の力持ち」というように、人知れず奉仕に励む人たちの存在があって初めて活動を維持することが出来ます。また、教会には強い人ばかりではなく、病気になったり、体調を崩したりして教会活動に加われない人たちもいますが、そういう人たちも大切なからだの一部であり、からだの一部分の器官が損なわれていたのが回復すると、体の機能全体がずっと改善するように、教会の中で様々な理由で苦しんでいる人が元気になれば、教会全体が大きな力を得るのです。まさに、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

ですから、教会においてはまさに「一人はみんなのために」あるのです。そして、みんなは心を一つにし、一つの御霊から力を受け、教会を建て上げること、そして福音を宣べ伝えて世界を平和に導くという一つの目標、目的のために邁進していくのです。神はいろいろな人を教会の中に立てます。パウロの時代には使徒と呼ばれる特別の人々がいました。今の時代は、福音が十分に伝わっていない地で働く宣教師や伝道者たちがいます。しかし、宣教師や伝道者たちだけでは教会は建て上げられません。パウロの時代には、新約聖書はまだ書かれていなかったので、神様の言葉を直接預かる「預言者」と呼ばれる人々がいました。今の時代にもそういう預言の賜物をいただく人々はいるでしょうが、同時に与えられた聖書の御言葉を解き明かす御言葉への奉仕者、教師が立てられます。しかし、預言者や教師だけでも教会は立ち行きません。病気の癒しの賜物を持つ人、教会の管理に長けた人、様々な形で援助する人、こうした様々な働きがあってこそ、教会は教会として歩んでいけるのです。そして、そのすべての働きの背後には聖霊なる神様がおられるのです。

3.結論

今日のペンテコステ礼拝では、「からだは一つ、御霊は一つ」と題して説教をさせていただきました。聖霊の賜る働きや力には実に豊かな多様性があります。ある人の御霊の働きは、ひときわ人々の注目を集めたり、偉大な業に見えることもあるでしょう。しかし、だからといってそのような働きが、ほかのもっと地味な聖霊の賜物よりも優れているというわけではありません。パウロは、誰がより優れた御霊の賜物を持っているのかを競い合い、教会内の力のない者や貧しいものを侮る傾向があったコリントの教会の人たちに対し、からだの各部分は互いに競い合ったり、相手をばかにしたりはしないこと、むしろ全体が協力し合って体の働きが保たれることを例に引きながら、キリストのからだである教会も、その各人が互いに助け合いながら、福音宣教という神から与えられた使命に励むべきことを教えました。

私たち中原キリスト教会も、信徒や教師一人一人がそれぞれに与えられた務めや役目を精一杯果たすことで、この地に建てられた使命を果たしていくことが出来ます。どんな仕事も貴いのです。教会では、みことばの奉仕をする教師の働きを強調する傾向がありますが、もし全員がみことばの奉仕になってしまったら教会は成り立ちません。また、全員が奏楽者になっても礼拝は出来ません。みんながそれぞれの持ち場を責任をもって担っていくことで、教会が成り立つのです。そのような多くの聖霊の賜物が教会に与えられていることを主に感謝しつつ、ペンテコステを祝い、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

聖霊なる神様、そのお名前を賛美します。主イエスの公生涯に力を与え、初代教会に力を与えたその同じ御霊が、今私たちの教会にも働いていることを感謝します。どうかそれぞれの賜物を、教会のため、福音伝道のため、また神のために用いることができますように。われらの主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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