出エジプト
第一コリント10章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。いよいよ今日から「受難週」が始まります。受難週とは、イエスが地上における最後の一週間を過ごした期間を指す言葉です。今日の主日は主イエスがエルサレムに入城するところを人々が棕櫚の枝を振って歓迎したという故事により「棕櫚の主日」と呼ばれています。これから主イエスは腐敗したエルサレムの権力者たちへの神の裁きを宣告するために、エルサレムの神殿に入って有名な「宮清め」を行います。イエスから批判されたエルサレムの大祭司たちは反撃に転じてイエスに論争を挑みますが、かえってイエスに完膚なきまでに論破され、いよいよ最後の手段としてイエスを逮捕し、処刑することを企みます。このように嵐のような一週間を過ごすわけですが、主イエスのエルサレム入城の大きな目的はエルサレムの権力者との対決だけにあるのではありません。むしろ、人々を救い出すことこそが主イエスの一番大きな目的でした。主イエスの働きは、モーセのそれと似ています。神はかつてモーセを救世主としてエジプトに遣わしましたが、それはエジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエル人を奴隷状態から解放するためでした。その出来事は出エジプト、エクソダスと呼ばれています。そして、イエスがエルサレムでなさったこともエクソダスと呼ばれていることに注意しましょう。

そのことをルカ福音書から見てみましょう。ルカ福音書9章28節以降をお読みします。

これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

ここの「エルサレムで遂げようとしておられるご最期」という下りですが、原文のギリシャ語を読むと「エルサレムで成し遂げようとしておられるエクソダス」となっています。つまり、モーセがイスラエルの人々を奴隷の家から解放したように、主イエスも奴隷となっている人々を救出するためにエルサレムに向かわれたのです。では、主イエスはいったい何から人々を解放したのでしょうか。それが書かれているのがヘブル人への手紙2章14節です。そこもお読みします。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

このように、主イエスの目的は悪魔の奴隷となっていた人類を解放することにありました。イエスが死なれたのは、死そのものの力を無力化し、それによって死の力を持つ者、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる存在を倒すことにありました。ただ、悪魔とかサタンとか言われても、そんなものが本当にいるのだろうかと思われるかもしれません。悪魔というのは、映画に出てくるような気持ちの悪い存在ではありません。それはむしろ、私たちを神から引き離そうとする、私たちには気が付かないような霊的な力です。そして、私たちは普段は悪魔の存在に気が付きません。悪魔が霊的な存在であり、私たちは霊的な力というものに恐ろしく鈍感だからです。それどころか、多くの人たちは神の存在に気が付くことがありません。私たちに太陽を与え、空気や水を与え、私たちが生活できる環境を神は整えてくださっていますが、私たちの多くはそんなことを考えてもみません。それだけでなく、神は私たちの心や霊に働きかけ、私たちに神と隣人を愛するようにと働きかけるのですが、私たちがそれに気が付くことは稀です。それは私たちが霊的に弱くなっている、死にかかっているからなのですが、その背後には、私たちを妨害する霊的な力があるのです。その見えない力が悪魔とか蛇とか呼ばれる霊的な力です。悪魔は「私は悪魔です」などと言って、正面から私たちに働きかけることなどは決してありません。悪魔の目的は、私たちが気が付かないままに私たちを神から引き離し、神を否定するこの世に私たちの目を向けさせます。だから、悪魔の誘惑というのは気味が悪いどころか、この世の楽しみに満ちた、とても魅力的なものなのです。私たちは、まさかそれが悪魔からの誘惑だなどと、考えることすらしません。そして、私たちは神から離れれば離れるほど命を失っていきます。死に向かっていくのです。私たち人間の肉体はやがて衰え、朽ちていきます。その運命から逃れられる人はいません。しかし、肉体の死よりももっと恐ろしいのは霊的な死です。私たちの内なる人は罪を犯せば犯すほど命の源である神から離れていき、霊の命は枯れていきます。神は愛ですから、私たちは神に向かうときに、愛することを学びます。しかし、私たちが神から離れると、自己中心的な愛に染まり、自分のことばかりに目を向けて、他人を愛することができなくなります。このように私たちの内なる霊が神から離れて命をすっかり失ってしまうこと、それを地獄と呼びます。そして悪魔の狙いは、私たちの内なる人が霊的に死んでいく状態を作り出すことです。イエスはその死と復活を通じて、私たち人間をそのような悲惨な状態から解放してくださったのです。キリストが復活したというのは、単に死んだイエスのからだがよみがえったということにとどまりません。むしろそれは、人間を霊的な死へといざなう悪の力を打ち破り、私たちを神へと近づけさせるためでした。私たちは神に近づけば近づくほど、悪の力から自由になることができるのです。ですからイエスを信じる人は、からだがどんなに衰えても、内なる人間はますます強められていきます。それが、主イエスが私たちに与えてくださる死からの解放です。このイエス・キリストによる解放こそ「新しい出エジプト」、新しいエクソダスなのです。

さて、今朝与えられている聖書箇所でも、使徒パウロはこの出エジプトというテーマから話をしています。実はパウロは前の箇所でも、イエスの死は新しい出エジプトなのだということを語っています。それが5章7節の有名な一節です。

私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

モーセがイスラエル人をエジプトから解放するときに、最初にしたのは小羊をほふることでした。小羊が屠られるのは、解放の合図だったのです。同じように、主イエスが十字架上で小羊のようにほふられたこと、それは私たちの解放が実現したことを告げ知らせるものでした。

しかし、今日の聖書箇所では、使徒パウロはコリントの人々に、モーセを通じて実現した出エジプトの出来事よりも、むしろその後の荒れ野での40年間のことを思い起こすようにと促しています。それはどういうことかといえば、クリスチャンにとって大事なのは救われたこと自体よりも、救われた後にどう生きるか、だからです。せっかく悪魔の力から救われたのに、この世の魅力に負けて元来た道を引き返してしまう、そういうクリスチャンが多いので、パウロは出エジプトの救いの出来事ではなく、救われた後のイスラエルの人たちの末路について語っているのです。

神は、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民を救うためにモーセを遣わし、エジプトに10の災いを下してエジプトから救い出しました。しかし、エジプトから救われた民は、すぐには乳と蜜の流れる約束の地に入ることはできませんでした。むしろ40年間も砂漠の荒れ野をさまようことになり、ほとんどの人はそこで死に絶えてしまったのです。これは考えてみると恐ろしいことです。せっかく神に救い出されて一度は救いを手にしたのに、荒野の40年間にイスラエルの人々は神に逆らい続け、一度は手にした救いを失ってしまったのでした。この荒野での悲惨な出来事を思い出せ、これはあなたがたに対する教訓なのだ、とパウロは言います。私たちは確かに主イエスによって自由を得させてもらい、永遠の命の約束を受けています。しかし、永遠の命の約束は直ちに実現するものではありません。私たちはこの世を旅する中で、神の王国、そして永遠の命にふさわしい人格や品性を養っていかなければなりません。人生というのは神から私たちに与えられた大いなるチャンスです。私たちはこの人生の旅路の中で、自らの人間性と霊性を高めることができるからです。そして私たちは約束を受け継ぐための旅の途上にいるのです。しかし、その民の途中で神を捨ててしまうなら、私たちはかつて荒野で滅んでしまったイスラエル人と同じ運命をたどるだろうという、非常に厳しいメッセージをパウロは語っているのです。

2.本文

さて、いつものように今日の聖書箇所の前後の文脈に注目してみましょう。今日の箇所も、8章から続く「偶像にささげた肉」というテーマに関係しています。この手紙が書かれた時代、肉というのは高級品であり、今日のように好きなだけスーパーで手頃な値段で買えるような代物ではありませんでした。しかし、この古代都市コリントにあって、肉がたくさんあって、場合によってはただで食べられる場所がありました。それがギリシャ・ローマの神々、アポロンやアルテミスなどを祭った神殿、クリスチャンの立場からは偶像の宮でした。古代の人々は神々に礼拝を捧げるために、動物を屠ってその肉を燃やし、その香ばしい香りを神々に献げたのです。しかし、動物の肉を全部燃やしてしまうわけではありません。神々に献げなかった部分は神殿の参拝者に振る舞われることもたびたびありました。また、海と地震の神ポセイドンに捧げられた一大スポーツ・イベントであるイストミア祭においても、観客たちに肉が無料で振る舞われるイベントがありました。そのような機会は、コリントの人たちにとっては肉が無料で食べられる大変貴重な機会でした。そして、そのような機会を、「偶像礼拝だから駄目だ」と言って禁止されてはたまらない、と思ったコリントの教会員の人たちがいたのです。彼らはこう考えました。これは偶像礼拝などではなく、単なる社交の一環であると。なぜなら、偶像などというものは存在しないからだと。アポロンとかアルテミスとかポセイドンなどは存在しない、単なる人間の想像力が造り出したものにすぎない、だからそれらの神々をまつる祭りに参加しても、それらの神々が存在しないのだという知識さえ持っていれば、何の問題もないのだ、と主張し、クリスチャンになった後も、前と変わらず異教の神々を祭る偶像礼拝に加わり続けたのです。

そういう人たちに、パウロは警告します。「出エジプト後に荒野を旅した人たちを思い起こしなさい」と。パウロは、モーセに率いられた人たちも、クリスチャンと同じように大きな霊的祝福を受けていたという事実を指摘します。私たちクリスチャンは、イエス・キリストに属する者となるバプテスマを受けますが、イスラエルの子らもまた、モーセに属する者となるバプテスマを受けたのです。私たちが聖餐においてキリストの血と肉に与ることができるように、イスラエルの人々にも霊的な食物が与えられていました。それが天から降ってきたマナであり、また霊的な水でした。イスラエルの人々は、砂漠を旅していた時にのどが渇いたと盛んに文句を言いますが、神は岩から水を湧き出させることで彼らの渇きを癒しました。パウロは、この岩こそが「キリスト」だと言っています。つまり、パウロによれば、出エジプトの人々もキリストの霊的な祝福に与っていたのです。このようにバプテスマを受け、霊的な食物に与っていたイスラエルの民は、では果たしてどうなったでしょうか?なんと、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまったのでした。パウロは、このイスラエル人の悲劇は私たちには無関係だ、とは言いません。旧約の神は裁きと怒りの神で、新約の神は愛と恵みの神だから、いにしえのイスラエル人に起きたことは私たちには起こらない、とは言っていないのです。むしろ、「これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです」と書いています。偶像の宮で食事しても構わない、これは単なる社交の機会だとうそぶくコリントの人たちは、彼らが信じる神がイスラエルの神であり、この神はねたむ神であることを忘れてはならないのです。

パウロはまず始めに、有名な「金の子牛事件」を例に引きます。「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」というのは、モーセがシナイ山に行って神から十戒を授けられている間、民はモーセの帰りが待ちきれなくなり、なんと金の子牛をこしらえて神として礼拝し、その前で踊り狂ったのです。しかも、彼らはすでに神の偉大な御業を目撃していたのです。出エジプトで紅海が真っ二つに割れてエジプト軍を飲み込んだのを彼らは見ていました。出エジプト記14章31節にはこうあります。

イスラエルは主がエジプトで行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

ここには「信じた」と書かれています。彼らは神の偉大な御業を見て信じていたのです。しかし、彼らの信仰は長続きしませんでした。ちょっと苦しいことがあり、不安になると、「ああ、神様は私たちを見捨てた。神はもう私たちを守ってくれない」と思って、自らの手で偽りの神を造ってしまったのです。その結果、「彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました」とパウロは語ります。もちろん、コリントのクリスチャンたちは金の子牛を造って拝んだわけではありません。単なる社交儀礼として、コリントの人々が敬う神々に敬意を表しただけだ、というでしょう。しかし、ギリシアの人たちはクリスチャンたちが自分たちと一緒にギリシアの神々を拝み、その神々を讃える晩さん会に出席しているのを見たら、彼らはどう思うでしょうか?「ああ、クリスチャンというのは私たちと同じなんだ。私たちと同じようにギリシアの神々を拝み、それに加えてもう一人のキリストと呼ばれる新しい神を拝んでいるだけなんだ」と思ってしまうでしょう。そうすると、唯一の神を証しするというクリスチャンの使命はどうなってしまうでしょうか?神はそのような人々のことを喜ばれるでしょうか?

パウロが語った第二の例も、第一の例と同じく有名なものです。今度は偶像礼拝だけではなく、性的不品行の問題もからみます。これまでコリント書簡で学んだように、性的なだらしのなさはコリント教会の特徴でした。彼らに対する警告として、パウロは有名なバアル・ペオルの話を例に引きます。この出来事を記録した、民数記25章1節以降をお読みします。

イスラエルはシティムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。

第一コリント6章のところで学びましたが、コリント教会の人たちの中には売春宿に通い、しかもそのことは罪ではない、と豪語するような人たちがいました。しかし、神はこのようなクリスチャンを喜ばれるでしょうか?このバアル・ペオルの場合には、イスラエルに神の裁きが降り、なんと一日で二万三千人が倒れてしまいました。コリント教会の人たちは「私たちは救われた。一度救われた人が滅びることはあり得ない」などと甘く見ていましたが、本当に神はクリスチャンの不品行を大目に見てくれるのでしょうか?

三つ目も有名な話です。救われたイスラエルの民は、救われた後の食糧事情が悪い、もっとうまい飯を食わせろと、モーセたちにぶつくさ文句を言ったのです。その箇所、民数記21章4節以降を読みましょう。

彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。

とあります。「燃える蛇」とは一体何物かと思いますが、とにかく神の裁きの担い手です。パウロは不平を言う者たちが「滅ぼす者」、つまりデストロイヤーに滅ぼされたと書いています。この食べ物のことで神に文句を言って神に滅ぼされた人たちは、特にコリントの人々にとっては身につまされる話だったことでしょう。彼らもまた、偶像礼拝を避けるために肉を食べることを我慢しなければならないと言われて、「そんな惨めな食生活を強いられるくらいなら、クリスチャンになどならなければよかった!」と内心ではぶつぶつつぶやいていた人たちだったからです。しかし、荒れ野を旅していたイスラエルの民は、ヨシュアとカレブ、そして子供たちを除いて皆滅んでしまったのです。リーダーのモーセさえ、約束の地に入ることは許されなかったのです。この大いなる悲劇の背後には、デストロイヤー、つまりサタンの跳梁を見ることが出来ます。サタンは神の御心に逆らう存在であり、救われた者すらも誘惑して、救いに与らせないようにと暗躍しているのです。

パウロはこのように、聖書に親しんできたイスラエル人ならば誰でも知っている出エジプトに続く荒れ野での四十年間の出来事を、クリスチャンへの前例または教訓として語りました。もちろん、パウロは荒れ野でほとんどが滅びてしまったように、コリントの教会員のほとんどが滅んでしまう、などと考えていたのではありません。ただ、警告は警告として真面目に聞く耳を持ちなさい、とパウロは諭しているのです。それは、コリントの教会の人たちが偶像礼拝にせよ性的不品行にせよ、あまりにも軽く考えていたからでした。神は憐れみ深い方で、罪に傾きやすい私たちの弱さをよく御存じです。実際に人間として歩まれた主イエス・キリストはなおのことそうです。ですから私たちがちょっとでも罪を犯せば許さないなどということは決してありません。むしろパウロが問題視したのは、コリントの教会の人々の開き直った態度でした。彼らは偶像の宮で肉を食べることが偶像礼拝に加わることであるのを知りながら、肉を食べたいという誘惑に負けて、いろいろ理屈をつけて、それは問題ないとうそぶいていたのです。このような神を畏れない態度は大変よくないものであり、神の厳しい裁きを招きかねません。そこでパウロは大変厳しい実例を持ち出して、コリントの人たちによく考えるようにと促したのです。もし彼らが悔い改めなければ、イスラエルの人々と同じような悲劇が待っているのですよ、と。

しかし、パウロはただただ脅かすだけではありません。次に大変有名な励ましと慰めの言葉をかけています。13節をお読みします。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

ここでは9節にある、私たちが「主を試みる」ことと、主が私たちを試みることとが対比しています。私たちが主を試みるとは、「主はこれくらいの罪なら大目に見てくださるだろう」と勝手に決めつけて、自分勝手なことをすることです。神はこのように侮られることをお許しになりません。しかし、神が私たちを試みることはあります。申命記8章2節にはこうあります。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたがたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

神は、私たちの胸の内の本当のところは実際にはどうなのか、私たちの心が本当はどこに向けられているのかを知るために、私たちを試されるのです。それは私たちをつまずかせるためではなく、かえって苦難を通じて神への信頼を強めるためです。試練を通じて、私たちの神への信頼は全きものとなっていくからです。ですから神は私たちが耐えられないような試練を与えることはありません。そこから逃れる道をも備えてくださっています。試練に遭う時には神に祈りましょう。そうすれば、神はそこから逃れる道をも示して下さるでしょう。神は真実な方です。この信頼を失わないようにしましょう。

3.結論

さて、今日は主イエスの死と復活を「新しい出エジプト」、罪とサタンの支配から私たちを救出して下さった出来事として理解するというお話をしました。私たちは確かに自由な民とされたのです。救われたのです。しかし同時に、約束のものはまだ手に入れてはいません。ここは大事なポイントです。私たちは救われた!で安心してしまって、そのあとのことがなおざりになってしまったら、その救いそのものがあやしくなるという、普段私たちが考えたがらないようなことがらを、パウロはずばりと指摘しているのです。

今日は「棕櫚の主日」です。私たちはこれから1週間、私たちの救いのために主がどんなに苦しまれたのかを体験していきます。私たちは高価な犠牲によって救い出されました。ですからそれにふさわしい応答、生き方が求められます。私たちはそのことを覚えながら受難週を過ごして参りたいと願うものです。お祈りします。

今から二千年前、主イエスが自分を待ち受ける厳しい艱難を知りながらも、私たちの救いのためにエルサレムに来られました。そして、その苦難を通じて私たちを悪魔の支配から贖い出してくださいました。どうかそのことに深く感謝し、それにふさわしい生活を送る力を私たちにお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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