ルツ記の女性たち:ルツ
ルツ記2:17-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

先月はルツ記に登場する姑のナオミについて主にお話しました。今日は、この文書の名前になっている「ルツ」について主にお話したいと思います。ナオミやルツ以外にルツ記に登場する女性として町の女たちについても若干述べさせていただきたい、と思っています。ナオミの時の話の補足という感じでお聞きいただきたく思います。  この文書はルツ記と称せられていますが、実はルツ自身の言葉はあまり含まれていません。その他の記述から彼女の信仰姿勢等については推測になります。まず、ルツはモアブ人です。モアブ人というのは創世記に示されている血統からすると、アブラハムの甥ロトの子モアブの系譜の人々です。このモアブはロトとその姉娘との間に生まれた子です。このようなことは昔から禁じられていた性行為ですから、モアブは不義の子ということが言えます。アブラハムの子イサクの子ヤコブの血筋であるイスラエルの民とは遠い親戚ということになります。彼らの住んでいた地は死海の東側です。イスラエルの民はエジプトに逃れ、その後出エジプトを経てカナンの地に戻ってきた人々ですが、その途中、モアブ人の土地を通過しようとしたのを断られたことから、両者は、曰く因縁の間柄となります。ルツ記の前の文書である士師記においては、モアブ人の王エグロンがカナンの地に侵入しエリコの町を占領し、18年間イスラエルを支配したと書かれています。そこにベニヤミン族出身の士師、左利きのエフデが起こされ、彼は剣を携え王に近寄り、その剣で暗殺し、そのあと士師の役割を果たした、と言われています。サウル王はモアブと戦いましたが、ダビデは両親をモアブの王に預けたと書かれていますし、ダビデ30勇士にはモアブ人がいたと記されています。両親が殺されたためダビデはモアブ人を討ったというユダヤ教の伝承もあります。ルツ記は士師の時代のこと、と言われていますので、この時代のイスラエルとモアブ人の関係は敵対関係と友好関係が入り組んだような時代であった、と推察されます。ルツ記はユダのベツレヘム出身のエリメレクがモアブの地に移住するところから話が始まります。その息子がモアブの娘ルツを娶る、という訳です。ユダ族とモアブ人との関係は少なくとも庶民の間では隣同士の民族という間柄、という状態であったと思われます。後に、捕囚から帰国したユダの指導者ネヘミヤが異民族との結婚を厳に禁止しますが、この士師の時代にはそのような制約はありませんでした。

モアブの地は主イエスの時代にはどのような地になっていたかを知っておくのも良いと思います。この地はずっと異邦人の地として扱われてきたのですが、BC1cに時のイスラエル王朝ハスモン家のアレクサンドロス・ヤンナイ王がモアブを占領し、イスラエルの一部としました。おそらくこの時期から、イスラエル人の移住、ユダヤ教の布教もはじまったのではないか、と思います。エリメレク一族はその先駆けであったと言えるのかもしれません。モアブの地の北はぺレアと言い、やはりハスモン王朝の初期の王ヨナタンの時イスラエル王国に組み入れられた地でした。漸次ぺレアが拡大しモアブの北はぺレアとなっていきました。BC4のヘロデ大王の死後、ぺレアの地はガリラヤとともにヘロデ・アンティパスの支配地域になりました。主イエスが育たれたのはガリラヤの地ですので、ガリラヤ伝道の後、主イエスはぺレアの地への伝道をされたと福音書に記されています。その地がエリメレク一族が移住した地とどんな位置関係にあるのかは分かりませんが、近い距離にあったと想像されます。ぺレアは主イエスが「実のないいちじくの譬え」や「放蕩息子の譬え」「ぶどう畑の労働者の譬え」などを語られた地です。ルツ記の話はそれから約千年前のことです。

ナオミがベツレヘムの故郷の地に帰ろうとしたとき、二人のやもめはナオミと一緒に行きたいと言いますがナオミは実家に帰って再婚しなさい、と言います。当時、やもめのままで一人生きていくなど不可能ですから、再婚し、経済的糧(かて)を得て、子供を産む機会を得なさい、というのは自然な勧めです。嫁の一人はその忠告に従いますが、ルツはナオミに一緒に連れて行ってください、とすがりついて頼みます。ルツは結婚して十数年たっていましたが子供はいませんでした。年齢的には20台の後半でしょう。不妊の女と決めつける訳にはいきませんが、10年以上子供なし、ですから、周囲からは、子供を産むことがかなわない女とみなされていたことは間違いないでしょう。彼女の実家が当時どのような状態であったのか、子供のない出戻りの女の子を喜んで迎えるということではなかったでしょう。ルツはナオミに言っています。1:16「ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」とあります。ルツは自分を結婚によってユダ族の一員となったし、ユダ族の神、即ち「主なる神」が自分の神でもある、と言っています。ここでは「神」とは言っていますが神の名「ヤハウェ」は使われていません。結婚によって自分はユダ族の宗教集団の一員になったということを言っています。これは真の意味での信仰心からでたことなのか、ひとり放り出されると、生きていけないということから生きるための必死の願いから出たことかはわかりません。50:50位に考えて良いのではないか、と思います。このあと17節には「あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」とありますが、「主が幾重にも私を罰してくださるように。」との言葉は神の前での誓約の時に、強調の意味で使われる表現です。1サムエル記14:44でのサウル王の誓のことばにもこの表現が出てきます。この言葉はイスラエルの信仰者が並々ならぬ決意で使う表現であり、異邦人の女ルツが使う言葉にしては奇異な感を持たざるを得ません。ルツ記の伝承の中で、ルツの並々ならぬ決心の表現として伝えられた表現でしょう。実はこの「主」(ヤハウェ)がルツの言葉として使われるのはここだけです。ルツの信仰は、「主なる神」ヤハウェへの信仰というところまで明確にされたものではなく、イスラエル民族の神を自分も共に拝する、という一般的な信仰の範囲のもの、であったと思われます。

後世のアラム語の文書でタルグムと称せられる文書があります。そこでルツが言っている言葉を見ると、もっと、イスラエル信仰に明確に立っているかの表現が出てきます。律法に関しては「あなたが守っているものをイスラエルの民であるかに守っていきます」と言っています。安息日の歩行制限については「あなたが行くところに私も行きます」と言い、異邦人との宿泊禁止についても「あなたが泊まるところに私も泊まります」と言っています。「あなたの神はわたしの神です」と言っているのはルツ記と同じですが、石打ちの刑などについて語っているところでは「あなたが死ぬように私も死にます」と言っています。律法に対する態度がユダヤ教的になっている、と言えます。

ナオミもここまで必死に来られてはもう拒絶もできません。1:18「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」とあります。そしてルツにとっては未知の国、ユダの地ベツレヘムにいきました。そしてナオミの夫エリメレクの親族ボアズに大変良くしてもらいます。落穂ひろいの場で優遇扱いしてもらうのです。ボアズは刈り入れをしている人々の世話役の若者に「これはだれの娘か」と問います。若者は「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」と答えます。「モアブの娘」という言い方には侮蔑的な言い方の感が無きにしも非ず、ですがルツのひたむきな姿勢にはこの若者も感心している風です。ボアズはルツのことをうわさで聞いていた如くであり、特別配慮を指示します。明らかに親類の人間の妻という以上の感情を持ったようです。いわゆる一目惚れかもしれません。しかし、士師記のサムソンがペリシテの娘に一目惚れしたような無節操な振る舞いはありません。

これに対し、ルツは恐縮しつつ、2:13「彼女は言った。「ご主人さま。私はあなたのご好意にあずかりとう存じます。私はあなたのはしためのひとりでもありませんのに、あなたは私を慰め、このはしためにねんごろに話しかけてくださったからです」 とあります。見ず知らずの地に来たルツにとってはボアズの親切は望外の喜び、と言ってよいでしょう。ボアズの言動に神の慰め、憐れみ、を見た、と言えるでしょう。人生のなかで苦難の時に、このような瞬間があります。私たちの心がこの「時」を察知できないほどに鈍っていることの方が問題です。そしてパンをいただき、また、炒(い)り麦をいただいて残りをとっておきました。この残りの炒り麦は、帰ってナオミにさしあげました。この話をナオミに話すと、ナオミは自分の親戚のボアズに良くしてもらったのだ、ということが分かります。またナオミはルツに言っています。2:20「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように」。この表現はイスラエル信仰における典型的な祝福の祈りの言葉です。ナオミは一家の主人としてイスラエルの民の一人として行動しています。

ここに「恵み」という言葉が出てきますが、先月にも申し上げましたが、旧約聖書の中で最も中心的な言葉の一つである「hesed」と言う言葉です。「恵み、慰め、慈愛、慈しみ、憐れみ」などと訳されます。あえて一語でいえば「慈愛」でしょう。2:13には「好意」と言う言葉と「慰め」という言葉が出てきていました。「好意」と訳されているのはヘブル語の「he:n」であり、「親切、気品、好意、善意」等の意味を持つ言葉で、一言で表せば「親切」でしょう。「慰め」の方は、動詞では「na:ham」です。これは「悔いる、慰める、同情する」といういろんな意味をもつ言葉です。「悔い改める」と訳されることもあります。あえて、一言で表すとすれば「慰め」でしょう。これら三つの言葉、「hesed」「he:n」「na:ham」、即ち「慈愛」「親切」「慰め」はルツ記を一貫して底流に流れている神のメッセージです。これによって、ナオミもボアズもルツも支えられているのです。また、多数ある旧約聖書の文書の中でルツ記が慰めの書として独自の香りを放っている理由です。イスラム教の聖典はコーランですがその各章の最初は同じ言葉で始まります。「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」です。私は、アラビア語は、結局手つかず、でしたが、この「慈悲」とか「慈愛」とか言う言葉は、先ほどのルツ記の言葉に通じているのではないか、と想像しています。聖書とコーランは、もとが同じですから、通じていてもおかしくないのですが、考えてみると、仏教にも「慈愛」「慈悲」という言葉があります。「慈」というのは訓では「慈しむ」ですが、サンスクリット語の「maitri:」という言葉だそうです。ルツ記の3つの言葉「慈愛」「親切」「慰め」、コーランの2つの言葉「慈悲」「慈愛」と仏典における「慈愛」「慈悲」は、証拠は挙げられないのですが、何かしらつながっている気がしてしょうがありません。

そうしているうちに収穫のお祭りの日が来ました。この日だけは女性から男性に好意を示して良い時であったようです。バレンタイン・デーです。ナオミはこの時に、ルツにボアズが寝入ってからその側に横になるように、と言います。ナオミはボアズがルツに対し、単なる好意以上の気持ちを持っている、と見抜いていました。ルツは言われた通りに致します。ボアズは目を覚ましてびっくりします。ルツは「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」と言います。この「買い戻しの権利のある者」はヘブル語では「go:e:l」で、英訳聖書の一つNIVでは「買い戻す救い主」と訳しています。ルツ記の最後の方にも出てきますが、新約の世界では「贖い主」主イエスです。この「go:e:l」もルツ記のKeyWordの一つです。ルツは「買い戻された者」即ち「贖われた者」です。即ち、主イエスにより贖われた者、即ち我々のことです。

ボアズは自分より優先的権利のある親戚の人間がいるのでその人間と決着をつける必要があるのでしばらくの間待っていなさい、と言います。この出来事があった祭りの時、というのはシャブオットと言い七週の祭りのことです。七週の祭りとは過越しの祭りから七週後ということで小麦刈りの祭りのことです。初穂の祭り、とも言われます。時期はユダヤ暦の3月、西暦の5月の末ごろであり、キリスト教ではペンテコステ、聖霊降臨節に該当します。ユダヤ教では、この祭りの時には、ルツ記が読まれます。また、モーセに律法が与えられた日とされてもいます。このことからシャブオットには夜を徹して律法の学びをすることとなっています。また、この日から子供たちは聖書の学習塾に行き始めることになっているそうで、いわば新学期の始まりです。乳製品を食べる日、となっているそうで、トーラー、律法のうまさを味わう、という意味があるとのことです。しかし、シャブオットはそもそも収穫祭ですのでお祝いの時であり、そんな形式ばった、ことのみのお祭りではなく、せいぜい、楽しむお祭り、ということのようです。

結局、ボアズよりエリメレクに近い親戚の人間は、ルツを引き受けることを断ったため、ボアズがルツの面倒を見ることになり、町の人々もその証人となりました。彼らは4:11「私たちは証人です。どうか、主が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。」と言っています。ここで挙げられている「ラケルとレア」はヤコブの妻であり、イスラエル民族の母です。ラケルは子供が生まれない女性でしたので、その姉のレアがヤコブの子を産みました。12人の子どもの内6人がレアの子です。ヤコブが愛した妻はラケルの方です。しかし、ラケルにも子供が生まれる時が来て、2人の子を産みました。しばらく子が生まれなかった、という意味でルツはラケルに比較できます。また夫に愛された妻という意味でもラケルに比肩できます。(本当は、最後まで夫の愛を獲得するという意味ではラケルに勝てなかったレアの方に私は関心があるのですが)。町の人々は、ボアズの妻ルツがイスラエルの母のような存在になる、と言っているのです。エフラテはベツレヘムの旧の名前という説が有力です。ルツがイスラエルの母のようになるということの具体的意味はすぐ明らかになります。ルツに子供が生まれたのです。死んだ夫との間には子が居りませんでしたから、不妊の女に子供が生まれるという奇跡が起きたのと同じことです。また、町の人々は4:12「また、主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」と言います。タマルは義理の父ユダをだまし、妊娠し、その子を産みました。それがベレツです。いわば不倫の子です。ボアズがベレツのようにイスラエルの血筋を継ぐ人物になるように、という訳です。

町の女たちはナオミに言いました。4:14「「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。/その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」ここで再び「買い戻す者」(go:e:l)が出てきました。ルツ記のテーマの柱は「買い戻し」ですが、これは、ルツの子がイスラエルの「買い戻す者」「贖う者」「救済者」になるという預言で物語の結論となります。2点、注意点があります。一つは、当時のイスラエルの常識としては、このようなことを言うのは町の長老とか預言者が言うことで、町の女たちが言うことではないことです。徹底的に女性を主人公にしたルツ記の特徴を示している、ということができます。二点目は、女たちはナオミに対し言っているのであり、ルツに言っているのではない、と言う点です。確かに、ルツ記において、ナオミが主人公のごとくリーダーシップを示していますが、内容的には、結局、ルツを称える文書です。にもかかわらず、ルツは最後まで目立たない存在として描かれているのです。ルツの謙虚さの徴かもしれません。

近所の女たちがその子に名前を付けたとあります。オベデです。通常は父親が名前を付けるのですが、ここでは町の女たちが命名者になっています。イスラエルの正統的血筋を継ぐ者ということで町の皆で命名したということでしょう。しかも女たちです。最後まで女性中心の物語ということができます。申命記史書という戦争から王国の歴史を叙述した男中心の文書の間にこの文書があることの不思議さを知ることができます。また戦争の中でのひと時の平和のメッセージということもできます。命をつなぐ女性はやはり平和を呼ぶものであり、戦争は似つかわしくありません。オベデというのは「仕える者、祈る者」の意味です。そして最後に、このオベデはダビデの祖父となる、と言い、系図を示してこの物語は終わります。ユダの子ベレツの系譜にボアズが居てその子がオベデです。その子がダビデの父エッサイです。ダビデの出身地はベツレヘムですから、この物語の流れの中の先にイスラエルの誇りであるダビデ王朝が生まれる、という訳です。

最後に簡単な系図が出てきています。実は新訳聖書マタイ福音書の最初にイエス・キリストの系図がありますし、ルカ福音書の3章にも系図が掲げられています。この三つを比較しますと、この部分についてみる限り、ルカ福音書のそれが完全で、マタイは一人欠けており、ルツ記では2人が欠けています。理由は解りません。重要度が低いので省いたのでしょうか。この系図、特にマタイ福音書のそれには大きな特徴があります。何人かの女性がこの系図に記されている、ということです。「ボアズに、ルツによってオベデが生まれ」と書かれており、ルツが登場します。そのほかではルツ記にも登場したタマル、ヨシュア記でエリコ陥落の立役者でボアズの母となる遊女ラハブ、そしてダビデの不倫の妻バテ・シバが「ウリヤの妻」ということで出てきます。最後に主イエスの母マリヤです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリヤの5名です。ルカ福音書の系図には女性は現れてきません。5名の内、タマル、ルツは不妊の女が神の力によって子を授かった女性です。マリヤは処女懐胎です。ラハブはそもそもカナン人の遊女です。ウリヤの妻はカナン人ヘテ人の妻で不倫の女です。すべて、この世の常識からすれば変則的なことが付きまとっています。しかも、ラハブとルツはイスラエル民族からするとはっきりとした異邦人です。申命記史観という伝統的ユダヤ教からみるとルツ記は毛色の変わった文書ですし、新約マタイ福音書もユダヤ教正統派の流れから外れた文書です。しかし、このような女性の話が伝承の中では生き生きと語られ続けてきたことが想像され、底流に流れるイスラエルの女性の働きが示されています。

ルツの物語は士師の時代のことと言われていますが、その後、「良き妻」の話としてルツのことが語られて伝承となっていきます。エジプトの緩い支配下にあったと考えられているBC3c頃の成立である箴言31:10以下の「有能な妻」の詩はその結晶です。この詩はアルファベットの頭文字で各節が始まるアルファベット詩です。いろはかるたのようなものです。日本には「色は匂えど」という「いろは」をそのまま歌にしたのがありますから、もっとすごいですね。「しっかりした妻をだれが見つけることができよう。 彼女の値うちは真珠よりもはるかに尊い」で始まる「有能な妻」の賛美の詩です。31:23「夫は町囲みのうちで人々によく知られ、 土地の長老たちとともに座に着く」のところはボアズのことと思われます。21:26「彼女は力と気品を身につけ、 ほほえみながら後の日を待つ」という節や3節「麗しさはいつわり。 美しさはむなしい。 しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」のところなど珠玉の言葉が多く見られます。男性が作り上げた影の力としての女性を描いたもので男女差別の代表的個所だ、という批判もありますが時代的制約はありつつもその中で命をつないできた女性の力強さをうたい上げたものだ、といいう見方もできるのではないか、と思います。考えてみると、この教会にも少しの期間来ていた私のお袋も働き者でした。習字塾の手伝いなどのアルバイトをよくやっていました。また、箴言の詩(うた)加え、まだ緩い支配であったシリア支配下であるBC2cのエルサレムで書かれたと推測されている外典「集会の書」別名「ベン・シラの知恵」26:1-27の「悪妻と良妻」の「良妻」の部分もやはりルツが念頭にある伝承だろと思われます。「良い妻を持った夫は幸福である。彼の寿命は二倍になるだろう」に始まります。3節「良い妻はすばらしい賜物。主を畏れ敬う者に与えられる賜物である」。14節「物静かな妻は主からの賜物、賢い妻は何物にも比べられない」。17節「聖なる燭台から燃え上がる光明のように、健康な体を備えた妻の顔は美しい」というような妻賛美の節が出てきます。特に箴言の方は女神崇拝的雰囲気さえ感じさせますが、偶像崇拝の手前でとどまってはいる、と思います。

前回と今回でルツ記の二人の女性     ナオミとルツを見ました。男系社会描写の典型のように思われている旧約聖書の中にかくも女性の力強さを示している文書が存在することに注目してみました。女系社会から男系社会へというのが人類の歴史の必然だというような見方ではなく、地上での男たちの争いの地下で、地下水のごとく女たちの命の営みが流れていた、というような見方の方が人間の歴史の現実に忠実なように思えます。そしてそれはもちろん今も続いている流れです。一言祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。今日は「ルツと町の女たち」からメッセージをいただきました。人間の歴史の底流を支えている女たちの営みが神の御業につながっていることを覚えます。私たちに、主なる神の「慈愛」「親切」「慰め」が留まりますように。主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン       

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