ルツ記の女性たち:ナオミ
ルツ記4:13-17
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

お読みいただいたルツ記の個所はルツ記の結論部分で、苦難の人生を歩んだナオミが幸せをつかんだところです。内容はご存じのことかとは思いますが、聖書に添って、順番に見ていきましょう。特に、今日は、ルツの姑ナオミに注意を向けてください。

ナオミはベツレヘム出身のエリメレクの妻です。「ナオミ」の名前の意味は「私の喜び、楽しみ、愉しみ、快い」であり、美しい名前です。この夫婦には二人の男の子がいました。一家は飢饉でモアブの野に行った、と記されています。モアブの地に開拓に入った、と考えよさそうです。私の親戚にもブラジルのアマゾン川下流のベレンに移住した家族がいますが、その開墾は大変な苦労だったようで、結局、ブラジリアに移り、野菜栽培と商売で生計を立てるようになりました。エリメレク一家もモアブの野の開墾は大変なことであったと思われます。その間に二人の息子は現地のモアブの娘と結婚します。長男の嫁がルツで次男の嫁がオルパです。ルツという名前は「友情、潤い、友」という意味の言葉でこれも美しい名前です。その後10年くらいモアブの地に住んでいた、と言われています。ナオミは15歳で結婚したとすると、二人の子が生まれ一家をなすまでが5年とするとナオミが20歳でモアブの地に移り、子供たちが結婚するまでが15年とし、更に10年住んでいた、ということのようですから、ナオミは既に40歳です。当時であれば孫がいて、おかしくはありません。この嫁二人には子供が生まれなかったようです。嫁は25歳くらいです。律法では子の生まれない妻は離縁されても文句を言えないことになっていましたが、エリメレクとその息子たちが離縁を考えた風はありません。おそらくナオミが異邦人であるモアブ人の嫁を自分の子のように扱い、子供が生まれなくても、男どもはそれをとやかく言わなかった、と理解してよいでしょう。男たちは、開墾が大変で、家のことはナオミが仕切っていた、と考えて差し支えありません。女系の雰囲気です。

ところが、男たち三人が立て続けに死んでしまいます。ナオミの夫と子供二人です。女三人は途方にくれました。伝え聞くところに寄ると、故郷のユダの地は飢饉が終わり、作物が実るようになった、と聞いたのでナオミはユダの地ベツレヘムの故郷に帰ることにしました。1:7では「そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた」と書かれています。その時、嫁の二人には、実家に戻って再婚しなさい、と強く勧めます。ナオミはユダの地に帰っても、生活を成り立たせる当てがある訳ではありませんから、当然です。注意したいのは、実家に帰りなさい、と言っているところで、「自分の母の家へ帰りなさい」と言っていることです。父の家ではなく母の家です。当時のモアブ人社会がどのような婚姻形態をとっていたか分かりませんが、やはり、家族の取り仕切りは母親の役目であったと想像されます。ナオミの一家と同じです。

すると2人の嫁は泣いていやがります。ナオミと一緒に行く、というのです。そこでナオミは1:11で「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか」と言っています。これはイスラエルの律法に記されているレビラート婚のことが背後にあります。これは、兄が死んだら弟は兄嫁を妻とし、子をもうけ、兄の血筋を絶やさぬようにせよ、という律法のことです。40歳にすでになっているナオミが再婚し、また子供を産んで、死んだ兄たちの妻をその子が娶り、兄たちの血筋を絶やさないようにするということが念頭にある言い方です。ナオミはもう年だし、そんなことはあり得ない話なので、自分の実家に帰りなさい、と言っているのです。この律法が新しく生まれる子供にも適用されるという道理はありませんし、父親が異なる子供にこの律法が適用されるはずもありません。従って、ナオミの言っていることは律法のひねくれた解釈です。「実家に帰りなさい」ということを説得するために律法に関する曲解を言っているのです。しかし、ナオミと一緒に行くよりは実家に帰る方が、嫁たちが幸福になる可能性はずっと高いですから、ナオミの彼女たちへのあわれみの心が示された言い方である、と言ってよいと思います。レビラート婚にしても女性の立場からこれを見ますと、弟と再婚し、自分の子どもを与えられ、その子がこの家族を率いることになる、と言うのですから、神の恵みの手段である、と言えます。ナオミの律法解釈は、かなりずれてはいますが、この嫁たちに示される神の恵みと憐れみの一つということもできます。

結局、弟の嫁オルパは実家に帰りますが、兄嫁のルツはどうしてもついていく、と言って聞きません。1:18「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」と記されています。そしてベツレヘムに戻りました。町の女たちが「まあ、ナオミではありませんか」と驚いているのに対し、ナオミは1:20「ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」と言っています。もう少し、信仰深い人が言うように訳せないかと思いましたが、それは無理です。事実、神へのうらみ、つらみ、のような表現です。ナオミはこの地を出て苦労し、開墾をしたのに成功せず、夫も、二人の子も死に、やっとの思いで故郷に帰ってきたが、あてもない状況で、主なる神に、うらみがましいことをいいたくなったのでしょう。「マラ」というのはヘブル語の「ma:ra:」(苦しみ、つらい)の言葉です。イスラエルの伝統的信仰のように、苦難は主なる神の与えた試みである、という理解はとてもできない、という心境だったのでしょう。イスラエルの信仰は、このような不信仰とも言える叫びを、許容しています。後のヨブ記のヨブはその代表的なものです。また、詩編のダビデの詩には主なる神への恨みの告白、復讐の願いなどが多数でてきます。それを主なる神は、とにも、かくにも、聞くのです。これはイスラエル信仰に特徴的かもしれません。逆に言えば、自分のどろどろした気持ちもすべて主なる神にぶつけて良いのだ、ということです。この場面では、ナオミは主なる神への信頼・信仰を失っているかに見えます。ここでは「主なる神」と言わずに「全能者」という言葉を使っているのもそれと関係しているのかもしれません。神と自分との距離を感じているのでしょう。「主ともにいまして」とは感じてはいない、のです。

ここにエリメレクの親戚ボアズが登場します。ルツが「落穂ひろい」に出かけたいと言います。食料調達です。ナオミは「行ってきなさい」と言いますが、ルツが行ったところがたまたま、ボアズの畑でした。ルツはボアズに大変よくしてもらいます。あきらかにルツへのえこひいきです。親戚の未亡人だからと言うだけではなく、一目惚れした可能性大です。異邦人の女に恋したという訳です。士師記でペリシテ人の娘に恋したサムソンのことを思い出します。ボアズはルツに食事をふるまうことまでします。ルツは帰ってきて事の次第をナオミに話します。2:20には「ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」 」と言ったとあります。ナオミはボアズの登場によって、信仰を回復します。ボアズへの神の祝福を祈っています。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主」という時の「御惠み」はヘブル語の「hesed」であり、旧約聖書における神の愛の表現の言葉です。244回も使用されています。意味は「愛、親切、恵み、憐れみ、慈しみ、慈愛、真実、献身、信仰」などと訳される、多義的な言葉です。日本語の一言を選ぶとすれば「慈愛」というのが一番合っている、と私は思っています。ルツ記の中では3回使用例がありますが、むしろルツ記全体の最大のテーマはこの主なる神の「慈愛」である、と言っても差し支えないでしょう。

そしてここでナオミはボアズのことを「買い戻しの権利のある親類」と言っています。これも律法からの表現です。レビ記25:25の「もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない」に由来しています。主なる神によって与えられた土地、嗣業地は一度、売ったとしても、一族の者が買い戻さなければならない、という律法です。どうしても買い戻しできなかったにしても50年後のヨベルの年には元の一族に戻さねばならない、という教えです。この律法は、現実には守り切れず、ヨベルの年の返却は文字通りには実行されなかった律法です。この「買い戻す」はヘブル語の「ga:al」であり、「贖う」とも訳され、その分詞形「go:e:l」は「贖い主」という意味になり、これはイスラエルの救い主「メシア」の別名になる言葉です。

やっと「落穂ひろい」によって生活の目途がついた二人でしたが、「打ち場で大麦をふるい分ける」という収穫の儀式のような時に、ナオミはルツにボアズに添い寝をするように言います。3:3-4でナオミはルツに「あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。/あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」と言っています。祭りの日に男女が結ばれる、という話は世界中で、ありますし、士師記にも出てきます。ナオミはルツがボアズと結ばれる良いチャンスと見たのでしょう。節度をもった振る舞いであれば当時の律法理解としては問題なかった、と考えられます。しかし、ボアズはルツを抱くことはせず、自分より、エリメレクに近い親戚がいるので、その者との話がついてからの話だ、と言い、朝に町の方に行きました。ルツは帰ってきてナオミに話します。ナオミは「結果を待ちなさい」と言います。背後にボアズへの信頼が強く感じられます。「希望を持って待つ」というのはイスラエルにおける信仰者の基本的態度です。

ボアズはエリメレクの親戚(私はエリメレクの甥と推測していますが)に対し、エリメレクの土地を買い戻すことを求めます。その親戚が、了承すると、エリメレクの息子の妻ルツを妻としなければならない、と言います。あたかも、レビラート婚の律法がこの親戚にも適用になるかのごとき言い方です。この親戚が「そんなことなら私は降りた。あんたがやったらよい」と言います。もしレビラート婚の律法が適用されるなら、ルツとの間の子はエリメレクの子とみなされ、自分の現在の妻の子とはみなされないので、妻の方はたまったものではありません。しかも、この買い戻した土地は、エリメレクの土地とされ、そのルツとの間の子が相続権を持つのですから、本来の奥さんからすれば、絶対いやでしょう。しかも、レビラート婚を断った弟に対し、兄嫁が行う「はきものを脱がす」という侮蔑の儀式までやらされた、というのですから、かなり滅茶苦茶です。この買い戻しについてレビラート婚についても、律法の曲解です。ボアズにとっては律法を忠実に実行するということに重きがあるのではなく、ナオミとルツを救ってあげる、ということに重きがあるのです。考えてみれば、土地の買い戻しはエリメレクの妻であり、今はやもめのナオミの経済基盤の回復のためです。レビラート婚は夫に先立たれた妻ルツの生活を支え、その子を得る祝福に預からせる、ことを意味しますから、ボアズの行動も、これら律法の精神は生かされている訳です。字句に忠実な解釈より本来の精神の方が重要に決まっています。

結果的にボアズが土地を買い戻し、ルツを娶ります。どうも、ボアズは妻や子が既にいた雰囲気はありませんので、独身でいた、ということのように見受けられます。イスラエルの男子は結婚が義務でしたから、ボアズのような独身男性は例外的です。4:13で「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ」と記されています。ルツは10年以上夫マフロンとの間に子がなかったのに、ボアズと結婚したところすぐ子供が生まれた、というのです。不妊の女性に子が生まれた、という奇跡がここにも示されています。町の女たちはこれを祝福します。4:16「ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた」とあります。お母さんのルツではなく、おばあちゃんのナオミが主に孫の面倒を見たようです。ナオミにとってみれば子供でもあり、孫でもあったのでしょう。最後は、ナオミは無上の幸せを得た、という次第です。

この物語に登場する女性たちの信仰をイスラエル信仰の伝統との比較でみてみます。この物語は、エリメレクの妻ナオミとその嫁ルツと最後に孫を得たナオミを祝福した、多くの町の女たちの話です。この物語が士師記とサムエル記の間に入れられていることの意味を考えたい、と思います。我々が使っている聖書の各文書の順序はBC2cに書かれたギリシャ語訳聖書の順序に従っています。ルツ記がこの場所に入れられた理由は、ルツ記の1:1に「さばきつかさが治めていたころ」とあり、士師記の時代の物語である、と言われているからです。ユダヤ人の使用しているそもそもの聖書では後ろの方の「諸書」、もろもろの文書のひとつとされています。ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記は申命記史書といわれイスラエルの国の発生から滅亡までを記録した歴史書です。その背後にある考え方は、出エジプトの民イスラエルが近隣の他民族と戦い、これらを排撃し、後には支配するようになったが、イスラエルの民の罪のため国家滅亡の憂き目に会い、離散の民となってしまった、という歴史の中に示されたイスラエルの栄光と没落の記録ということです。異民族に対しては敵対的見方が強く出ています。しかし、このルツ記は死海の東にいたモアブ人の嫁ルツを主人公とし、彼女を称える物語です。申命記史観とは矛盾する文書です。創世記をみると、イスラエルには他民族に敵対的な民族主義的傾向と他民族との協調を図ろうとする国際主義的傾向の両面があります。その二つの傾向が折に触れ、表面に出てくる、というのが旧約聖書です。国際主義的な傾向が非常に強い文書は、ルツ記、ヨブ記、箴言などの諸書が主ですが、創世記、イザヤ書、エレミヤ書もこの傾向が強く示されています。民族主義的傾向が濃厚とみられている士師記にしても、良く見ると、異民族の力を借りて、強力な民族と戦ったりしており、また、近隣の異民族と協調して生活していたことを伺わせる個所が多数あります。従って、このルツ記の物語も、士師記の時代の国際主義的傾向の一面を示す文書と理解すべきと思います。ちなみに、この国際主義的傾向を決定的にしたのが主イエスの言動です。

もう一点、母系社会、父系社会の問題です。かつて、当初、人類は母系社会であったが、狩猟社会から農耕社会に移る時期に、父系社会に変わって行き、現代に至っている、という理解が主流でした。人類の発展に伴い、母系はすたれて、父系に変わっていく、という考えです。今でも母系社会を維持しているアメリカン・インディアン社会は遅れた社会とみなす訳です。これもおかしな話であって、むしろ、母系の流れと、父系の流れはどの民族にもともに存在し、民族によって、時代によって、いずれか一方の傾向が色濃く表れてくる、と理解すべきです。旧約聖書は押しなべて表面上、父系の傾向が非常に強く示されていますが、底流には母系の流れが根強く生きている、と理解すべきです。このルツ記はなかでも母系社会の要素を強く示している文書である、と言えるでしょう。母系社会的出来事を、父系社会を前提に作られた律法によって強引に正当化しようとしているので、律法解釈としてはおかしな解釈になっています。律法のそもそもの隠された精神を復活させようとしている、という理解もできます。その意味では、主イエスの律法理解の先駆けがルツ記で示されている、ということもできます。男と女と両方居て命が営まれ、続けられていくように神は人間を作られたのですから、一方が他方を支配する社会はおかしいのは当たり前です。

ナオミは苦労のどん底の時、主なる神への信頼・信仰を失いかけましたが、ルツとボアズを通して、主なる神の「hesed」(慈愛)に触れ、信仰を回復して、地上での幸せも得ました。ヨブ記と同じ締めくくりです。人生の波風のなかで神への信頼・信仰が揺らぐ時もありますが、イスラエルの神はその民を見捨てず、必ず、良き道を用意してくださる、というのがルツ記のメッセージでしょうか。父系社会の色が濃く示されている旧約聖書にあって、女性の力が究極の命を支えていることを知らせる文書です。いわゆるしっかり者のおばさんがこのナオミです。このナオミ夫婦も出身地が主イエスのお生まれになったベツレヘムであること、マタイの福音書の主イエスの系図に異邦人ルツの名がしっかりと記されていること、箴言の31章にナオミ、ルツのようなしっかりおばさんを称える詩(うた)が残されていること、外典シラ書26章には「良い妻を持った夫は幸せである」で始まる妻を称える詩(うた)があることを付言しておきます。祈ります。

ご在天の父なる御神様、今日のひと時を感謝いたします。今日はルツ記のなかからナオミの生涯を見ました。イスラエルの信仰に於いて、女性の果たしてきた役割に関する高い評価をみるものです。これが、キリスト教にも受け継がれ、ローマ帝国においてキリスト教が急速に拡大して主たる理由の一つ、とも言われています。歴史的理由から、未だ女性差別の強い日本にあって、真の意味での男女平等が育つよう、我々キリスト者に知恵と力をお与えください。主イエス・キリストの御名により、祈ります。アーメン

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