神の王国のために
マタイ福音書4章1~11節

1.導入

みなさま、クリスマスおめでとうございます。言うまでもなく、今年は本当に大変な年でした。私はこの4月から当教会の牧師として赴任しましたが、赴任した翌週には政府から緊急事態宣言がなされ、これからどうなってしまうのかという不安の中にいました。そんな中でも、私たちの教会は十分注意をしながらですが、通常通りの礼拝を主に献げ続けることができ、休むことなくこのクリスマスを迎えることができました。そのことを主に感謝し、また皆様一人一人の祈りと献身に感謝したいと思います。

そうはいっても、コロナの第三波は留まるところを知らないようです。私たちは自分たちでできることを精一杯していますが、私たちの努力には限界があります。こんな時こそ、権限を一手に集める政治のリーダーが適切に私たちを導いてくれることを期待してしまいます。それは日本でもアメリカでも同じでしょう。独裁政権の国とは違って、日本のような民主主義の国では、リーダーは私たち自身が選べることになっています。しかし、自分たちが選んだはずのリーダーでも、その政治に心から満足するということは少ないように思います。特に大きな期待を受けて始まった政権が期待外れだと、その落胆もなおさら大きくなります。私たちみんなの期待に応えてくれるような、理想的なリーダーはいないものでしょうか?どうすればそのようなリーダーを見つけることができるでしょうか?

聖書の民、イスラエルにおいては、そのようなリーダーを見出せるのは神お一人だ、と信じられていました。人間が選んだリーダーは、結局は期待外れに終わるとしても、神様が選んでくださった人なら間違いない、そのような人にこそ国のリーダーになってほしい、と人々は願ったのです。神が選んだその人なら、神に代わって理想的な政治、つまり「神の支配」を実現してくれるはずだ、と期待したのです。そのような神の支配が実現することを、イエスの時代のユダヤ人たちは「神の国が来る」、より正確に言えば「神の王国が来る」と呼んだのです。ですから、イエスが宣教を始める時に、「時は満ちて、神の支配、神の王国が近づいた」と語ったとき、ユダヤの人々は、今のろくでもない支配者に代わって、神ご自身が選んだリーダーが理想的な支配、神の支配を実現してくれると期待しました。今の日本でいえば、今の総理大臣に代わって、神ご自身が選んだ総理が日本に神の支配、神の理想的な善政を行ってくれると期待したのです。そして、イエス様がこの世にお生まれになったのは、そのような神の支配、神の王国をこの地上にもたらすためでした。

今日はクリスマス、主イエスがこの世界にお生まれになったことを祝う日です。そこで今日は、主イエスがこの世界に生を受けた目的、すなわち神の支配、神の王国をもたらすという目的について深く考えてまいりたいと思います。

2.本文

今日のみことばは、イエス様の荒野での誘惑です。クリスマスにこの箇所からメッセージをすることなど、聞いたことがないと思われるかもしれません。この時期は、マタイやルカ福音書の降誕物語からの説教が圧倒的に多いでしょう。しかし、四つの福音書の中でも一番古いマルコ福音書には降誕物語はありません。いきなり、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受け、そしてそのすぐ後に四十日四十夜荒野で誘惑を受けるという話になります。ですから、もし私たちにはマルコ福音書しかないとしたら、この荒野の誘惑からクリスマス・メッセージをしても、そんなに不思議なことではない、ということになるでしょう。けれども、マルコ福音書には

イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。

としか書いておらず、ではサタンからどんな試みを受けたのか、という内容が何も書かれていません。その内容を詳しく語っているのが今日のマタイ福音書の箇所なのです。この箇所は非常に大事な箇所です。なぜならこれはイエス様が公生涯、宣教活動を開始する前に起こった出来事だからです。主イエスは、サタンとの対決という試練を乗り越えなければ、地上での宣教活動を始めることができなかったのです。では、この試練の目的、意味とは何だったのでしょうか?イエスは何について試されていたのでしょうか?

誤解してはいけないのは、ここでイエスは我慢強さを試されたわけではないことです。イエスがどれくらい我慢強いか、40日の空腹にも耐えられるのか、そんなことをサタンは試みようとしたのではありません。断食とは我慢大会ではありません。聖書では、主イエスより前にモーセが全く同じ断食をしています。その箇所を読んでみましょう。出エジプト記34章28節です。

モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

モーセは荒野ではなく、シナイ山で四十日四十夜断食をしましたが、それは主のことばを預かるためでした。断食というと、私たちはおなかが空くだろうな、と考えます。確かにそうですが、しかし断食をする人は空腹を我慢する力を鍛えるために断食をしているのではありません。むしろ、断食をすることで精神を鋭敏にし、霊的な状態になって神のことばを聞こうとしているのです。主イエスも、公生涯を始められる前に、神のことばを聞くことを願いました。自分がこれから果たそうとする使命について、神からの確かなことばを頂こうとしたのです。しかし、人が霊的な状態になると、神の霊に対して敏感になるだけではありません。悪魔の霊も、そのような人に近づいてくるのです。古今東西の聖者と呼ばれる人は、断食を通じて神だけでなく、悪魔とも対峙してきました。仏教の釈迦も、悟りを開く前に悪魔からの誘惑を受け、それを退けたと言われています。

さて、先ほどサタンはイエスの我慢強さを試そうとしたのではない、と言いました。40日断食すると決意したイエスに対し、「そんなばかばかしいことやめなさいよ。おなかが空いたでしょ、ほらここにパンがあるから食べなさい」と誘惑して、イエスの決意を挫こうとしたのではないのです。そんな低俗なというか、単純な話ではないのです。イエスとサタンとの対話は、むしろ世界を賭けての対話だったのです。サタンは、イエスが何のために地上に来られたのかをよく知っていました。イエスはこの世界に神の王国、神の世界をもたらすために来られました。しかし、サタンも長いこと人間を観察し、人間を支配してきたので、人間とはどういう生き物なのかをよくわかっていました。イエスが公生涯においてこれからやろうとしていることが、本当に実現可能なのか、そのことをサタンは試そうとしたのです。

サタンは、この世界に神の支配をもたらそうとしているイエスに対し、ではどうやってそれを実現しようというのか、その具体的なプランを持ち合わせているのか?と問うたのです。イエスは王子や貴族でもなんでもありませんでした。イエスはただの平民でした。そんな彼が、人々から「あなたこそ王だ、救世主だ」と信じられ、人々が彼に従うようになるためにはどうすればよいのでしょうか?どうすれば、人々は彼をリーダーだと認めるのでしょうか?

少し別の角度から考えてみましょう。私たちの生きている世界でリーダーになろうとする人は、何をすべきでしょうか。今の世の中において、政治家になりたければ、国のトップである総理大臣や大統領になりたければ、その人は人々から支持を受けなければなりません。そして人々から支持されるためには、彼らの要望、願いをできるだけ叶えてあげなければなりません。人々が政治家に求めるのは何よりも生活の安定でしょう。今の日本でいえば経済的な保障、イエスの時代の人々の立場に立てば、「パンをくれ」でしょう。イエスも、荒野で40日間も断食することで、空腹のつらさをいやというほど味わっていました。そのようなイエス様ですから、パンがなくてひもじい思いをしている貧しい人たちの気持ちが痛いほどわかったことでしょう。実際、イエスの時代の多くの人々は貧困と飢えに苦しんでいました。そのイエスに対してサタンは言うのです。「どうすれば人々の注目を集め、彼らを従わせることができるのか。それは飢えている彼らに十分なパンを与えてやることですよ。そうすれば彼らは恩に着て、あなたの言うことには何でも従ってくれますよ。あなたは神の子だから、石ころからですらパンを生み出すことができます。それを人々のためにやってあげなさい。そうすれば、本当に神の王国が来たと彼らは大喜びしますよ」と。このサタンの提案は非常に現実的でリーズナブルなものでした。今の日本の政治家だって、財源さえ十分にあれば、人々に十分なパンを、いや現代ではお金を配るでしょう。それが人々の願いだからです。今年全国民に10万円を配るという前代未聞の出来事がありましたが、日本の財政赤字がこんなに深刻でなければ、もう一回やってほしいと願う人もいるでしょう。

しかし、イエスはこのサタンの現実的なアプローチを拒否しました。もちろんイエスも、人々がパンを必要としていることを痛いほどわかっていました。しかし、イエスが自動販売機のように、人々が欲しい時に欲しいだけパンを与えてあげる、そんな存在になったとして、それで人々は本当に幸せになるのでしょうか?今の世界でいえば、人々が必要とするだけお金を与えてあげる、そういう夢みたいなことが現実になったとして、それで私たちは幸せになるのでしょうか?よく言われていることですが、現在の世界の人口は75億人と言われていますが、今日の世界は彼らに必要なパンを供給する力を十分に持っているのです。ですから、理屈の上では今の世界ではだれも飢えるはずがないのです。しかし、現実にはそうはなってはいません。それは、私たちがパンを公平に分配することに失敗しているからです。「公平に」ではなく「平等に」というべきかもしれません。なぜならある人たちは、力のある人、能力のある人、あるいはお金持ちがたくさんのパンを持つことは間違っていない、それは公平なことだ、と言うかもしれないからです。ともかくも、私たちはパンを分かち合うことに失敗しており、その結果が1億人と言われる飢餓人口なのです。別の統計では1億どころではなく、世界の人口の10%が飢餓状態にあるとすら言われています。

主イエスはこの問題に気が付いておられました。パンは必要だけれども、パンを与えるだけでは十分ではないのです。人間の「もっと、もっと」という性質、必要以上にため込む性格、つまり貪欲の問題を何とかしない限り、パンの問題は解決しないのです。ですから私たちには神のことばが、そして神のことばに従うことが何としても必要なのです。イエスはこのことをよくご存じだったので、神の王国を立て上げるためのサタンの第一の提案を拒絶したのです。パンはもちろん大事だが、その前にまず神のことばが必要なのだ、とサタンの提案を押し返したのです。

そこでサタンは第二の提案をイエスに持ちかけました。「確かにそうかもしれない。人々の貪欲の問題を解決しない限り、パンをいくら与えてもだめかもしれない。それは分かりました。でも、ではパンの平等な分配を妨げているのはいったい誰でしょうか?権力を持つ人たち、ローマ帝国の皇帝たちや、ユダヤの大祭司やヘロデたちではありませんか。彼らは富をため込み、人々と分かち合おうとはしません。彼らを何とかしない限り、あなたのいう神の支配をこの世界に実現することなど不可能でしょう。そこで、神の子であるあなたがその万能の力を示してくれれば、あなたの貧しい民もこうした権力者たちに打ち勝つことができます。あなたの神もかつてそうしたではありませんか?出エジプトの際に、哀れな奴隷の民のために数々の奇跡を行って、人々を奴隷の家から解放したではありませんか。ですから神の子であるあなたも、その奇跡的な力を人々に示しなさい。そうだ、ユダヤ人が最も注目する聖なる場所、神殿で大いなる奇跡を演じてごらんなさい。人々はこぞってあなたの神の王国にはせ参じて、ローマ打倒のために立ち上がるでしょう」と。

しかし、イエスはこのサタンのもっともらしい提案も拒否しました。確かにイエスが奇跡を皆が見ている前で行えば、皆が驚嘆し、イエスにひれ伏すかもしれません。しかし、イエスにはそのようにして人を従わせることの限界が見えていました。実際、旧約聖書には民が奇跡に驚きつつも、すぐに神から背を向けてしまう例がいくつもあります。かつてモーセはエジプトから奴隷の民イスラエルを救い出す時に、10回も大いなる奇跡を行いました。その奇跡を見て、イスラエルの人々は神とモーセを信じた、と言われています。出エジプト記14章31節に、そのようにはっきり書かれています。でも、彼らは本当には神もモーセも信じてはいなかったのです。彼らは苦しいことがある、すぐに神やモーセに文句を言いました。聖書には、彼らは10回も神を試みたとあります。試みるとは、神に不平を言ったり、神の力を疑ったりすることです。そのため、彼らのほとんどは荒野で滅んでしまいました。奇跡は一時人を驚かせても、人を変える力はないのです。実際、イエスの奇跡を見て驚いた人たちの中にも、彼を捨ててしまった人がたくさんいました。

また、彼にイエスが奇跡的な力を発揮してローマの軍隊を打倒し、ユダヤ人たちに独立を勝ち取ってあげたとしても、それで彼らは幸せになるでしょうか。彼らは平等に食べ物を分け合う社会を作り上げることができたでしょうか。近代以降にも、そうした試みがありました。一番有名な例、フランス革命で富を独占する王侯貴族たちが打倒された後、フランスの民衆は幸せになったでしょうか。平等な社会を作れたでしょうか。いいえ、そうではありません。そのあとに壮絶な内ゲバが始まり、大混乱となって収拾がつかなくなり、それでナポレオンによる独裁制・帝政に逆戻りしてしまったのです。結局、人々の自己中心性や貪欲さが克服されない限りは、奇跡も力もむしろ悪い方向に人々を導いてしまうのです。ですからここでも、まず神のことばとそれに従うことこそが大切なのです。

このように、イエスに二つ目の神の王国建設プログラムも拒絶されたサタンは、いよいよ第三の提案に入ります。よくこの第三の誘惑について、全世界の富と栄光とを引き換えに、サタンがイエスに悪魔礼拝をするように誘惑した、というように理解されますが、ここでも話はそんな単純なものではありません。そもそも主イエスは、人となられる前は天においてすべての栄光を身に帯びていた方です。なので、べつに地上の王国の栄華を見せられても天上の栄華を知っている神の子がそんなものに心を動かされるとは思えないのです。サタンだってそんなことは百も承知のはずです。ですからこの世の栄光を餌に、神の子イエスをサタン礼拝者にしようなどという大それたことを考えていたはずはありません。むしろサタンの提案は、非常に現実的なものでした。

世界の歴史を振り返る時、世界宗教と呼ばれるような大宗教には一つの共通点があります。それは世俗の政治権力の力を利用してきたということです。ゾロアスター教や原始仏教、イスラム教などは、時の政治権力に保護されながら教勢を伸ばしていきました。プロテスタントも同じことが言えます。ルター登場の前に、同じような改革を説いたジョン・ウィクリフやヤン・フスのような人たちがいましたが、彼らの改革は失敗し、ルターは成功しました。その違いを分けたのは何か、ということについて、通説となっているのは、ルターは世俗の権力、ドイツの諸侯を味方につけたからだ、と言われています。サタンもこのことをイエスに示唆したのです。「あなたの教えはすばらしい。あなたの志はぜひ実現されるべきだ。しかし、あなたの教えを広めるためには、この世の王国の力がぜひとも必要です。私サタンは、このようの王国に絶大な影響力を持っています。ですからぜひ私の庇護のもとで、この世の王国の力をうまく使って、あなたの素晴らしい教えを世に広めようではないですか。私も喜んで協力します。ですから、あなたも世俗の事柄については私に従ってください。これはウイン・ウインの関係ですよ!」と、こう持ち掛けたのです。これは、笑い話や他人事ではありません。私たちも簡単にこのような提案に乗ってしまうからです。実際、私たちの目の前で、クリスチャンと呼ぶにはあまりにもいかがわしい人物が、キリスト教徒たちの願ういくつかの政策を実行するという約束と引き換えに、多くのクリスチャンからの忠誠を集めた、ということが起こったのですから。この人物がいろいろな嘘をついたり、異性との関係に問題があったり、とんでもなくぜいたくな暮らしをしていることはみんな知っています。嘘をつくことはサタンの業だと言われているのに、多くのクリスチャンはこの人物を支持しました。選挙で勝って、自分たちの政策を実現する力を得るためです。力を得るために、サタン的な行為を容認する、悪魔とも手を組む、それこそがサタンのイエスへの第三の誘惑の意味することだったのです。

しかし、主イエスはこの提案もきっぱりと拒絶しました。イエスは主にだけ仕え、また主の教えにだけ従うべきだと明言されたのです。「目的は手段を正当化する」というようなロジックを、イエスは拒否されたのです。そして、イエスに従った人々もこのイエスの教えを忠実に守りました。原始キリスト教の一つの重要な特徴は、それがいかなる世俗権力とも結びつかなかったことです。ほかの世界宗教とは違い、原始キリスト教は王や皇帝に守られず、かえって凄まじい迫害を経験しました。にもかかわらず、教会は爆発的に拡大したのです。これは宗教の歴史において例外的な出来事だと言えるでしょう。しかし、4世紀以降はキリスト教はローマ帝国の国教となり、その性格を大きく変えていきました。この点は今日の本題ではありませんのでお話ししませんが、最初の教会はそのようではなかったのです。彼らは、イエスの荒野での誘惑の意味をよく理解していたのでしょう。

イエスはサタンとの対峙を経て、これから自分が何をすべきなのかということをしっかりと確認しました。それはゼカリヤ書4章6節にあるように、「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」ということでした。物質的な豊かさや、圧倒的な力、そういうものに頼ることなく、神の霊の力によって神の支配を実現する、これこそがイエスのミッションであり、そのために主イエスはこの地上にお生まれになったのです。

3.結論

さて、今日はクリスマス・メッセージとしては異色な、イエスの四十日四十夜の断食からメッセージをさせていただきました。なぜなら、この箇所はイエスご降誕の目的を私たちに深く考えさせる箇所だからです。イエスがこの世界に来られた目的は、この地上に神の支配をもたらすためでした。神の王国とは、単に人々の願望を満たすためのものではありません。もっと豊かになりたい、もっとお金が欲しい、好きなだけ食べたいというような人々の願望を満たすことが神の目的ではありません。むしろ神の支配とは私たちの願望や欲望ではなく、神の願いを実現するためのものなのです。神の願いとは、私たちが公正な社会、助け合い、仕え合う共同体を築き上げることです。イエスはそのような共同体を築き上げるための道筋を示すためにお生まれになったのです。ですから御子のご降誕を祝うこの日に、私たちもまた、この神のヴィジョン、イエスの祈りを実現するために歩んでいきたいという決意を新たにしたいのです。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。あなたが御子イエスをこの世に遣わしてくださったことに心から感謝します。今日は、主イエスが公生涯を始められる前に、イエスが始めようとされた神の王国の実現への道筋についての、サタンからの挑戦や誘惑を学びました。サタンの一見現実的なアプローチをことごとく退けて、主イエスは神のことばと御霊により頼むことによって実現する神の王国への道を示されました。私たちもこれに従うものとしてください。私たちの教会において、神の支配が実現しますように。われらの主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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