分裂するキリストのからだ
第一コリント1章10~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週から使徒パウロのコリントの教会への手紙を学び始めました。前回は、コリントとはどんなところなのか、その歴史を振り返ってみましたが、今日の箇所からいよいよ本題に入っていきます。先週もお話ししたように、使徒パウロはギリシャの商業都市コリントで開拓伝道を始め、そこで約1年半をかけて伝道活動を行いました。パウロは、自らの使命を牧師と言うより、今日でいうところの外国人宣教師のように考えていました。宣教師とは、まだ福音が宣べ伝えられていない、異教徒の住むキリスト教未開の地に入っていって、そこで初めてキリストの福音を宣べ伝え、信者を獲得していくという、そういう働きをする人です。日本にも、明治時代以降に欧米からたくさんの宣教師が来てくれました。彼らは教会が立ち上がると、そこで長く留まろうとせずに、新たな開拓地を探してほかの場所に移り、自らが開拓した教会のことは日本人の牧師などに託すという行動パターンを取ります。彼らの目的は、なるべく広い地域に福音を届けることなので、一か所にずっといるということはないのです。それに対し、牧師というのは、一つの教会に10年とか、かなり長い期間留まります。そこで教会員の人たちと長期間にわたって人格的なかかわりを持ち、教会の発展や教会の周囲の地域社会とのつながりを深めていく、という役割があります。パウロには、長期間にわたって一つの教会に関わってその教会を発展させていくことよりも、なるべく早く広い地域に福音を届けるという明確な目的がありました。なぜかと言えば、パウロは自分にはあまり時間がないと思っていたからです。パウロはキリストが再び来られるとき、つまり再臨が近いと信じていたので、それまでのうちに世界中に福音を広めようと思っていました。世界中といっても、パウロにとっての世界とは地中海世界のことで、中国や、ましてやアメリカ大陸などは、その存在すら知らなかったでしょう。パウロの目的とは、キリストが再び来られるまでに、彼が知っている範囲の世界全体に福音を届けることでした。ですから彼はあわただしい旅人の人生を送っていたのです。

そのパウロにとって、1年半というのは相当長い期間でした。パウロはそれだけコリントの地のもつ可能性を評価していて、この都市をパウロのギリシャ・ローマ世界における伝道の基地にしようとしたのでした。けれども、パウロにとっての1年半とはかなり長い期間でしたが、コリントの人たちにとっては1年半というのはそんなに長い時間ではありませんでした。コリントの教会の人々の中は、パウロのようにユダヤ人として育ち、旧約聖書のことをよく知っていた人もいたでしょうが、そういう人は少数派で、むしろこの教会は主に異邦人、つまりユダヤ人以外の人たちで構成されていました。彼らは旧約聖書を知らないどころか、唯一の神という考えそのものに縁遠い人たちでした。私たち日本人の場合でも八百万の神というように、たくさんの神がいると考える方が多いのですが、コリントの教会に加わったギリシャ人たちも、そのような考えを抱いていた人たちばかりでした。そういう人たちにとって、天地万物を創造された唯一の神という概念そのものが驚きだったでしょう。また、当時は現在のような印刷技術はありません。旧約聖書は大変高価で貴重な書でしたし、今日のように一冊の本に旧約聖書39巻をコンパクトにまとめることなど技術的に不可能でした。聖書は分厚い巻物を何十巻も使わないと収めきれないという、そういう書でした。ですから、コリントの教会の人たちはほとんど旧約聖書のことを教わることなく、さらには聖書そのものを見たこともなく、教会に加わった人たちも多かったでしょう。今日の私たちにとっても、聖書を一度も読んだことにない人に聖書のこと、キリスト教のことを詳しく教えるとなると、マンツーマンの聖書レッスンを続けても1年では足りないかもしれません。パウロの時代のコリントの人たちは、自分個人の聖書を持つなどということは不可能でしたし、働きながら伝道活動を続ける多忙なパウロに、マンツーマンで聖書のことを定期的に教えてもらう機会もなかったでしょう。そういう彼らにとって、パウロのコリント滞在の1年半は短すぎました。パウロが去った後、彼らがキリスト教の教えに関して混乱状態に陥ったのは、むしろ当然だったかもしれません。

パウロなき後、彼らが切実に求めたのは優れた教師でした。今日の教会でも、無牧の教会を維持するのは大変なことですが、テレビやインターネットで聖書を学んだり説教を聞いたりすることなどできないコリントの教会の人たちにはなおさらのことでした。そこに、うってつけの教師が現れました。それがアポロです。アポロはエジプトのアレクサンドリア出身のユダヤ人宣教師ですが、彼にはパウロにはない二つの魅力がありました。一つは彼が雄弁家だったということです。つまり話がとっても上手だったのです。パウロは素晴らしい文筆家で、感動的な文章を書くことができますが、ちびで話下手でしたので、話し手としては迫力不足でした。コリントの教会には、その点に不満を感じていた人たちもいたのです。また、アポロは文化水準が非常に高い文化都市アレクサンドリア出身ということもあって、人々が好む知恵のことば、知性のひらめきを感じさせるような内容の話が上手でした。知性という意味ではパウロもいささかも引けを取らない人物でしたが、しかし彼の説教は愚かに思えるほど一本調子でした。パウロはひたすら十字架にかかって死んだ救世主という、ショッキングなメッセージを繰り返したのです。十字架にかかるというのは、今日でいえば電気椅子で殺されるようなものです。そんな死に方をした人がどうして世界の救世主なものか、この人は頭がおかしいんじゃないか、と思われるようなメッセージをパウロは繰り返したのです。コリントの人たちも最初はパウロの語ることに衝撃を受けたものの、毎度同じ話を繰り返すパウロに飽きてきました。そんなときに、手を変え品を変え、様々な角度からキリストを解き明かす雄弁なアポロが登場したのです。一部の人たちはこのアポロにぞっこんになりました。その結果、アポロ自身は全く望んでいなかったことではありますが、コリント教会にアポロ派が出来てしまったのです。私はパウロ先生よりもアポロ先生についていく、という人々が現れたのです。このような背景を踏まえながら、今日のテクストを読んでまいりましょう。

2.本文

さて、パウロは冒頭のあいさつの言葉を述べたのち、単刀直入に大事な問題について切り出します。

さて、兄弟たち、私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。

パウロは感動的な挨拶を述べ、5節ではコリントの人たちを「すべてにおいて、キリストにあって豊かな者」と持ち上げた後に、いきなり彼らを突き落とすようなことを書きます。どうかお願いだから、仲間割れをしないでくださいと。パウロの手紙を受け取った教会の人たちは、手紙を回し読みするようなことはしませんでした。字が読めない人の方がおそらくは多かったので、手紙は字が読める人が皆の前で大声で朗読したのです。聴衆たちは、あなたがたは聖なる者だ、神からのどんな賜物にも欠けることのない者だ、と耳に心地よいパウロの言葉を聞いて喜んでいたところに、「仲間割れしないでください」という下りを聞いて、ばつの悪い思いがしたことでしょう。パウロは続けてこう記しています。

実はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟たち。あなたがたの間には争いがあるそうで、

この「クロエ」という人物、これは女性の名前ですが、彼女がどんな人だったかは詳しくはわかっていませんが、おそらくは貿易商を営んでいて、パウロがこの手紙を書いていたエペソとコリントとを貿易のために頻繁に行き来していたと思われます。仕事でエペソに来ていたクロエの家の者が、コリント教会の様子や問題をパウロに伝えたのでした。コリントにはいろいろな問題があり、パウロはこの第一コリント書簡の前に、コリント教会に手紙を送っていました。5章9節には「私は前にあなたがたに送った手紙で」とあるように、パウロは教会内部の不品行の問題を聞いて、その取扱いについての指示を書き送っていたのでした。しかし、パウロはその後、コリント教会のもっと深刻な問題を知ったのです。それは仲間割れ、内部分裂、派閥争いでした。派閥争いと聞くと、なんで教会内部でそんなことが起きるのか、と思われるかもしれませんが、ある意味でこれは当然起こりうることでした。当時のコリント、もっと言えばギリシャ・ローマ社会ははっきりとした階級社会でした。奴隷と主人、男性と女性、大人と子供、こういう各グループは基本的には互いに没交渉でした。もちろん奴隷と主人はいろいろな場面で接点がありましたが、あくまで奴隷は奴隷であり、お役目以外で主人と親しく交わったり、一緒に食事をとることもありませんでした。また男女の区別もはっきりしていて、女性が男性だけの集まりに加わるというようなこともありませんでした。しかし、パウロの立てた教会にはこうした身分の違いはありませんでした。パウロはガラテヤ人への手紙で「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません」と書いていますが、こういう人種・性別・社会的身分という垣根のないグループはまさに革命的な存在でした。既存の社会の秩序を打ち破る、まったく新しいグループだったのです。しかし、ではそういう雑多な人たちが集まって、はたしてうまくいくかと言えば、それはまた別の話です。理想と現実は違うのです。人はそんなに急に変われないからです。また、コリントの教会に集まった人の動機も様々でした。なにしろゴールドラッシュのような熱気にあふれた都市で、ここで一旗揚げようと思ってきた人たちも少なくありません。コリントの教会に働く不思議な聖霊の力に惹かれて、自分もあのような力が欲しい、というような、そんな動機で教会に来る人もいたでしょう。こういう雑多な人々の集まる教会でありながら、創立者であるパウロは不在であり、そこに魅力的な次なるリーダーであるアポロが加わったという、複雑な事情を持った教会でした。いくつかの分派、グループが出来てしまうのはむしろ当然でした。

コリントの教会に出来たのは、パウロ派とアポロ派だけではありませんでした。ケパ派というグループもできました。ケパとはアラム語の岩という意味で、ギリシャ語のペテロです。ですからケパ派とは12使徒筆頭のシモン・ペテロ派のことです。ペテロがコリントの教会に来たことがあるのかどうかはわかりませんが、イエスの直弟子として有名だったでしょうし、特にコリント教会の少数派であるユダヤ人キリスト教徒にとっては、同じユダヤ人であり、エルサレム教会で重んじられていたペテロの方が、イエスに会ったこともないパウロよりも格が上だ、と思われていたでしょう。またパウロは、キリスト者はモーセの律法を守る必要がない、と明確に主張していましたが、ユダヤ人キリスト者の中にはパウロの言うことは過激すぎる、聖書の教えであるモーセの律法を守る必要がないなどというのは極端すぎる、と反発を覚えている人たちもいました。そういう人たちが、ケパ派を立ち上げたのでした。

そしてさらに驚くべきは、「私はキリストにつく」と言い出した人がいたということです。クリスチャンはみんなイエス様についているのではないのでしょうか?なんとキリストも、パウロやペテロと同格のリーダーの一人にされてしまったのでしょうか?しかし、これはおそらくそういう意味ではないでしょう。「私はキリストに!」と言った人々は、キリストをリーダーの一人に格下げしたのではなく、私たちだけが本当の意味でキリストに属している、私たちとイエス様との関係は特別なのだ、普通のクリスチャンの中でも、私たちは特別な選ばれたグループなのだ!と主張していたのでしょう。ここにも、他の人たちよりも自分たちは上だ、特別だという優越感を持ちたいという、彼らの動機がはっきりと見えます。他の人たちとは違って、私たちはイエス様と特別な関係を持つ、いわばインナーサークルのような存在なのだ、と主張したわけです。

つまり、この派閥騒ぎの背後には、自分たちを他の人たちよりも上に置きたい、上になりたいという競争心があったのです。

当時のギリシャ世界では、哲学者たちはそれぞれ自分の弟子たちを集めて相争っていました。そうしたグループは互いに優劣を競い合っていました。自分たちが師と仰ぐ先生こそ一番偉いのだ、だからその先生についている自分たちも偉いんだぞ!という理屈です。コリントの教会の人々は、このようなマインドを教会内に持ち込んだのでした。自分たちは勝ち組のグループに属したい、だから一番偉そうなリーダーを選ぼう、とそんな気持ちから、彼らは、自分はケパに、自分はパウロに、と言い立てていたのです。

パウロはこのような状況に嘆き、こう書いています。

キリストが分割されたのですか。あなたがたのために十字架につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか。

教会内に分派を作ることは、キリストのからだをバラバラにすることでした。教会はキリストのからだであるからです。また、彼らがパウロとキリストを同列に置いたことに対しては、「パウロはあなたがたのために十字架につけられたのでしょうか」と、問いかけます。キリスト教は、自らの命さえ献げたイエスその人に基礎を置く宗教です。パウロがどれだけ献身的な働きをしようとも、またいくら立派なことを語ったり、書いたりしても、キリストの働きを超えるものでも、その代わりになるものでもありません。十字架にかけられ私たちのために恥辱を味合われたキリストこそが、すべての中心にあるのです。

パウロはなおも問います。「あなたがたがバプテスマを受けたのはパウロの名によるのでしょうか」と。バプテスマとは、キリストと一つになることを象徴的に示す儀式です。私たちはバプテスマを通じてキリストと一つになり、キリストと共に罪の生き方に死んで、キリストと共に神と共に歩む人生へとよみがえるのです。パウロと共に死んで、パウロと共によみがえるのではありません。ですからパウロの名によるバプテスマなどあり得ないのです。

また、バプテスマという儀式の司式者が誰か、ということは重要ではない、ということもここでは示唆されています。「私はだれだれ先生に洗礼を授けていただいた」ということはよくクリスチャンの間でも話題に上ります。洗礼を授けてくれた先生が有名な先生だと、それだけで何か優越感を感じてしまう、というようなことも、私たちの間でも、もしかするとあるのかもしれなせん。しかし、パウロはそのようないことには大した意味はない、とはっきりとここで語っています。パウロ自身にとっても、バプテスマと言う儀式を執り行うことよりもキリストを宣べ伝えることの方がずっと重要であり、自分はそのために召された使徒なのだ、ということを語っています。もちろん、パウロはバプテスマの意義を軽んじていたのではありません。バプテスマは私たちがキリストと一つになることを公に示す、非常に大事な聖礼典です。そこには信仰者の生き方が凝縮されているので、それを重んじることはとても大切なことです。しかし、ポイントはキリストと共に死んでよみがえることであり、誰がバプテスマを授けたのか、ではないのです。

パウロも全然バプテスマを授けなかったわけではなく、クリスポ、ガイオ、そしてステパナの家族にもバプテスマを授けています。クリスポとは使徒の働き18章8節によると、ユダヤ教の会堂管理者でしたから、ユダヤ人の間の霊的指導者でした。ガイオもローマ書16章23節に登場しますが、「私とコリントの全教会の家主であるガイオ」とありますので、コリントで家庭を解放して集会のホスト役を務めた裕福な家の主人がガイオだったのでしょう。ステパナは第一コリント16章17節に登場しますが、彼もまたコリントの教会で重んじられているリーダーの一人でした。パウロはこのように、主だった人々三人にバプテスマを授けましたが、彼らに他の人々へのバプテスマの司式を委ねたものと思われます。ここにも、大切なのはバプテスマでキリストと一つになることであり、誰がバプテスマを授けたのかは問題ではない、というパウロの姿勢を見ることができます。

そしてパウロは、自分の福音が言葉の知恵にはよらないものだと強調します。パウロは巧みな演説やレトリック、知恵の言葉ではなく、「十字架につけられた世界の王」という実に奇妙な福音の言葉、それを宣べ伝えることこそが自分の使命なのだ、と語ります。この世の知恵と、この世の観点からはおろかに見える十字架の言葉、というコントラストは、次の18節以降の大切なテーマになりますので、次回の説教においてしっかり考えてまいりたいと思います。

3.結論

さて、今日はコリント教会に生じた分裂の問題について考えてまいりました。教会も人間のグループである以上、ある程度の規模になれば分裂やいくつかのグループが出来てしまうのは避けられないことだ、と思われるかもしれません。しかし、忘れてはならないのは教会はキリストのからだだということです。私たちはキリストのからだをバラバラにするなどということをすべきではありません。互いの違いを受け入れて、また他の人より上になりたいなどという競争心を捨てて、教会はキリストを宣べ伝えるために集められた人の群れなのだ、という根本を見つめ直し、一人でも多くの人をキリストのもとに導くという、私たちの本来の目的のために固く立たなければなりません。仲間割れしている余裕はないのです。

とはいえ、教会の一致というのは大変難しい問題です。確かに私たちの間にはパウロ派やペテロ派はありませんが、ルター派やカルヴァン派、ウエスレー派という分派はあります。他にもペンテコステ派、福音派、主流派など、派閥だらけではないかと。またプロテスタント以外にもカトリック、東方正教会など、キリストの一つのからだという割には、あまりにもたくさんの派閥があるという現実があります。もちろん、こうした教派が全部悪いとか、これらをみんな廃止して一つだけの統一教派を作るべきだ、と言いたいわけではありません。生物が多様であるように、教会組織のあり方も多様であっていいし、それを祝福と考えることもできます。それぞれの教派もそれなりの正当な理由があって形成されてきたのです。それでも、同時に私たちは、多様であっても一つである、ということも忘れてはなりません。エペソ書にあるように、「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」なのです。私たちの教派教団のあり方がどんなに多様であっても、それらすべての教会はたった一つの目的のために建てられているのです。それは全世界の人々に主イエス・キリストを証しすることです。今週もこの目的のために力強く歩むことができるように、共に祈りましょう。

全世界にキリストのからだである教会を立て上げ続けておられる父なる神よ、そのお名前を賛美いたします。今日はコリントの教会に生じた分裂の問題を学びました。しかし、何百もの教派に分裂している私たちもコリントの教会を笑うことはできません。私たちも、自らの信仰の伝統を大切にしつつも、ほかの教派教団に対しても、同じキリストのからだとしての敬意と愛をもって接することができますように。皆で力を合わせ、この傷ついた世界に神の愛を届けることができますように。われらの主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード