1.導入
みなさま、おはようございます。さて、エレミヤの預言者としての人生も、いよいよ終盤に差し掛かってきました。前回は、ユダ王国の人々が奴隷解放の誓いを撤回したために、滅亡が避けられないものとなったというお話をしました。今日の箇所は、その滅亡の先にある希望についてです。
ではいつものように、これまでの経緯を振り返ってみたいと思います。ユダ王国最後の王であるゼデキヤは、北の超大国バビロンの後ろ盾でユダ王国の王となることができました。しかし、ゼデキヤは南の超大国エジプトとひそかに同盟を結ぶことで、バビロンの支配を脱しようとしました。このユダ王国の動きを知ったバビロンの王ネブカデレザルは自分の子飼いの王の背信に怒り、大軍をもってユダ王国に攻めてきました。バビロンは、南ユダ王国の主要都市をすべて滅ぼし、最後にエルサレムを包囲しました。いわゆる籠城攻めです。しかも、18か月間、1年半もの間包囲網を敷きました。ユダ王国は窮地に追い込まれ、神の憐みを乞うために今まで一度も守ったことのない神の戒め、つまり奴隷解放の戒めを実施します。しかし、ここで事態が急変します。南の大国エジプトがとうとう動き出し、エルサレム救出のために援軍を送ったという報が届きました。バビロンも強国エジプトからの軍を警戒し、いったんエルサレムの包囲網を解きます。すると、脅威が去ったと喜んだエルサレムの人々は奴隷解放の宣言を撤回し、解放奴隷を再び奴隷にしました。この恥ずべき行動は神の激しい怒りを引き起こし、神はバビロンを再び連れ戻してエルサレムを滅ぼすことをエレミヤに伝えました。これが前回までの話です。
つまり、今回の聖書箇所はエルサレムが一時的にバビロンの包囲から解かれ、人々がつかの間の平和、安堵感を味わっているという状況で起きた出来事でした。では、今日の箇所を詳しく見ていきましょう。
2.本文
今日の箇所は、ある一つのエピソードから始まります。それは、エレミヤの郷里であるアナトテからエレミヤの親戚がエルサレムに訪ねてきたことでした。包囲されていたエルサレムですが、バビロンが去った後に一時的に交通が再開され、他の町からもエルサレムを訪れることができたのです。この訪問者、ハナムエルはこうエレミヤに語りました。「どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利がありますから、あなたが買い取ってください。」実はエレミヤは、神からハナムエルにこのようなことを言われるであろうとあらかじめ知らされていたのですが、まさにその通りになったのです。このことから、ハナムエルの訪問が偶然ではなく神によって定められていたことが明らかにされたのです。このエレミヤが頼まれた買い戻しというのは、どういうことなのか少し説明しましょう。前回ヨベルの年のところで読んだ、レビ記25章にその規定があります。25章の25節です。お読みします。
もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利がある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。
この規定は、前回もお話ししたようにイスラエルの中で富の集中、一部の人たちだけに土地やお金が集まって他の人たちが貧しくなることを防ぐためのものです。イスラエルの律法には先祖の地境を移してはならないという戒めがありますが、たとえば山口家に代々受け継がれてきた土地の割り当てを増やすことも減らすこともしないことで、ある一族が大地主になって富を独占するのを防ごうとしたのです。ですから、ある一族の中で誰かが貧しくなって土地を売らざるを得ない時は、同じ一族の他の人がそれを買い戻して一族の割り当て地を守ろう、維持しようという趣旨の掟です。エレミヤの一族にも先祖から伝わる相続地があったのです。エレミヤ自身は祭司の一家レビ族に属していたので、土地は持たないはずなのですが、アナトテという小さな町で暮らしていくためには祭司だけでは生活できず、いわば兼業農家のように農業と祭司の務めの両方をしていたのかもしれません。今でいえば、生活のために牧会の傍らアルバイトをしている牧師のようなものでしょうか。エレミヤはアナトテを離れて大都会であるエルサレムで生活をしていたわけですが、郷里で何らかの理由で畑を手放さざるを得なくなった親戚が、この律法の教えに基づいて親類であるエレミヤに畑を買い戻してくれ、と頼んできたのです。
この申し出に対して、エレミヤはどうしたでしょうか。エレミヤは躊躇なく購入を決めました。実は神は、このアナトテの土地を買い戻すことをもエレミヤに指示していたからです。この買い戻しの取引をエルサレムの人々が見ている目の前で行ったエレミヤは、皆の前で書記であり盟友であるバルクに対し、神からの言葉をこう語ったのです。
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器に入れ、これを長い間、保存せよ。まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。
主がエレミヤとバルクに命じてさせた行動とは、一種のタイムカプセルのようなものです。みなさんは、タイムカプセルというものをなさったことがあるでしょうか。小学校の卒業式に、未来の自分に手紙を書いて、その手紙を地面に埋めて、成人式などの記念の日にそれを掘り返す、というようなことです。エレミヤが親類から土地を買い戻したのに、そのことを証しする大事な証書を直ちに用いずに、長い間土の器に入れて保存するのは、それがアナトテで直ちにその土地を買い取るためのものではなかったことを示しています。そうではなく、長い時間の後に平和が戻って、また普通に土地の売り買いが出来る時が来る、そのような未来のために、またそうした未来が来るまでに、土地の権利を証しする証書は開封せずに保存しておくということなのです。この土の器は、バビロンとの戦争でも消失しないように、どこか安全な場所に隠されました。ですからこの行動は、確かに将来に希望があることを示すための象徴行動でした。
しかし同時に、エレミヤはエルサレムがもうすぐバビロンに滅ぼされるということも、神から聞かされていました。迫りくる破局と、遠い未来の希望、こうした相反するようなメッセージをエレミヤは神から受け取ったのです。エレミヤの心情には複雑なものがあったでしょう。
この取引を終えたエレミヤは、独りになって神に向き合います。祈ったのです。それが17節以降です。この祈りは非常に充実した祈りなので、よく見ていきましょう。
まずエレミヤは神を賛美することから祈りを始めます。このことは私たちにとっても大事なことです。私たちは祈るとき、自分の言いたいことから始めてしまわないでしょうか。「神様、私は今こういうことで困っています、悩んでいます。助けてください。」といきなり祈るかもしれません。しかし、私たちが誰か親しい人に頼みごとをするとき、前置きなしにいきなりお願いすることはないでしょう。人間相手でも、私たちは相手のことをおもんぱかって、相手に喜んでもらえるようなことから切り出すでしょう。相手が神ならなおさらのことです。ですから、祈りの時にまず神を賛美するのはまさにふさわしいことなのです。そして、神を賛美するのは、神に向かって語りかけているのと同時に、自分自身に語りかけていることでもあります。私たちは神に祈るときに、それにふさわしい精神状態に自分を高めていく必要があります。私たちは神がどんな方であるのか、自分がどんな方に語り掛けているのかを、祈る際に改めて確認する必要があります。私たちの神は、世にあまたいる神々の一人ではありません。唯一の神、天地万物の創造者なのです。神を賛美するとき、私たちはその大切なことを改めて思い起こします。そしてその神の前に、謙虚な態度で向かうことができるようになるのです。
また、神様のことを考え、神に祈り願い求めるときに忘れてはならないのが、神が恵み深い方だということです。神が恵み深く、私たちの声に耳を傾けてくださると信じるからこそ、私たちは神に祈るのです。ここでの18節のエレミヤの祈りの言葉は、かつてシナイ山で神ご自身がモーセに語った言葉を思い起こさせます。エレミヤはその神の言葉を思い起こしながら祈ったのでしょう。それが出エジプト記34章6-7節です。これはどんな場面かというと、モーセは大胆にも神にその栄光を見せて下さい、その御顔を拝ませてくださいと願いのですが、そのモーセの願いに対し、神はご自分がどんな方であるのかを示されました。そこをお読みします。
主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代にも保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰するべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
私たちの信じる神はあわれみ深い神です。主ご自身が、自分はそのような者であると宣言なさっているのです。確かに神は咎を正しく罰せられますが、いつまでも怒り続けておられることはありません。罰はずっとは続きません。恵みは千代にも及びますが、罰は三代、長くて四代で終わるのです。そしてこのことはエレミヤ書のメッセージを考える上で非常に重要です。エレミヤは、背信のイスラエルに裁きが下ることを宣言しており、彼らは捕囚としてバビロンに連行されますが、それは三代まで、70年で終わるのです。未来永劫続くわけではなく、70年という限られた期間です。それに対し、アブラハムの子孫であるイスラエルへの恵みは千代にも及びます。神はイスラエルを見捨てることなく、必ずその罪と咎を赦してくださるのです。エレミヤ書にいかに裁きのことが多く語られていようとも、最後には主はイスラエルを憐れんでくださる、この神の変わらぬ愛と誠実こそがエレミヤ書のメインテーマ、希望のメッセージなのです。
ですからエレミヤがここでモーセに対する神の言葉を引用したのは、神は確かにこれからエルサレムに罰を下すけれども、神はアブラハム・イサク・ヤコブとの契約を忘れることなく、いつか必ず我らを助けて下さる、罪を赦してくださる、そのような信仰を言い表しているのです。
しかし、恵み深い神ではあっても、神は公平な方であるので、よい行いには良い報いを、悪い行いには悪い報いをお与えになります。そのことが19節に書かれています。それは、「人それぞれの生き方にしたがい、行いの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます」という一言です。神は、私たちそれぞれに行いにしたがって報いられるというのは、旧約・新約を通じて一貫した教えです。二か所だけ、そうした箇所を新約聖書から確認しましょう。まず主イエスの言葉として、マタイ福音書16章27節です。
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのの行いに応じて報います。
また、使徒パウロもこう書いています。第二コリント5章10節です。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるのです。
と、私たちはその生涯の終わりに、行いに応じて報いを受けることが語られています。しかし、エレミヤがここで行いによる報いを語ったのは、個々人のことというよりも、イスラエル民族全体としての行いに対する神の報い、あるいは裁きについてでした。イスラエルの中には、善良な人も邪悪な人もいたでしょう。背信のイスラエルの中でも、神への信仰を捨てなかった人もいたのですが、しかしそのような個人の違いを抜きにして、イスラエルは全体として行いによって裁かれるのです。いわば連帯責任です。バビロン捕囚は、敬虔なユダヤ人にも、不敬虔なユダヤ人にも、等しく望むものだからです。23節にはそのイスラエルの行いのことが語られています。ユダヤ人の中にはエレミヤやエゼキエルのように神を恐れる人ももちろんいたので、ユダヤ人が一人残らず律法を何一つ行わなかったというようなことではありません。これは一種の誇張表現です。しかし、彼らは民族全体として神に逆らいました。前回学んだ、奴隷解放の撤回など、まさに彼ら全体としての決断、民全体の罪でした。神は個々人を裁かれるのと同時に、私たちを共同体として裁きます。ですから私たちは、自分のことだけでなく、兄弟姉妹の霊的状態についても敏感であるべきなのです。私たちは一人だけいい子でいることはできません。周りの人たちの影響を必ず受けます。ですから正しく生きようと思えば、他の人たちにもそのような生き方を促す必要があるのです。
さて、このように、17節から24節までは、エレミヤは神とイスラエル全体との関係を回顧しています。そして、これまでのイスラエルの歩みゆえに、またイスラエルの神は人を公平に裁く方であるがゆえに、裁きは避けられないのです。今エルサレムはバビロンの包囲を解かれ、一息ついています。エルサレムの住民の中には危機は去ったのだと考える人も少なくありませんでした。しかしエレミヤは厳しく現状を見ています。一時撤退したバビロンは必ず帰ってくる、そしてその時にはエルサレムは今度こそ助からないということを神によって示されていたのです。神は、奴隷解放を撤回したエルサレムに、剣と疫病と飢饉を送るとエレミヤに宣言しました。それで、エレミヤはこれから何が起こるのかが見えていたのです。そのことを語るのが24節です。
ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。
エレミヤは「あなたの告げられた事は成就しました」と言っていますが、実際には現時点ではまだこのことは成就していません。バビロンはまだエルサレムには戻ってきてはいなかったからです。しかし、エレミヤはここでは既に起こったかのように完了形で語っています。それほどはっきりと、エレミヤにはエルサレムの行く末、滅亡が見えていたのです。それなのに、とエレミヤは言います。なぜ神は、これから滅びゆく国の土地を買いなさいなどと私に命じられるのですか、とエレミヤは神に問いかけるのです。そんなことにどんな意味があるのですか、と問いかけるのです。
このエレミヤの真剣な問いかけに対して、神は答えてくださいました。27節から35節までは、イスラエルの背信と、それゆえ裁きが避けられないことを今一度神は念押しされました。しかし、それだけではありません。裁きだけで終わるのではないのです。神はここで、希望のメッセージをエレミヤに託しました。そのメッセージ、39節以降をお読みいたします。
わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。
これからまさにエルサレムに起きようとしていることは、神とイスラエルとの関係の破局、契約関係の破綻です。しかし、そのような悲劇のあとに、神はイスラエルと新しい契約、とこしえの契約を結ぶと約束しておられるのです。神は彼らの幸福のために、彼らに新しい心、神を畏れ敬う心を与えると約束しておられるのです。神がもし将来においてイスラエルと再び契約を結ばれたとしても、イスラエルの心に変化がなければ、イスラエルは再び神を裏切り、神の怒りを買うことになるでしょう。そうすると、同じことの繰り返しになってしまいます。ですから、イスラエルは神と新しい契約を結び、その契約の恵みに与り続けるために、新しい心を持つことがどうしても必要になります。では、どうすればそのような新しい心を持つことが出来るのか?いくら頑張っても、そのような心を持つことが出来ないとしたら、どうすればよいのか?そう考えるかもしれません。そこで神は、その新しい心を、神ご自身がイスラエルの人々に与えようと約束しておられるのです。
このような将来の希望という見地から振り返ってみれば、現在の苦難や艱難すらも、肯定的に思えてくるでしょう。つまり、新しい契約、新しい心を与えられるのにふさわしい人間となるために、現在の試練があるのだと。人間の魂の成長のためには苦難が必要であるように、イスラエル民族が苦難の歴史をたどるのも、民族全体の霊性が高められ、新たなステージへと到達するためなのです。艱難汝を玉にす、という言葉があるように、この苦しみを通ることで、神から新しい心を与えられるのにふさわしい状態になるように、心が耕されるのです。エレミヤに親類の畑を買うようにと神が命じたのは、このような素晴らしい未来がイスラエルにはあることを指し示すための、象徴行動としてでした。神はエレミヤにこう言われました。43節からお読みします。
あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人の手に渡される』と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる。ベニヤミンの地でも、エルサレム近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの繁栄を元どおりにするからだ。—主の御告げ—
確かにこれからエルサレムとユダ王国の人々は大きな苦難に向かっていきます。そこには何の希望もないようにさえ思えます。しかし神は、そのような苦難の先に目を向けるようにとイスラエルの人々に促しているのです。再び、ユダヤの地のどこででも、今エレミヤがしているように、自由に畑が買えるようになる。再び繁栄と平和が取り戻されるのだ、と神は約束しておられるのです。
3.結論
今日は、滅亡へと突き進んでいくエルサレムの住民に対し、神がエレミヤを通じて、その滅亡の先にある希望のメッセージを届ける箇所を学びました。この滅びの先にある希望というのは、聖書で繰り返されるライト・モティーフ、中心主題です。古くはモーセがこのような希望を語りました。モーセは、イスラエルが神に逆らい続けて契約が壊れてしまうことを予見していました。その結果、イスラエルの人たちは祖国を追われ、捕囚の民として諸国民の中で暮らすようになると語りました。しかし、神はイスラエルを憐み、彼らを再び祖国に連れ戻し、また彼らに新しい心を与えることをも予見していたのです。預言者イザヤも、イスラエルに徹底的な裁きが下るものの、その後に神の豊かな憐みが注がれると預言しています。でも、そのような祝福と憐みが注がれる前に、なぜイスラエルは苦難と裁きを受けなければいけないのでしょうか。今ここで、苦難なしに祝福しては、なぜ駄目なのでしょうか。それは、彼らの頑なな心が打ち砕かれるためでした。
人間というのは、なかなか謙虚になれないものです。学校を卒業して会社に入った新入社員はいろいろな訓練を受けなければいけませんが、一番大事なことはそのプライドが打ち砕かれることだ、ということを聞いたことがあります。特に一流大学から一流企業に入ったいわゆるエリートと呼ばれるような人ほど、そのことが当てはまると聞いたことがあります。こういう人は、心のどこかで自分は優秀だ、特別なんだ、という意識があるものです。しかし、そういう意識を持っている限りは、その人は本当の意味では活躍できないのです。仕事上で失敗をしたり、苦労を重ねてそうした天狗の鼻を折られ、自分の弱さ、未熟さを知り、周りの人たちに対して謙虚になり、感謝の気持ちを持つようになり、周りの人の助けによって自分はやっと立っているのだ、ということがわかってから、その人は本当の意味で社会に役立つような人材になっていくのです。南ユダ王国の人たちも同じでした。自分たちは神に選ばれた民だ、特別なのだ、という意識が彼らにはあったのですが、自らの罪深さと無力さを異国の地で思い知らされ、そこからやり直すことで彼らの信仰は磨かれていくのです。
私たちも、人生で様々な苦難に出会いますし、特に今私たちはコロナや地球気候変動問題など、自分の力ではどうにもならないような問題に直面しています。しかし、数年前には人間は疫病を克服し、人工知能などの助けを借りて、この世界を完全にコントロールできるようになる、というようなことがまことしやかに語られていたのです。けれども、今回改めて思い知らされたように、私たち人間は実際は大変もろいものです。地球環境をコントロールできる力など持っていませんし、またそもそもコントロールしようとすること自体間違っているのです。私たちは現在の苦難を通じて、神の前に謙虚になることを学ぶように促されているのかも知れません。しかし、私たちの神は苦難の先には希望があることをも、私たちに告げてくださっています。ですから、この試練の中で謙虚さを学び、同時に未来の希望を仰ぎつつ歩んでまいりたいと願うものです。そのような歩みに主が伴ってくださるように、祈りましょう。
光を造り、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造される神よ。その御名を賛美いたします。今朝はエレミヤ書から、苦難の先にある希望について学びました。主が私たちに試練を下されるのは、私たちの霊性を整え、神の豊かな恵みに与るのにふさわしい者とするためであることを信じます。どうか現在の困難な歩みを続ける私たちを守り、また神の子として相応しいものとなれるように私たちを鍛えてください。私たちの主、苦難を通じて栄光に入られたイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン