ハナヌヤ
エレミヤ書28章1~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。私たちの教会では、これまで旧約聖書の学びを熱心に続けています。この主日礼拝ではエレミヤ書、親子礼拝では創世記、祈祷会ではサムエル書を読み、森田役員のメッセージも旧約聖書からの講解です。私は以前奉仕していた教会でも、旧約ばかりを取り上げるので、「先生のご専門は旧約ですか?」と尋ねられることがよくありました。でも、私は新約学者の端くれでして、論文を書いたのはパウロについて、神学校でも新約学を教えています。ですから正直を申しますと、説教も新約聖書からの方がずっと準備しやすいのです。それでも、教会での説教で旧約聖書を大変重視しているのは、旧約聖書こそが新約聖書の土台だからです。家を建てる時は、まずしっかりとした土台を据えることが肝要です。土台もしっかりしないのに、いくら見栄えの良い上物を立てても、その家は固く立つことはないでしょう。新約聖書も同じことです。旧約聖書をよく知らずに、新約聖書ばかり読んでも、その内容を半分も理解できないでしょう。主イエス・キリストの宣教についても、旧約をよく知らずには十分には理解できないのです。理解できないどころか、それを誤解したり、曲解したりする恐れすらあります。なぜなら、旧約聖書という土台の代わりに、自分勝手な土台を据えてしまう恐れがあるからです。

旧約聖書は確かに難しいです。エレミヤ書を読んでみてお分かりのように、まずその歴史的背景をよく知らないと意味が分からない部分がたくさんあります。また、神学的に難しい問いも数多く出てきます。神様は平和の神なのに、戦争を命じている場面を読むと、私たちは困惑します。また、なぜ神はイスラエルばかりをえこひいきするのか、私たち異邦人の救いが新約になってやっと登場するのはどういうわけか、などなど、多くの疑問がわいてきます。しかし、こういう疑問を正面から受け止めてこそ、新約聖書の真の意味、そしてイエス・キリストの生涯の意味がよくわかってくるのです。ですから、私はもちろん新約聖書からもしっかりとメッセージをしていきますが、割合としてはこれからも旧約聖書の方が多くなると考えてください。しかし、それは究極的にはイエス・キリストをより深く知るためだ、ということを忘れないでください。

2.本文

さて、では今日のエレミヤ書の内容を見てまいりましょう。今回の聖書箇所は前回の続きです。これまでの流れを復習しましょう。第18代のユダ王国の王エホヤキムはバビロンに謀反を起こしたのでバビロンに攻撃され、その戦いのさなかで戦死しました。その息子エホヤキンが跡を継いで19代の王になりますが、在位わずか3か月でバビロンによって退位させられ、バビロンに捕虜として連行されました。その後、バビロンによってヨシヤ王の三人目の息子、バビロンに捕虜として連れていかれたエホヤキンからは叔父にあたるゼデキヤが第20代のユダ王国の王となりますが、ゼデキヤはユダ王国最後の王となる運命にありました。

そのゼデキヤのもとに、ユダ王国の近隣諸国の外交官たちが訪れます。彼らはパレスチナ地区で反バビロン連合を結成しようとしており、その中にユダ王国も加わるように、と言ってきたのです。ゼデキヤはバビロンのおかげで王になれたので、バビロンを裏切るわけにはいきませんが、さりとて周辺諸国すべてを敵に回すのも避けたいところです。どうしたものかと思案しているところに預言者エレミヤが現れました。エレミヤは異様な格好で登場しました。なんと、自分の首に木製のかせをはめて、まるで囚人であるかのような格好で登場したのです。この異様ないでたちそのものがエレミヤのメッセージでした。すなわち、周辺諸国の王たちと、自らの祖国であるユダ王国に対し、バビロンに首を差し出して仕えなさい、バビロンのくびきを負いなさい、神がバビロンを世界の覇者にしたのだから、バビロンに逆らってはならない、というメッセージを伝えたのです。

しかし、このようなメッセージは間違いなく人々に不人気だったでしょう。イスラエルには、バビロンに非常に強い嫌悪感を持っている人たちがいました。先週もお話しした、エレミヤと同じ時期に活躍したハバククは、神がバビロンを用いてイスラエルを罰しようとしておられることを知っていました。しかし彼にはそれが不満でした。ハバククも、イスラエルの罪をよく知っていましたが、バビロンはイスラエルよりもずっと悪い残虐な民であることも知っていました。神はイスラエルの罪は厳しく取り扱うのに、もっとはなはだしいバビロンの罪は見逃すのか、大目に見るのか、それは正しいのでしょうか?と神に抗議したのです。しかしエレミヤは、そのバビロンに仕えるのが神の御心なのだと主張しました。イスラエルの歴史の中でも、外国の、しかも真の神ではなく偶像を礼拝する帝国に仕えよ、などという預言を公然としたのはエレミヤが初めてでした。エレミヤの語る言葉を聞いた人たちは、エレミヤはこれまで偶像礼拝を厳しく非難していたのに、その偶像を拝む国に仕えよとは、いったいどういうつもりなのかとショックを受けたことでしょう。イスラエルの過去の預言者は、偶像礼拝をする大国にイスラエルが仕えることに一貫して反対してきました。なぜなら、偶像礼拝をする国の属国になると、仕える国の神々、つまり偶像を拝まなければならないことになるからです。預言者イザヤの時代にアハズ王は北の大国アッシリアに助けをもとめてアッシリアの属国になりましたが、その結果南ユダ王国はアッシリアの神々、すなわち偶像も受け入れなければならなくなり、その結果ユダ王国では偶像礼拝が盛んになりました。こういう事情から、イスラエルの預言者たちは異教の帝国に仕えることに反対してきたのですが、エレミヤはここで大転換を促していたのです。バビロンの王が神を信じようと信じまいと、イスラエルの神は彼を選んで王としたのだ、だから彼に仕えなさい、というのです。イスラエルは今や、異教徒の支配の下で、自らの信仰を守り抜かなければならなくなったのです。

しかし、そのエレミヤとは正反対のことを語る預言者が登場しました。それがハナヌヤでした。ハナヌヤという名前の意味は、「主は憐み深い」というものです。そして、ハナヌヤのメッセージは「主は今やイスラエルに憐みをかけてくださる、主はユダ王国をバビロンから救ってくださる」というものでした。ハナヌヤによれば、主はバビロン捕囚をあと2年で終わらせてくださるというのです。この時点で、バビロン捕囚が始まってから4年目に入っていましたから、バビロン捕囚は6年余りで終わるということになります。エレミヤは、バビロン捕囚は70年続き、イスラエルの人々は三代にわたってバビロンに仕えることになる、という主の預言を語っていましたので、エレミヤの預言とハナヌヤの預言とは、真っ向から対立することになります。つまり、エレミヤもハナヌヤも、どちらも主の言葉を語っているというのはあり得ないことなのです。先月、「偽預言者」という説教をしましたが、偽預言者とは主の言葉だといいながら、実は自分の思いや考え、あるいは人々の願望を語る人だということをお話ししました。ですから、エレミヤとハナヌヤのいずれかが自分の思いを語っているということになるのです。

では、当のエレミヤはハナヌヤの語る言葉をどのように聞いたのでしょうか。もしハナヌヤが正しいのだとしたら、それと正反対のことを語るエレミヤは偽預言者だということになってしまいます。自らの預言者としての信認が疑われるようなことになりかねません。ですからエレミヤは、「ハナヌヤよ、偽りを言うな。主がそんなことを言われるはずはないではないか」と真っ向から反論してもおかしくはないところです。しかし、ハナヌヤの言葉を聞いたエレミヤはこう言いました。

「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。あなたが預言したことばを主が成就させ、主の宮の器と、すべての捕囚の民がバビロンからこの所に帰ってくるように。」

ハナヌヤの言葉に「アーメン」と言ったのです。アーメンとは「本当にそうです」という意味です。エレミヤは、自分のこれまでの預言を撤回して、本当にバビロン捕囚があと2年で終わり、捕囚の民や神殿の宝物が帰ってくると思ったのでしょうか。この言葉はエレミヤの皮肉だ、という見方があります。つまり、「ハナヌヤよ、お前の言うことはしょせん虚しい望みで、実現することはないが、まあせいぜい頑張ってくれ」と小ばかにして言ったのだという解釈です。しかし、おそらくそうではないでしょう。エレミヤ自身は、これまでイスラエルの人々に災いや破滅の預言ばかり語ってきましたが、それは彼の思いや願いではありませんでした。エレミヤは神から伝えられたことをそのまま忠実に語っただけで、彼自身はそんなことが自分の祖国に起こることを全然望んではいなかったのです。むしろエレミヤは神に、イスラエルを憐れんでくださいと祈ってきました。そんなエレミヤに対し、神はイスラエルのために執り成しの祈りをすることを禁じていたのです。エレミヤ書7章16節には次のような言葉があります。

あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげてはならない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。

このような、エレミヤにとりなしをすることを禁じる命令はたびたび登場します。逆に言えば、エレミヤは禁じられても何度も何度もイスラエルのために神に祈ったのでしょう。神様も、粘り強く一生懸命祈られるとそれを聞かないわけにはいきませんが、さりとてイスラエルの積もり積もった罪は非常に大きかったので、裁きを下すという決定を撤回することもできません。そこでエレミヤに、もうこれ以上祈らないでくれ、私を困らせないでくれ、と命じたのです。そして、私はたとえ大預言者モーセやサムエルがとりなしてもそれを聞かない、この災いの決定が覆ることはない、とまで神はおっしゃられました。神にそこまで言われてしまったので、エレミヤも内心の願いをぐっと押し殺したのです。それでも、エレミヤの本心、内なる願いは、実はハナヌヤが語った通りだったのです。早くバビロン捕囚が終わって、神の憐みが豊かにイスラエルに注がれることを願っていたのです。そのために、ハナヌヤの言葉を聞いたエレミヤは、思わず「アーメン、その通りになりますように」と言ってしまったのでしょう。

さらに言えば、エレミヤはハナヌヤが本当に神の言葉を語っているのかもしれないと考えたのかもしれません。エレミヤはとても謙遜な人でした。エレミヤは、決して自分だけが特別だ、自分だけが主の預言者、スポークスマンだとは思っていませんでした。神様が自分以外の人を選んで、その人に新しいメッセージを託すということも受け入れていました。実際、エレミヤの時代には偽預言者もたくさんいましたが、本物の神の預言者はほかにもいたのです。一番有名なのはエゼキエルで、彼はちょうどこの出来事から1年後に預言者としての働きを始めています。また、ハバククという預言者もエレミヤと同じころに活躍し、バビロンの台頭を預言していました。また、エレミヤ書26章にはエレミヤと同じような預言をして、それがエホヤキム王の怒りを買って殺されてしまったウリヤという預言者もいました。ですから、神がイスラエルへの裁きを思い直し、そのメッセージを新しい預言者に託すということもあり得ることでした。エレミヤも、ですから自分とは全く違うことを語るハナヌヤを偽預言者だとは決めつけずに、彼も神の言葉を預かったのかもしれない、と思ったというのは十分考えられるのです。ここにエレミヤの謙虚さと、神への畏れを見る思いがしますし、それらはまさに預言者にとって大事な資質でした。

しかし他方で、エレミヤはこれまでたくさんの偽預言者も見てきました。エレミヤ書14章13節には次のようなエレミヤの言葉があります。

私は言った。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」

このエレミヤの訴えに対し、神はこれらの預言者たちは実際には預言者ではなく、自分の思いを語っているだけなのだ、と説明しました。このような、偽りの平和を唱える偽預言者を見てきたエレミヤは、ハナヌヤもそのような偽預言者であるかもしれない、と指摘しました。そこで7節以降の言葉を続けて語りました。

しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語っているこのことばを聞きなさい。昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの国と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病とを預言した。平和を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、ほんとうに主が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。

エレミヤは、自分だけではなく、イスラエルのたくさんの預言者たちがわざわいを預言してきたという事実を指摘します。例えば大預言者イザヤは、神から召命を受けた時、「町々は荒れ果て、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果てる」というなんとも寒々とした神のことばを受けています。せっかく神のメッセンジャーになって人々に語ろうとするときに、こんな荒涼としたメッセージを語らなくてはならないとは、イザヤも胸がつぶれる思いだったでしょう。しかしイザヤだけではありません。旧約聖書の預言書を読めば、これでもか、というくらいに破滅や滅亡の預言があります。もちろん希望のメッセージもあるわけですが、それはこうした厳しい苦難をくぐり抜けた後にやっと与えられるものなのです。エレミヤも、今後の説教でお話しするように素晴らしい希望のメッセージを残しています。しかしそれは壊滅的と思えるような裁きをくぐり抜けた後のメッセージなのです。ハナヌヤの言うように、あっという間に終わってしまうような苦難ではなかったのです。ですから、歴代のイスラエルの預言者たちとは異なることを語る以上、ハナヌヤが真の預言者として認められるためには、彼の語ることが成就しなければなりません。神も、本物の預言者と偽物の預言者とを区別する方法として、その語った言葉が成就するかどうかを判断基準として設けています。申命記18章21節にはこうあります。

あなたが心の中で、「私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか」と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。

もちろん、これだけが偽預言者を判別する基準だということではありません。破滅の預言を聞いた人々が心から悔い改めたのなら、破滅の原因である神への不従順がなくなったわけですから、神は裁きを下すことを思い直し、破滅は起こらないでしょう。この場合は預言者が語ったことは実現しないことになりますが、それでも彼は偽預言者ではありません。しかし、人々が心から悔い改めてもいないのに、神が裁きを撤回して憐れみを下さるというのは、普通ではありえないことです。ですからそのような預言を語る者が本物かどうかは、実際にそうした平和の預言が成就して初めて確かめられるのです。エレミヤはそのことを端的にハナヌヤに語りました。

しかし、ハナヌヤは自分の語る言葉に疑いが投げかけられるのが面白くなかったのでしょう。エレミヤの語る言葉に怒りを覚えたようです。そしてさらに大胆な行動に出ます。エレミヤは、バビロンに仕えなさいという自分のメッセージを分かり易く伝えるために象徴行動をとりました。それは、自分の首にかせをはめることですが、このことはバビロンのくびきを負うということを意味しました。しかしハナヌヤは、エレミヤの首からかせを取り外して、それを木っ端みじんに砕いてしまったのです。そして自分の行動の意味を説明するように、こう言います。

主はこう仰せられる。「このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカデネザルのくびきを、すべての国の首から砕く。」

バビロンの天下は二年もたたないうちに終わる。そうして南ユダ王国も、またその近隣諸国も、バビロンの支配から解放されるのだ、と宣言したのです。これを聞いたユダ王国の人々は大喜びしたでしょう。そして捕虜としてバビロンに連れていかれた人たちも直ぐ帰ってくると、希望に胸を躍らせたことでしょう。しかし、エレミヤはここでは何も言わずに黙って立ち去りました。ここにもエレミヤの偉大さが現れていると思います。多くの人々の面前で自分の言葉を真っ向から否定された、いわば恥をかかされたわけですから、何か言い返したいという思いはあったでしょう。並の人間なら激怒してもおかしくありません。しかし、エレミヤは自分が神の僕に過ぎないということがよくわかっていました。もし本当に神がハナヌヤにことばを託したのならば、彼に反論することは神に逆らうことになる、ということまで考えていました。ですからハナヌヤについて早まった判断はせず、神からはっきりとした御心が示されるまで待とうと思ったのです。ですからエレミヤは、いろいろ言いたいことはあったでしょうが、この場は静かに立ち去ったのでした。

ほどなくして、エレミヤに神のことばが与えられました。それからエレミヤはハナヌヤのところに言って、こう言いました。

ハナヌヤ。聞きなさい。主は、あなたを遣わされなかった。あなたはこの民を偽りに依り頼ませた。

このように、ハナヌヤのことばは神のことばではない、とはっきり伝えました。また、エレミヤは「主はこう仰せられる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる」とも言いました。もうハナヌヤには砕くこともできない、より強力な鉄のかせがイスラエルの人々に科せられることになるのです。そしてとどめとして、偽りの預言を語ったハナヌヤはことし死ぬ、とエレミヤは宣言しました。

この強烈な言葉を聞いたハナヌヤがどう反応したのかは書かれていません。ハナヌヤもかなり気性の激しい人物のようですから、エレミヤのことばに激しく反発したのかもしれません。あるいは、神のことばを語るエレミヤの迫力に圧倒されて、何も反論できなかったのかもしれません。しかし、実際はどうだったのかは分かりません。ただ単に、ハナヌヤはこの出来事の2か月後に死んだ、とだけ書かれています。なぜハナヌヤが死んだのか、その理由は分かりませんが、エレミヤの予告通りにハナヌヤが死んだわけですから、エレミヤの方が正しかったのだ、ということが実証されたことになります。しかし、実はハナヌヤの残したメッセージはユダ王国の人たちに強い印象を残したようです。人々はエレミヤよりも、むしろハナヌヤの言うことを信じてしまったようなのです。なぜならそれから数年後にはゼデキヤはバビロンに反乱を起こし、南ユダ王国を滅亡へと導いてしまうことになるからです。解放を告げるハナヌヤの語った言葉の方が、人々には受け入れやすかったのでしょうが、受け入れやすいから神のことばだ、ということにはならないのです。

3.結論

さて、これまでの説教では総論として偽の預言、偽預言者について語ってきましたが、今日は具体的な人物であるハナヌヤという人物を見てまいりました。この人は真剣な思いで預言をしていたのだと思われます。神を信じ、イスラエルの神が偶像を拝む帝国が神の民を支配することを許すはずがない、かならず打ち破ってくださるという神学的な確信を持っていたのでしょう。

しかし、イスラエルの積年の罪は重く、もはや裁きは避けられないものとなっていました。バビロンへの服従は屈辱であっても、神の御心として受け止めるべきだったのです。バビロンに逆らうことは、神の裁きを耐えがたいほど重いものにしてしまうという結果になります。歴史にもしはありませんが、もしゼデキヤ王やユダ王国の人々がエレミヤの言うことに従っていれば、バビロンへの服従という辛い状況は続いたとしても、エルサレムの陥落と王国の消滅という最悪の事態は避けられたことでしょう。

エレミヤ書を読んでいると、なんとも気が重くなってきます。イスラエルに救いはないのか、という思いが沸き上がってきます。バビロンに仕えることはつらいし、かといって反逆すればもっとひどい目に遭うとは。しかし、エレミヤ書はただ暗いだけの書ではありません。苦難の先には驚くほどの希望のメッセージが含まれているのです。この出口の見えない、八方ふさがりの苦難の果てに、素晴らしい未来があるのです。これからの説教でそのことを見てまいりたいと思いますが、苦難が重ければ重いほど、その先の希望は大きくなるのです。そのような状況は、どこか今日私たちが置かれた状況と重なるものがあります。私たちもまた出口の見えない困難な状況に置かれてはいますが、神を信じる者にはその苦難の先には素晴らしい約束があるのです。目の前の現実に押しつぶされて、その希望を決して見失ってはいけません。神を信じ、また神の与えてくださる素晴らしい希望を信じて、今週も歩んでまいりましょう。お祈りします。

万物を統べ治め、歴史を導かれる神よ。その御名を賛美します。私たちはおろかで、しばしば自分の思いや願いを神の御心だと信じ込んでしまうような存在です。どうか主の御心を知る知恵と、それをまっすぐに受け止める素直な気持ちをお与えください。また、困難な状況の先には、希望の光があることを私たちにいつも思い起こさせてください。暑い8月が続きますが、そんな中でも私たちの今週の歩みが守られますように。私たちの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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