反バビロン連合
エレミヤ書27章2~22節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回、今回と説教のタイトルに「バビロン」という名前が登場します。エレミヤにとっても、当時の南ユダ王国にとっても、バビロンというのは非常に大きな存在でした。私たち日本について考える場合にも、アメリカ、あるいは中国という大国の存在抜きに政治や経済、あるいは文化を考えるのは不可能なわけですが、南ユダ王国にとっても、北の大国バビロンは目の上のたん瘤、常にその存在を意識しないわけにはいかない存在でした。

しかもこのバビロン、あっという間に勢力を拡大した新興勢力でした。いわゆる成り上がり国家でした。バビロンはずっと北の大国アッシリアの植民地で、アッシリアから独立したのはエレミヤが預言者としての召命を受けた2年後のことでした。ですからエレミヤが預言者として活躍を始めたときには、バビロニア帝国は存在すらしていなかったのです。それが、またたく間にその力を拡大し、宗主国であったアッシリアの首都ニネベを攻め滅ぼすまでになります。わずか20年ほどで、メソポタミア地方の盟主にのし上がったのです。

では、このバビロンというのがどんな国だったかと言えば、狂暴とか、残虐とか、そういう形容詞がふさわしいような国でした。エレミヤと同じ時期に預言者として活動していたハバククという人物は、バビロンのことを次のように述べています。ちなみに、カルデヤ人とはバビロンの人のことです。ハバクク書1章5節以降をお読みします。

異邦の民を見、目を留めよ。
驚き、驚け。
わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。
それを告げられても、あなたがたは信じまい。
見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。
狂暴で激しい国民だ。
これは、自分のものでない住まいを占領しようと、
地を広く行き巡る。
これはひどく恐ろしい。

と、バビロンのことをこのように評しています。バビロニア帝国も、その前のアッシリア帝国も、世界帝国を築くために用いたのは暴力と恐怖でした。従う者には鷹揚な態度を見せますが、逆らうものは徹底的に痛めつけることで相手に恐怖心を植え付けて、二度と自分に歯向かわないようにしました。徳によって治めるとか、愛によって治めるとか、そういうきれいな話ではないのです。

この暴虐なバビロンが台頭することに危機感を募らせていた人たちがいました。それはパレスチナと呼ばれる地域にあった小国の王たちでした。南ユダ王国も、そうした王国のひとつです。この地域は、メソポタミアとエジプトとを結ぶ交通の要衝であり、メソポタミアの支配者とエジプトの支配者は、この地域を自分たちの支配下に置こうと常に争ってきました。これまではメソポタミアの覇者である狂暴なアッシリアがパレスチナを支配してきました。そのアッシリアがようやく滅びたと喜んでいたら、再び狂暴な王国がメソポタミアに誕生したのです。パレスチナの王たちは、自国だけではこのバビロンに対抗できないので、パレスチナの小国が連携して反バビロン連合を結成し、バビロンの支配に抗おうとしました。今日の聖書箇所は、パレスチナの王たちが、バビロンによって第20代の南ユダ王国の王にしてもらったゼデキヤに、反バビロン連合に加わるように要請する、そういう場面です。

2.本文

このように、今日のエレミヤ書の27章の背景は、新しく南ユダ王国20代目の王になったゼデキヤのところに、エドムの王、モアブの王、アモン人の王、ツロの王、シドンの王が使節を派遣した、というものです。エドムというのは南ユダ王国の南に位置する国で、族長ヤコブの兄弟エサウを祖先とする、ユダ王国からすれば兄弟国のような国です。モアブやアモンはユダ王国の右隣に位置する王国ですが、族長アブラハムの甥ロトを祖先とする国々ですので、これらもユダ王国にとって親戚のような国々です。ツロやシドンは海洋国家で地中海沿いの国々で、これらの国々もユダ王国とはソロモン王の時代からの付き合いがありました。こうした南ユダ王国をぐるりと取り囲む国々の王たちがこぞってゼデキヤ王のところに使節を送ったのは、南ユダ王国に反バビロン連合に加わるように勧誘するためでした。彼らもゼデキヤがバビロンのおかげで王になれたことは知っていましたが、バビロンの覇権主義を咎め、我々とともにバビロンのくびきをかなぐり捨てようではないか、とゼデキヤを説得しようとしたのです。小国連合は結束しなければ力が発揮できません。これらの国々の真ん中に位置する南ユダ王国は、いわばこの連合のかなめとなるべき国であるので、彼らとしてもなんとしてもゼデキヤに自分たちの連合に加わるように説得する必要があったのです。

この時、では南ユダ王国はどうするべきなのか、反バビロン連合に加わるべきか、あるいはバビロンに従い続けるべきか、またはそのどちらでもない第三の道があるのか、それについてエレミヤはゼデキヤ王に神の御心を伝えようとしたのです。このエレミヤとゼデキヤ王との関係は、100年以上前の大預言者イザヤと当時の南ユダ王国のアハズ王との関係とよく似ているように思われます。紀元前735年ころ、南ユダ王国は、アラムと呼ばれる現在のシリアに位置する王国と、北イスラエル王国の両国から、当時の北の超大国、アッシリアに対抗するための反アッシリア連合に加わるように迫られていました。もしこの連合に加わらなければ、南ユダ王国を攻撃する、とシリアと北イスラエルは迫ってきたのです。ここには二国しか出てきませんが、実際はツロなどの海洋国家も反アッシリア連合に加わっていました。南ユダ王国のアハズ王はどこにも味方しない、中立国を決め込んでいたのですが、周りの国々はそれを許さなかったのです。アラムや北イスラエルからすれば、南ユダ王国がアッシリアについてしまうと、北のアッシリア、南のユダ王国という具合に挟み撃ちにされてしまいます。後顧の憂いを断つためにも、なんとしても南ユダ王国は仲間に引き入れたかったのです。預言者イザヤはこの時アハズに、シリアや北イスラエル王国を恐れるな、神のみを信頼しなさいと強く促すのですが、その時アハズの取った行動は残念ながらそうではなく、北の大国アッシリアに助けを乞い、大金を年貢として納めるので自分を救ってくださいと泣きついたのです。このアハズの行動は結局南ユダ王国にとっては高くつきました。確かにアッシリアはこの時は南ユダ王国を助けるのですが、アラムと北イスラエルを滅ぼしたアッシリアは、その先にある南ユダ王国をも併合しようとしたのです。アハズの次のヒゼキヤ王の時代に、アッシリアは南ユダ王国に侵攻し、絶滅寸前まで追い詰めることになります。イザヤの言う通り、アッシリアではなく神にのみ信頼すべきだったのです。

さて、エレミヤとゼデキヤの話に戻りますが、エレミヤがイザヤの立場に立って助言するならば、反バビロン連合を恐れる必要はないが、バビロンを恐れる必要もない、ただイスラエルの神のみを信頼しなさい、ということになるでしょう。しかし、エレミヤはイザヤとは全然違う助言をします。エレミヤはここで象徴行動を取ります。象徴行動とは、言葉ではなく、目に見えるゼスチャーによってメッセージを伝えようというものです。エレミヤ書19章によれば、エレミヤは人々の前で陶器を粉々に砕き、エルサレムもこのように粉々になる、という恐ろしい、またわかりやすいメッセージを伝えたことがありました。今回は、何とエレミヤは、囚人のように自分の首に枷(かせ)を付けて、ゼデキヤ王に反バビロン連合に加わるように圧力をかけにきた使節たちの前に現れました。各国の外交官たちは、南ユダ王国の有名な預言者が異様な格好をして彼らの前に現れたのをみて、ぎょっとしたでしょう。いったい何のマネなのか、と。エレミヤのメッセージは単刀直入でした。バビロンに従いなさい、バビロンに首を差し出してバビロンのくびきを負いなさい、さもないと、このように哀れなバビロンの囚人となってしまうぞ、と言おうとしたのです。さらには、イスラエルの神はバビロンの王に全世界を与えたのだ、だからバビロンに逆らうことは神に逆らうことであり、バビロンに服従しない国にはイスラエルの神は災いをもたらす、と預言したのです。そしてユダ王国の王であるゼデキヤにも全く同じことを言いました。バビロンに仕えて生き延びなさい、バビロンに仕えなければ、エルサレムとその神殿は廃墟となる、と預言したのです。しかし、このエレミヤの預言は、イザヤと比べるとなんだか卑屈なように思われるかもしれません。イザヤだったら、バビロンなど恐れずにイスラエルの神に信頼しなさい、と助言してくれたのではないかと。それなのに、しっぽを振ってバビロンに従えとは、エレミヤはバビロンの犬なのか、という反応が当然あったでしょう。しかも、エレミヤはイスラエルの神がバビロンを全世界の王にした、と宣言していますが、これなどまるでバビロンのプロパガンダのようです。実際、エレミヤは今後ユダ王国の人たちからバビロンの回し者だとか、スパイなのでは、という嫌疑をかけられます。しかも、ついにバビロンによってエルサレムが滅ぼされてしまうときに、バビロンの王ネブカデレザルはわざわざスパイ嫌疑で囚われていたエレミヤを助け出すように命じているのです。その箇所を読んでみましょう。エレミヤ書39章11節、12節です。

バビロンの王ネブカデレザルは、エレミヤについて、侍従長ネブザルアダンに次のように命じた。「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。」

と、このような異例な命令を下しています。征服者の王が、征服される国の囚人を救い出すというのは普通ではありません。このことからも、エレミヤはバビロンに内通していたのではないか、と思われてしまったかもしれません。

また、エレミヤは何とバビロンの王ネブカデレザルのことを神のしもべとすら呼んでいます。その箇所、エレミヤ書25章9節をお読みします。

見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。-主の御告げ-すなわち、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。

このように、イスラエルの神を知らず、自らの野心のままに世界征服を行うネブカデレザルのことをエレミヤは神のしもべと呼ぶのです。いったいなんだってエレミヤはバビロンのことをそんなにひいきにするのか、と不審に思われるかもしれません。

けれども、今日の27章をよく読むと、エレミヤが決して手放しでバビロンを支持していたのではなかったことは明らかです。7節には次のような預言があります。

彼の国に時が来るまで、すべての国は、彼と、その子と、その子の子に仕えよう。しかし時が来ると、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷とする。

ここでの「彼」とはバビロンの王のことですが、バビロンはこのように三代にわたってすべての国々を支配しますが、その期間が終わると、メド・ペルシャによって滅ぼされてしまいます。国々を奴隷にしたバビロンは、かえって彼らの奴隷となってしまうことが告げられているのです。このように、エレミヤはいわば期間限定のバビロンの天下を宣言しただけなのです。

また、イスラエルに対するバビロンの支配も条件付きでした。神は、ご自身を信じる者も信じない者も、どちらをもご自分の目的のために用いられます。神はネブカデレザルに世界を与えることにされ、彼を通じてイスラエルの背信に対して裁きを与えることにしました。しかし、バビロンの栄華はもちろん永遠のものではありませんし、神はエルサレムを永遠に罰しようとなさったのでもありません。それは定められた一定の期間のことでした。エレミヤ書25章では、神はその期間を70年と定めた、と書かれています。これは文字通りの70年と考える必要はありません。確かにバビロンが中近東の覇権を握ったのはだいたい70年ぐらいでしたが、むしろ7が聖書の完全数であるという象徴的な意味の方が重要です。7の10倍の期間、すなわち神が定めた支配が完遂されると、バビロンはその支配の座を降りるということです。そして、定められたバビロンの時が終わると、神はエルサレムを憐れんでくださるという約束が与えられているのです。そのことが、今日の27章の21-22節に予告されています。

まことに、イスラエルの神、万軍の主は、主の宮とユダの王の家とエルサレムに残された器について、こう仰せられる。「それらはバビロンに運ばれて、わたしがそれを顧みる日まで、そこにある。-主の御告げ-そうして、わたしは、それらを携え上り、この所に帰らせる。」

バビロンに持ち去られてしまったエルサレム神殿の宝物を、神ご自身が持ち帰って下さるという預言を、エレミヤは語っていたのです。

このように、エレミヤは反バビロン連合を組む諸国の王にも、南ユダ王国のゼデキヤ王にも、バビロンに仕えなさいと助言をしますが、それはエレミヤがバビロンに心酔していたからだとか、あるいはバビロンは無敵なので無駄な抵抗はやめろとか、そういうことではなかったのです。むしろ、神がバビロンをある一定期間、覇者として定めた以上、その神の御心に従うという意味でバビロンに仕えるようにと語ったのです。

聖書全体を読んでみても、神の民に対し、その当時世界を支配している暴虐な帝国に対して立ち向かえ、立ち上がれ、と呼びかけているところはありません。最も私たちになじみ深い例を挙げれば、イエス様の時代のローマ帝国があります。当時のローマも、無敵の勢いで地中海世界を席巻し、逆らう者には容赦しないという残忍さを持った帝国でした。ローマの植民地だったユダヤ人たちは、このローマのくびきを打ち砕いて自由と平和を勝ち取りたい、それが神の御心なのだと信じ、ローマと激しい戦争を行いました。しかし、主イエスがローマへの武力抵抗を支持したことは一度もありませんでした。イエスの弟子たち、使徒たちも、彼らが牧していた教会の信者たちに、邪悪なローマ帝国に立ち向かえ、と呼びかけることはありませんでした。むしろ、ペテロは「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(Ⅰペテロ2:13)と命じています。

むろん、教会と国家との関係は難しい問題があります。ナチスのヒトラーの下に生まれても、あるいは軍国主義に突き進む日本に生まれても、上に立つ政府だからと言って唯々諾々と国家の侵略政策に従え、ということにはもちろんなりません。私たちは国家が武力によって人間の尊厳を踏みにじるような方向に向かうときに、それに抗うべきです。しかし、その抗い方は、力には力で、とばかりに武力を用いて抵抗することではありません。厳しい道ですが、武力に訴えずに、平和的な手段で抗議する必要があります。そんな生ぬるいことでは暴走する国家を止められないではないか、正気を失った政府に対しては誰かが力づくでも立ち向かわなければならないではないか、という見方ももちろんあるでしょう。しかし、そのような時こそ神に委ねる、神に信頼する、という姿勢を保つ必要があります。

エレミヤも、バビロンの暴虐さはよく知っていました。そして、時が来れば必ず神はバビロンの悪を罰すると信じていました。ですから、今は諸国にバビロンに仕えよと促すエレミヤは、バビロンに魂を売ったわけではなかったのです。

さて、長々とエレミヤとバビロンの関係についてお話ししましたが、ではゼデキヤ王はどうしたのでしょうか?反バビロン連合に加わったのでしょうか、それともエレミヤの助言を聞き入れて、バビロンに従うことにしたのでしょうか。ゼデキヤはこの先何年かして、結局バビロンに反逆します。しかしそれはパレスチナの反バビロン連合に与したからではなく、南の大国エジプトを当てにしてのことでした。今回の場合は、ゼデキヤは周辺諸国の誘いに乗らずに反バビロン連合には加わりませんでした。エレミヤの助言に従ったことになります。そして王に即位してから4年目に、ゼデキヤはバビロンに恭順の意を示し、貢物を納めるために自らバビロンの都へと出向きます。しかしその時、エレミヤはある重要な行動をします。その箇所をお読みします。エレミヤ書51章の59節以降です。

マフセヤの子ネリヤの子セラヤが、ユダの王ゼデキヤとともに、その治世の第四年に、バビロンへ行くとき、預言者エレミヤがセラヤに命じたことば。そのとき、セラヤは宿営の長であった。エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。エレミヤはセラヤに言った。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、『主よ。あなたはこの所について、これを滅ぼし、人間から獣に至るまで住むものがないようにし、永遠 に荒れ果てさせる、と語られました』と言い、この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる』と言いなさい。」ここまでが、エレミヤのことばである。

このように、エレミヤはバビロンの都の真っただ中で、バビロン破滅の預言の言葉を語らせたのです。エレミヤもまた、イザヤのように人間の帝国を恐れませんでした。ただ、イザヤの時とは違い、神が今やイスラエルをバビロンに仕えさせることを決めておられる、ということを知っていたのです。たしかにバビロン捕囚は民族の悲劇でした。しかし、前回学んだように、ユダヤ民族は捕囚を経て霊的に大きく前進、成長することになり、何よりもこれを機会に聖書が形成されていくことになるのです。神は試練を通じてイスラエルを成長させる、そのことを確信していたからこそ、エレミヤは同胞たちにバビロンに仕えなさい、と語ったのでした。

3.結論

今日は、ユダ王国を反バビロン連合に誘う周辺諸国に対して、エレミヤが語った預言の言葉を学んでまいりました。エレミヤがとった言動、すなわちバビロンに首を差し出せ、という神の預言を伝えたのは意外なことでした。しかし、歴史を支配しておられ、また歴史のただなかで神の民を鍛え上げ、育て上げる神は、私たちの意表を突くようなご計画をお持ちである場合があります。バビロンは暴虐な国で、神も敬わないのだから、そのような国に従う必要はない、と思われるかもしれませんが、話はそう単純ではないのです。神は、そのような国をもご自身の御心を成し遂げるために用いることがあるからです。

私たちにも、なんとも理不尽な状況に置かれることがあります。なんでこんな人が上に立つのか、なぜこんな悪い人たちが栄えるのか、という状況に立たされることは必ずあります。しかし、神の知恵は私たちよりも高く深いのです。そして、神は高ぶる者を必ず低くされます。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」と言われているとおりです。どんな状況においても、その状況を神が支配しておられる、神は私たちを見てくださっている、ということを信じられなければ、私たちはたちまち立ち行かなくなります。恐れに支配されて右往左往すれば、大事なものを失ってしまうでしょう。

私たちは、また日本中の人々が、今や不安の中にいます。もし神がこの混とんとした状況をも支配しておられる、ということが信じられなくなれば、私たちはその場しのぎの、場当たり的なことしかできなくなってしまうでしょう。しかし、このような時こそ主を信じましょう。正しい人は、神への信頼によって生きるのです。今週の一歩一歩の歩みを支えてくださるように、主に祈りましょう。

わがたましいよ。
なぜ、おまえはうなだれているのか。
私の前で思い乱れているのか。
神を待ち望め。
私はなおも神をほめたたえる。
御顔の救いを。
(詩篇42:5)

歴史を支配し、国々を興し、また滅ぼされる神よ。あなたは時として私たちに試練を与え、それを通じて私たちを鍛え育みます。どうか、どのような時にもあなたを信じる本物の信仰を私たちの中に形作ってください。試練の中で、あなたを見失うようなことがないようにしてください。今週の一歩一歩の歩みをお守りください。信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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