1.導入
みなさま、おはようございます。エレミヤ書からの説教は今日で三回目になりますが、第一回は1章から、第二回は2章からだったのに、今日はいきなり17章にまで飛んでしまうのか、と驚かれたかもしれません。そこで、この点について少しお話させていただきたいと思います。エレミヤ書は、預言者エレミヤの40年にも及ぶ活動を記録していますが、エレミヤ書は年代順に書かれているのではありません。例えばエレミヤ書の7章には、エレミヤがだいたい40歳のころの有名な『神殿での説教』が収録されていますが、その話の続きはいきなり26章にまで飛んでしまうのです。そして7章と26章の間には、いろいろな場面の様々な預言が含まれています。どうしてそうなのかと言えば、エレミヤ書とは、エレミヤが自分で書いたものではないからです。エレミヤが死んだ後に、彼のお弟子さんたちが師匠の預言の言葉を集めて、それを一つの書にまとめたのです。そしてお弟子さんたちはエレミヤの言葉を年代順には並べませんでした。エレミヤの若いころの言葉と、様々な経験を経て熟練の預言者となった時の言葉とを、一緒にしている場合が多いのです。ですからエレミヤ書を深く理解するためには、エレミヤのそれぞれの言葉がどんな状況において語られたのかを知る必要があるのです。
今日はエレミヤ書17章のみことばを朗読していただきましたが、この部分はもっと前半の部分の預言と併せて読むことで意味が分かってまいります。そのようなわけで、今日の説教は17章だけではなく、エレミヤ書1章など、ほかの関連する部分と併せて読んでまいります。
2.本文
前にもお話ししましたが、エレミヤは彼の祖国ユダ王国と、その首都エルサレムが滅びる時代に生きた預言者でした。ですから彼の預言には滅亡を予告するようなものが少なくありません。しかし、エレミヤのことを、滅亡を予告してその通りに的中したのだから、彼は神によって未来を予知する力を与えられたすごい預言者なのだ、と考えるのだとしたら、正しくはありません。それは聖書の「預言」を誤解しています。
いつの時代にも、滅亡予言というのは人々の注目を集めます。私が子どものころは、「ノストラダムスの大予言」というのが流行りました。その予言によると、1999年に人類は滅亡するというのです。しかもノストラダムスの予言の的中率は、99.9%だと書かれていました。そうなると、自分が30歳になる前に人類は滅亡してしまうのか、と子ども心に恐ろしかったのを覚えています。しかし、1999年は何事もなく過ぎていきました。今ではノストラダムスのことなど、誰も言わなくなってしまいました。
けれどもエレミヤの預言は、こういう破滅予言とは根本的に異なるものなのです。確かにエレミヤの預言にも、破滅を告げているようなものがあります。エレミヤが初めに神から与えられた預言とは、ユダ王国に向かって北の方から恐ろしい敵が襲ってくる、というものでした。その部分を読んでみましょう。エレミヤ書の1章の13節です。
再び、私に次のような主のことばがあった。「何を見ているのか。」そこで私は言った。「煮え立っているかまを見ています。それは北のほうからこちらに傾いています。」
すると主は私に仰せられた。
「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかる。今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからだ。-主の御告げ-
彼らは来て、エルサレムの門の入口と、周囲のすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設ける。」
神がエレミヤに示した幻、それは「煮え立っているかま」でした。煮えたぎるかまが北から傾いきて、その熱湯が今にもユダ王国の人々の上に吹きこぼれてきそうなのです。ぞっとする、禍々しいイメージです。この煮え立ったかまとは、北から襲ってくる外国の軍隊を表しています。人々にやけどを負わすような外国の軍隊が北の方角から来るということです。当時の南ユダ王国の人々は、北と聞けばただちにアッシリア帝国を思い浮かべました。南ユダ王国の北に位置するアッシリアは、今で言えばアメリカのような超大国であり、南ユダ王国は過去に何度もアッシリアに痛めつけられてきました。そのアッシリアが攻めて来ると、エレミヤが予告していると人々は思ったのです。
しかし、エレミヤが預言を始めたちょうどそのころから、アッシリアの力は急に弱くなりました。むしろアッシリアは外国の軍隊に攻められたり、あるいは自国の領土内で反乱が起きたりして、ユダ王国を攻めるどころではなくなっていきました。そうすると、初めにエレミヤの預言を聞いて怖がった人たちは、逆に「なんだ、あいつの言っていることは全然実現しないじゃないか。北からの脅威なんてどこにあるのだ。アッシリアは今にも滅んでしまいそうだ。エレミヤは偽預言者に違いない」と思うようになったのです。
このために、エレミヤは苦しい立場に追い込まれることになります。見張りの人が、「敵が来るぞ、来るぞ」と叫んで人々に警告しながら、結局その敵が襲ってこなかった場合、見張りの人は信用を失います。いわゆる「オオカミ少年」になってしまうのです。エレミヤの場合もそうでした。そこで人々は、災いの言葉を語る若き預言者を嘲るようになります。今日お読みいただいた、エレミヤ書17章15節にはそのことが書かれています。
ああ、彼らは私に言っています。
「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」
人々はエレミヤに「北からの脅威とやらはどこにあるのか。さあ、その北からの敵とやらを連れて来るがよい。そうすればお前のことを神の預言者だと認めてやろう。」と言ってからかいました。しかし、そのようにはやし立てるイスラエルの人々は、そもそも「神の預言」とは何であるのかを理解していなかったのです。
ここで、「預言」とは一体何か、考えてみましょう。聖書の預言とは、「未来予知」のことではありません。これは非常に大事なことです。未来予知というのは、1年後の何月何日に大地震が起こるとか、あるいは2年後に何月に戦争が起きるなど、未来の出来事を前もって語る、予知することです。一種の超能力です。私には人間にそのような力があるのかどうか、分かりませんが、聖書に登場する預言者たちがそのような超能力集団のことではなかったのは明らかです。なぜなら、神の預言とは、人々に二つの道を示すことだからです。神の預言とは、あらかじめ決められている未来のことを予告することではありません。むしろ、神に従う道と、神に逆らう道、それぞれの道を選んだ場合の行く末を示すのが預言なのです。神に逆らい続けると、最後には破局が待っています。預言者たちが示す破局のヴィジョンとは、「もし、あなたが神に逆らい続けるのなら、こうなる」という一つの可能性を示すものです。他方で、そうならない可能性も残されているのです。ですから、預言者たちの語ることは、未来予知という意味では百発百中ではありません。例えば預言者ヨナは、神から「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」という預言を与えられましたが、それは実現しませんでした。しかしこれは神の予告が外れた、成就しなかったというのではもちろんありません。神の預言には、常に「もし」、イフという条件が付いています。もし悔い改めず、もし神に背を向け続けるなら、このようなことが起きる、けれども、もしあなたが神に立ち返るなら、そのことは起きない、という別の未来も示されているのです。ですから、神は私たちの思いや行動を無視して、何もかも未来をあらかじめ決めているのではありません。むしろ、私たちが悔い改めて、神に従う道、神と共に歩む道を選んでほしいと願っておられるのです。そのためにこそ、預言者が遣わされるのです。
預言者の役割とは、何年後の何日に、外国から敵が襲ってくる、などと未来予知をすることではありません。むしろ預言者は、そのような不幸な事態が起きないように、今悔い改めなさい、今直ちに行動を起こしなさい、と人々に促しているのです。正しい行動、神に立ち返るという正しいアクションを今起こすように、人々を説得するために、あえて厳しい未来のヴィジョンを示すのです。エレミヤもそうでした。エレミヤは医者のようなものです。医者は、不養生な生活を続けている人に、「そんな生活を続けていたら、病気になるよ」と警告します。果たしてその人が病気になってしまった場合、その医者の予言が当たった、ともいえるでしょうが、それは私たちが普通考える「予言の成就」とは意味が違うでしょう。エレミヤは、神からイスラエルの人々の霊的な状態を正しく診断する洞察力を与えられていました。このような霊的な病、罪の状態を放置すれば、とんでもないことが起きると、そのように警告するのが彼の役目でした。ですから、いつ、何時間分に、どの方角から、どのような民族が襲って来るのかを言い当てるのが彼の役目ではないですし、ましてやエレミヤはそのような不幸な出来事が起こるのを望んでもいなかったのです。エレミヤ書の17章16節には「私は、いやされない日を望んだこともありません」とありますが、これを読むとエレミヤが自分自身について癒されない日を望んだことがない、というように読めます。しかしこの文の意味は、新共同訳の方が正しく捉えているように思います。新共同訳では「わたしは、災いが速やかに来るようあなたに求めたことはありません。痛手の日を望んだこともありません」となっています。つまりエレミヤは、自分が語った破滅の預言が人々の上に早く成就して、自分が本当の預言者であることが人々に認められるようになる、そんなことを望んだことはありません、と言っているのです。エレミヤの願いとは、彼の預言を聞く人々が救われることだったからです。エレミヤが災いの預言をしたのは、人々が不幸になることを予知したわけでも、求めたわけでもなく、人々を救うために神からの警告の言葉を伝えたのです。それなのに、間抜けな偽預言者であるかのように人々からあざけられ、エレミヤはどれほど深く傷ついたことでしょうか。二十歳そこらで預言を始めた、感受性の強い若きエレミヤにとって、そのようなあざけりは耐えがたいものだったことでしょう。エレミヤは苦悩しました。しだいに彼の人々を見る目も厳しくなっていきます。9節では「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」とまで語ります。人間の心はねじ曲がっていて、神のまっすぐな言葉を受けいれられないのだと。そして、18節では「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」と嘆願しています。先に人々に災いが降り注ぐことを望まないと語ったエレミヤですが、今や神に、「彼らに倍返しにしてください」とまで願うほどにまで追い込まれていたのです。特に若いころのエレミヤには、このような人間臭さといいますか、自分の中に沸き上がる感情を押さえられないようなところがあります。またこうした正直さ、率直さというのがエレミヤの魅力でもあるのですが、ともかくも、預言者も生身の人間なのです。人々の心ない中傷に耐えられなかったのです。
神も、エレミヤの苦悩をよくご存じでした。しかし、エレミヤの預言が正しいことを実証するために、裁きを速やかに実行するようなことはなさいませんでした。むしろエレミヤに預言を与えた後も、何十年もの間は待っておられました。神も、御自身の破滅の予告が成就せずに、むしろ人々が悔い改めてご自分に立ち戻ることを願っていたからです。しかし、エレミヤの預言は遂に実現していくことになります。彼が預言を始めてからちょうど40年後の紀元前587年に、エレミヤの預言通りにエルサレムは北からの脅威、つまりバビロニア帝国によって徹底的に破壊され、壮麗なソロモン神殿は灰燼に帰したのです。40年と言うのはずいぶん長い期間です。しかも、この預言が実現した時に、エレミヤは預言者としての役目を終えました。彼は自分の預言が実現したことで、少しも喜びませんでした。これで偽預言者などと、馬鹿にされることもなくなる、それ見たことか!などとは決して思わなかったのです。むしろ彼は自分の預言が成就してしまったことを心から悲しんでいたのです。
そして40年というのも、神の忍耐の時でもありました。神は、イスラエルの人々が悔い改めるかもしれないと、辛抱強く待っておられたのです。実際、イスラエルの人々には破局を逃れるチャンスはあったのです。神はこの40年間の間、何度もエレミヤを通じて救いの道を伝え続けましたが、人々は従おうとはしませんでした。そしてついに、エレミヤの預言者としての40年の活動の最後の年に、預言は実現したのでした。
3.結論
さて、今日はエレミヤの北からの脅威の預言について、歴史的な背景を踏まえて考えて参りました。ここから、今日に生きる私たちが受け取るべき教訓について考えてみたいと思います。
まず学ぶべきことは、神の預言とは、変えようのない未来の告知でも、未来の予知でもないということです。預言とは二つの可能性を示すことです。神に従って命を得るのか、神に背を向けて滅びに向かうのか、そのどちらかです。人々にはそのどちらを選ぶ可能性も残されています。神は人々がどちらの道を選ぶのかを見守り、そして人々が正しい道を選ぶようにと熱心に促します。しかし、それでも人々が背を向け続ける時に初めて、その破滅の預言が現実のものとなっていくのです。けれども、その預言が成就しないという可能性も残されています。人々が神に立ち返れば、神は思い直されるのです。これは私たちにとっても教訓を与えます。新約聖書にも、ヨハネ黙示録などに恐ろしい滅びの描写がたくさんあります。今回のコロナ問題や、あるいは現在大量発生しているバッタの大群などの恐ろしいニュースを聞くと、ヨハネ黙示録の預言が実現しているのではないか、と心配される方もいます。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。しかし、私たちが悔い改めれば、聖書の恐ろしいヴィジョンも実現しないという未来もあるのです。聖書の預言が曖昧で、どうにでも解釈できる部分があるのは、それが未来予知ではなく警告だからです。私たちがその警告を真剣に受け止めれば、破局は回避できるのです。
また今日の箇所から、預言者という責務の困難さを学びました。預言者は決して人々が破滅することなど望んでいません。人々が幸いを見出す、正しい道を歩んでくれることを望んでいます。預言者の言葉が厳しいのは、人々に不幸が降りかかってほしくないからです。預言者は、人々が間違った道を選んだ結果について語らずにはいられません。たとえ、その言葉が人々を苛立たせたり、あるいは人々からの嘲りを招くとしても、語らなくてはならないのです。それは救いの可能性が残されているからです。キリスト教の福音を語る場合にも、同じ問題があります。福音とはグッド・ニュース、良い知らせですが、それを拒む人にはバッド・ニュースになってしまいます。福音も、人々に二つの道、神と共に歩むのか、神に背を向けて歩むのか、その二つの道を示すものだからです。ですから福音を語る、というのは簡単なことではありません。神を受け入れても、拒んでも、どっちでもいいよ、好きな方を選べばいいんだ、というような安易な話ではないからです。福音を聞いた人は、選択を、決断を迫られるのですが、それはあまり気持ちのよいものではないのです。何か重大なことを自分で決めなければならない、というのは楽ではないからです。誰かに決めてもらったほうが楽なのです。しかし、福音を受け入れるか拒むかは、まさに個人の決断です。他の人に決めてもらうわけにはいきません。ですから、福音を語る側も真剣に語らなければなりません。私たちは語るだけでなく、生き方によって「神と共に歩む」とはどういうことなのかを示さなければなりません。こう考えると、私たちの生き方そのものが福音伝道なのだと思わされます。人々は、私たちが語ること以上に、私たちが実際にどう行動するのかを見ているからです。行動の伴わない言葉は力を持ちません。ある人に、「愛しているよ」と100回言っても、その人のために何もしなければ、人はその愛を疑うでしょう。信仰も同じです。私たちの神への信仰は、行動によって初めて本物となるのです。そしてそれが人々への伝道、証しになるのです。この困難な時代にあって、神の証し人として生きる力が与えられるように祈ります。
私たちに命と滅びの二つの道を示し、命の道へと招いてくださる神よ。あなたを賛美します。今朝は、預言者エレミヤの言葉と生き方を通じて、預言とは何であるのか、また預言の言葉を担う預言者の貴くも困難な務めについて学びました。私たちも神から召された者として、人々に福音を伝える務めを頂いております。どうか私たちがその生き方によって、神と共に歩むということの意味を人々に伝えられるように、力を与えてください。今週も困難な状況の中での歩みが続きますが、どうか私たちを守り、強めてください。我らの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン