イスラエルの背信
エレミヤ書2章1~19節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週からエレミヤ書を学んでいますが、今日の聖書箇所はエレミヤの40年にも及ぶ預言者としての働きの中でも、特に初期のころの預言です。その中心的なテーマは「偶像礼拝」です。この偶像礼拝の問題は、エレミヤ書に限らず、実に旧約聖書全体の一大テーマだといってよいでしょう。さらには、偶像問題は新約聖書でも大きな問題です。パウロはローマ人への手紙の冒頭で、人類の罪として

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。(ローマ1:25)

と糾弾しています。実に人間の堕落は、真の神を神とせずに、偽りの神々を拝むことから始まりました。人間の様々な罪のルーツ、根本は「偶像礼拝」にあるのです。偶像礼拝とは、生ける真の神を捨てて、人間が自分の手で作った金銀あるいは木製の像を神として拝むということです。また、生きている者、つまり人間を神として拝むという偶像礼拝もあります。人間を神として礼拝する習慣は、特に人となられた神であるイエスが出現してから甚だしくなってきました。実際、紀元一世紀にキリスト教が地中海世界に広まるのとほぼ同じ時期に、人間であるローマ皇帝を拝む皇帝礼拝も急速に広がっていきました。悪霊は、神のなさることを真似して、神のようになろうとする存在です。ですから、皇帝礼拝とイエスの礼拝が同じ時期に広まったのも偶然ではないでしょう。聖書はこのように、真の神以外のもの、それがモノであれ人であれ、それらを拝むことを偶像礼拝として固く禁じています。

偶像礼拝の何が問題なのか、ということを考えるのはとても大きなテーマなので、今日の説教で語り尽くすことなどもちろんできません。ここではポイントを一つに絞って話したいと思います。偶像礼拝は人間を奴隷にします。それに対し、真の神を拝むことで人は自由になります。偶像から真の神に立ち返ることで人は解放され、自由になるのです。偶像礼拝の恐ろしさとは、人を奴隷化することにあります。実際、偶像礼拝が盛んなところでは、奴隷制度が栄えます。古代のエジプト文明を考えてみましょう。エジプトの王ファラオは太陽の神の子、あるいは化身でした。農業をするために絶対に必要なものは「太陽」です。太陽なしには生きていけないので、太陽を拝み、また太陽の化身を拝みます。こうして太陽の神ファラオの命令は何でも聞く、という奴隷が生まれるのです。神に近い人は身分が高い人になり、神から遠い人は身分が低く搾取されるということになり、こうして身分制度が出来上がっていきます。それに対し、イスラエルの場合は逆でした。古代イスラエルの宗教の特徴は、みんな神の前に平等だということです。みんなに平等に土地が与えられ、大きな経済格差が生じないようにしました。神様との関係も、基本的に平等です。確かに祭司はいましたが、祭司は神に代わって人々を支配するようなことはしませんでした。むしろ、祭司は神と民との執り成し役として、人々の重荷を担う役割を果たすことが期待されていました。しかし、イスラエルの歴史では実際はそうはならず、祭司階級は特権階級となり、大地主となって富と権力を独占するようになっていきます。

さて、話を戻しますが、偶像礼拝とは人を支配するために非常に都合のよいシステムなのです。偶像の神は、ある特定のご利益に結びついていることが多いのです。実際、日本でもいろいろな神様がいます。「商売繁盛の神様」、「安産の神様」、「学業の神様」など、人々が望むことの数だけ神様もいるような感じです。人々はこうした神々に自分の望むものを与えてくれるように拝み、お賽銭を捧げ、挙句の果ては神様の命じることは何でもするようになります。けれども、こういう人の信心を利用して、よからぬことをする人々は多いのです。政治権力者や新興宗教の教祖は、こういう人々の信仰心を悪用して彼らを支配します。「私は神の代理人だ、神はこう言っておられる」と言って人々を奴隷のように使おうとするのです。しかし、真の神は人々を奴隷のようにこき使おうとしているのではありません。神は人々が自由になることを願っておられるのです。奉仕とは奴隷の業ではなく自由な人間のすることなのです。さて、前置きはここまでにして、今日与えられたエレミヤ書のみことばを読んでまいりましょう。

2.本文

エレミヤは2章でイスラエルの偶像礼拝について告発します。そこには二つの中心的な問題がありました。一つは他の神々との関係、もう一つは周辺の超大国との関係です。イスラエルの人々にとってはバアルという神との関係が大問題でした。バアルとは「主人」、または「主」という意味です。私たちが「主よ」と祈るように、人々は「バアルよ」と祈ったのです。このバアル礼拝は、エレミヤのいた南ユダ王国、またそれより100年ほど前に滅びた北イスラエル王国でも大いに広まっていた宗教でした。有名なのは、何といっても北イスラエルの預言者エリヤがバアルの預言者たちとカルメル山で雨乞いの儀式をして戦ったことでしょう。ここで雨乞いを巡ってエリヤとバアルの預言者たちが戦ったことには大きな意味があります。なぜならバアルとは農業の神様、収穫の神様であり、太陽を昇らせ雨を降らせて人々に豊かな収穫を与える神だと信じられていたからです。ですから日照りで雨が降らない時こそバアルの神様の出番だったはずなのでした。そもそもイスラエルの人々がバアルに惹かれたのも、バアルが収穫の神だったからです。イスラエルの人々が真の神の偉大な力を知ったのは、出エジプトの時でした。神はイスラエルをエジプトの奴隷の家、奴隷状態から救い出し、自由を与えました。イスラエルの神は、エジプトの神々との戦いに勝ち、長い砂漠の旅路の中でイスラエルの人々を守り、約束の地に導き入れました。イスラエルの人々も、その恩を忘れたわけではありませんでした。しかし彼らが砂漠を離れ、農耕生活に入った時に、彼らは不安を感じました。イスラエルの神は砂漠の神だ。荒野を彷徨う時にはこの神に従っていればよかった。だが、今の関心事は農業で豊かな収穫が得られるかどうかだ。それはイスラエルの神にとっては専門外の領域、得意ではない分野ではないだろうか。だから、イスラエルの神に加えて、カナンの地の氏神である農業の神様であるバアルも一緒に拝もう。神様は一人より二人の方が心強い、とこのように考えたのです。

イスラエルの偶像礼拝の問題とは、混合宗教の問題でした。「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」と、イスラエルの神と一緒に、他の神様にも祈ろうという、こういう姿勢です。八百万の神々を信じる日本人と非常に近い姿勢ですね。唯一の神などと言い出すと、排他的になる、どんな神様も仲良く一緒に拝めば争いもなくなり、みんなうまくいくという、こういう理屈です。しかし、これはおかしいと、聖書の神は仰せられます。考えてみてください。恋人同士、あるいは夫婦の関係で考えてみましょう。たとえば皆さんが恋人あるいは配偶者から、「私はお前を心から愛している。でも、私の愛はとっても広くて大きいのだ。私はお前と同じように、BさんもCさんも深く愛している。私の愛は、三人とも同じように深く愛せるぐらい、広くて大きいんだ。私は博愛主義者なのだ。私はみんなを幸せにしたいのだ」などと言われて納得するでしょうか?いいえ、「この人は愛とは何であるのかを全くわかっていない」と怒るか、あきれるかするでしょう。愛とは選択です。世の中には男も女もたくさんいます。魅力的な人や好みの人も、一人だけとは限らないでしょう。しかし、その中から一人を選び、その人に人生を賭けるわけです。映画を見る時はAさん、高級レストランに行くときにはBさん、ドライブに行くときはCさんと付き合いましょう、などとやっていたら、みんなから愛想をつかされるでしょう。神とイスラエル、または神と私たちとの関係も同じことです。神が私たちに求めておられるのは人格的な関係です。神を信頼し、神にすべてを委ね、共に歩んでいく、そういう人を神は求めておられるのです。ある時にはイスラエルの神にお願いし、他の場合にはバアルの神様を拝む、そのような関係を神は嫌われるのです。神はエレミヤを通じてこう言われました。

わたしは、あなたの若かったころの誠実、
婚約時代の愛、
荒野の種も蒔かれていない地での
わたしへの従順を覚えている。

神とイスラエルとのかつての関係が、婚約時代の男女の関係にたとえられています。出会ったばかりのころ、恋に落ちたばかりのころの関係は初々しく、また熱烈なものです。この人しかいない、この人についていこう、とこのような思いを持って二人は一緒になるのです。しかし、だんだんと月日が経つうちに初めの思いは消えて、不満や幻滅の方が多くなっていくかもしれません。人生にはいろんな困難があるからです。私たちの信仰生活も同じかもしれません。初めて神を知り、自分が神に愛されている、神のものになったのだということを信じられないこととして喜びます。けれでも、人生は神様を信じたからといって、それで人生に問題がなくなるものではありません。かえって大きな試練に遭うこともあります。「私は神様を信じているのにどうして?」と思うことも一度や二度ではありません。そんな中で、神への信頼を見失っていく、「初めの愛から離れてしまう」のです。しかし、本当の愛とは試練の中で試されるように、私たちの神への信仰が本物かどうかは、試練の中でこそ明らかになるのです。「私が弱いときこそ、強い」と使徒パウロは言いましたが(Ⅱコリント12:10)、困難な状況の中でこそ神の恵みが現れます。私たちも今困難な状況に置かれています。礼拝に集まることに何の不自由もなかった時と違い、今は毎週毎週無事に礼拝が守れますようにと必死に祈っています。でも、本来なら平時の時でも礼拝が守れるということがどんなに大きな恵みなのかを知るべきだったのだな、と思わされています。私が江戸時代や、あるいは軍国主義の日本に生まれていたら、普通に礼拝をすること自体、本当に大変なことだったわけですから。ですから私のような鈍感な人間は、こういう困難な状況に直面することで、神に信頼すること、また神の恵みに心から感謝することを学ばせていただいている、と思わされています。

エレミヤの時代のイスラエルの人たちにも、当然ながら多くの困難や心配事がありました。伝染病のような悪い流行り病の心配もありましたが、繰り返される日照りや旱魃(かんばつ)、あるいは洪水などの自然災害は大きな脅威でした。彼らはあらゆる対策を取ろうとしました。その対策の一つが、農業に強い神様を拝むことだったのです。エレミヤは13節で皮肉交じりにこう言います。

わたしの民は二つの悪を行った。
湧き水であるわたしを捨てて、
多くの水ためを水を
たくわえることのできない、こわれた水ためを、
自分たちのために掘ったのだ。

当時は水をためるために、大きな水ためを掘っていました。今後迫害を受けるエレミヤは、ぬかるんだ水ための中に閉じ込められることになるのですが、とにかくエルサレムやユダの村々には日照りに備えていくつもの水ためが掘られていました。水ためを掘ることそれ自体はもちろん悪いことではありません。しかし、もし彼らが本当の生ける水を与えてくださる神を忘れてしまうのなら、そして自分で自分を救おうとひたすら水ためを掘るのなら、そのような行動は罪深く、また滑稽ですらあるのです。私たちも生活の不安は常にあります。このような緊急時ではなおのことそうです。しかし、そういう時にこそ、神に信頼するという基本的な姿勢を忘れないようにしたいのです。そうしないと、イスラエルの人たちのことを笑えなくなります。私たちはみな、同じような弱さを抱えているのです。

さて、バアル礼拝の罪に加えて、当時の南ユダ王国はもう一つの罪を犯していました。それは真の神に頼らずに、周辺の超大国の力に頼ろうとすることでした。この罪も根が深く、エレミヤより100年ほど前に活躍した預言者イザヤも何度も警告したものでした。エレミヤ書の2章全体は、古代における裁判の告発を思い起こさせます。それは王が、反乱を起こした家臣に対し、その罪を告発するという形の告発文です。この場合、王とは神であり、家臣とはイスラエルのことです。では、イスラエルがどんな罪を犯したのか。イスラエルは世界中の中で唯一真の神に選ばれた民です。彼らは主に献げられたもの、聖なる民、収穫の初穂、主の花嫁でした。しかし、彼らは主を信頼し抜くことができませんでした。むしろピンチになると、真の神ではなく、この世の権力に頼ろうとしました。これは私たちにもよくわかることではないでしょうか。日本は今、政治的にはむずかしい状況におかれています。中国が急速に軍事力を強化し、周辺諸国に有形無形の圧力をかけています。また、北朝鮮もミサイルを頻繁に発射しています。そのような中で日本はどうしたでしょうか。日本の現在の政治方針はまことに分かりやすいものです。ひらすらアメリカに頼ろうとしています。卑屈とも思えるほどにアメリカに従属し、外敵から守ってもらおうとしています。エレミヤの時代の南ユダ王国もそうでした。彼らは外敵の脅威に晒されると、神ではなく、真の神を知らない近隣の超大国に救いを求めたのです。そのことが17節以降に書かれています。

あなたの神、主が、あなたを道に進ませたとき、
あなたは主を捨てたので、
このことがあなたに起こるのではないか。
今、ナイル川の水を飲みに
エジプトの道に向かうとは、
いったいどうしたことか。
ユーフラテス川の水を飲みに
アッシリヤの道に向かうとは、
いったいどうしたことか。
あなたの悪が、あなたを懲らし、
あなたの背信が、あなたを責める。
だから、知り、見きわめよ。
あなたが、あなたの神、主を捨てて、
わたしを恐れないのは、
どんなに悪く、苦々しいことかを。
-万軍の神、主の御告げ-

これまでもイスラエルの人々は、不安になると神ではなく他のものに頼ろうとする傾向がありました。かつて、エジプトから脱出した時も、モーセが長い間シナイ山にいっていると、もうモーセは死んでしまったと思い、金の仔牛を作ってそれに助けてもらおうとしました。今回も同じです。アッシリヤが恐ろしいとエジプトを頼り、エジプトが怖くなると今度はアッシリヤに頼るという、右往左往を繰り返すのです。今の日本で言えば、中国が恐ろしいとアメリカに頼り、アメリカとの関係がおかしくなると中国に頼るようなものです。しかし、イスラエルは神から選ばれた民です。神にこそ信仰を持ち続け頼るべきです。そうはいっても、神は見ることができないし話すこともできないので、目に見えるものに頼ろうとするのです。そうした弱さは、私たちにもあることを覚えたいと思います。こういう弱さを克服するために、習慣というのも大切です。日曜礼拝はもとより、私たちは神に祈り、日々の備えに感謝するとともに、悩みや苦しみを主に打ち明ける時を、毎日持ちたいものです。長い時間である必要はありませんが、一日の内でどこかの時間を聖別し、主との交わりの時を持っていきましょう。

3.結論

さて、今日からいよいよ預言者エレミヤの預言の内容そのものを学んできました。エレミヤ書の最初の部分は、イスラエルの背信、真の神に背を向けて他の神々や、あるいは周辺の超大国に頼ったこと、つまり偶像礼拝の問題が取り扱われました。偶像礼拝とは、必ずしも宗教的なことには限定されません。真の神ではない他のもの、他の神々ですとか、他の力の強そうなグループや国々、あるいはお金、そうした神ならぬものを神よりもあてにする、頼りにする、そういう心の在り方そのものが偶像礼拝なのです。そういう意味では、私たちは常に偶像礼拝の誘惑に晒されていると言えるでしょう。

最後に、神に頼るということの意味を改めて考えてみたいと思います。神に頼るということは、自分では何の努力もしない、ということではありません。私たちが合理的な努力をして、人生の困難の立ち向かおうとするのはとても大切なことです。病気になっても病院に行かず、神様を信頼してひたすら祈るというような行動は、信仰心の現れとは言えないでしょう。私たちは神に病の癒しを願うことはできても、強制することはできないのです。神は私たちが自分たちに出来ることをしっかりと行うことを望んでおられます。神は私たちがただ受け身で、何もしないことを望んでいるのではありません。しかし同時に、私たちが自分でなしたすべての努力の背後に神が働いておられることを忘れないようにと、願っておられます。このバランスは大事です。私たちは自分たちの最善を尽くすべきです。同時に、私たちにそのような力を与えてくださるのは神なのです。すべてのことを神様にやっていただこう、自分は何もしなくてもいい、というのではなく、全部自分でやろう、自分しか頼る者はない、というのでもなく、常に神とともに歩むということです。偶像礼拝を避けるには、この信仰者としての態度を常に持ち続けていく必要があるのです。お祈りします。

万軍の主よ。
なんと幸いなことでしょう。
あなたに信頼するその人は。
(詩篇84:12)

イエス・キリストの父なる神。その御名を賛美いたします。今日はエレミヤ書を通じて、あなたに信頼し、信頼し続けることの大切さを学びました。この世には多くの困難があり、私たちは日々不安の中を生きています。そのような中で、あなたに心から信頼し、あなたを見つめ、あなたとともに歩む心を持ち続けることができるように、私たちをお支え下さい。今週の私たちの歩みにおいても、災いや感染症からお守りください。私たちの主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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