イエスの祈り
ヨハネ福音書17章6-19節

1.序論

みなさま、おはようございます。イースターおめでとうございます。言うまでもないですが、昨今の緊迫した状況の中でこのように礼拝を守れること自体、感謝すべきことです。同時に私も、こんな情勢の中で礼拝をしてもいいのだろうか、中止すべきではないか、と日々心が揺れました。こういう時に、神様が「続けなさい」とか、「やめなさい」と指示してくださればありがたいと思いますが、しかし主は私たちがそれぞれ深く祈って、個々人で判断することを求めておられるように思いました。ローマ書の14章5節の、

ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。

というみことばが与えられました。イースターだから、特別な日だから、今日はなんとしても礼拝を守りたい、という方もおられます。また、たとえどんな日であろうと、神様からいただいた命を大切にすべきだ、だから断腸の思いで自重しよう、と信じる方もおられます。どちらも信仰に基づく確信ならば、正しいのです。私もそこで、今日説教壇に立つように召された者として、確信に基づいて話したいと思います。日々不安を感じる中で生活している私たちですが、今日は復活の主、イエスの祈りから慰めと励ましを得たいと思います。

今日お読みいただいた箇所はヨハネ福音書17章から取られたものですが、ヨハネ17章全体が、最後の晩餐でイエスが祈られた祈りなのです。先週学んだように、主イエスは渡される夜、弟子たちを招いて深夜に過越の食事をしました。それが最後の晩餐と言われる食事です。そこで真っ先に、イエスは弟子たちの足を洗いました。その意味については先週の礼拝で考えました。そして、その晩餐が終わる時、最後に祈られたのがこの祈りです。イエスはこの最後の晩餐を、弟子たちの訓練の最後の場として、その一瞬一瞬を大切に用いられました。この最後の晩餐の、主イエスの一つ一つの動作、その一言一言にはすべてとても大きな意味があります。イエスが特に懸念していたのは、自身が世を去った後の弟子たちのことでした。ヨハネ13章から始まる、イエスの長い講話の中には、ご自身が天に帰られた後に弟子たちを待ち受ける苦難や試練のことが多く語られています。弟子たちは、これからとても大きな働きを担うことになります。それと同時に、大きな苦難やチャレンジにも直面することになります。14章12節でイエスはこう言われました。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

弟子たちがイエスよりもさらに大きなわざを行う!?びっくりするような言葉ですね。しかし、これは弟子たちが、イエスがなさった奇跡よりもさらにすごい奇跡を行う、という意味ではもちろんありません。むしろ、「わたしが父のもとに行くからです」というイエスの言葉に注目しましょう。イエスが死を打ち破って復活し、天の父のもとに戻って栄光を受けられる。栄光の主であるイエスが力を与えるがゆえに、弟子たちは非常に大きなわざを行えるようになるのです。弟子たちの力はすべてイエスから来るからです。ですから、イエスが天に帰って栄光を受けられた後、弟子たちは目覚ましい働きをするようになります。実際、歴史はそのように動いていきました。ペンテコステの後、見違えるように大胆になった弟子たちは世界中に福音を伝えていきます。しかし、それと同時に、弟子たちは非常に厳しい試練にも直面することになります。15章20節では、イエスはこう言われました。

しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。

弟子たちはイエスの大いなる働きを継続していきますが、同時にイエスが歩んだ苦難の道をも歩むのです。イエスと弟子たちは一つだからです。しかし、彼らはただ自分たちだけで悩み苦しむのではありません。強力な援軍が与えられます。それが聖霊です。聖霊は苦難に耐える弟子たちを励ましてくれるのです。14章27節では、主はこう言われました。

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。

イエスを信じる者には、苦難の中でも平和と安心が与えられるのです。それは世の中が与えるようなものではありません。この世は本当の意味で私たちに安心を与えてはくれません。私は数か月前に、人類は伝染病との戦いに勝ったというような記事を読みましたが、そのような人間の奢りは脆くも崩れ去ってしまったのを私たちは今目撃しています。本当の平安を与えることができるのは神だけなのです。

さて、このようにイエスは最後の晩餐で、ご自分が去られた後弟子たちの働きとそれに伴う苦難、そして彼らに与えられる上よりの助けを切々と語ってこられました。そして、その締めくくりとしてこの17章のイエスの祈りがあるのです。そのような背景を踏まえながら、今日与えられたみことばを読んで参りましょう。

2.本文

ヨハネ17章は、大きく分けて三つの部分に分けられます。初めは1節から5節まで。そこでイエスはご自身のことを祈っています。次が6節から19節で、ここではイエスと苦楽を共にした12弟子の為に祈っておられます。そして20節から26節までは、私たちを含む全世界の教会のための祈りです。今日は、その中でも中心的な部分である弟子たちのための祈り、6節から19節までに着目します。

6節で、イエスは「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました」と語っています。イエスの弟子たちは、神が世から選び出してイエスに与えてくださった人たちでした。その彼らに、イエスは御名、神の名前を明らかにした、と語っています。御名を明らかにするとは、イエスが弟子たちに神の秘密の名前や神秘的な呼び名を教えた、という意味ではありません。神の御名を明らかにするとは、神ご自身を弟子たちに示したということです。最後の晩餐で、ピリポはイエスに、父なる神を見せてください、そうすれば私たちは満足します、と願いました。するとイエスは、あなたはわたしとずっと一緒にいたのに、わたしのことを理解していないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ、とおっしゃいました。弟子たちは、イエスと共に生活をする中で、その姿の中に父なる神を見たのです。神とはどんな方なのか、それはイエスを見れば分かるのです。その弟子たちについて、イエスは6節の最後で「彼らは、あなたのみことばを守りました」と言いました。「守った」というのは完了形です。つまりイエスはこれまで弟子たちがしてきたことを言っておられます。イエスは弟子たちが神のみことばを守った、と褒めているのです。しかし、この最後の晩餐の直後にイエスを見捨てて散り散りに逃げ惑う弟子たちについて、これは過大な評価、褒め言葉なのではないか、と思われるかもしれません。確かにそこだけを見ればそうです。しかし、ヨハネ福音書の前半を読めば分かるように、この最後の晩餐の時に至るまでに多くの弟子たちがイエスを見捨てて離れていきましたが、この12弟子はイエスを離れなかったのです。6章の66節以降にはこのような会話がありました。

こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩まなかった。そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちはだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」

実に立派な告白です。最後の晩餐でイエスと食事を共にした弟子たちは、多くの仲間が脱落する中でも、イエスに従い続けた人たちだったのです。たしかに、この直後のイエスの逮捕、受難という究極の場面で彼らはひるんでしまいました。しかしイエスは彼らのこれまでの献身、すべてを捨てて自分に従ってくれたことを決して忘れることはなかったのです。イエスは人のマイナス面ばかり見るような方ではありません。良いところをしっかり評価してくださるのです。ですから、私たちも主イエスとの関係を考える時に、自分の失敗ばかりに目を向ける必要はありません。確かに、私たちはイエスを信じて救われた後も完璧にはほど遠い者です。多くの失敗を犯し、イエスをがっかりさせることもあるでしょう。しかし主イエスは、そんな弱い私たちが一生懸命イエスのためになしたこと、小さな献身をしっかりご覧になり、覚えて下さり、それを喜んでくださるのです。

さらに10節では、「わたしは彼らによって栄光を受けました」とイエスは言っておられます。これはなんとすごい言葉でしょうか。父なる神が主イエスによって栄光を受ける、というのは分かりますが、主イエスが弟子たちによって栄光を受けた、というのはまったく驚くべきことです。しかも、ここでも完了形が使われています。ですから主イエスは寛大にも、この最後の晩餐の時に至るまでの、弟子たちがなした小さな良い業、頼りない献身をすべて覚えていてくださったのです。そのような彼らの業が主イエスに栄光をもたらした、と言われるのです。ですから、たとえ弟子たちの奉仕や献身が完璧なものでなくても、それどころか欠けだらけでも、そうした小さな良き業はイエスに栄光をもたらしたのだ、とイエスは確かにおっしゃったのです。十二弟子だけではありません。主イエスは、私たちの日々の小さな良き業も喜んでくださいます。私たちの小さな良き業も、主イエスに栄光をもたらすのです。ですから私たちも、本当に喜びを持って主の業に励みたいと願わされます。

さて、11節以降を読みましょう。11節以降のテーマは、「弟子たちが迫害を受ける」ことと、「弟子たちが聖め分けられる」、という二つのテーマです。「聖め分ける」というのはあまり使わない日本語ですが、新改訳2017ではここは「聖別」と訳されています。この方が分かりやすいので、ここでは「聖別」という言葉を使いたいと思います。ですから、11節以降のテーマは迫害と聖別、ということになります。この一見何も関係のないような二つのテーマには密接な関係があります。主イエスは、ここで「聖なる父」と呼びかけます。神に対して「聖なる」という呼び名がヨハネ福音書で用いられているのはここだけです。「聖」という言葉は、ここからのイエスの祈りのキーワードになっています。ここで、「聖なる」の「聖」という言葉の意味を、「清い」ということとの関係で考えてみましょう。清いは清潔の「清」で、聖であるは聖書の「聖」です。この二つには深い関係がありますが、同じではありません。先週のイエスの足洗いでは、弟子たちが「清くなる」、「清められる」ことがテーマとなっていました。イエスの受難の大きな目的の一つは、弟子たちを罪から清めることでした。では、なぜ弟子たちが罪から清められる必要があるのかといえば、それは彼らが聖別され、神のものとなるためです。聖なる者、神のものとされる前提として、人は清められる必要があるのです。日本の伝統的な宗教文化においても、聖なる空間とされる神社仏閣に入る前に身を清めます。手を洗ったり、全身を沐浴します。同様に、神との親しい交わりに入り、聖なる神のものとされるために、人は清められる必要があるのです。罪からの清め、というのは聖書の重要なテーマですが、「聖別」される前提として、人は罪から清められる必要があるのです。最後の晩餐で、イエスがまず弟子たちを清め、それから聖別について語ったのはそのような理由なのです。

さて、イエスの祈りに戻りますが、ここでは「聖別」という言葉が繰り返し出てきます。17節では、「真理によって、彼らを聖別してください」と主イエスは祈ります。そして19節では、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します」とイエスは語ります。それは「彼ら自身も真理によって、聖別されるためです。」ですから11節以降のテーマとは、聖なる神、そしてご自身を聖別されたイエスによって、弟子たちも聖別される、ということなのです。では、主イエスがご自身を聖別する、というのはどういう意味なのでしょうか?神の子であるイエスは初めから聖なる方なので、聖別される必要はないのではないでしょうか?ここでは、主イエスがこの世界に神によって派遣されたという事実、「派遣」というテーマが重要になります。ヨハネ福音書10章36節で、イエスはご自身について「父が、聖であることを示して世に遣わした者」と言っていますが、ここで「聖であることを示す」と訳されている言葉は、「父が聖別して世に遣わした者」と訳せます。このように、イエスが聖別されるとは、イエスご自身が世に遣わされる、世の罪を取り除くために世に遣わされるという「派遣」と密接に係わっているのです。ですから、人が神によって聖なる者とされるというのは、その人が神によってこの世界に派遣される、という目的と密接に係わります。イエスの弟子たちが聖別されたのは、この世の汚れから逃れて、彼らだけ清い世界に生きるようになるためではないのです。むしろ、聖なる者、神の者とされた彼らは、その神によって神に逆らう世界に派遣されるのです。ですから彼らは必然的に迫害を経験します。神のものではないこの世は、異質な存在を嫌うからです。11節以降で、弟子たちへの迫害と、弟子たちが聖別される、というテーマが同時に出てくるのは、そういう理由なのです。

そこでイエスは、この世に遣わされる彼らを守ってください、と神に祈ります。そこをお読みします。

彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

主イエスは、弟子たちをこの悪い世から取り去って、清い天国に連れて行ってくださいと祈っているのではありません。むしろこの世において、その務めを全うさせてください、と祈っているのです。また、ここでイエスが言われた「悪い者」というのは、単に世の中にいる「悪人たち」という意味ではありません。もちろん、この世にはオレオレ詐欺をしたり、私たちを騙そうとする人が少なくないわけですが、ここではそうした人たちのことではなく、その背後にいるもっと恐るべき存在のことを言っているのです。ヨハネ第一の手紙の5章19節にはこうあります。

私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

ここで言われている「悪い者」とは、蛇とかサタンとか言われる悪の霊的力の首領のことです。この全宇宙の支配者は神お一人ですが、しかしサタンはその世界に一定の影響力を持ち、いや持つことが許されている、と言った方がよいでしょうが、サタンは神に属さない者たちをコントロールする力を持っているのです。サタンという存在がよく理解できない、ということでしたら、この世を支配する悪い空気、と呼んでもよいかもしれません。私たちの社会は、時として非常に残忍になったり、冷酷になったりすることがあります。例えば戦争中に、ある特定の人々を排斥したり、極端な場合は虐殺したりすることがあります。普段はいい人たちなのに、なぜそんな恐ろしいことをしたのだろう、と驚くようなことがあるのです。程度の差こそあれ、私たちの社会は常にそうした悪の力の影響力に晒されていると言えるでしょう。そのような世界に、神のものとされた弟子たちは送り込まれました。狼の群れに羊を送り込むようなものです。神のものである弟子たちは、神のものではないこの世界においては異分子なのです。ですから摩擦や軋轢があって当然なのです。そんな彼らが守られるようにと、主イエスは強く父なる神に祈り、願っておられるのです。

そんな悪の支配する世の中で、信仰者はどのように「聖なる者」であり続けることが出来るのでしょうか。それはみことばによってです。17節でイエスはこう祈られました。

真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。

私たちは真理によって聖なる者とされますが、真理はみことばの中にあります。ですから、私たちは聖なるものではない世の中で聖なる者であり続けるために、みことばに堅く立つ、みことばにとどまる必要があるのです。

3.結論

今日は、最後の晩餐で主イエスが祈られた祈りを学んでまいりました。この祈りは非常に内容の濃い、また多くの事柄が含まれた祈りでした。しかし、その中心は、世を去っていくイエスの、世に残る弟子たちへの深い配慮と愛でした。イエスが世におられた間は、イエスが彼らを悪い者から守ってくださいました。けれども、イエスがいなくなってしまえば、彼らはどうなってしまうのでしょうか。その時イエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」と約束して下さいました。イエスは聖霊を彼らに与え、また真理のみことばを与えてくださいました。そのみことばによって弟子たちは聖なる者とされ、この世に遣わされたのです。それは世の人々に真理を伝え、永遠の命を得させるためです。イエスもご自身を聖別され、神によって世に遣わされました。弟子たちはイエスによって世に遣わされました。

そしてイエスは、ここに集う私たちをも聖別して下さり、この世に派遣するのです。この世は、今不安でいっぱいです。私たちが当たり前に思っていたものが、どれほど脆いのかを嫌と言うほど思わされる毎日です。たとえこのコロナ問題が収束しても、これからの世界が平穏無事になるとはとても思えません。温暖化問題、原発問題など、まだ多くの問題が山積みです。そんな中で、人々に真の希望を伝えるべく、私たちは世に遣わされるのです。そして、苦難の中にある私たちのために主イエスは今日この時も祈ってくださっているのです。私たちも、主イエスとこころを合わせて、祈りましょう。

死に打ち勝ち、また私たちにも死に打ち勝つ力を与えてくださる復活の主よ。あなたこそが私たちの希望です。私たちの社会は、今死の恐怖でどうしてよいのか分からない状態にあります。このような時こそ、あなたを見上げます。あなたは私たちのために祈ってくださっています。どうか私たちを聖別し、あなたの御心を行わせてください。これからの1週間も、私たちとその家族とを守り給え。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。

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