1. 序論
みなさま、おはようございます。当教会に就任して初めての説教が、主イエスのエルサレム入城を記念する棕櫚(シュロ)の主日となったことに、感慨深いものがあります。棕櫚の主日というのは、イエスがエルサレムに入城した時に、人々が棕櫚の枝を振ってイエスの入城を歓迎した出来事を記念する日です。シュロとはヤシの一種で、ほうきにも使われる丈夫な枝をならせます。その枝を振ることには、勝利者である王様を迎えるという意味がありました。しかし、それからわずか6日目にはイエスは逮捕され、十字架に架けられて死ぬことになります。その当時のエルサレムはものすごい数の人々で溢れかえっていました。今年の夏の東京オリンピックは延期になりましたが、もしこの夏に開かれていたら、この東京は世界中の人々で溢れかえっていたでしょう。イエスが最後の1週間を過ごされたエルサレムも、まさにそんな状況でした。なぜなら、その時にはエルサレムでは過越の祭りが祝われていたからです。過越の祭りというのは、イエスの時代からさらに千数百年ほど前に、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々を、神がモーセを遣わすことで解放したことを記念するお祭りです。神は、イスラエルの人々を自由にしなさい、とエジプトの王ファラオに命じますが、ファラオはそれを拒否します。そこで神は10の災いをエジプトの地に下し、そして最後の10番目の災いが下ると、ファラオもとうとう降参して、イスラエル人を自由にします。その時のことを記念するのが過越の祭りでした。その祭りは夜祝われますが、その日には、各家庭は子羊を屠り、夜中に過越の食事をとるのです。
主イエスは、十字架の運命が待つエルサレムでの最後の一週間を過ごすためにガリラヤからエルサレムに上京してきたのですが、エルサレムはその週から始まる過越の祭りに参加するために、先ほども言いましたが、世界中から集まってきたユダヤ人でごった返していました。イスラエルの地に住んでいないユダヤ人、つまり日本で言えば、外国に住んでいる日本人のことですが、そういう人をディアスポラと言います。当時そのようなユダヤ人は、だいたい500万人ほどいたと言われています。有名な使徒パウロも、そうしたディアスポラの一人でした。その500万人の全部ではないですが、多くの人が過越の祭りを祝おうと、狭いエルサレムに世界中から押し寄せてくるわけです。大変な喧噪なのですが、その中の一人としてイエスもエルサレムに入って来られたのです。イエスがエルサレムに来られたのが日曜日でした。当時のユダヤ教では安息日は土曜日ですから、当時の日曜というのは私たちにとっての月曜日の感覚ですね。週の初めの日曜日にエルサレムに来られたイエスは、そこでユダヤ人の指導者である祭司たちと対決し、論争を繰り返し、彼らから危険人物として命を狙われます。エルサレムに来られてから5日目の晩、つまり木曜の晩、いよいよご自身の死ぬ時が近づいたことを知ったイエスは、弟子たちを招いて最後の晩餐を催します。それは最後の晩餐であるのと同時に、先に申し上げた過越の祭りの食事でもありました。過越の食事は夜中に行われるのですが、イエスの最後の晩餐も夜中に行われました。過越の祭りは、かつて彼らの先祖たちがエジプトの奴隷だった状態から解放されたことを祝う日でした。しかしイエスは、これからご自分に従う人たちは、エジプトではなく罪、罪の奴隷という状態から解放されることになる、ということを伝えようとしました。そこで過越の食事として最後の晩餐を祝われたのです。この最後の晩餐において、いくつかの大変重要な出来事がありました。その一つが、今日お読みいただいた聖句である足洗いです。今週の木曜日はキリスト教の暦では洗足の木曜日と言われますが、それは最後の晩餐で主イエスが弟子たちの足を洗ったことを記念する日なのです。
もう一つの最後の晩餐における重要な出来事とは、いうまでもなく聖餐式の制定です。私たちが行っている聖餐式の起源もここにあります。この聖餐式の意味はとても大切なのですが、今日はこの点には触れずに、イエスが弟子たちの足を洗われたことの意味を深く考えて参りたいと思います。
2. 本論
さて、四つの福音書の中で、イエスが弟子たちの足を洗ったことを記録しているのはヨハネ福音書だけです。反対に、ヨハネ福音書では、マタイ・マルコ・ルカのようには聖餐式の制定の記事はありません。このようにヨハネ福音書では、最後の晩餐においてイエスが弟子たちの足を洗ったことを強調しているのです。イエスがなされる行動は、一つ一つ考え抜かれたものです。イエスは急に思いついて、弟子たちの足を洗おうとされたのではありません。むしろ、ご自分の行動の意味をよく分かっていました。イエスは弟子たちに、大切なことを伝えようと、言葉だけではなく、行動を通じて彼らに教えられたのです。
この、弟子たちの足を洗うという行為には、三つの大切な意味が込められています。一つは、イエスはご自分がどんな方なのか、ということをその行動によって示されました。二つめは、イエスはこの足洗いによって、弟子たちの足や体が清められるだけでなく、イエスによって罪から完全に清められることを示しました。三つめは、イエスは弟子たちに、これから彼らがどのように生きるべきか、どのように振る舞うべきかについての模範を示したのです。この三つの内、罪から完全に清められることについては次週にお話ししますので、今日は特に一番目と三番目について話していきたいと思います。
では、最初の点です。イエスは弟子たちの足を洗うことによって、ご自分がどんな方なのかを示されました。まず、「足を洗う」ということの意味を考えてみましょう。「足を洗う」ことは、当時のユダヤ社会では家に入る時に、特に他の人の家に客として入る場合には、必ずする必要があるものでした。当時は、今の私たちのような立派な靴はありません。土埃の舞う地面を長い時間サンダルのようなものを履いて歩いていました。そのような状態で長いこと歩けば、足は誇りまみれ、泥まみれになってしまいます。他の人の家に食事に呼ばれた時に、サンダルを脱いで汚いはだしでその人の家に入ったら、その家の主人から嫌な顔をされるでしょう。ですから、その人の家に入る時に、まず始めにすべきことは足を洗うことなのです。では、誰がどのようにして足を洗うのでしょうか?それは食事を主宰する主人の奴隷がするか、奴隷がいない場合はゲストの各人が自分で自分の足を洗うかのいずれかでした。食事の主催者、ホストがお客の足を洗うということは、当時の習慣ではあり得ないことでした。さて、この最後の晩餐において、食事の主催者、主人はイエスその人でした。イエスが弟子たちを食事に招いたのですから、イエスが弟子たちの足を洗うというのはあり得ないことでした。イエスが弟子たちの足を洗った、ということは、私はあなたがたの奴隷です、と宣言するのに等しい行動でした。ですから弟子たちはビックリしたのです。そんなことはなさらないでください、とイエスに頼みました。
では、なぜイエスはこんなことをされたのでしょうか?それは、弟子たちがイエスのことを誤解していたからです。弟子たちは、イエス様は王様なのだから、奴隷の仕事をするべきではない、と思っていました。当時のユダヤの地はローマ帝国の植民地でした。ユダヤの人々はローマに高い税金を払ったり、暴力を振るわれたりしていたので、このローマによる支配が早く終わって、神様が直接イスラエルを治めてくださることを期待していました。直接、と言っても、神様は見えないお方ですから、神様が選んだ王様、それをメシアと呼びますが、そのメシアによってローマを追い払い、人々が望むような平和な国を神様が造ってくれる、そのようなことを期待していました。そしてイエスはそのような国をもたらす王様に違いないと弟子たちは期待していました。では、「王様」と聞くとどんな人をイメージするでしょうか?王様というと、部下を奴隷のようにあごで使い、また戦争をして敵を追い払う、そういう人物をイメージするのではないでしょうか。イエスの弟子たちも、まさにイエスをそのような王様だとひそかに思っていました。ですから、イエスが、「いや、私はあなたがたの救いのために死ぬのだ」と言われても、何のことだかさっぱり分かりませんでした。イエスはご自分のことを「人の子」と呼びましたが、御自身の使命についてこう言われました。マルコ福音書10章45節からお読みします。
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエスはメシア、つまりイスラエルの王です。王ですから、人々に仕えられるべき存在です。しかし、イエスは自分が来たのは仕えるためなのだ、と言われました。イエスは、王様と言えば人を奴隷のようにこき使う、そういうイメージを人々が抱いていたわけですが、そのような見方を完全に打ち砕いたのです。まったく新しい王の在り方、しもべのように人々に仕える王、という姿を示されたのです。
念のために言いますと、イエスは弟子たちの足を洗うことで、私はあなたがたの奴隷です、と言おうとしたのではありません。むしろ、私は正真正銘の王、メシアだけれども、あなたがたが想像しているような王ではない、僕のように仕える王なのだ、と宣言されたのです。イエスが宣べ伝えた「神の国」、より正確に訳すと「神の王国」となりますが、その神の王国においては、一番偉い王様が率先して人々に仕えるのです、神の国とはそういう国なのです。イエスはこれまでも、そのことを弟子たちに繰り返し教えてきました。しかし、弟子たちはそのことが理解できずに、かえって弟子たちの中で誰が一番偉いのかと言い争うようなありさまでした。最後の晩餐の時、主イエスはご自分の死が近いことを知っておられました。その後に復活して天に昇るのですが、そうなると、もはや弟子たちを直接教えることが出来なくなります。もう時間があまりないのです。そこで、弟子たちが間違えようのない明確なメッセージを、その行動を通じて伝えることにしたのです。彼らの足を洗うという奴隷の仕事を自らがすること、その衝撃的な行動を通じて、イエスが仕える王であること、しもべとして、もっと言えば奴隷として仕える王であること、また神の国においては、王とはそのような存在であることを教えられたのです。
そしてイエスは、神の国に入ろうとする弟子たちもまた、ご自分のように振る舞わなければならないことを教えました。この点も、イエスがこれまで何度も弟子たちに教えて来たのですが、彼らにはなかなか理解できないことでした。ガリラヤからエルサレムに向かう途上で、イエスは初めてご自身に待ち受ける運命、エルサレムで殺されるという運命を弟子たちに打ち明けます。しかし、弟子たちはその意味がまったく分かりません。むしろ弟子たちは、イエスはこれから首都エルサレムに上ってそこで王として即位される、その暁には側近である自分たちは政府の主要ポスト、今の日本で言えば大臣になれるのだと期待していました。そこでイエスの12弟子の中でも側近であったヤコブとヨハネは、イエスにこうお願いします。
「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
昔の日本で言えば、私たちを右大臣と左大臣にしてください、という願いでした。そして、彼らがイメージしていた大臣というのは、仕える僕のような大臣ではなく、むしろ取り巻きに囲まれて威張っている、そういういわゆる権力者のイメージだったのです。そこでイエスは彼らに教えて言われました。
あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
ここにポイントがあります。私たちは偉い人というのは、権力をふるって周囲の人々を自分の意のままに動かせる人、というイメージを持ちます。会社でも偉くなれば部下も増えて、彼らを自分の思いのままに動かせる、だから出世したいと皆願うわけです。しかしイエスは、「しかし、あなたがたの間ではそうではありません。」と言われました。神の民の間では、世の中の習いとは違うルール、原理があるのです。神の民、すなわち教会においては、偉い人とは仕える人なのです。そして教会の頭であるイエスその人が率先して人に仕えたのですから、その弟子たちもまた、仕える者、仕えあう者であるべきなのです。イエスはそのことを何度も弟子たちに教えてきました。そして、弟子たちを教えるための最後のチャンス、最後の晩餐において、イエスはまさに目に見える形、誰でも分る具体的な行動として、弟子たちの足を洗いました。それはしもべとして仕える王の姿を見せることで、弟子たちに模範を示そうとされたのです。今日お読みいただいたヨハネ福音書13章14-15節をもう一度お読みします。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合いなさい。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
この互いに仕えあう事、いわゆる偉い人が率先して人に仕えること、これが神の国、神の王国のルールであり、生き方なのです。このことを理解しないと、神の国は私たちのところに来ないのです。神の国はどこか遠いところにあるのではありません。むしろ、私たちがイエスに従い、その示された模範に心から倣う時に、神の国は来るのです。そして、私たちが主イエスの模範に倣う時に、私たちは祝福を受けます。主イエスは17節で、こう言われました。
あなたがたが、これらのことを知っているのなら、それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。
これは非常に大事な点です。私たちはただ知るだけでは十分ではありません。教わって知ったことを行うとき、実践するときに、私たちは祝福されるのです。主イエスは「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます」と言われました。聞いて行うことで私たちは祝福されます。ただ聞くだけの人になってはいけないのです。
3. 結論
今日は、主イエスが最後の晩餐において真っ先にされたこと、つまり弟子たちの足を洗われたことの意味を学んでまいりました。主イエスにとって、最後の晩餐は弟子たちを教える最後の機会でした。これまで何度も教えてきたことを、よりはっきりと、印象的な行動によってイエスは弟子たちに伝えました。ゲストの足を洗うという、奴隷の仕事を自らが引き受けることで、イエスはご自分がどんな王なのか、を示されたのです。イエスは王の中の王、キング・オブ・キングスなのですが、その王はしもべとして仕える王だったのです。しかも、十字架の死という、当時の社会では人間のクズだけが受けるような屈辱にも甘んじて、人々に仕えるそういう王だったのです。
そしてイエスは、ご自分の王国に入りたいと願う弟子たちに、この王国の指導者としての相応しい在り方を示されました。それはご自身のように仕える指導者、しもべとなる指導者の姿でした。そして、私たちもまた、神に召された者として、その模範に倣う者でありたいと願うものです。私たちは罪深い、小さな者ですが、そのような私たちを愛していのちまで与えて下さった主のことを覚え、今週1週間は身を慎んで歩んで参りましょう。お祈りします。
天地万物の創造主にして、天地万物の贖い主であるイエス・キリストの父なる神よ、その御名を賛美します。今日はイエスはエルサレムで最後の一週間を過ごされた時の、最も印象深い時の一つ、弟子たちの足を洗われたことを学びました。その姿によって、主イエスはご自身がどんな王であるのか、またその弟子たちがどのように振る舞うべきかを示されました。現代に生きるあなたの弟子であるわたしたちもそのように行うことができるように、豊かに聖霊をお注ぎください。御子イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。