みなさま、おはようございます。今日はアドベント第三週になります。いよいよ次週はクリスマス礼拝になりますが、今日の聖書箇所はクリスマスを待ち望むうえで大変重要な箇所です。実際のところイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。
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みなさま、おはようございます。今日はアドベント第三週になります。いよいよ次週はクリスマス礼拝になりますが、今日の聖書箇所はクリスマスを待ち望むうえで大変重要な箇所です。実際のところイザヤ書53章は、旧約聖書の中でも最も有名な箇所の一つです。
“苦難のしもべみなさま、おはようございます。今朝はアドベント、待降節の第二主日になります。先週もお話ししましたように、アドベント期間中はこれまでのサムエル記の講解説教から離れ、アドベントにふさわしいと思われる箇所からメッセージさせていただきます。先週はエレミヤ書からのメッセージでしたが、今朝はダニエル書からのメッセージになります。
“永遠の王国みなさま、おはようございます。いよいよ本日から待降節、アドベントに入ります。アドベント期間中は、これまでのサムエル記からの講解説教からは離れ、アドベント、つまり主のご降誕を「待ち望む」というこの期間にふさわしいと思われる箇所からメッセージをさせていただきます。そして第一アドベントの今日はエレミヤ書からです。私が当教会に赴任して最初にさせていただいたのがエレミヤ書からの講解説教なので、久しぶりの同書からのメッセージとなります。
“新しい契約みなさま、おはようございます。毎月月末は、サムエル記から離れて新約聖書のヤコブの手紙からメッセージをさせていただいております。そのヤコブの手紙も、終盤にさしかかって参りました。ヤコブの手紙ではとりわけ貧しさや富の問題がクローズアップされていますが、今日のみことばもまさにそのような内容になっています。
“富の危険性みなさま、おはようございます。第二サムエル記に入って、早いもので今回で6回目になります。前回はダビデがイスラエル全体の王となり、王都としてエルサレムを定めたことを学びました。福音派のクリスチャンの間ではエルサレムといえば未来永劫イスラエルの都だというようなイメージがありますが、それはむしろダビデの時代からだということに注意する必要があります。ダビデこそがエルサレムを奪取した王であるということです。今日は、エルサレムを首都と定めた後にダビデが行ったことを、かなり批判的にお話しします。ダビデが段々と主への信仰から離れて行ってしまうという視点からの話になります。
“契約の箱みなさま、おはようございます。本日は召天者記念礼拝となります。そこで今日は、サムエル記の講解説教から離れて、特別な聖書箇所からメッセージをさせていただきます。すなわち、ヨハネ黙示録からのメッセージです。
“千年王国みなさま、おはようございます。サムエル記を読み進めて参りましたが、今日は一つの区切りとなる箇所です。これまでダビデは苦労に苦労を重ねながらイスラエルの王となることを目指してきたのですが、その目標がとうとう実現するというのが今日の場面です。さらには、ダビデが王となったということももちろん大事ですが、では王になったダビデが最初にしたことは何か、ということに注目したいと思います。
“ダビデ、エルサレムを王都とするみなさま、おはようございます。毎月の月末はヤコブの手紙からメッセージさせていただいております。今日の説教タイトルは「イエスとヤコブ」ですが、このタイトルからお察しのとおりに、今日のヤコブ書のみことばは主イエス・キリストの教えと非常に強いつながりがあります。
“イエスとヤコブみなさま、おはようございます。本日は当教会にとって一年に一度の大切な日です。それは、礼拝後の午後に「音楽の集い」が開催される日です。この日を楽しみにしてくださっている方もおられると思います。そこで、本日の説教もいつもとは違うスタイルでさせていただきます。
“讃美みなさま、おはようございます。さて、今日の説教題は秋のすがすがしい朝の空気に反して、「惨劇」という物々しいタイトルです。文字通り、悲惨な出来事についてのお話です。せっかくの主日礼拝なので、心が高揚する話や、心が温まる話を聞きたいと思われるでしょうし、私もできればそうしたいのですが、しかし講解説教ですので、この箇所は飛ばしてとか、そういうことはできません。そもそも、サムエル記の説教でこういう悲惨な場面を除いてしまうと、あとは何も残らないのではないかと思うほど、悲劇的な箇所が多いのです。悲劇といっても、地震などの自然災害のためではありません。むしろ人間同士の裏切りとか、騙し合いとか、そういうことが理由で起こる悲劇です。このサムエル記には、そういうドロドロした話がとても多いです。なぜそうなのかといえば、そこには権力闘争が絡むからです。王という至高の権力を求める話を描いているサムエル記は、まさにこの文書全体が惨劇の書だと言っても過言ではありません。
“惨劇